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闇文庫

主に寝取られ物を集めた、個人文庫です。

卒業後 第1回

 母の病室はクーラーが効いてよく冷えていた。
「お医者様の話によると、腫瘍もたいしたことはないらしいの。念のために手術をして、早めに取り除いておいたほうがいいというくらいで」
 母の京子が話しかけているのは、彼女の兄で、遼一にとっては伯父に当たる相手だった。
「それは大事でないにこしたことはないけど、軽くても手術は手術だ。退院までは身体のことだけを考えて、安静をこころがけたほうがいいよ」
 そう言って、伯父は遼一を見、にこっと笑った。
「遼一のことは、俺たちが責任持って預かるよ」
 遼一はなんとなく、こくりと頭を下げた。
 そんな遼一を見て、母は笑った。
「おかしな子ねえ」
「遼一は今いくつ?」
 伯父は遼一を見ながら聞いた。しかし、遼一が答えるよりも早く、京子が横から口を出して、「15歳よ。七月で」と言った。
「安静にしてろよな、母さん」
 わざとふくれ面をして言う遼一に、京子はまたころころと笑った。
「―――いい親子だな」
 伯父が目を細めていた。
「・・・義姉さんはおいくつでしたっけ?」
「京子と同じ年だよ」
「そう? でもそれなら、まだまだ」
「子供がつくれるだろうにって?」
 京子はちらりと遼一を見てから、申し訳なさそうに伯父に言った。
「余計なこと言ってごめんなさい」
「気にしてないよ」
 淡々と、伯父は言葉を返した。京子はそれでも気まずいのか、急に口をつぐんだ。もちろん、この場にいる遼一も気まずい。
「ああ、そう言えば、前にも話したけど、今度、転勤することになってね。と言っても、半年に満たない期間の話だけど」
 場の空気を変えようとしてか、伯父が新たな話題を出した。
「電話で仰ってたわね。東京でしょう。義姉さんはどうするの?」
「今のマンションに残るよ」
「そう。大変ねえ。そんな時期にこんなことを頼んでしまって申し訳ないわ。でも、うちのひとも単身赴任で仙台だし、母さんは入院中だし、ほかに頼める人が いなくて・・・・」
「かまわないさ。遼一は来年、N高校を受けるんだろ? 大事な夏休みに寝食を不自由させちゃいけない」
「そんなに深刻な話じゃないのに」
 遼一が口を挟むと、京子が目を光らせて「何言ってるの。深刻な話です」と怒った。
「母さん、あのさ」
「どうせ安静にしてろって言いたいんでしょ」
「よく分かるね」
 目を丸くして見せる遼一に、母も伯父も笑った。

 病院を出た頃には、昼も三時をまわっていて、夏の日差しが暑かった。
 伯父の運転する車の助手席に遼一は乗った。
「でも良かったな。お母さん、元気そうで」
 最初の信号で車を停めたとき、ぽつりと伯父が言った。
「あのひとはいつも元気だよ。―――うん、でも良かった。ホントに」
 憎まれ口を叩いた後で、遼一は素直な言葉を吐いた。
「いい子だな」
「子供扱いすんなよ」
 わざと不良ぶった口調で凄んでみせる遼一に、伯父はまた笑い声を立てた。
「本当に面白い奴だよ、お前は」
 遼一が何か言う前に、信号は青に変わった。
「さぁ、早いとこ帰ろう。伯母さんが首を長くして待っている」
 そうだった。これから久しぶりに伯母と会うのだった。
 柄にもなく、遼一の胸は躍った。もちろん素振りには出さなかったが。
 伯父がぐっとアクセルを踏み込んだ。

 マンションのドアを開けると、伯母が落ち着いた足取りで現れた。
 変わっていない。遼一は安心した。そりゃ一年くらいで変わるはずもないが、同い年だという母のようになっていたらどうしようかと思った。・・・これは冗 談でも母には言えない。
「お帰りなさい。―――お久しぶり、遼一君」
 伯母はまず伯父に言い、それから遼一を見て言った。
 相変わらずの細身に、涼しい目元。少し淋しげに見える雰囲気。
 伯母は相変わらず綺麗だった。
 遼一の胸はときめいた。
「お久しぶり、伯母さん」
 それから続けて気の利いたことを言おうと考えたが、何も出てこなかった。変な間が出来て、遼一は少し焦った。
「どうした、遼一?」
 面白そうな目で伯父は遼一を見た。
「いつものお前らしくないよ」
「あなた。遼一君はお母さんのことで大変なんですから・・・」
 伯母が庇ってくれたが、それが見当違いの意見だということは、遼一が誰よりもよく知っている。
 冷や汗が出た。
「まったく今日はひどい暑さだな。冷たいお茶をくれないか」
「すぐご用意します。とりあえず早く居間に入って、涼んでください。遼一君にはジュースのほうがいいかしら?」
「ジュースがいいです」うつむきながら答えて、遼一は靴を脱ぎだした。  

 居間はよく冷えていて、涼しかった。車から降りてマンションのこの部屋に入るまでに噴き出た汗が、あっさりと引っ込むくらいに。
 この部屋に入るのも久しぶりだな―――
 遼一は思いながら、部屋を見渡した。伯父が結婚したのは今から5年ほど前で、そのときにこのマンションに移り住んだ。前の住居ほどここは遼一の家と離れ ていないので、時折、母に連れられて遊びに来た。
 けれど最近は遼一も大きくなり、母もちょこちょことパートの仕事をするようになったので、訪れる機会はあまりなかった。
 久々に見るこの部屋はあまり物も増えていないが、埃ひとつないほど整然と片付いているのは昔のままである。
 ひとつ、見慣れないものがあった。海の上に浮かぶ、M字型の島?の模型だ。
「これ、何ですか?」
 遼一はその模型を指して、伯父に聞いた。
「ん・・・・ああ、それは天橋立の模型だよ。天橋立は聞いたことあるかい?」
「京都の名所でしょ」
「そう、去年の夏に旅行へ行ったんだ」
「伯母さんとふたりで?」
「そう・・・だよ」
 そのとき、伯母がお茶とジュースの入ったグラスを盆に載せて、静々と歩いてきた。
「どうしたの? 変な顔をなさって」
 伯母は不思議なものを見るように、伯父の顔を見た。
  1. 2014/10/13(月) 11:39:00|
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卒業後 第2回

 伯父夫妻宅での暮らしは最初のうち、静穏そのものだった。

 もちろん、平日の昼間は伯父は会社に出かけていて留守にしているから、遼一が主に顔を合わせるのは伯母のみである。
  N高校への受験を控えた大事な夏休み、と伯父も母も言っていたが、遼一自身は格別N高へ行きたいと情熱を燃やしているわけでもなかった。何かにつけ器用 で、根本では生真面目な性格が勉強の場でも生かされて、学年でもトップの成績を堅持しているうちに、担任と母の間でN高受験の話が盛り上がってしまっただ けである。
 やれやれ、というところだったが、期待をかけられているならそれに応えようと努力しないではいられないのが、遼一の性格であった。
 それに、不測の事態で暮らすことになったこの伯父夫妻宅は、テレビすらろくろくつけないような家らしく、TVゲームなどあるはずもない。周囲には友達の一人も住んでいない。となると、残りは本を読むか、勉強でもするかぐらいにしか、暇つぶしの選択肢がないのだ。
 その日の午前中も、遼一は間借りしている伯父の書斎でずっと机に向かっていた。昼になってようやく机から離れ、居間へ足を運んだ。
  伯母はくるくると忙しそうに台所を掃除していた。この家に来て分かったことだが、伯母は滅多に腰を落ち着けて休んだりしない。いつもあれこれ仕事を見つけ て、その仕事に打ち込んでいる。一日の半分はテレビに向かってごろごろしている母に見せてやりたいが、一方でそんなに毎日毎日、部屋の隅々まで掃除する必 要もあるまいにとも思った。
「あ、ごめんなさい。昼御飯、今から用意するところなの」
「ううん、かまわないよ。そんなに腹減ってないし」
 何しろ、朝から机の前に座っているだけなのだ。
「それにしても、本当に感心するわ。凄い集中力。京子さんも立派な息子さんを持って幸せね」
「別に―――他にすることもないから、やってるだけだし」
 伯母に誉められたのが嬉しくて照れくさかった遼一は、わざと素っ気無い口調で言葉を返した。
 伯母は申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさいね。遊ぶものも、遊び相手もなくて、退屈してるでしょう」
「でも、仕方ないから」
「私が何か面白い話でもしてあげられたらいいんだけど」
 ・・・いったい伯母は自分のことをいくつだと思っているのだろう。遼一はちらりと不満に思ったが、伯母の困ったような顔を見ると何も言えなかった。
「あ、この近くにさ、図書館ないかな? ちょっと気分転換に外で勉強したいし、本も読みたいから」
「あるわ。―――そうね、私も本を返さなくてはならないし、一緒に行ってもいいかしら」
「もちろん」

 と、いうわけで、昼食後、伯母と並んで近所の図書館へ向かった。
 伯母は半袖の白いブラウスに濃紺のロングスカートという、いたってシンプルな装いだ。
 遼一の年頃にもなると、たとえば母と連れ立って道を歩くことも羞ずかしい。知り合いに見られたらと思うと、ドキドキする。この街には知り合いもなく、横にいるのは母親でもないのだが、遼一の胸はなぜか息苦しいほど高鳴っていた。
 遼一は家族友人の間ではひょうきん者でとおっているが、本来はとても大人びた思考をする少年である。だからこそ、同年代の女の子よりも、年上の落ち着いた女性に惹かれるのだが、伯母に対する気持ちはそれとも違っているように感じる。
  母の京子などが言うように、伯母はたしかに落ち着いていて、しっかり者でもあるのだが、それとは裏腹に、時折、ふと頼りない、というか、不安げな少女のよ うな表情を見せる。普段の佇まいに似合わない、一瞬の不安定さのようなものを垣間見るとき、遼一の胸は騒ぐ。・・・やっぱり言葉ではうまく説明できない が。

 街路樹の蝉がうるさいくらい、元気よく大合唱している。

 図書館はマンションの立ち並ぶ坂の上にあるのだ、と伯母は歩きながら説明した。
「それにしても遼一君は凄いね。N高校って難しい学校なんでしょう? 私は大学も出ていないからよく分からないのだけど」
 少し意外に思った。遼一の感覚では、大学には皆が皆、当然のように行くものと思っていた。父も母も伯父も大学は卒業しているはずだ。
「受かるかどうか、分からないよ」
「きっと大丈夫だと思うけど、受かるといいね」
「・・・・うん」
 答えながら、遼一は、斜め前の道を日傘を差して歩く伯母の眩しいうなじから、目を逸らした。

 坂上の城跡に造られた公園の隣に、図書館はあった。
 入り口の前で伯母と別れ、遼一は二階の勉強室へ向かう。
 さっそく参考書を開いたが、妙に胸がざわめいていて、本の中の文字や記号に集中することが出来なかった。
 しばしの後、遼一は諦めて席を立ち、勉強室を出た。
 階段の傍の廊下の窓から、中庭を見下ろすと、伯母が木陰のベンチに座っていた。本を読むでもなく、ただそこに座って正面を向いているのだが、その顔に漂う奇妙な静けさと、まなざしの形容しがたい複雑な色が遠目からでも窺えて―――

 どきり、とした。

 いつものしっとりと落ち着いた表情でも、時折覗かせる少女の顔でもない、遼一の知らない伯母のもうひとつの貌―――
 その頃の遼一の辞書には知識としての言葉しかなかったが、何年後かにこの瞬間のことを思い出したとき、遼一はようやく、そのとき伯母を見て自分が感じた感情を形容する言葉を探り当てることが出来た。
『艶めかしい』
 遼一はあのとき、たしかにそう感じていたのだ。
  1. 2014/10/13(月) 11:41:02|
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卒業後 第3回

 伯父一家はあまり人付き合いのない家らしいというのは、母の普段の話でも時々出てきたが、実際、一緒に暮らすようになって、遼一はそのことを実感した。
 遼一から見れば、伯父も伯母も穏やかで優しい人たちだ。他人に嫌われて孤立するようなタイプではない。けれど、夫妻があまり人付き合いをしないことに対 しても、遼一はなんとなく納得するところがある。
 二人はともに他人に対して心から胸襟を開くことの出来る人間ではないのだ。誰に対しても、ある程度距離をとって接しないでいられない人たち―――のよう に見える。
 見えると言うのは、あくまでも遼一が普段の二人を見ていて感じたことに過ぎないからだ。伯父が、或いは伯母が他人と話しているのを、遼一はほとんど見た ことがない。だから、二人が対外的にどういう人間なのか、それは分からない。
 ともに暮らすようになった遼一に対しても、先に書いたように優しく接触してくれるのだが、やはり薄膜一枚隔てたような感じはある。母の京子も自分たち一 家に対する二人の態度にずっと歯痒いものを感じているようで、「せっかく近くに住んでいる唯一の親戚なのだから、もう少し親しく接してくれたら良いのに」 と、いつかぼやいていた。
 はっきりとは言わなかったが、母はその原因を伯母のほうに見ていたように思う。「昔の兄さんはそういうタイプではなかった」と、母は言っていた。
 ならば結婚して、伯父は変わったということになる。少なくとも、母はそう見ていた。結婚して、伯母に夢中になって、夫妻だけの生活に閉じこもるように なった、と。
 けれど―――
 伯父の伯母に対する態度、或いはその逆を見ても、そこに相手に溺れきったものはない。むしろ、遠慮がある。気遣いがある。距離が―――ある。
 それが何故なのかは分からない。単に遼一の見ている前だからかもしれない。遼一の見ていない場所での二人は、もっと違う感じなのかもしれない。
 親しい友人も―――いるのかもしれない。

「これは何の印?」
 ある日の夕方、早くも行きつけになった図書館から帰り、リビングでくつろいでいた遼一は、扉の横にかけられたカレンダーを見て伯母に尋ねた。
「八月のお盆の時期に赤ペンでいくつか書かれているけど」
 遼一の問いに伯母は振り返った。一瞬、その表情にうっすらと動揺が現れた気がしたが、すぐに消えた。
「―――ああ。それはね、伯父さんの休みの時期に合わせて、ちょっと旅行に出掛けるお話があって、それで印をうってあったの。でも、今年はたぶん行かない わ」
「僕が来たから? そんなのわるいよ。行っておいでよ。子供じゃないんだし、留守番くらいするよ。家に戻ってもいいし。せっかく伯父さんと水入らずの旅行 なんでしょ?」
 言いつのる遼一の声を、伯母はじっと黙って聞いていた。
 この部屋は西向きで、夕日がまっすぐに差し込んでくる。そのときも、窓際に立っている伯母の背中を、オレンジの光が染めていた。遼一の位置からは、伯母 の姿は逆光でよく見えなかった。
 しかし、そのとき、伯母の口元がかすかに動いて、「ごめんなさいね」という無音の言葉を刻んだように、遼一には見えた。
 それは気のせいだったのかもしれない。なぜなら伯母はすぐに棚の布巾かけを再開し、手を動かしながら、
「遼一君は気にしなくていいのよ。今年は伯父さんも休みが少なくて忙しいし、せっかくの休日を混雑の中で過ごすよりは、家でゆっくりしたほうがいいと仰っ ていたわ」
 と、言ったから。
「でも・・・・やっぱりわるいよ。せっかくの休日に、こんなお邪魔虫がくっついていたら、二人でいちゃいちゃも出来ないじゃん」
 だから遼一も、普段の道化の役割に戻って、冗談めかした口調で言った。
「まあ」と伯母は笑い、遼一も笑った。

 けれど―――やはり伯母は八月の旅行に行き、伯父は遼一とともにこのマンションに残ることになるのである。
  1. 2014/10/13(月) 11:42:06|
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卒業後 第4回

「今度、伯母さんは昔からのお友達と旅行へ行くことになってね。しばらく家を空けることになった。でも、その期間は私もお盆休みの時期だから、食事なんか は心配ない」

 そんなふうに伯父から話を切り出されたのは、八月に入ったばかりの頃だった。
「あれ、それって伯父さんと二人で行く旅行じゃなかったの?」
 驚いて聞き返すと、伯父は微妙な表情をした。遼一は居間のカレンダーを指差した。
「あれの何日かに印がうってあるじゃない。あの印は何?って伯母さんに聞いたら、八月の旅行計画だけど、行かないことにしたって言うから・・・・わるい な、と思ってたんだ。だって、僕が来たから、二人で旅行へ行けなくなったんだろうって思ったから」
 伯父は静かに遼一の話を聞いていた。やがて、その手が動き、くしゃくしゃと遼一の髪を乱した。
「・・・心配しなくてもいいよ。最初から、その友達の方と私たちの三人で旅行に行く予定だったんだが、今年は休みも少ないし、遼一もいるし、どうするか 迷っていたんだ。けれど、せっかくたまの旅行の機会だしね。伯母さんはいつも家にいて退屈だろうから・・・たまには家から離れて、羽をのばしてくるのもわ るくないだろうと思ってね」
 最後のほうの伯父の言葉は、やけに苦しげに聞こえた。
「だから、旅行には伯母さんひとりで行く。伯父さんはここで遼一と留守番だ。こっちはこっちで男同士、のんびりと過ごそうじゃないか」
 黙りこんだ遼一の気分を引き立てようとしてか、伯父は表情を明るいものに切り替えて、そう言葉を続けた。
「ちょっとむさ苦しいけどね」
 遼一も伯父に調子を合わせてひやかしの言葉を吐いたが、胸中にはなんとなく釈然としないものが残っていた。
 昔からの友達。
 そんな存在がいたのだ。この夫妻に。
 いや、別にいてもおかしくないというか、自然なことなのだが、一緒に旅行へ行くほど親密な人間関係を夫妻が持っていたことに、遼一は驚いていた。
 
「こんな大変な時期に家を空けることになってしまって、ごめんなさいね」
 出発の日まで、伯母はしきりと申し訳ながった。
「大丈夫だよ。僕のことなんか気にしないで。それより伯母さんも旅行を楽しんで、ゆっくり生命の洗濯をしてきたほうがいいよ」
 わざと年寄りくさい言葉を使って言う遼一に、伯母もやっと仄かな笑みを見せた。
「遼一君は本当に優しい、いい子ね」
「いい子って歳でもないよ」
 ぶっきらぼうな口調になるとき、遼一は決まって照れている。
「そんなことより、楽しい旅行になるといいね」
 そう言った瞬間、伯母の笑みが消え、瞳の色が曇ったように見えた。しかし、すぐにまたもとの笑顔になって伯母は「ありがとう」と言い、そしてもう一度 「遼一君はいい子ね」と続けた。


 そして―――伯母の出発の日がやってきた。
 ちょうどその日から休暇になっていた伯父だったが、その日は朝から会社に用事が残っていると言って、家を出て行った。
「もうすぐ転勤もあるからね、色々と忙しいんだよ」
 言い訳するように、伯父は遼一に言った。いや、伯母に言ったのかもしれない。
「気をつけて―――行っておいで」
 最後に伯母に向かって言い、伯父は家を出た。玄関まで見送った伯母は、扉が閉まってもなおその場にしばし佇んでいた。
 居間からその背中を眺めながら、遼一はなんだか落ち着かない気分でいた。

 その日は伯母を見送ってから図書館へ行くつもりだったので、遼一は朝から書斎の机に向かった。
『N高校の受験まで半年。今年の夏休みが勝負だ。集中して勉強せいよ』
 担任からはいつもそう言われていた。しかし、この家に来てから、遼一は少し落ち着かない。親戚といっても他人の家だから、というのはもちろんあるが、そ れ以上にこの静謐な家の底流でざわめく何かに、遼一が敏感に反応していたからかもしれない。
 いや、それはすべて言い訳にすぎなくて―――
 遼一は椅子から立ち上がって、腰骨をぽきぽきと鳴らした。
 伯父は煙草吸いなので、この書斎にもほんの少しだけ煙草の匂いが染み付いている。
 その匂いを意識しながら、遼一は部屋を出た。居間に行く途中の部屋の扉が開け放しになっていて、伯母の姿が見えた。

 伯母は鏡台に向かって化粧をしていた。

 普段、ほとんど化粧気のないひとだけに、こんなときの姿を見るのは初めてだった。遼一はふと足を停めた。
 鏡の中の自分を見つめながら、唇に紅を引く伯母。
 その瞳はまっすぐ前を向いていて、遼一の存在に気づいてはいない。
 つっと上向いた顎から、危ういほど細い喉首にかけての線が、見蕩れるほど綺麗だった。

 女性は化粧をするとき、鏡に映る自分の顔に何を見ているのだろう。彩られ、変わっていく自分の姿か。それとも、その姿を目にすることになる相手のこと か。
 伯母の冴えた横顔を見つめる遼一の胸に、ぼんやりと疑問がきざした。

 そんな物思いを起こさせるほど、化粧に専心している伯母の姿は、普段とは別人のようで。

 ぞっとするほど―――美しくて。

 妖しかった。


「あら」

 口紅を鏡台に置いた伯母が、ぼうと突っ立っている遼一の存在にようやく気づいた。
「・・・・ずっと見てたの?」
 夢から覚めたような心地で、遼一は仕方なしにうなずいた。
「羞ずかしいわ」
 両頬を繊手で押さえ、伯母は恥じらった。大人の女性からいきなり少女に戻ったようなその仕草が、無意識の媚態のように見えて、遼一の背骨は震えた。
「もうこんな時間。急いで昼食を用意するから」
 言って、伯母はすっと立ち上がり、遼一の横を抜けて行った。
 伯母の姿が消えて、ようやく遼一はほっと息をついた。痺れたような身体をぐったり壁にもたれさせた。

 伯母は―――遼一を落ち着かない気持ちにさせずにおかないその女性は、正午少し過ぎに家を出て行った。
 玄関まで見送った遼一は、先程の伯母のように佇んで、彼女の消えた扉をしばらく見つめていた。
  1. 2014/10/13(月) 11:43:22|
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卒業後 第5回

 遼一と伯父、二人きりの生活が始まった。

 三人でいたときも伯母は寡黙だったが、彼女はそこにいるだけで独特の雰囲気をつくる人であった。伯母がいなくなったこの部屋は妙にがらんとして、広く見 えた。
「伯父さん、淋しい?」
 新聞を読んでいる伯父に聞いてみた。伯父は新聞を置き、遼一に笑顔を見せて言った。
「たかが三日間の留守で淋しくなるほど短い結婚生活じゃないよ」
 だが、その笑顔はどこか弱々しいものに遼一の目には映った。そして、遼一は淋しかった。

 伯父は三日の間に遼一を色々な場所へ連れ出した。一日目は母の入院している病院に見舞いに行った。
「入院している間、ちっとも動かないから太ってしまいそう」
 母はそう言って、陽気に笑った。相変わらずとても病人には見えず、元気そうだった。遼一の父は寡黙な男で、我が家の朗らかな空気はもっぱら母がつくって いる。どこの家でもそういうものなのかもしれないと思った。
 二日目は映画を見た。ハリウッド製のいかにもな大作映画だった。
「伯母さんとも映画に行ったりするの?」
 見終わってカフェでコーヒーを飲みながら伯父に聞いてみると、伯父はしばし考えた後で、
「いや・・・・行っていないな。たぶん、一回ぐらいしか行ってない」
「そのときは何を見たの?」
「・・・・何だったかな、忘れてしまったよ」
 伯父は答えて、煙草に火を点けた。伯母がいるときは、中学生の前で煙草を吸うな、とでもうるさく言われているのか、伯父は煙草をふかしていなかった。そ の分を取り戻すように、伯父は落ち着きなく、すぱすぱと煙草を吸っていた。
 落ち着きなく―――本当にそうだ。伯母のいない三日間、伯父はどこか様子がおかしかった。妙に陽気に振る舞ったかと思うと、ふと物思いに沈み込んだりす る。
 一番変だったのは、三日目の夜だった。

 伯母のいない間の食事はほとんど外食だったが、最後の夜も伯父は「せっかくだから旨いものを食べに行こうよ」と言って、遼一を梅田の高級レストランへ連 れて行った。
「こんな店、入ったこともないよ」
 おっかなびっくり注文をすまして、遼一が言うと、伯父は「だから連れてきたんだ」とすました顔で答えた。
「伯父さんだって、こんな店いつもは来ないよ。怖くて来れない」
「でも、悪いな」頭上にきらめくシャンデリアを見ながら、遼一は呟いた。
「子供がお金の心配するものじゃないよ」
「それももちろんあるけど、伯母さんがいないときにこんな贅沢をするのが・・・悪いよ」
 遼一の言葉に、伯父は一瞬、何だかひどく悲しそうな顔をした。
 しかし、その顔はすぐ平静に戻り、伯父は言った。
「伯母さんは気にしないよ」
「そうかもしれないけど」
 しばし二人のテーブルに沈黙がおちた。その間を見計らったように、ウエイターがやってきて料理の皿を並べていった。

「伯母さんはあれでわりと人見知りでね。あまりひとと喋るのが得意じゃないほうなんだが、遼一には心を開いているようだ」
 食事しながら、伯父はぽつりと言った。
「いいことだよ。だから、遼一には感謝してる。うちにいる期間が過ぎても、時々マンションに来て、瑞希の話し相手になってやってほしい」
「それは・・・もちろんいいけど」
 あらたまった口調に面食らいながら、遼一は答えた。
 伯父はさらに何か言葉を続けようとした。だが、その瞬間に携帯が鳴った。
「失礼」短く言って、伯父はポケットから携帯を取り出した。
 瞬間、伯父の顔色が変わった。
「誰からなの?」
 思わず遼一は聞いてしまった。
「いや、仕事相手だよ」伯父は笑みをつくって答えたが、その笑みにはいかにも無理して張り付けたようなものだった。「ちょっと席を立つ。食事を続けていて くれ」
 早口で告げて返事も待たず、伯父は去っていた。その背中をしばし呆然と、遼一は見送った。

 やがて、伯父は戻ってきた。
 顔色が悪い。血の気がひいている。何か悪い知らせでもあったのだろうか。気になったが、直接聞くことは遼一にははばかられた。
「さっきは悪かったね。ちょっと仕事で急な連絡があって。何、そんなにたいしたことじゃなかったんだが」
 遼一の顔色を読んだのか、言い訳するように伯父は言った。
 嘘に、決まっていた。


 翌日の昼に、伯母は帰ってきた。
「お帰りなさい」
 遼一が出迎えると、伯母は笑顔で「ただいま」と言った。その笑顔には張りがなかった。というよりも、全体的にそのときの伯母には普段の凛とした気配が欠 けていた。精根尽き果てたように、ゆるく弛緩していた。
 たまの旅行で疲れたのだろう。遼一は思った。
 いつもより疲れた風情の伯母の顔。けれど、そのやつれた頬と縁取りの濃くなった目元が、なぜか凄いほど艶めいて見える。遼一はまともに伯母の顔を見るこ とが出来なかった。
「あのひとは?」
「伯父さんはさっきどこかに出掛けた。何か用事があるんだって」
 思えば伯母の出発のときも、伯父はいなかった。そして今もいない。なんだか、意識して避けているみたいだ、と遼一はかすかに思った。
「そう」
 そのことが分かっていたように、あっさりうなずいて、伯母はハイヒールを脱ぎかけた。その足元がぐらついて、遼一のほうに傾く。遼一は反射的にその身体 を受け止めた。

 抱きとめた伯母の身体は、ひどく柔らかだった。

 服の襟元から、白い胸元が目に入る。
 乳房のふくらみが瞳に灼きつく。

 そのふくらみの上部に、赤い痣が見えた。

「ごめんなさい」

 伯母は謝って、すぐに身体を離した。遼一は何も言えないまま、ただ首を横に振った。
「なんだか疲れているみたい。寝室で少し休むわ」
 あ、その前にシャワーを浴びなくちゃ。ぼんやりとした口調で言いながら、伯母はゆっくりと部屋の奥へ消えていく。
 遼一は金縛りにあったように、その場から動けずにいた。


 伯母が戻り、この家に日常が戻ってきた。
 しかし、その日常は以前のものと少し違う。何がどう、とは言えない。しいて言えば、日常の中に住む人間が違う。伯父が違う。伯母も違う。
 そして、遼一も少し変わった。
 あのときに見た伯母の白い胸元が、遼一の脳裏に焼きついて離れない。
 そして、あの赤い痣―――

 伯母は戻ってきてから数日間、ずっと長袖の服を着ていた。
 そのわけを遼一は知らない。
 知らないが、あの白い胸と赤い痣のイメージを思い出すとき、遼一は後ろめたさと、疼くような身体のざわめきを一緒に感じ、ひどくやるせない気持ちになっ た。
  1. 2014/10/13(月) 11:44:41|
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卒業後 第6回

 それからしばらくして、母の手術の日となった。さすがにその前日は心配で夜もろくに寝られなかったが、幸いに手術はうまくいき、術後の経過も良好で、も うすぐ退院出来るとのことだった。
「そう・・・本当によかった」
 母からかかってきた電話の内容を伝えると、伯母は安心したように両手で胸を押さえた。
 その伯母を見つめながら、遼一は先程までの嬉しい気持ちに、急に物悲しさが入り混じってくるのを感じた。
 母の退院の日は、遼一がこの家から出て行く日のことでもある。
 もうすぐ―――このひととの暮らしも終わるのだ。

 遼一にとって、今や伯母の存在はなかなか複雑なものだった。
 かつては純粋に憧れの対象だった。けれど、この家に来て生活をともにするようになってから、伯母への思慕は純粋なものとばかりはいかなくなった。認めた くなくても認めずにはいられない。理性がいくら否定しようが、目覚め始めた遼一の男性は、伯母を欲望の対象として疼かずにはいられなくなっていた。
 少年らしい潔癖さで、そのことは遼一にしばしば罪悪感を起こさせた。
 こんな気持ちを経験するのは、初めてだった。そして当然のことだが、この狂おしい気持ちへの対処法は、どんな教科書にも参考書にも書かれていなかった。

「どうしたの?」
 不意の声にはっとした。視線を上げると、伯母が覗き込むようにこちらを見つめていた。
 遼一は動揺した。
「別に・・・・何でもないよ」
 わざわざ手を顔の前で振りながら否定して見せるのは、焦っている証拠だ。
「それよりせっかくのいい天気だし、たまには外に遊びに行かない? 今日は僕、勉強やめとくから」
 考えなしに口に出した言葉だったが、伯母はちょっと考えた後で、「そうね」と言った。
「京子さんの回復をふたりでお祝いしましょうか。それとも、京子さんの病院までお見舞いに行く?」
「・・・そうだね。それもいいかも」
「ちょっと待ってて。外着に着替えてくるから」

 というわけで、予定になかったが伯母と二人で電車に乗って、母親の入院している病院へ行った。
 伯母は用事以外ではほとんどマンションの部屋から出ることのないひとなので、こうして一緒に電車に乗るのも不思議な感じがするくらいである。
 だから、この前の旅行、あれはよほど特別なことだったのだ。
 吊り革に掴まって外を眺めている伯母の横顔を見ながら、遼一はふとあの日目にした白い胸元を思い出し、慌てて伯母から視線を逸らした。
 まったく、この頃の自分はどうかしている。
 本当にそう思う。だけど、どうしようもなかった。

 ついこの間、伯父とともに病院を訪れた際に会ったばかりだったが、手術を終えた母は普段と同じように色艶の良い顔をしていた。しかし、遼一の背後に伯母 の姿を発見して、意外そうな表情をした。
「お久しぶりです、京子さん。ずいぶんご無沙汰してしまって・・・本当に申し訳ありません」
 どっちが義姉だか分からないふうに頭を下げながら、伯母は言った。母も慌てたように「わざわざお見舞いに来てくださって、ありがとうございます」と頭を 下げた。
 思えばこの二人が親しく話をしているところを、遼一は今まで見たことがない。近所の主婦連の間に広大なネットワークを持っているような母も、この伯母と は普段からあまり交流がなかった。
「この度のこと本当に大変だったでしょうけど、手術のほうがうまくいって良かったですね。私も一安心しました」
 伯母がゆったりした口調で話を切り出した。
「おかげさまで・・・まあ、私は元気だけが取り得のような女ですから。瑞希さんは相変わらずお綺麗で、羨ましいわ」
「そんなこと・・・・」
「遼一がご迷惑をかけていません?」
「いえ、遼一君は本当にいい子で、私こそ京子さんが羨ましくなりました」伯母は言いながら、遼一を見て微笑んだ。「きっと京子さんたちのご教育が良かった のでしょうね」
「瑞希さんだってお若いんだから、まだまだこれからだわ」普段あまり話さない伯母と言葉を交わして徐々に興奮してきたのか、母はこの前伯父に言ったのと同 じことを言う。
「そう、ですね・・・・」
「そんなにお綺麗なんだもの、今でもずいぶん兄さんに可愛がられているんでしょう?」
 調子にのった母の口調が、近所の主婦連と話すときのものになる。我が母ながら、遼一は赤面した。
 伯母も赤面して、口ごもった。見るに見かねて、遼一が「母さん!」と怒ったように叫ぶと、母はバツの悪そうな顔をした。
「ごめんなさいね、品のないことを言って。今まで瑞希さんと二人でお話する機会がなかったから、つい嬉しくなってしまったの」
 伯母は「いえ」と首を振りながら、母に微笑みかけた。その耳朶はまだほんのり赤い。
 呟くように、伯母は言った。
「やっぱり・・・・私は、京子さんが羨ましいわ」
 その理由は、言わなかった。

 病院を出たのは夕暮れ時だった。夏も終わりに近づいたのか、以前よりも日が暮れるのが早くなった気がする。
「京子さん、お元気そうでほっとしたわ」
 軽やかな足取りで歩く伯母の髪が、風に揺れている。
「いつも元気だけど、今日は特別。伯母さんと話せて嬉しかったんじゃない?」
 知らず知らずスカートの裾から伸びる脚に目をやりながら、遼一は答えた。
「私も嬉しかったわ。でも」
 伯母の足取りが遅くなったので、遼一はその傍らに並んだ。
「でも、何?」
「ううん・・・京子さんと話していると、何だか自分が羞ずかしくなってしまうの。素敵なひとだから。私とは全然違うから。だから、私からちょっと避けるみ たいな感じになってしまって、そのせいで京子さんにはいつも気を遣わせてしまっていると思うの」
 言いにくそうな口調で、伯母は言葉を紡いだ。
 伯母はそのとき、夕陽のためでなく本当に赤くなっていて、だからこそ遼一はなんと答えるべきなのか迷ってしまった。
「よく分からないけど・・・・これからたくさん話して、仲良くなっていけばいいんじゃない? 母さん、よく言ってたよ。伯父さん伯母さんの家と僕たちの家 がもっともっと親しくなれればいいのに、って」
 そうなったら僕も嬉しいよ―――遼一は言葉を続け、そっと伯母を見た。
「うん・・・・」力なくうなずいた後、伯母は遼一を見て微笑った。少し無理したような顔で。
 そして、言った。
「―――ありがとう」

 家に帰り着いたのは19時になる手前くらいだったが、その時刻には珍しく、伯父は帰宅していた。
 玄関の戸が開く音を聞いて、慌てたように伯父はやってきた。
「どこへ行ってたんだい? 心配するじゃないか」
 まっすぐ伯母の顔を見つめながら、伯父は妙に切迫した声で言った。
 はっとしたように、伯母が息を呑んだのが分かった。
「すみません。京子さんの手術がうまくいったというお電話があったので、遼一君とお見舞いに行ってたんです」
「それは・・・・良かったね」初めて遼一の存在を思い出したように、ぎこちなく遼一のほうを向いて、伯父は言った。
 遼一は声もなくうなずいた。
「遅くなってすみませんでした」
 伯母はもう一度謝り、伯父は「もういい、もういい」と手を振った。
「すぐに夕食をご用意します」
 うつむきながら短く言い、伯母はとんとんと足音を立てて台所へ消えていった。伯父もその後に続く。
 遼一は思い出していた。あの夜の伯父の言葉を。

 ―――伯母さんはあれでわりと人見知りでね。あまりひとと喋るのが得意じゃないほうなんだが、遼一には心を開いているようだ。
 ―――話し相手になってやってほしい。

 たしかにあれは、伯父の本心からの言葉であろう。けれど、その言葉と矛盾するように、伯父の存在そのものが伯母の自由を奪っている一面もありはしない か。
 いや、これはそういう類の問題ではないのかもしれない。
 たった今見たばかりの伯父の目。あれは何かに怯えている人間の目だった。

 伯父は―――何を恐れているのだろうか。
  1. 2014/10/13(月) 11:45:47|
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卒業後 第7回

 一ヶ月の入院生活を終えて、母が今日、退院した。父も休みを取って、単身赴任中の仙台から取って返し、病院まで母を迎えに行って一緒に自宅へ戻ったとい う。
 そして明日、遼一は伯父夫妻宅に別れを告げるのだ。

 その晩は母の快気祝いと、遼一のお別れ会を兼ねたパーティーが伯父の発案で行われた。といっても、マンションの部屋でのこじんまりとしたパーティーだ が、その気持ちだけでも遼一には嬉しかった。
 テーブルには様々な料理が並んだ。冷やした鶏肉に柚子の香のするソースをかけたものや、たれのかかった鮪の薄い切り身を盛り付けたサラダなど、比較的淡 白なこの家の食卓ではあまりお目にかからない料理。そのいずれも、やはり伯母の手製である。
「これは豪勢だね。酒がすすみそうだ。遼一も今夜は少し飲むか」
 卓上の料理を見て歓声をあげながら、伯父はどかりとテーブルの椅子に腰を下ろした。
「遼一は酒はいけるほうか?」
「ほんの少しなら」
「駄目ですよ。明日ご両親と会うのに、お酒臭い息なんかしていたら、私が京子さんたちに叱られてしまうわ」
 伯母が早々と釘を刺し、「分かってるよ。言ってみただけだ」と伯父はバツの悪い顔をして答えた。
「この一ヶ月、本当にお世話になりました」
 タイミングを見て、遼一は二人に深々と頭を下げ、礼を言った。
「なんだい、あらたまって。いつもの遼一らしくないじゃないか」
「あなた。あなたはそんなふうに仰るけど、遼一君は今どき珍しいくらい、しっかりした、礼儀正しい子ですよ」
 伯母は言って、遼一を見つめた。
「こちらこそ、一ヶ月の間、遼一君と一緒に暮らせて本当に楽しかったわ。ありがとう」
「これからも、ちょくちょく遊びに来るといい。どうせ家も近いんだ」
 伯父もくっと杯を干しながら、言った。
「うん。ありがとう。伯父さんも伯母さんもまた今度、僕の家に遊びに来てよ。母さんも僕もいつでも歓迎するよ」
 言いながら遼一は、そんな機会はこれからも滅多にないだろうな、と思った。

 ささやかな別れの会が終わって、伯父はそれほど飲んでもいないのに早々と寝室に行ってしまった。名残惜しい気がしたが、遼一も今夜はもう寝ようと、洗面 所へ行った。
 歯を磨いている途中、戸が開いて、伯母が姿を現した。
「ごめんなさい。タオルだけ新しいのと変えさせてね」
 伯父に勧められるままに少しだけ酒を口にした伯母の目元は仄赤く、瞳の色も潤んだようで、そこはかとなく色っぽい雰囲気がした。
 遼一は目を逸らし、歯ブラシを咥えたまま「どうぞ」と言って、身体をずらした。
「明日から遼一君がいないと思うと、この家も淋しくなるわ」
 ゆっくりとタオルを変えながら、伯母は言う。
「いいじゃない。ようやくお邪魔虫がいなくなって、伯父さんと二人きりで楽しく過ごせるよ」
 わざと明るい口調で、遼一は言った。言いながら、胸がしめつけられるように痛むのを感じた。
「もう・・・・」
 朱に染まった目元をきゅっと引き絞って、伯母は冗談ぽく遼一を睨んだ。こんな何気ない仕草のひとつひとつが悩ましく見えてしょうがない。
 伯母が出て行った後、遼一はしばし放心したように洗面台に手をついて、鏡の中の自分自身を見つめていた。
 旅先から戻ってきたあの日、ふとぐらついた伯母の身体を抱きとめた。この腕はまだその感触を覚えている。骨がないかのように柔らかだった、薄布越しの肌 の感触を覚えている。とても、忘れられそうにない。明日、この家を出て行った後も、ずっとずっと。
 まだ女性を知らない遼一だった。あの日抱きとめた伯母の身体は、異性を意識して触れた初めての女性の身体だった。
 服の襟から覗いた、眩しいほど白い胸。優美なまるみを帯びた、滑らかな乳房の張り。白い丘に染みのように残っていた赤い痣の形まで、はっきりと瞳に灼き ついている。
 あの瞬間、遼一は狂おしいほど昂っていた。手を伸ばして、すぐそこにある禁断の果実を掴み取りたい、薄皮で隠された果実の中身までもすべて見てみたいと いう衝動を抑えるので精一杯だった。
 伯母は自分のこんな気持ちを知らない。そして、ずっと知らないままでいるのだろう。それでいいのだ、と遼一は思う。なぜなら、伯母は伯父のものなのだか ら。これまでも、これからも。
 遼一はため息をついた。最後の晩だというのにこんなことばかり考えている自分が、どうしようもなく卑猥に思えて、自己嫌悪がした。
 蛇口をひねって水を出し、顔を洗う。それでも気持ちまではさっぱりしない。もう一度ため息をついて、遼一は洗面所を出た。

 あっさりと次の日はやってきて、遼一は伯父の車に送られて自宅へ戻った。父に挨拶をした後で、伯父は遼一に「またね」と軽く手を振って、車で去っていっ た。
 この家に家族三人が揃うのも本当に久しぶりのことだったのだが、その日の遼一にはあまり意味のないことだった。会話を早々に切り上げて、遼一は自室にひ きこもった。
 懐かしい自分の部屋、懐かしい匂いのするベッドに寝転がった。
 伯父夫妻宅での約一ヶ月の生活が、今終わった。
 もうすぐ夏休みも終わる。

 結局、勉強はあまりはかどらなかったな―――

 他人事のように考えながら、遼一は日差しの差し込む窓の外を見た。
 夏の終わり―――それは遼一にとって、少年期の終わりを意味していたのかもしれない。

 その夏、遼一は初めて恋をした。同時に、恋をした女性に対する焼けつくような欲望を覚えたのだ。

 けれど、遼一は知らなかった。少年期を卒業し、青年への戸口にたったばかりの自分が、あの日骨の溶けるような想いで目にした禁断の果実に、思いもよらな い形で再び触れてしまうことになるのを。
 遼一は、知らなかった。
  1. 2014/10/13(月) 11:47:08|
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卒業後 第8回

 中学最後の夏休みが終わり、新学期が始まった。

 有名高校に進学を希望する受験生は、目の色を変えて自分を追い込んでいかなければならない時期だ。
 学校の生徒にはまめにこつこつ勉強する遼一のようなタイプ、気は焦ってもどこから手をつけていいか分からず不安そうにしているタイプ、はなから俺には無 理だと諦めているタイプと、多種多様なのが揃っているが、やはり教室全体の空気はいつもと違った緊張感に包まれている。
 そんな教室の中で毎日を受験のために過ごしながら、この雰囲気はあの家に似ているなと遼一は思った。
 あの家―――伯父伯母の暮らす家だ。
 家庭にも二種類あって、ある程度の年数が経つとすっかり落ち着いて、ちょっとやそっとじゃ変わらない空気が漂う家と、どれだけ年月が過ぎても絶えず何か が蠢いているような・・・・そう、言うなれば現在進行形の家があるようだ。
 あの家は―――後者だった。
 表面は静謐で、穏やかに見えても、底のほうでは常にざわざわと波立つ何かがあった。少なくとも遼一はそう感じていた。

 自分が今、やがて来る受験の日を不安の中で待っているように、伯父も伯母も何かを待っているのかもしれない。

 なんとなく、そう思った。


 9月に入ってしばらくした頃、伯父から電話がかかってきた。
 伯父は次の週にも東京へ発ち、4ヶ月間の単身赴任生活に入るのだという。
「伯母さんはこっちに残るんだよね?」
「まあ・・・短い期間のことだしね。仕方ないよ。伯母さんも一人じゃ淋しいだろうから、時々遊びに来てやってくれないか」
「うん・・・・」
 電話越しにうなずいたが、伯父が発ってから三ヶ月経っても、遼一が彼の家を訪ねることはなかった。伯父が不在の家に伯母を訪ねに行くことが、そのときの 遼一には、とても不謹慎な行為に感じられたのだ。
 理由は分かっている。
 受験勉強で忙しかったから、というのはもちろん言い訳に過ぎない。
 夏の一ヶ月の同居生活で自分が感じたあの女性への想いが、生々しい欲望が、遼一の中で未だ薄れていなかったから―――
 そのことにずっと後ろめたさを感じているから―――
 遼一は伯母のひとり暮らすマンションを訊ねることが出来なかったのだ。


 いつの間にか、吹きぬける風がめっきり肌寒くなった。
 木々の葉も衣替えの時期を迎えている。
 マフラーに口元を埋めるようにして、その日、遼一は自転車を飛ばして家へ戻った。
 居間へ入ると、母がちょうど受話器を置いたところだった。
「お帰り。今日は早いのね」
「図書館に寄らなかったからね。電話、誰と?」
 何の気なしに聞いたのだが、母が「瑞希さんよ」と答えたときには、少し胸がざわついた。
「―――へえ、珍しいじゃない」
「瑞希さんも兄さんがいなくて淋しいだろうから、たまには話し相手になってあげなきゃと思ったんだけど、どうも最近あまり体調がよくないらしいわ。季節の 変わり目だからかねえ。あんたも気をつけなきゃ駄目よ。今が一番大事な身体なんだから」
「分かってるよ」
 投げやりに返事しながら、遼一は具合のよくないという伯母のことを想った。
 そのとき、心配する気持ちばかりでなく、遼一の胸にわずかに弾むものがあったのは、その時点ですでに、ずっと探していた口実を見つけたと感じていたから かもしれない。
 誰よりも、自分を騙すための口実を。


 遼一はその週末、久々に伯母のマンションを訪れた。
 前に訪ねたときから、すでに三ヶ月の月日が経っている。
 あらかじめ、伯母に電話をいれることはしなかった。母には叔母の家に行くことを内緒にしていたから、家の電話を使いたくはなかった。今どきの子供にして は珍しく、遼一は携帯電話を持っていない。
 どっちみち、あのひとはいつも家にいるのだから―――
 そう決め込んでいた遼一の期待は、外れた。
 数回チャイムを鳴らしても、伯母は姿を現さなかった。

 しばし部屋のドアの前で佇んだ遼一の胸に、次第に不安な気持ちが育ってきた。
 この家には伯母しかいない。彼女が急病で倒れても、助けを呼ぶ者はいないのだ。
 一度そのイメージを頭に浮かべてしまうと、いてもたってもいられなくなった。幸い―――決して幸いなことでなかったのを遼一は後に思い知るのだが――― 合鍵の在りかは分かっていた。
 一階の郵便受けの天井にテープで貼り付けてあるその合鍵を取りに、遼一は10分前にのぼった階段を大急ぎで駆け下りた。
  1. 2014/10/13(月) 11:48:37|
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卒業後 第9回

 ―――――――――――***――――――――――


 あなたが憎い―――と女は云った。


 女がこの部屋に足を踏み入れたのは初めてだった。部屋の主は色彩の統一にこだわる男らしく、家具は黒塗りのものがほとんどで、女が座っているソファーも 黒革だ。
 ぴかぴかとひかるそのなめし革に腰掛けた女は、しかし上下の服を白で揃えている。その服を着た女の肌も蒼みがかって見えるほど白い。
 だが、女は部屋の雰囲気に溶け込んでいる。
 星一つない闇夜、激しい雨風が窓を鳴らしている。
 その音にかき消されそうなほど、女の声は細かった。


 あんなに非道いことをするなんて―――


 女は上目遣いで男を睨み、恨み言を続ける。黒々とした瞳は濡れたようだ。部屋の照明が長い睫毛に翳をつけている。あまり寝ていないのか女の目元には隈が 出来ているが、その下瞼のふくらみは妖艶だった。
 男はそんな女の顔を眺めながら、無言で煙草をくゆらしている。その顔にはわずかの動揺も窺えない。
 やがて、男は煙草を揉み消し、女の隣に腰掛けた。横抱きに肩を抱えようとする腕をすり抜けようと女は躯をくねらせたが、無駄なことだった。
 細い躯が男のもとに引き寄せられる。
 女は抗うことを諦め、喋ることもやめて男と沈黙に自らを委ねた。
 男の手が襟元から入り込み色白の胸元に伸びる。乳房を掴まれた瞬間、女の唇から吐息が零れた。
 掴み出した乳房を掬うように男の手が持ち上げ、照明の下に晒した。細身の肢体にしては、女の乳房は豊かな肉が充ちていた。肌理の細かい肌の表面に、蒼い 血管が透けている。男はしばしその様を眺めた後、引き伸ばした白餅のようなそれの頂きに口をつけた。
 女は呻いた。
 男がくぐもった笑い声を立てる。感度の良い自分の身体を羞じたのか、女は小さく啼いて男の肩に顔を埋めた。その顎を男の手が捉え、無理やりに上向かせ た。
 濡れたような女の黒い瞳と、闇のような男の瞳が向かい合う。
 女の唇が動いた。


 でも―――
 今の私にはあなたしか頼る人がいない―――


 切れ切れした口調で、女はそれだけ告げる。男は何も答えない。ただ、女の顎をつかんだ指に力をこめる。
 瞳をとじた女の朱い唇に、男の厚い唇が合わさった。


 何もかも忘れさせて―――


 瞳をとじたまま最後に云って、それきり女は、男の導く没我の底へ自ら沈んでいった。


 ―――――――――――***――――――――――


 最近、息子の遼一の様子がおかしい、と京子はずっと思っている。

 いつもは落ち込んでいるときにも、母親である京子にはそんな顔を見せようとはしない大人びた息子だったが、近頃は口をきくことも少なく、さっさと自室に こもってしまう。表情も常に暗い。
 「どうしたの、何かあったの」と聞いても、遼一は「何もないよ」とうるさそうにするばかりだ。そんな返事で納得する親がどこにいるだろうか。今まで心配 一つかけたことのない息子なだけに、余計に京子は戸惑っていた。
 もうすぐN高の受験だというのに―――
 京子がため息をついた瞬間、その日、居間の電話が初めて鳴った。
「もしもし」
「・・・京子か?」

 兄からであった。兄は今、東京で一人、単身赴任生活を送っている。

「ああ、兄さん。どうしたの?」
「―――頼みがあるんだ」
 兄の声は奇妙なほどに切迫していた。

 急いで家事を終わらせ、午後から京子は電車に乗って兄のマンションに向かった。先述のとおり兄は東京に出ているから、今は兄嫁一人がそのマンションに 残っている。
 おかしな―――依頼だった。
「瑞希と連絡がつかないんだ。悪いけど、行って様子を見てきてくれないか?」
 先刻の電話で、兄は言った。瑞希とは、兄嫁の名だ。
「電話は?」
「ずっとつながらないんだ」
 兄との会話が終わった後、京子も試しにかけてみたが、兄嫁は出なかった。
 だから京子は言われたとおり、兄のマンションまで足を運ぶことにした。
 兄嫁とはそれほど親しく付き合ったことがない。兄と結婚する前に初めて兄嫁を紹介されたとき、美人ではあるが、とっつきにくいタイプだと感じた。きびき びと隙のない身のこなし、堅い物言いは武家の妻を思わせた。とても自分と同じ歳だとは思えなかった。
 けれど、この前京子が入院し、見舞いにきた兄嫁と久々に会ったとき、その印象が少し変わった。どこがどうとは言えない。ただ全体的に雰囲気が変わって ―――どこか、艶めかしくなっていた。
 男まさりなところのある京子と比べて、たしかに兄嫁は以前からずっと女らしかったが、そういうのともまた違う。硬い革がくたくたになるまでなめされて艶 光りし始めたような、そんな不可思議な色気が感じられた。
 これは兄が夢中になるのも無理はない―――内心の驚きを隠しながら、京子は密かに思っていた。
 そう思っていたところに、今日の兄からの電話だ。
 京子は早足で兄のマンションに急いだ。先週末、同じマンションを遼一が訪れていたことは知らないまま。

 電話で教えられた合鍵の在り処から鍵を取り出し、エレベーターで兄夫婦の住む階へ上がった。
 ドアの前に立ち、数回チャイムを鳴らしたが、誰も出てこない。諦めて、鍵をまわす。
 あっさりとドアは開いた。
「―――瑞希さん?」
 薄暗い部屋の奥へ声をかけるが、返事はない。靴を脱いで、部屋へ上がった。
 相変わらずどこもかしこも整然と片付けられている。兄嫁は潔癖症なのか、毎日毎日飽きもせず掃除ばかりしているとは、兄からも、少し前にここに居候して いた遼一からも聞かされている。ルーズなところのある京子には、ちょっと理解できない。
「瑞希さん」
 居間に入ってもう一度、声をかける。返事が返ってこないことは、もう分かりきっていた。兄嫁はこの家にはいない。
 兄宛ての書置きやメモも探したが、どこにも見当たらなかった。

 その日、京子は念のため、夕方の6時までその部屋に残って兄嫁を待ったが、兄嫁は帰ってこなかった。
 仕方なく京子は、「戻ったら連絡をください」と紙に書いて、テーブルの上に置いて自宅へ戻った。

 しかし―――
 結局、数日経っても、兄嫁からの連絡はなかった。
  1. 2014/10/13(月) 11:50:36|
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卒業後 第10回

 若い男が二人がかりで女を犯している。

 仰向けに割り広げられた女の両脚の付け根に、きたならしい男の腰が何度も何度も激しく打ち付けられ、その度に女は仔犬のような声できゃんきゃんと鳴く。
 歪み、汗ばんだ女の顔に、もう一人の男が隆々といきりたつ怒張を突きつけた。細められた女の瞳が動いて、その怒張を見つめる。次の瞬間、不自由な体勢の 女は苦しそうに首を動かして、ぱくりと男の一物を咥えた。


 画面越しの光景を眺めながら、遠野明子はふとやるせない気持ちを覚える自分を感じた。他の女の子が出演したアダルトビデオを見ていると、明子は時折そん な気持ちになる。眼前に差し出された男のペニスを見ただけで、条件反射のようにそのモノを咥える女の子たち。まるで訓練された犬のようだ。もちろん画面の 中の世界は、すべて虚構のものである。女は犯されてなどいないし、口汚く女を罵っている男たちも、撮影が終われば何事もなかったように女と談笑するのかも しれない。
 けれど、今、半ば朦朧とした顔で男のペニスを反射的に咥えた女の表情には、背筋が凍るようなリアルさがあって、明子の気持ちを暗くさせたのだ。どうして かは分からない。
 ―――自分も犬の一匹だからか。
 胸のうちで自嘲しながら、明子は煙草に火を点けた。明子はAV製作を主業務とするこのS企画の専属『女優』なのである。
「あれ? 明子さん、禁煙してたんじゃないんすか?」
 画面を見ながら製品のチェックをしていた岡村が振り返った。岡村はS企画のスタッフの中では一番若い。若いのだが、ぼさぼさに伸ばした髪はろくに洗って いないのか脂気が濃いし、目の下にはいつも不健康そうな隈がある。だから、年齢よりもよほど老けて見える。
「昨日まではね」
「禁煙を始めたって話を明子さんから聞いたのは一昨日ですよ」
 もー冗談きついんだから、とけらけら笑いながら、岡村は来月発売されるビデオの検品に余念がない。
「私が出演したやつも岡村君にそうやってじろじろ眺めまわされて念入りにチェックされるているのかと思うと、なんだか撮影にやる気が出てくるわね」
「そう言ってもらえると嬉しいなあ」
 皮肉の通じない男である。だが、この業界はとかく油断も隙もない連中が多い。だから、どこか抜けたような岡村は、明子にとって数少ない気のおけない男 だった。
「早く検品終わらせてよ。ランチタイムが過ぎちゃうじゃない」
「もう少し」
「昼御飯は岡村君のおごりだからね。―――ところで赤嶺を見なかった?」
「いえ、今日は見てませんけど」
 岡村は画面を見つめる目をちらりと明子に向けながら答えた。
 このS企画の社員で赤嶺のことを呼び捨てに出来る人間はかぎりなく少ない。女では明子ひとりだろう。それでも明子が赤嶺の名を呼び捨てにすると、皆び くっとした顔をする。
 自虐と反逆が1:1の割合でブレンドされているような性格の明子には、そんな瞬間に妙な快感を覚える。


 テレビ画面の中では、女を犯していた男が立ち上がって、フェラチオを強制していた男と位置を変えていた。男の手が自らのペニスをしごく。次の瞬間、男の 性器から白濁が飛び出し、女の顔をべっとりと汚した。判で押したような、お決まりの顔射フィニッシュ。それが終わるか終わらないかのうちに、もう一人の男 がまた女を犯しはじめている。


「明子さんが赤嶺さんと付き合っていたって噂、やっぱり本当なんですか?」
 不意に、ぼそぼそとした声で岡村が呟いた。
「何よ、急に。付き合っていたわけじゃないわ。時々、遊んでいただけ」
 少なくとも、赤嶺のほうはそうだったろう。
 赤嶺と初めて会ったのは、明子がまだ普通の会社でOLをしていた頃だった。それが今ではこのS企画で『女優』をしている。
 赤嶺はS企画では特別な立ち位置にいる。彼は一応、プロデューサーという肩書きだが、実際は何でも屋に近い。『女優』のスカウトから、撮影の仕切り、こ の業界には付き物の社会的に『ブラック』とされる側の人間たちとの話し合いまで。

 明子は赤嶺によってスカウトされた女の一人だった。

「今でも時々遊ぶわよ。今度は岡村君も呼んであげようか。三人で3Pでもする?」
「ホントに冗談きついすねえ。願ってもない話ですけど、俺、その場で勃たせる自信ないなぁ」
「言うわねえ。私みたいなおばさんじゃ、もう勃たないってわけ?」
「違いますよ! 赤嶺さんが一緒にいたら、怖くてヤル気が失せるって話です」
「なんで?」
「だって赤嶺さんって、普段は冗談ばっかり言ってるけど、よくよく見ると目がちっとも笑ってないようなところあるじゃないですか。あの目で見られたら怖く て萎えちゃいます。赤嶺さんはもてるらしいけど、抱かれる女の子たちはよく震え上がらないもんだと思いますよ」
「ああいう危ない感じが好きっていう女もこの世には多いのよ。実際、赤嶺ってサドだしね」
「やっぱり。・・・待てよ。ってことは、明子さんも赤嶺さんに縛られたり、鞭で打たれたり、ローソク垂らされたりしてるわけですか」
 急に目を輝かせた岡村の頭を、明子はグーで叩いた。「痛てて」と唇を尖らせながら、岡村はやはりどこか嬉しそうな顔である。
 その顔が急に真顔になった。
「でも・・・・俺、ほんと赤嶺さんだけは目の前で話してるだけで緊張しちゃいますよ。何ていうのかなー、あの人のオーラみたいなものが普通じゃないから。 一般人ならブレーキをかけずにいられないところを、平気でアクセルかけそうな雰囲気があるじゃないですか。あのひと見ててそういうのを感じると、俺なんか 蛙ですよ」
「蛇に睨まれた蛙って言いたいのね」
「それです。蛙状態。あのひと、私生活はどうしてるんでしょ。カタギの友達とかいるのかなぁ」
「―――いるわよ。私会ったことあるもの」

 といっても、それはもう二年前の話になる。けれど、昨日のことのように思い出されるのは、その出会いが明子にとっても強烈な体験だったからだろう。


 最初、赤嶺に『友達』を紹介されたときもは驚いた。あの男に世間並みの交友があったことに。
 『友達』の彼は、赤嶺とはまた違った意味でどこか翳のある男だった。赤嶺の翳は先程岡村が表現した「オーラ」のような凄みに転化しているが、彼のほうは 全然そのようなところはなく、一見したところはどこにでもいる普通の男で、どうして赤嶺のような男と長く交流が続いているのか、明子は最初不思議に思っ た。後に彼の別の一面に接して、明子はその理由の一端を垣間見た気がしたのだが。
 もっと驚いたのは、赤嶺がその『友達』の奥さんに強烈な関心を示していたことだ。女に関わる仕事をしていて、本人も数え切れない浮名を流しているもの の、明子の見るところ、赤嶺は女に夢中になれるような男ではなかった。
 赤嶺と『友達』と明子の三人で飲んだとき、赤嶺は何度かその奥さんの話を出し、その度に『友達』の彼が落ち着きない様子で赤嶺を見つめていたことが印象 に残っている。


 ―――そんなにいい女なの? その奥さん。


 バーで飲んだ帰り道、明子は赤嶺に聞いてみた。


 ―――俺好みだね。普通の主婦にしとくのはもったいないな。


 最高の素質があるのに、と赤嶺は呟いた。


 ―――素質って?
 ―――女の中にはいろいろいる。明子だって少し前まで普通のOLをしていただろ。普通の人生を送って普通の生活をしていても、ふとしたきっかけで妖艶に 開花する女もいれば、水商売に浸っていても実際はマグロみたいなのもいる。俺は素質ある女を開花させて、次第に変わっていく姿を記録するのが好きなのさ。


 独り言のように言ってから、赤嶺はくすりと笑った。


 ―――明子の開花も俺がちゃんと映像に残してやったじゃないか。
 ―――厭な人。あなたがそんなに自分の仕事に情熱を持っていたなんて、初めて知ったわよ。
 ―――趣味が高じて仕事になったってとこかな。


 最後で冗談めかしてうやむやにするのは、赤嶺の癖だ。
 そのときはそこで話題が終わり、明子もすぐに忘れてしまったのだが―――


 しばらく後に赤嶺から連絡が来た。そして明子は、例の『友達』夫妻とのスワッピングへの参加を持ちかけられたのである。
  1. 2014/10/13(月) 11:51:54|
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卒業後 第11回

「ふうん、つまり赤嶺さんの友達のその彼が、自分の奥さんを赤嶺さんに抱かせようとそのスワッピングを計画したんですか?」

 昼下がり、行きつけの食堂でいつもの定食をぱくつきながら、岡村は目を丸くした。
「そうよ」
「いったい何のために?」
「世の中には『自分の女が他の男に抱かれている!』『ああ、興奮する!』って男もいるのよ」
「全然分からないすね」
「私も分からないわよ。たとえ目の前で岡村君が他の女の子を抱いていても、私、何とも思わないもの。まあ、岡村君は別に私の彼でもなんでもないから例えが わるいけどさ」
 素っ気無い明子の言葉に、岡村は唇を尖らせた。
「なら、いちいち僕の名前出さないでください。まったく。それにしても、奥さんのほうは旦那さんのそんな性癖知ってたんですか?」
「いいえ、知らなかったわ。旅行中に赤嶺に抱かされようとしているなんて、まったく知らされないで、ただ旦那さんと二人きりの旅行のつもりで来ていたの よ」
「うわー残酷」
「今、思うとね。私も悪いことしちゃったわ」


 明子が初めて彼女を見たのは、二年前の夏、飛騨の小京都高山の街でのことであった。
 赤嶺の言葉から、いるだけで人目を惹きつけずにおかない大美人を想像していたのだが、実際に目の当たりにした彼女はずいぶん地味な感じで、都会の人波の 中ならばたちまち埋もれてしまいそうな儚げな女性だった。
「瑞希と申します」
 控えめな声で彼女は明子と赤嶺に挨拶し、丁寧に頭を下げた。
 顔を上げた瑞希を、明子は改めてしげしげと眺めた。身体は小柄の細身で、顔もしごく小さい。決して派手な顔立ちではないが、整った容貌をしていて、特に 切れ長の目の、瞳の澄んだ感じが印象的だった。
 明子が普段S企画や街で見かける今時の女性は、くっきりとパーツを強調する西洋風のメイクをしているし、服も自らの身体のラインを引き立たせることを意 識している。瑞希はほとんど化粧気がないし、装いも地味だが、小筆で繊細に描かれた薄墨の水墨画のような清澄さがあった。
 綺麗な人だ。明子は思った。
 明子のやや不躾な視線を意識したのか、瑞希はふと視線を曇らせ、顔をうつむけた。
 瑞希の夫と赤嶺は、いま偶然出会ったという装った会話を続けていた。眼前でうつむく瑞希は、夫と赤嶺が仕組んだ姦計のことなど知らない。知らないで、突 然現われた明子と赤嶺に戸惑っていた。時折、ちらちらと夫にすがるような視線を向けていた。
 現在の明子ならそんな当惑した様子の瑞希に哀れを催すかもしれないが、その当時、明子の心は少し荒んでいた。望んで飛び込んだ水商売の世界だったが、表 の社会から滑り落ちてしまったような不安も抱えていた。その不安は時に、日のあたる場所で着実な道を歩む人たちへの敵意をもたらした。

 ―――可哀想にね。あなたはもうすぐ信じた旦那さんに裏切られるのよ。

 皮肉な気持ちで明子は瑞希を眺めた。その気持ちには、赤嶺の執着する女への嫉妬があったのかもしれない。
 二年前は今ほど客観的に赤嶺という男のことを考えられなかったから―――


「それで結局、宿へ行ってから、赤嶺さんはその奥さんを抱いたんですか?」
「まあいろいろあったんだけど、結局ね」
「で、どうだったんですか?」
「何が?」
 気がつくと、岡村の唇が「ウヒヒ」の形に歪んでいる。
「決まってるじゃないですか、抱かれたときの奥さんの反応ですよ」
 ぱこんと音を立てて、明子の拳が縦に岡村の眉間に入った。
「いてえ。何するんですか。男なら絶対聞きたいところですよ、そこ」
「そのやらしい顔がむかついたのよ」
 ふんと鼻を鳴らして、明子は煙草を咥えた。

 男なら―――か。
 明子はほろ苦い気持ちで、岡村の言葉を反芻した。
 奥飛騨での三日目の夜を思い出す。あの夜、明子は女というものの哀しさを見た。
 畳の匂いのかぐわしい和室で、瑞希は赤嶺に抱かれた。
 抱かれて―――乱れた。
 夫の前で。
 涙さえ零しながら、瑞希は乱れた。その姿は女である明子をも虜にするほど妖しくて凄絶だった。

 瑞希には最高の素質がある、と赤嶺は言っていた。赤嶺には分かっていたのだ。夫も、おそらく瑞希本人すら知らなかった、彼女の躯の秘密を。
 瑞希は清楚な外見にそぐわない、とても官能に弱い躯を持っている。一度火が点くと、芯が尽きるまで燃え盛らずにいられないような。
 それが一人の女性にとって幸福なことなのか、そうでないのかは明子には分からない。
 夫である彼は、あの夜の彼女を見て何を感じたのか。
 そして彼女は―――  

 最近になって、時折、明子は二年前の二人を思い出す。彼らはどうしているのか。今でも仲の良い夫婦を続けているのか。
 変わってはいないだろうか。
 明子自身、一役かってしまったことだから、余計気になる。

 ―――今度、赤嶺に会ったら、あの二人の近況を聞いてみよう。

 そう、決めた。

「あ、そうそう。さっき出掛けに聞いたんですけど、赤嶺さん、今休暇中で大阪にはいないらしいですよ」
 岡村が思い出したように言った。
「そうなの? 知らなかったわ。まあ、あの男、夏には必ずどこかへ行くものね。去年は天橋立だっけ。その前は」

 その前は―――奥飛騨か。

「今年は長野の松本らしいです」
「相変わらず渋好みね。どうせ女連れでしょ」
「あれ、妬いてるの、明子さん」
「妬いてないわよ。ただその女が気の毒なだけ。赤嶺の精力は凄いのよ。帰ってくる頃にはへろへろにされてるわ。赤嶺はぴんぴんしてるけど」
「男の中の男じゃないですか」
「馬鹿ばっかり言ってないで。会社に戻りましょ」

 岡村を促して、明子は店を出た。
 夏の日差しが突き刺さるように、アスファルトの街に降り注いでいた。
  1. 2014/10/13(月) 11:53:15|
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卒業後 第12回

 この喫茶店にはたまに来るが、いつもビートルズばかり流れている。今日は“ラバー・ソウル”、今流れているのは“ノーウェアー・マン”だ。

 気だるいジョン・レノンのヴォーカルを聴きながら、明子は外の景色を眺めた。知らないうちに木々の葉が淋しく色づき始めている。
 秋が来ていた。
 明子はこの季節が嫌いだ。というよりも、その次にやってくる冬が嫌いだった。
 明子の郷里は盛岡で、もちろん冬の降雪はこの街と比較にならない。けれど、以前の明子は冬を嫌っていなかった。明子が嫌いなのは、都会の冬なのだ。普段 は隠されている都会のざらついた地肌が、冷たい風に晒されて剥き出しになるような冬が。

 “ノーウェアー・マン”―――行き場のない男。

 今の職をいつ辞めるべきか、明子はしばらく前から悩んでいた。むろんAV女優は長く続けられるような仕事ではないし、年齢的にもそろそろきつい。何よ り、明子のモチベーションが尽きかけていた。赤嶺に連れられてこの世界に足を踏み込んだが、近頃はやはり自分にこの世界の水は合わないとひしひし感じてい た。
 かといって、辞めてからどうするかが、また問題なのだ。一度AV女優としての職歴を持ってしまった女は、辞めた後も完全にこの世界から抜け切ることが出 来ず、ストリップや風俗など、周辺の業界で働かざるをえなくなったものが多い。今のところ、明子にそういう道を辿る気はない。
 盛岡の実家とは、何年も前から絶縁状態だ。

 ―――行き場のない女、か。

 くすりと明子は自嘲の笑みを漏らした。とうに“ノーウェアー・マン”は終わり、店内のスピーカーからは“ミッシェル”が流れている。甘いようで、どこか 冷めているポール・マッカートニーの歌声は、明子の心のどこか深い部分をぞわりと撫であげた。


 明子は店を出て、都会の雑踏を駅まで歩いた。
 駅に着いたとき、見覚えのある男たちの姿が目に入った。
 二人とも、S企画の人間だ。一人はカメラマンの佐々木、もう一人は“男優”の金倉だった。佐々木は痩身に趣味の悪い黒ぶちをかけ、趣味の悪い長髪の髪型 をした趣味の悪い三十路男で、金倉は出来れば撮影でこの男との絡みは遠慮したいと思わずにいられないような、下腹のでっぷりと出た中年男である。
 S企画の中でも特に秋子の苦手な二人組が、よりにもよってこんなところで何をしているのか。考えるよりも前に、彼らは振り返り、駅から現れた待ち人に手 を振った。
 その待ち人―――赤嶺はいつものように悠然とした足取りで軽く手を上げ、二人のもとに近づいていく。明子が目を疑ったのは、その背後について歩く女性を 見たときだった。

 瑞希だった。

 二年ぶりに見る彼女は、品のいい水色のブラウスに白の薄いカーディガンを羽織り、濃紺のロングスカートを履いていた。二年前よりもまた少し痩せた気がす る。頬の肉がやや落ちて、切れ長の目の縁取りが濃くなったようだ。以前は清楚なお嬢さんがそのまま歳をとったような女性だったが、今、明子の目に映る瑞希 は、ぱっと見はあまり変わらないのに、どこか凄艶な雰囲気が漂っていた。
 明子は無意識のうちに動いて、彼らに見つからないような位置に隠れた。
 佐々木と金倉は初めて瑞希に会ったのか、赤嶺が間に立つ感じで何事か喋っている。じろじろと品定めするような目つきをした佐々木、はしゃいだ感じの金倉 の姿が目に入る。瑞希は静かに彼らに頭を下げていた。
 やがて、彼ら四人は揃って街のほうへ移動し始めた。

 わけが分からない。なぜ彼女がここにいるのか。なぜ赤嶺といるのか。赤嶺はなぜ、瑞希を佐々木と金倉に会わせているのか。
 分からないけれど、胸騒ぎは耳元に直接届くほど強かった。
 だから、明子は彼らに気づかれないよう、慎重な足取りで四人の後をつけた。
  1. 2014/10/13(月) 11:54:18|
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卒業後 第13回

 繁華な通りを抜け、やや寂れた路地に入った四人は、雑居ビルの一角にあるバーへ入っていった。
 明子は髪をほどき、サングラスをつけた。気休め程度の変装だが、何もしないよりはましだ。その格好でしばらく辺りをうろついた後、明子は先程赤嶺たちが 消えたバーへと足を踏み入れた。
 うらぶれた感じの店だった。時刻が時刻なのでまだ客が少ないのは分かるが、広々とした店内が妙に寒々しい。カウンター向かいのスペースには、ビリヤード 台や古そうなビデオゲームがある。『告発の行方』に出てくる、ジョディ・フォスターがピンボールマシンの上で犯されたあのバーを明子は思い出した。
 赤嶺たちは店の奥の四人掛けの座席を陣取っていた。明子はなるべく目立たぬように、少し離れた席についた。幸い、一番明子に気づく可能性のある赤嶺はこ ちらに背を向けた格好で座っている。赤嶺の左隣に佐々木、正面に金倉が座り、その金倉の右横に瑞希は腰掛けている。
 瑞希。なぜ彼女が赤嶺といるのか。あの(赤嶺流に言えば)オアソビはまだ続いていたのか。あれからもう二年の月日が経っている。

 ずっと―――続いていたのだろうか。

 三ヶ月前に岡村と会話の中で瑞希と彼女の夫のことに触れた際、明子は二人の現状を赤嶺に聞いてみようと思った。しかし、あれからなかなか赤嶺に会う機会 もなかったし、明子自身、今後の人生について悩んでいたので、いつしか聞く機会を逸してしまっていたのである。
 注文したジントニックが来た。
 明子はそっと赤嶺たちの様子を窺う。
 赤嶺は悠々と煙草を吹かしながら、グラスを傾けている。代わって忙しく口を開いているのは、上っ調子の金倉だ。瑞希は顔をうつむけてじっと座っている。 佐々木は―――
 明子はごくっと喉を鳴らした。
 佐々木はハンディタイプの小型ビデオカメラを構えていた。

 最近人気の素人(と銘打たれた)企画モノのAVで、最初にその素人(と紹介された)女性がホテルの一室で延々と“面接”を受けるシーンが冒頭にある。カ メラを構えた“面接官”の男が、女に色々と質問するのだ。話題の中心は無論、彼女の普段の性生活である。いわく「セックスは好きか?」「どんなプレイを好 むか?」「セックスは月何回?」「この前したのはいつ?」「3サイズは?」「よく感じる場所はどこ?」「アナルセックスの経験は?」「複数プレイに興味は ある?」

 まるで、その“面接”場面のようだ―――

 明子は感じた。もちろんここはホテルではないし、明子の位置からは彼らの喋っている声までは聞こえない。ただ、金倉が何かを言う度、瑞希が小さく口を開 いて何事か答えているのは分かる。
 そして、そんな瑞希の姿を、佐々木のカメラが捉えているのも。
 不意に、金倉が鞄から大きめの包みを取り出し、瑞希へ渡した。瑞希はその包みを受け取ったが、どうしていいか分からないように、戸惑った顔で金倉を見つ め返した。にやにやと笑みながら、金倉が再び何かを囁きかける。
 包みを胸に押し当てた格好で、瑞希はまだ戸惑っている。やがて顔を上げ、彼女は斜め向かいに座る赤嶺を見た。
 まるで相席した他人のようにひとり煙草を咥えている赤嶺が何を言ったのか、それとも何も言わなかったのか、明子には見えなかった。見えたのは、促すよう に顎をしゃくった赤嶺の仕草だけだ。だが、その仕草をぼんやり見つめた後で、瑞希は立ち上がった。そのまますぐ近くのトイレに消えた。
 まだにやけたままの金倉が、瑞希の消えたトイレを見、それから赤嶺に向かって何か言った。
 明子は落ち着かない気分で杯を舐めた。煙草に火を点ける。煙草を教えられたのも、何メートルか先で背中を向けている男からだったな、とふと思う。

 煙草の味が苦くなる。

 瑞希が―――戻ってきた。

 最初、その出てきた女が瑞希だと、明子は気づかなかった。彼女の服装がすっかり変わっていたからだ。

 瑞希は黒い網状のシースルーの上掛けの下に、ノースリーブの黒のドレスを身に着けていた。胸元の切れ込みが深く、シースルー越しに滑らかな乳房の上部が 見えている。
 黒いドレスの裾から伸びる脚が、妖しいほど白かった。

 突然現れた、どう見ても夜の女としか思えない服装をした女に、店内の幾人かの客の目が集中した。その視線を避けるように、瑞希は急いで席へ戻った。色素 の薄い肌が紅潮しているように見えた。
 おそらく先程までの彼女の衣服が入っている包みを、瑞希は金倉に渡した。受け取って、さっそくその包みにさし入れた金倉の手が、ブラジャーと、それから ショーツらしき白いものを取り出した。今、瑞希はどう見てもブラジャーを着けてはいないが、金倉が差し出した先程の“着替え”には別のショーツまで用意さ れていたのか。それとも、今の瑞希は下に何も身に着けていないのか。分からない。けれど、脱いだばかりの下着を見せ付けるように広げてみせる金倉の傍ら で、紅に染まった頬をうつむけ、肩を竦ませている瑞希の姿に、明子はその答えを見たような気がした。

 “素人”を着替えさせたところで、“面接”はその後もしばらく続いた。金倉はどんどん馴れ馴れしくなり、ついには瑞希の剥き出しの肩に腕を回した。瑞希 の躯が目に見えて強張る。肩に回した金倉の手が動き、衣服越しの乳房に触れて、形を確かめるように何度かさすった。それでも瑞希は抗わない。
 ビデオカメラの冷たいレンズが、そんな二人の様子をねっとりと追っている。
 赤嶺一人が、どこ吹く風といった様子で、静かに酒盃を干していた。

 いったい、これは何の冗談なのだ―――

 見るに耐えなくなって、明子は目を逸らし、瞳を閉じた。
 瞼の裏に二年前の瑞希の夫が―――幾度か肌を重ねたこともある彼の姿が蘇る。
 いつもどこか暗い目をしていた彼。

 ―――あなたはこのことを知っているの?

 胸の内で、明子は独りごちた。


 ふと、赤嶺が立ち上がった。いつの間にカメラをしまった佐々木と金倉もそれに続く。瑞希も立ち上がり、四人は揃って歩き出した。
 出て行くとき、男たちの背後について歩く瑞希に、酔客の一人がひゅうっと冷やかしの口笛を吹いた。瑞希の躯がびくっと震える。顔を伏せた彼女は、急ぎ足 で店を出て行った。
 扉の閉まる音が背後で聞こえた。明子は脱力した身体を椅子深くに沈めた。なぜだか、ひどく疲れていた。

「―――明子」

 不意に、聞き覚えのある声が後ろからして、明子は驚いた。
 振り返ると、赤嶺が一人で立っていた。
「今日はオフなのか? 駅からずっとつけてきていたようだが」
「・・・・いまの、何?」
 平然と話す赤嶺の表情に畏怖を感じながら、明子はようやく言った。
「―――ただのオアソビだよ」
 さらりと答え、赤嶺は肩をすくめた。
「どうして―――?」
 何を聞こうとして「どうして?」と言ったのか、自分でも分からなかった。
 明子の問いに、赤嶺はひどくつまらなさそうな顔をした。
 酷薄な声が響く。

「遊びに理由が必要なのか?」

 それだけ言って。
 赤嶺はくるりと踵を返した。
 声もなく、明子はその背中を見送るしかなかった。身体が凍りついていたから。



 ―――――――――――――――――――――
 ――――――――――――――――
 ―――――――――――

 義姉が失踪した。
 そのことを告げて以来、兄からの連絡はない。京子もなんとなく電話をかけるのをためらっている。
 あのとき、京子の報告を聞いて、兄はただ一言、
「・・・・・・そうか」
 と言った。義姉がいなくなった原因に心当たりがあったのか、それともただ虚脱して言葉を失っただけなのか、京子には判別できなかった。
 ただ、「警察に届けるか?」と京子が尋ねたとき、兄は「事件性がない自主的な失踪の場合、警察は動かないよ」と答えた。その言葉を思い返すと、兄は義姉 が「自主的に」出て行ったことを確信していたように思える。

 まったく気づかなかったが、兄たちは夫婦間に何か問題を抱えていたのだろうか。

 息子の遼一は遼一でずっと様子がおかしいし、この頃京子は頭が痛い。


 ―――そういえば、今日は帰りが遅いわね。


 京子は時計を見た。もう夕方の六時半。図書館に寄ったにしても、すでに閉館時刻は過ぎているはずだ。
 義姉のことが頭にあるだけに、京子は何だか厭な胸騒ぎがした。


 そして―――
 結局のところ、京子の厭な予感は現実のものとなり、遼一はその日が終わっても家に戻ってくることはなかったのである。
  1. 2014/10/13(月) 11:55:37|
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卒業後 第14回

 時折取り出しては眺める、一枚の写真がある。

 それは板敷きの廊下に立つ、着物を着た女の写真である。両手を前で重ね、すっと背筋を伸ばし、正面からカメラを見つめている生真面目なまなざし。女は笑 みを浮かべてはいない。きつく結んだ口元は、女の切れ長の目の印象とあいまって、怒っているように見えるが、事実はそうではない。
 左側の窓から差し込む弱い光が、女の顔に微妙な陰影をつけている。
 彼女は私の妻である。そして、この写真は彼女と見合いをする前に、世話役の親戚から貰ったものだ。
 見合いをしたのは、もう五年も前のこと。当然、この写真に写っている妻は、五年前の妻である。
 当時の私は、親戚に見合いを薦められたものの、たいして乗り気ではなかった。気持ちが動いたのはこの写真を見てからのことだ。見合い写真にはそぐわな い、媚びも素っ気もない女の貌はしかし端整で、ややきつい感じに写っている目には、どこか惹きつけられるものがあった。
 後に私の妻になったその女性の名前は瑞希といった。瑞々しい希(のぞみ)。良い名前だと五年前の私は思い、今の私も思っている。特にその頃はあまり未来 に希望のない生活を送っていたから、余計にそう思ったかもしれない。

 私は彼女と結婚した。
 結婚してからの数年間で妻の写真を幾枚か撮ったが、妻は極端な羞ずかしがりでなかなかカメラをまっすぐ見てくれなかった。だから、この写真は妻がきちん と正面を向いている、貴重な一枚でもある。
 けれど、私がこの写真を大切に思うのには別の理由がある。この写真が記録している今よりも少し若い妻。私と出会う以前の妻。
 出会って、結婚した頃の彼女は、妻としては非の打ち所のない女性だったかもしれない。しかし、一人の女として見た場合、私には不満があった。見合い結婚 であるだけに、私は夫婦となってから、妻と「恋愛」をしたかった。彼女のことをもっとよく知りたかった。だが、妻は無口で無表情で、なかなか私の気持ちに 応えてはくれなかった。
 歳月が経ち、ある出来事をきっかけに、ようやく妻は私に打ち解けてくれた。そのときからしばらく過ごした日々が、今までの結婚生活で一番落ち着いた、穏 やかな暮らしだったような気がする。
 その後は―――


 ・・・・けれど、今こうして過去を振り返る私の脳裏に最も鮮やかに蘇ってくるのは、出会ってから結婚した当初のあの張りつめた日々、張りつめた妻の立ち 姿である。
 私はこの見合い写真を後生大事に持っている。時折、取り出して眺める。写真には結婚当初の妻の面影が色濃く残っている。この写真を眺めるとき、私は切な さに胸疼くような、やるせない痛みに苛まれるような、もの狂おしい心地になる。
  1. 2014/10/13(月) 11:56:55|
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卒業後 第15回

 入院するかもしれないという話を京子から聞いたのは、6月の始めのことだった。

「それでね、もしそうなったら悪いんだけど、しばらく兄さんのところで遼一を預かってもらえないかしら。他に頼める人がいなくて・・・。うちのひとは単身 赴任でこっちにいないし」
 遠慮がちに京子からそう切り出されたとき、私は一瞬返事に詰まった。
「・・・・駄目?」
 私の沈黙を敏感に感じて、受話器の向こうから心配そうな声がした。
「―――いや、かまわないよ」
 私は答えた。事実、そのとき私は『それもいいかもしれない』と思っていたのだ。
「ただ、瑞希の意見も聞かなきゃならない」
「それはもちろんそうよ。私もまだ入院すると決まったわけでもないし」
「無理するな。養生できるときに養生しといたほうがいい」
「もう若くないんだから、って言いたいんでしょ」
 含み笑いしながら京子は切り返し、私も苦笑しつつ電話を切った。


 翌朝、京子の入院話を妻にした。妻は胸を両手で押さえながら話を聞いた。
 最近、妻は髪を切った。結婚してからずっと胸の下くらいまであった髪をショートボブにしたので、頸まわりがすっきりして涼しげに見える。話をする間、私 はその頸から顎にかけてのラインを見つめていた。
「それでさ・・・」一旦言葉を切って、妻の瞳を真正面から見た。「もしそうなった場合、遼一をうちで預かってもらえないか、と京子から頼まれている」
 予想通り、妻の瞳が大きくなった。
「うちで・・・・?」
「まだ了承したわけじゃないけれど。瑞希の意見も聞いておかなければならないから」
 大きくなった妻の瞳が揺れ動く。
「遼一は来年N高校を受験するらしい。大切な夏休みなんだそうだ」
 妻の動揺を察しながら、あえて言葉を重ねる。こんなふうに言われてしまえば、妻の性格からして断れるはずがなかった。
「―――分かりました」
 やがて、妻はきっぱりと答えた。
「ありがとう」
「あなたにお礼を言われるようなことではありません」
「京子の代わりに言ったんだ」
 私は鞄を掴み、玄関へと向かう。妻が後ろをついてくる。
 靴に手をかける前に、私は妻を振り返った。
 妻も私を見た。私が次に言う一語を待っているのか、それともとうに予測しているのか。ただ静かに、妻は私を見ていた。
「―――じゃあ、今夜また」
 目を逸らしたのは、私のほうだった。そして私の唇からようやく発せられた言葉は、それだけだった。
 逸らした視界の片隅に、うなずく妻の顔が見える。私はドアノブに手をかけた。
「行ってらっしゃい」という声が、閉まりかけたドアをすり抜けて私の耳に届いた。


「そういえば知っています? 一年前に結婚してここを辞めていった尾関さんの話?」
 昼休み、社員食堂で飯を食っていると後輩の江川がそんなことを言い出した。
「いや、彼女がどうかしたの?」
「先月、離婚したらしいんですよ。なんでもアルコール依存症が原因とかで」
「旦那さんの?」
「いえ、尾関さんが中毒状態になってしまっていたらしいんです。最近は若い女性にもアル中患者が多いそうですよ」
「それにしたって、結婚してまだ間がないのに」
 辞めていったときの彼女の、愛嬌のある丸顔に浮かんでいた幸福そうな表情が私の脳裏をよぎった。
「新婚ほやほやのときは未来は薔薇色に思えても、いざ現実となると会社勤めよりしんどいこともあったんじゃないですか。夫婦の間でも色々あるだろうし」
 結婚したこともないくせに、江川は訳知り顔で言う。
「それは・・・・まあね」
「先輩のお宅はそうでもないですか? あ、噂を聞いたことありますよ。奥さん、かなりの美印だとか」美印とはまた古い言い方だ。「今、写真とかないです か?」
「ないよ」と言うと、江川は疑わしそうな顔をした。
「まあ、先輩は照れ屋ですからね。今度、お宅に連れていってください」
「また今度ね。―――それで尾関さんは今どうしているの?」
「親御さんが心配してリハビリ施設に入れたそうです。こんなこと言ってはあれですけど、子供が出来る前で良かったって話ですよね」
 そう口に出して初めて私にも子供がないことを思い出したのか、江川はちらりと私を見た。私は何も気づかなかったふりをして煙草に火を点けた。

 依存症。中毒。縁遠いように見えて、実はとても身近な言葉なのだろう。誰にとっても。以前、東南アジアを旅行したとき、日本でいう普通のコーヒーを飲ま せる店を探すのに苦労した。私はニコチン中毒のカフェイン中毒だから煙草を吸いたくなるとコーヒーを飲みたくなるし、その逆ももちろんある。
 飛行機などで長い?禁煙を迫られた後の一本は、快楽というよりも酩酊する感覚に似ている。頭の芯がすこんと外れて足元がぐらつく。その感覚は射精したと きのそれに近い。
 快楽は本質的に憂鬱な気分を含んでいる、とフランスの哲学者アランがたしか書いていた。その言葉は快楽に対する人間の根源的な恐怖を暴露している。快楽 から醒めたときの空しい気分、急に露わになる剥きだしの現実への恐怖。
 いや、それ以上に怖いのは、快楽が自我を揺さぶるという点にある。自分自身を失うことは何よりも怖い。しかし、まさにそれこそが快楽の本質だ。

「先輩のところは見合い結婚でしたっけ」
 先程逸らした話題を、佐々木がもう一度掴み戻した。
「そうだよ。今どき珍しいか?」
「僕の知り合いでは他にいないですね。でも、見合い結婚のほうがうまくいくとも言いますよね。その辺り、どうなんですか?」
「何が、どうですか、なのかよく分からないが」
「またまた」
「―――まぁ、うまくいっているほうじゃないのかな」
 曖昧に答えた。江川のほうはそれをいつもの照れと受け取ったらしい。あー僕も早く結婚したい、などと呟いている。ついさっき「夫婦の間でも色々あるだろ うし」などとのたまっていた人間が。
「さ、仕事に戻ろう」
 ため息をつきながら私は立ち上がり、食器を抱えた。


 仕事を終え、電車を乗り継いで神戸まで行った。
 電車に揺られながら、私は昼間聞いたかつての同僚の女性の話を思い出していた。彼女は何を想いながら酒を飲んでいたのだろう。そして今は?
 空想しているうちに、やがて思い当たる。何のことはない、これは私自身の話だ。
 滑りゆく夜を背景に、電車の窓に写る自分自身の顔を眺めた。

 ホテルに着いた。あらかじめ部屋の番号は聞いている。303号室。ロビーでエレベーターを待ちながら、私はごそごそとポケットを漁り、煙草のケースを開 けて本数を確認する。
 エレベーターに乗り込む。正面の鏡にまたも見慣れた中年男の姿が映る。無意識に私はその男から目を逸らした。
 三階につき、303号室に向かう。扉の前で私はしばし佇む。煙草を吸いたいと思う。ポケットに手をやろうとするその指がかすかに震えているのが分かる。 数秒間、その指を見つめた後で、私は結婚指輪を外した。
 ドアを開ける。間接照明だけの部屋は薄暗い。
 啜り泣くような細い呻きが聞こえる。弱々しく、それでいて濃密な生命の燃焼を伝える声。瞬時に私の中の何かがぐらつき、ついでに足元もぐらつく。
 ドアを閉める。ひそやかに足を運ぶ。
 部屋に入る手前で、立ち止まって室内を覗き見た。

 妻が吊られていた。
  1. 2014/10/13(月) 11:58:28|
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卒業後 第16回

 両手を頭上でひとつにまとめあげられた格好で、手首に食い込んだ縄がフックに固定されている。さらに右足の膝にも縄はかけられ、斜めに別のフックに吊る されている。
 そんなふうに強制的に躯を開かされた格好で結わえ付けられた妻は、衣服をまだ身につけたままだ。しかしオフホワイトのサマーセーターはまくりあげられ、 胸の上にひっかかっているばかりである。近頃、妻は胸が大きくなったように思う。ブラジャーは外されていて、白餅のような乳房の全景が露わだった。
 右足膝を胸元近くまで吊り上げられているので、水色地に白の縞模様が入ったスカートの裾は無惨にまくれている。吊られた右足、片方で体重すべてを支えて いる左足、どちらの足も一時もじっとしていられないように小刻みに震えていた。
 最近ショートにした妻の髪が額に浮かんだ玉の汗に幾筋か張り付いていた。ぎゅっと閉じられた瞳。私が入ってきたことにも気づいていない。鼻頭が朱に染 まっている。緩んだ口元から白い歯が見え、喉奥から長く尾を引くような声が時折零れる。

「今日は長く持つじゃないか。しばらく会わないうちに感度が悪くなったんじゃないか」

 聞き覚えのある男の声が聞こえた。私の視界には入っていないが、たしかにそこにいるはずの男―――赤嶺の声だ。
「―――――いや」
 次の瞬間、妻の声が高く大きくなった。先程は朧気だった苦悶の響きが濃くなっている。吊り上げられているほうの足の踝の辺りが引き攣れを起こしたように 突っ張り、腰回りがくりくりと不安定に蠢く。
「いい眺めだ。そうこなくちゃ嘘だね」
 軽やかな声がし、赤嶺の姿が視界に現れる。赤嶺は妻の前に立ち、悠然とピースを吹かしながら、目を細めて妻の苦しげな動きを見つめた。
「でもあまり体力を使いすぎるなよ。夜はまだまだ長いんだから」
「もう、少し、緩めて、ください・・・・」
 はぁはぁと喘ぎながら、切れ切れに妻が訴える。
「縄をかい?」
 けろっとした顔で赤嶺が言うと、妻は恨めしげに赤嶺を見た。その横顔にぞっとするほど凄艶なものがあって、私は息を呑まずにはいられなかった。
「落としたらいつものお仕置きだよ」
 素っ気無く言葉を吐いて、赤嶺はすっと腕を伸ばし、妻の耳たぶに触れた。妻が顔を上げる。その顔に赤嶺は顔を近づける。
 不自由な片足を爪先立ちにして、妻は赤嶺のキスを受け入れた。
 長いキスだった。いや、時間にしてはものの数十秒のことだったろうが、その数十秒は果てしなく感じた。赤嶺の手に妻を委ねることになってすでに一年近く 経つ。しかし、私はまだ赤嶺と妻がキスをする光景に慣れることがない。―――たかがキスにすらそうなのだ。
 唇を合わせながら、赤嶺は妻の乳房に手をかけ、量感を確かめるように厚い掌で包み込み、揉みしだく。彫像のように静かに口づけを受けていた妻の眉間に皺 が寄る。続いて赤嶺の手指は白い双丘を離れ、頭上で拘束された両腕のために無防備に曝け出された腋下に這い伸びた。
 妻はその部分の刺激に弱い。はたして赤嶺の手指が意地の悪い玩弄を開始すると、妻の眉間に寄った皺は深くなり、くぐもった呻きが洩れ聞こえ始めた。
 すぐに振りもぎるような勢いで、妻の唇が赤嶺から離れた。
「いや。そこはいや」
 肩の付け根から胸にかけてがくがくと揺さぶりつつ、妻は激しくもがいた。
「動くな。抜け落ちるぞ。いいのか、仕置きされても」
 抜け落ちる―――? 先程から赤嶺が何を言っているのか分からない。
 しかし、「仕置き」の一語は効果があった。狂わんばかりに吊りあがった目元に涙を滲ませて、妻は赤嶺を見上げた。
 その瞳に浮かんでいるのは眼前の男への憾みか。それとも媚びか。分からない。不穏な胸騒ぎを痛いほどに感じながら、私は妻の横顔から目を離すことが出来 ない。
 赤嶺はそれ以上手指を触れなかった。まったく表情の変わらない顔で、眼下の妻を冷然と見下ろしている。それなのに、妻がじっとしていられたのはわずかな 時間だった。すぐに腰のざわめきが蘇り、両の足首の細かな痙攣が蘇った。
 妻の頸が前に折れて、赤嶺の胸板に額をもたせかけた。荒い息を漏らしている。
「どうした?」
「もう・・・無理なの」
「何のことか分からないな」
「意地悪・・・・」
 かすかに低い濁りを含んだ声で妻は言い、弱々しく頸を上向かせて赤嶺を見上げた。
「もういきそうなの・・・・」
 妖しいばかりに色白の胸乳が喘いだ。

 そのときになって、私はようやく部屋奥に足を踏み入れた。
 入ってきた私を見ても赤嶺は意外そうな顔をしなかった。一方で溶け崩れた表情をしていた妻は、私を見ても数秒間誰か分からないようにぼんやりとしてい た。やがて、瞳に光が戻り、同時に妻は顔を横に背けた。
「遅かったじゃないか」
 新たな煙草に火を点けながら、赤嶺が言う。
「お前と違って、こっちは仕事が忙しいんでね」
 憎まれ口を叩く私の耳に、ぶーんという耳障りな機械音が聞こえた。聞き覚えのある音。私は吊り上げられた妻の右足にまくられたスカートの奥を見た。淡い 陰毛が覗く仄暗いその部分に、黒光りする筒状の物体の後端があった。先端部分は妻のなかに埋まっている。
 バイブレータ。先程から赤嶺の云っていた「抜け落ちる」の意味が今、分かった。
「凄いだろ。こんな姿勢でもバイブを放さずにいられるんだ。名器というやつだね」
 笑いながら赤嶺は妻のスカートに手を伸ばし、ホックを外した。
 水色に白のストライプが入った夏らしいスカートがはらりと床に落ち、妻の雪白の下半身が剥き出しになる。不細工な淫具を咥えこんだそこは、絶え間ない機 械の刺激にふるふると震えていた。
「もういきそう―――らしい」
 吊り上げられた妻の下肢を撫でながら、赤嶺は私を見て言い、次に妻の顎に手をかけて正面を向かせた。
「そうだったな?」
 赤嶺に顔を押さえつけられ、こちらを向いた妻の視線はすでに宙を彷徨っていた。普段はほとんど汗をかかない彼女の額は今は汗ばんでいて、鼻頭から頬にか けて雪の日にかじかんだ子供のように紅に染まっている。
 何も言わなくても、妻が限界に来ていることは明らかだった。けれど、赤嶺はしつこく答えを要求する。
「違うの?」
 赤嶺の手が妻を揺さぶる。
 ―――もうやめろ。
 私の言葉が声になる前に、違いません、とうわごとのように妻が呟く。

 いきそう―――

「駄目だよ」
 気味の悪いほど柔らかい口調で、赤嶺は切り捨てた。
「まだ駄目だ。許さない」
 赤嶺は命令する。
 妻の身体がぐらりと傾く。
 胸元に垂れ落ちた汗の粒が、乳首の先からぽつりと落ちた。
「さて、ラウンジで一杯やらないか」
 何事もなかった顔で、赤嶺は振り返り、私を誘った。
 私は妻を見た。吊り上げられた妻の上半身は傾いたまま、乱れた髪が顔を隠している。苦し気な吐息。下半身だけが別の生き物のように、ひくりひくりと蠢く のをやめない。
「奥さんはこのままだよ」
 にべもなく、赤嶺は言う。
「・・・苦しそうだ」
「奥さんにはそれがイイんだよ。見ていて分からないか」
 魂の深奥まで見通すような目で、赤嶺は私を覗きこむ。
 その唇が動いた。
「―――お前と同じだよ」
  1. 2014/10/13(月) 11:59:38|
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卒業後 第17回

 手術が決まり、遼一が夏休みに入る頃を選んで、京子は入院した。

 京子が入院したその日、見舞いがてら病院から遼一を私の家へ連れ帰った。
「でも、久しぶりだな。伯父さんのお宅にお邪魔するのも」
 私の家のあるマンションへ向かう車の中で、助手席に座った遼一がぽつりと言う。
「少し前まではよく来ていたものだけどな。遼一も、お母さんもね」
「伯父さんの家、好きだよ。いつも綺麗だし。うちなんか母さんがテキトーだから、いつもけっこうごちゃごちゃしてる」
 言いながら眉をしかめて見せるその仕草は、言葉とは裏腹に母親の京子によく似ていた。15歳。まだ幼い少年っぽさも残っているとはいえ、この年頃の子供 には似合わない知性的な瞳をしている。顔立ちも両親のいいところばかり受け継いで、形良く整っていた。
「遼一はモテそうだな。学校の女の子にきゃーきゃー言われてるんじゃないか」
「きゃーきゃーって表現が古いよ、伯父さん」遼一は可笑しそうに笑った。「それに、そんなことないよ。だいたい、僕のほうも興味ないもん」
「女の子に?」
「そう。まだガキなのかな」
 この歳で自分のことをガキだと自己分析出来るガキはいないだろう。つまり、遼一は同い年の女の子では子供っぽすぎるように感じているのではないだろう か。―――余計なお世話だが。
「伯母さんは元気にしてる?」
「ん? 元気だよ。前と変わりない」
 言いながら、無意識にハンドルを堅く握りしめていた。
 窓の外を流れる初夏の木々の色が眩しい。
「懐かしいな。この辺りの景色」
 窓を開けて風を浴びていた遼一が呟くように言った。
「懐かしいというほどには昔じゃないだろう。最後に来たのは一年とちょっと前くらいじゃないか」
「15年の人生からしたら、一年前はけっこうな長さだよ」
 真面目な顔で遼一は妙な理屈を言う。私は思わず声を立てて笑った。

「お帰りなさい。―――お久しぶり、遼一君」
 私とともに自宅のマンションへ足を踏み入れた遼一に、妻は優しい微笑で出迎えた。

 妻の実家とも疎遠な私たちが唯一まともな親戚づきあいをしているのは、京子の家くらいである。近頃は間遠になっていたが、今でも妻にとって親戚の子供と して馴染み深いのは遼一くらいのものだ。遼一はバランス感覚に優れた聡明な少年だし、気持ちも優しい。私には決して言わないが、実は京子のことを苦手にし ているらしい妻も、遼一のことは好いていた。
「お久しぶり、伯母さん」
 遼一は挨拶し、それからさらに何か言いかけて言葉に詰まったようだった。妻を前にしてなんだかぎこちない様子である。いつも年に似合わない落ち着きのあ る子なので、その様子が逆に微笑ましかった。
「どうした、遼一? いつものお前らしくないよ」
 意地悪くからかうと、妻は私に向けて子供をたしなめるような顔をして、「あなた。遼一君はお母さんのことで大変なんですから・・・・」と言った。
「まったく今日はひどい暑さだな。冷たいお茶をくれないか」
「すぐご用意します。とりあえず早く居間に入って、涼んでください。遼一君にはジュースのほうがいいかしら?」
「ジュースがいいです」遼一が答える。

 夏の暑い盛りにクーラーの効いた部屋で涼むことほど、些細な幸せという言葉を実感する瞬間はない。
 ソファに沈み込んだ私と反対に、遼一は久々に訪れた部屋を懐かしそうにあれこれ眺めていた。
 ふと―――
「これ、何ですか?」
 遼一が指差したものを見て、私はわずかに動揺した。
「ん・・・・ああ、それは天橋立の模型だよ。天橋立は聞いたことあるかい?」
「京都の名所でしょ」
「そう、去年の夏に旅行へ行ったんだ」
「伯母さんとふたりで?」
「そう・・・だよ」
 最初はたしかにそのつもりだった。赤嶺という予定外の闖入者がやってくるまでは。
 そして―――あの旅行以後、赤嶺はずっと私たち夫婦の間にいる。

 飲み物を載せた盆を抱えた妻は部屋へ入ってくるなり、私の顔を見て頸をかしげた。
「どうしたの? 変な顔をなさって」
「いや―――別に」
 曖昧に言葉を濁しつつ、私は茶の入ったコップを受け取る。
「どうぞ、遼一君」
「ありがとうございます」
「そんなに気を遣わなくていいのよ」
 窘めつつ淡く笑う妻は、まるで歳の離れた優しい姉といった感じである。

 もしも私たちに子供がいたならば、彼女はどんな母親になっただろうか。
 歳よりずいぶん若く見えるとはいえ、妻もそろそろ30代の半ばに差し掛かる。これまで子供が出来なかった原因は私にあるのか、妻にあるのか―――それは 分からないが、本気で子供が欲しいと望むなら、すでに焦らなくてはならない時期である。
 私はといえば、子供はあってもなくてもよいという宙ぶらりんな気持ちでこれまでずっと生きてきて、未だにその気分を引きずっている。自分が子供を持つと いうことに現実感が湧かないのだ。
 妻は―――どうだろうか。彼女は欲しいとも欲しくないとも言わない。
 いや、一度だけ、それらしいことを仄めかしたことがあった。あれはそう、去年の夏休暇の旅行中のことだった。以来、妻は私に子供の話題を出したことはな い。
 あれは妻の本音だったのか。それともあのときの情緒的な不安感が言わせた言葉だったのか。
 判断がつかない。そして今さら、妻に聞くことも出来ない。
 今、妻はピルを服用している。
  1. 2014/10/13(月) 12:01:08|
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卒業後 第20回

 遼一がやって来てしばしの日が流れた。

 平日の昼間は自宅のマンションで妻と遼一ふたりきりだ。私以外の人間とふたりだけで生活することは今までの妻にはなかったことだが、それなりにうまく いっているようである。

 その夜、私は遅く家に帰った。
「遼一はもう寝た?」
「部屋にいます。まだ勉強しているのじゃないかしら」
 受け取った背広をハンガーにかけながら、妻は答えた。
「遼一君は本当に努力家で、勉強熱心で、見ていていつも感心してしまいます。本当は近くに勉強の分からないところを教えてあげられる人がいるといいので しょうけど。私にはとても無理だし・・・」
「あいつなら一人でなんとかするよ」
 あっさりと無責任な発言をする私。妻の瞳に少しだけ非難の色が映る。けれど、それを悟らせまいとするようにせかせかと動き、背広の皺を伸ばしてクロー ゼットに閉まった。
「・・・中学三年生ならまだまだ遊びたい年頃でしょうに、どうしてあんなに頑張れるのかしら」
 独り言を言うように、妻の背中が呟いた。
「遼一は昔から気を遣う子だったからね。自分のためというより、母親の京子の期待に応えるためにやっている部分が大きいんじゃないかな」
「無理をしている―――ということですか?」
「なんでそんなふうに極端にとるかな。遼一は賢いし、自分の力量をよく知っているようだ。期待に応えられる力が自分にあると思うからやっているんだろう」
「でも―――そうやって周囲の人も“あの人なら大丈夫”とばかり思いこんで、そのことが結果的に本人のプレッシャーになってしまうということもあると思い ます」
 私はようやく妻の様子が普段と違っていることに気づいた。いつになく感情を露わにしている妻。こんな妻を見るのは久しぶり―――ほとんど一年ぶりだっ た。
 私はしばし沈黙した。妻自身、自分がいつもと違っていることに気づいたのか、不意に暗い表情になった。
「―――ごめんなさい」
 小さく言って、妻は部屋を出て行った。

 私が帰ってくる少し前に湯をいれかえたらしい風呂につかり、ゆったりと四肢を伸ばした。
 風呂の中で考えた。
 遼一という名の日常が私たちの生活に入り込んでくること―――
 京子から息子を預かって欲しいと頼まれたとき、引き受けようと私が思った理由―――
 それは次第に崩れていく日常のバランス感覚を回復させようという、内面からの働きかけだったかもしれない。

 風呂を出て、寝室へ戻った。妻はすでに床につき、ぼんやりと天井を見ていた。何故だろう。近頃の私はこんなふうに物思いに耽っている妻を見るたびに、何 とも言えず落ち着かない気分になる。

 赤嶺とは6月に会ったきり、しばらく交流が途絶えていた。けれど、そんなことは無関係なのだ。彼の存在は常に私たちの日常に深く食い込み、非日常との境 界を曖昧にする。
 現実感が溶けてなくなっていく。これが赤嶺の言う私にとっての悦びなのか、私が心の底で望んでいたものなのか。それすらも曖昧にぼやけて、絶え間ないフ ラッシュバックが白刃のように私の脳裏に閃き、乱舞する。
 最後に会った神戸の夜、赤嶺に言われるままに私は妻を残し、部屋を出た。何ともいえない圧迫感でいっぱいの私とは対照的に、赤嶺は悠然とラウンジで酒を 飲み、普段そのままの口調で笑い、話した。
 ホテルの部屋へ戻った。妻は私たちが出て行ったときそのままの体勢で吊られ、失神していた。秘部に埋められていたバイブレータは、妻の意識がなくなると 同時に抜け落ちて床に転がっていた。周囲の床には大量の愛液が隠微に濡れ光っていた。
『どうも最近、失神癖がついたようで困るな』
 苦笑とともに赤嶺は言い、ようやくのことで妻の自由を奪っていた縄をフックから外した。妻の瞳が薄く開いた。『約束を守れなかったな』赤嶺はむしろ優し げな口調で言ったが、妻はもう何も考えられない様子で気だるげに頸を振った。そして、また瞳を閉じ、自分から赤嶺の頸に腕を回して口づけをした―――

 そのときの光景を思い出して、無意識のうちに低く呻いていた。傍らの妻が私を見た。
 腕を回して妻の胸に触れた。妻は目をドアのほうに向けた。遼一がいる、と言いたいのだろう。しかし、私は無視した。あくまでじっとしている妻の右手を 取って、私の股間に導いた。すでに熱を持っているその部分を握らせる。妻は黙ったままもう一度私を見て、2、3度まばたきをした後、諦めたようにゆっくり とその部分をさすり始めた。

 闇の中で白く冷えた手が私の欲望を撫でる。私の心を撫でる。妻はそのまましばし手の愛撫を続けていたが、私の硬度が最高潮に達したとき、ひっそりと躯を ずらして口に含んだ。

 横たわったまま私は、妻の頭が上下するのを見つめ、私の一部に妻の舌がからむのを感じた。奉仕、か。文字にすればなんと厭な言葉だろう。しかし、今、私 は妻に奉仕させている。赤嶺の顔が闇に浮かぶ。あの男はセックスの始まりと終わりに必ず妻に奉仕をさせる。

 苦しいのがイイのだ、と赤嶺は言った。妻に対する赤嶺の責めはどんどん激しくなる。赤嶺に責められているときの妻は本当に苦しそうで辛そうで、普段の彼 女にはありえないくらいに泣き叫ぶこともあって、私のほうがしばしば怖くなる。でも本当に怖いのは、その苦しみから解放され、赤嶺の手によって高みを極め るときの妻の貌である。吊り上がらんばかりに見開かれた目、ひくひくと痙攣する鼻孔。その瞬間、現世との繋がりがふつりと切って落とされたように、妻の顔 は妖しいような微光にかがやき、さっと色づく。相が変わる、とはあんな状態のことを言うのだと思う。私はとても不安になる。そのまま妻が赤嶺とともにどこ かに消えてしまうのではないかという、ありえない妄想の虜になる。そのくせ、肉体のほうは猛っている。天上人と化す妻とは裏腹に、私は徹底的に地べたを這 いずりまわっては、いつまでも乗りこなすことの出来ない矛盾の泥のなかで濁っているのだ。

 横たわったまま手を伸ばして妻の顔に触れた。私を咥えたまま、黒目がちの瞳が私を見つめる。この瞳を同じような体勢で赤嶺はもう何度も見ている。私は強 い憎悪を感じる。そして今この瞬間、その憎悪の矛先は赤嶺ではなく妻を向いていた。
 妻を引き寄せ、強引に服を脱がせる。妻は必死な目でドアの外を見て「駄目」と言う。けれど私の意識にすでに遼一の存在はなかった。無理やりにネグリジェ をまくりあげ、ショーツをずらして妻の中に指先を入れた。
 花びらをかきわけ、幾重にも折り重なった花層をまさぐる。妻の身体はどこもひんやりとしているのに、この部分だけはいつも熱い。
 赤嶺に抱かれるようになって、妻の躯は変わっていった。私に抱かれるときも、どうしてこんなに感じているのだろう?と不思議になるくらいの反応をしばし ば見せるようになった。時には愛撫を少しして、挿入した瞬間に達してしまうことがある。こんなに異常なほどの感度でありながら、赤嶺とのときは簡単に気を やらせてもらえない。常に昂りをコントロールされ、とろ火で炙られるような状態に留められる。妻にとってはそれだけで拷問めいた感覚であるようだ。逆に言 えばその繰り返しが、今の妻の感じやすさに繋がっているのかもしれない。

 今も妻は緊張した状態にありながら、性器に触れる私の指に敏感に反応して、冷静さを失いつつあった。声を出せない状況で、息ばかりが荒く、熱くなる。そ して私の身体の上に折り重なるように崩れた。

 息を喘がせながら、妻は垂れ落ちた前髪をかきあげた。私を非難するような、哀しんでいるような漆黒の瞳。どうしてそんな顔をするのだろう。
 こんなに感じているのに。
 不可解な怒りを覚えながら、妻を裏返してのしかかり、挿入した。私のそれがはいった瞬間、妻の喉がくうっと鳴った。もう十分に妻のそこは溢れていた。熱 い肉の襞がからみつく。肉の輪が私をぎゅっと締めつける。私たちは繋がっていた。
 叩きつけるように腰の動きを繰り返した。妻の顔が歪み、がぶりと私の肩に噛み付いた。声をあげないための必死の策だった。それでも私は獣の動きをやめな い。妻の歯が食い込み、気をやる寸前で最も深くなってから、がっくりと離れた。

 暗い室内にはぁはぁという息の音のみがこだまする。
 妻は意識を失って、シーツの海に沈みこんでいた。

『どうも最近、失神癖がついたようで困るな』

 闇の中から男の声がする。
 妻の歯型がついた肩口から、血が流れていた。
  1. 2014/10/13(月) 12:02:32|
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卒業後 第19回

 虚空から手が伸びている。
 ―――白い手が。
 私に向かって伸びている。
 救いを求めるように。

 私はその手を握り返さなければならないと思う。
 私はその手を握り返さなければならないと思う。

 けれど石の彫像と化したように、私はその場から動けない。
 いや、本当はそうではなく―――


 ―――私は目覚めた。
 眼前に妻の顔があった。私をじっと見ている。
「・・・おはよう」
 昨晩の気まずさを押し殺しながら、私は努めて普段の口調で言った。
「おはようございます。・・・それ」
 妻は私の肩先についた傷を指差した。
「私が・・・噛みついた傷ですか?」
「気にしなくてもいい。俺が悪いんだ」
「本当です。あなたが悪いんですよ」
 つんとした口調で妻は言い、腰を上げて部屋から出て行ったが、すぐに救急箱を抱えて戻ってきた。
「もう傷は塞がってるよ」
 私の言葉を無視して、妻はベッドに上がりこんで消毒液を浸したガーゼを傷口に付けた。
「沁みますか?」
「いや」
 妻の髪の香りがする。
 その香りに誘われるように、ついさっきまで見ていた夢の中の光景を思い出した。
 あれは幻想でも何でもない。
 去年の夏、天橋立の宿で現実にあったこと―――なのだ。
「早く顔を洗って支度しないと、会社に遅れますよ」
 ガーゼを絆創膏でとめて、妻は立ち上がる。
 もう一度、私の顔を見た。
「どうかしましたか?」
「ん・・・何でもない」
「そう。早く起きてくださいね」
 出て行く妻の後ろ姿を見送りながら、私は起き上がった。

 リビングには遼一の姿があった。
「おはよう、伯父さん。―――眠そうだね」
「おはよう。遼一は朝に強いな。昨夜は何時ごろに寝たんだ?」
 ダイニングテーブルに皿を並べていた妻が、ちらりと私を見た。
 遼一はけろりとした顔で「分からないな。伯父さんの書斎、時計がないもの。でもそんなに遅くじゃないよ」と答えた。その顔を見るかぎり、昨夜私と妻の間 に起きたことには気づいていないらしい。
「いちいち時間を気にする生活が嫌いでね。時計はあまり置かないんだ」
「僕も嫌いだけど、学校の試験には制限時間があるからね」
 大人びた表情で遼一は答え、立ち上がって妻を手伝いだした。

 夏の盛りに外回りの仕事はこたえる。
 取引先の会社から一歩出た途端に額に浮き出した汗を拭って、駐車場に停めた車へ急いだ。むし暑い車内に入り、クーラーのスイッチをひねる。
 吹き出す冷気が身体の正面ばかりを冷やす。

 来月はもっと忙しくなるだろうな。

 私は思い、憂鬱な気持ちになった。九月には転勤―――といっても短期だが―――があるので、来月末は現在の仕事の引継ぎも含め、雑務に追われることにな るだろう。
 それに―――片付けなければならない問題は、仕事だけではない。

『試験には制限時間があるからね』

 ふと今朝の遼一の言葉を思い出した。ちょうどそのとき、懐の携帯が鳴った。
 赤嶺だった。
「今、大丈夫か」
 低く艶のあるバリトンが耳元に響く。
「ああ。何だ?」
「第一声から不機嫌そうな声で迎えてくれてありがとう。このところ無沙汰していたから拗ねているのか」
「勘違いもはなはだしい推理だな」
「そうかね。奥さんに関しては的外れでもないんじゃないのか? 俺に会えなくて淋しがってはいないか?」
「・・・あいにくだが、普段お前の話なんかしないよ、俺たちは」
「ふうん。相変わらずの夫婦ごっこを続けているってわけか。奥さんも大変だね」
 夫婦ごっこ。
「何が―――言いたいんだ?」
「別に。言葉のアヤだよ」
 あっさりと赤嶺は答える。
「無駄話をしている時間はないから切るぞ」
「今年の夏休暇の話をしたい」
 私が吐き捨てた言葉にかぶせるように、赤嶺は話を切り出した。
「夏休暇?」
 私は口中の唾を飲み下した。
「ああ。信州に行くという話だったろ」
「―――その件だが」私は低く言った。「悪いけど、キャンセルにしたいんだ」
「どうして? 急な仕事でも入ったか」
「違う。お前には言っていなかったが、今、甥っ子が家に来ている。あと一ヶ月は家にいる予定だ。だから家を空けられない」
「甥っ子はいくつ?」
「15歳だ」
「なんだ。そんなに大きいなら家に大人がいなくても平気だろ」赤嶺は呆れたように言った。「15歳といえば盗んだバイクで走り出してもおかしくない歳だ ぜ」
「面白くもない冗談だな。―――そんなわけにはいかない。妹の息子を預かっている以上責任があるんだ」
 赤嶺はしばし沈黙した。
「―――怖いのか」
 不意に受話器から飛び出してきた言葉に、私は思わず「えっ?」と声を上げた。
「今頃になって怖くなってきたのかね。このまま俺たちの関係を続けていくことが」
「・・・・・・・」
「だから、わざわざ甥っ子のことを持ち出して旅行をとりやめにしたいんだろう」
「違う。そうじゃない」
 声を荒げる私に動じる様子もなく、受話器の向こう側から赤嶺の含み笑いが聞こえる。
「そうかね。何ならお前が残って、奥さんだけ旅行へ来ればいいさ。後でたっぷり話を聞かせてやるよ」
「ふざけるな。俺の休暇中の話だぞ」
「だからってお前と俺で二人旅してもしょうがないだろ」
 くすくすと赤嶺はまた笑った。
「それにしても煮え切らない男だよ、お前」
「・・・・・・・」
「それに肝心なところでどこか抜けているのも昔からだな」
「―――何が言いたいんだ」
「別に旅行の機会などとらえなくても、俺は会おうと思えばいつでも奥さんに会えたんだぜ。今までずっと」

 携帯を持つ私の手が震えた。

「お前は疑問に思わなかったのか?」
「・・・何を?」
「奥さんのカラダのことだよ」
 妻の、カラダ―――
「どんどん感じやすく、ちょっとした刺激でもすぐにオルガスムを迎えやすくなっているだろ?」
 昨夜の妻を思い出す。
 肩の傷が―――疼く。
「月に1、2度の俺とのオアソビ。それだけで女のカラダがああも変わるものだと思うか? 不自然だとは思わないのか?」
 それはつまり―――
「会って―――いたのか? 妻と」
 私のいないところでも。
 そんな―――
「そんなバカな、と思うか? 奥さんは今でもお前を愛していて、お前のことを決して裏切らないと信じているのかね。それはムシのいい話だな。今までさんざ ん奥さんを裏切っておいて、それでも向こうから裏切られることはないなんて」

 ―――私はあの白い手を握り返さなかった。

「あの奥さんのことだ。お前に愛想を尽かしていても、露骨に態度に出すことはないだろう。だけど、お前だって感じていたのじゃないか? 奥さんの変化を」

 ―――この一年、妻は私の前で感情を露わにすることがほとんどなくなった。

「お前の前ではそうかもしれない。抑えているんだろうな。俺と二人だけのときは泣いたり怒ったり、もっと人間らしいよ。俺相手じゃ変な見栄も遠慮も通じな いからな。―――どーせ、もうとっくにすべて見られているんだし」
「――――――」
「俺もそんな奥さんのほうが好きだよ。生身の女って感じでね。可愛くて可愛くてもっと苛めてやりたくなる。お前がいるときも最近はいい声をあげるように なったけど、本当はあんなものじゃない。ずっと激しいのさ。一度昂るととめどないんだ。そんな情態になってしまえば、どんなことでもしてくれるし ね。・・・実際、可愛い女だよ、奥さんは」

 もうやめてくれ。

 心の叫びは声とならず、言葉は私の胸で死に絶えた。
 私が黙ると、赤嶺もまた黙った。
 そのまま一秒、二秒と時間が過ぎる。
 不意に―――
「どうだ。今の話は楽しかったか?」
 そんな声がした。
「冗談だ、冗談。嘘っぱちだよ。お前に隠れて奥さんと会ったことはない」
「・・・・・・・」
「冷や汗でもかいたか。急に黙りこんじまって。相変わらず、すぐに騙されるな」
「―――心臓に」私はようやく胸の奥から声を引っ張り出した。「心臓に悪い冗談を言うな!」
「おおげさな奴だな」
 また、くっくっと赤嶺は笑った。
「さて、俺もそろそろ仕事に戻らなにゃならん。話が脇道に逸れちまったけど、信州行きのこと、考えておいてくれ」
 じゃあな、と赤嶺は言い、それから最後に付け足した。
「甥っ子の遼一君にもよろしく言っておいてくれ。せいぜい受験勉強を頑張ってくれとな。俺のような大人にならんように」

 電話が切れてからも、私はしばらく呆然と車の座席に沈み込んだ。
 言葉にならない違和感が私を覆いつくす。
 今、赤嶺は何と言った?

『遼一君』『受験勉強』

 なぜ―――あいつが遼一の名や受験のことまで知っているのだ?

 最後に赤嶺に会ったのは、遼一がまだ家に来ることが決まっていなかった頃で、それ以前にも以後にも遼一のことを話題にしてはいない。
 けれど、あいつは知っていた。知っていながら、とぼけていたのだ。
 知らず知らず肩の傷を押さえていた。今朝、ベッドの上で妻はその傷をガーゼで覆い、絆創膏でとめた。私は静かに身を任せて、妻の流れるような黒髪を見て いた―――

 誰かが遼一のことを赤嶺に話した。そして、その誰かとは妻以外にはありえない。
  1. 2014/10/13(月) 12:03:39|
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卒業後 第20回

「伯父さんの家、夕食の時もテレビつけないよね」

 あらかじめ食べやすい大きさに切られたハンバーグをフォークに突き刺しながら、遼一が呟くように言った。
「そうだな。昔からあまりテレビを見る習慣がなくてね」
「うちではいつもつけてたよ」
「見たい番組があれば見てもいいのよ」
 妻が穏やかに口を挟んだ。
 その横顔を盗み見るように、私は見つめた。
 昼間の赤嶺との電話が、私に重くのしかかっていた。
「ううん、僕もあんまりテレビは好きじゃないんだ。母さんは暇さえあればごろごろしてテレビ見てるけどね。僕よりも流行りモノに詳しいよ」
「京子は昔からそうだったよ。ちょっとミーハーなところがあるんだ」
「気持ちが若いのよ。いいことだわ」
 咎める目で私を見ながら、妻がたしなめた。

 ―――俺は会おうと思えばいつでも奥さんに会えたんだぜ。今までずっと。

 こくりと喉が動いた。

「伯母さんだって若いよ」
 遼一が言った。奇妙なほど真面目な顔で。
「ありがとう」妻は言って、気羞ずかしげに少し笑う。
「伯父さんもそう思うでしょ?」
「―――そうだね。思うよ」
 妻は何を言っていいのか分からないふうで、黙って箸を動かした。
「だから伯母さんももっと自信を持って、ずんずん外へ出て行って、色んなことに挑戦すればいいと思うよ。母さん、普段はあんなだけど、あれで行動的なん だ。最近じゃ韓流ドラマの影響で韓国語を習ったりしてる」
「それは初耳だな」
 私の呟きに遼一は照れたように笑って、別に伯母さんがハングル覚える必要はないけどね、と言った。
「何だっていいと思うんだ。母さんだってハングル講座行きながら、その実、そこで知り合った人とお喋りして帰ってくるだけだったりするし。でもそれはそれ で楽しいことだし、意味もあると思うよ」
 普段の冷静な彼には似合わない熱っぽい調子で語った後、遼一は若干気まずそうな顔になって「生意気言ってごめん」と謝った。
「そんな・・・・謝ることないのよ」妻は愛しげに遼一を見つめた。「ありがとう。気を遣ってくれて。本当に、遼一君は私なんかよりよほどしっかりしてる わ」
「まぁ、伯母さんが昼間外出するようになると、伯父さんは心配事が増えるかもしれないけどね」
 冗談めかした口調で遼一は私に向かっておどけて見せた。邪気のないその笑み、その言葉に、しかし私は短剣で背筋を撫でられたような心地を感じていた。

 妻が台所で後片付けをしているタイミングを見計らって、私は洗面所へ行った。
 遼一が歯を磨いている。
「ごめん。もうすぐ終わるから」
「急がなくていい」
 私はゆったりと壁にもたれた。
「―――さっきの話だけれど」
「え?」
 正面の鏡越しに遼一が私の目を見た。
「いや、伯母さんは昼間、特に外出したりすることはないのか?」
「うーん、僕も最近は午後から図書館へ行くことが多いからその間は知らないけど、たいていは家にいるんじゃないかな。買い物とか何か用事がないと、外出は しないように思うけど」
「そうか」
「家にいるときは四六時中掃除したり、あれやこれやマメに働いているけどね。よくあんなにやることを見つけだせるなって感心するくらい」
 遼一は笑った。
「感心するけど―――思うんだ。タイプが違うから母さんみたいに、とは思わないけど、伯母さんももう少し人生の楽しみみたいなものを味わってもいいんじゃ ないかって。・・・人生経験15年の分際で、また生意気なこと言っちゃったけど」
 笑ってはいたが、遼一の目は真剣だった。彼は本気で妻のことを心配し、妻のためによかれと思うことを口にしている。
 しかし、対する私はどうだろう。自分に隠れて妻が赤嶺に会っているのではないか、という疑惑にとり憑かれて、汲々としている私―――
 そのあまりにも決定的な差が、私をひどく孤独な気持ちにさせた。

「今晩の夕食、あまりお箸が進んでいなかったようですけど・・・」
 寝室の鏡台の前に座り、櫛で髪を梳きながら妻がぽつりと言った。
「・・・食欲がなくてね。夏バテかな」
 ベッドに寝転がったまま、髪を梳く妻の後ろ姿を眺め、私は答える。
 目に映る妻の背は頼りないほど細く小さい。結婚した当初からその印象は変わらない。もう何年も、私はこの場所から妻の背中を眺めてきた。けれど、今ほど その距離が遠く感ぜられたことはなかった。
 遼一の話では、妻は普段からあまり外出はしないとのことだった。それは私の印象と合致する。けれど、遼一は妻のすべての行動を見ているわけではないし、 私のほうはもっとそうだ。
 赤嶺は知るはずのない遼一のことを知っていた。誰から聞いたかと言えば、妻からでしかありえない―――のだ。

 
 ―――奥さんは今でもお前を愛していて、お前のことを決して裏切らないと信じているのかね。

 ―――それはムシのいい話だな。


 分かって―――いるさ。
 胸の内で吐き捨てる。私はあまりにも自分勝手な夫だった。優しいフリを装っては、自らのエゴを妻に押し付けてきた。
 それでも、今まで妻は静かに―――諦めたように―――私についてきた。
 鏡の中の妻の顔を見る。無心に髪を梳る妻の顔。いったい何を考えているのだろう。私には分からない。


 ―――お前の前ではそうかもしれない。抑えているんだろうな。俺と二人だけのときは泣いたり怒ったり、もっと人間らしいよ。


 私にはとうに見せなくなった表情を、あいつの前では見せているのだろうか。妻の心の中、かつて私がいた部分に今はあいつがいるのだろうか。
 妻に聞きたかった。ただ、聞きたかった。
「食欲がないのなら、明日はお素麺にしましょうか」
 独り言のように、妻の背中が呟いた。
  1. 2014/10/13(月) 12:04:58|
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卒業後 第21回

 翌日の夜のことである。いつもよりも早い時刻に私と妻は床についた。

 眠れなくて、傍らの妻を見ると、彼女はすでに目を閉じていた。安まらない心を抱えながら、私は暗闇に仄白く浮かび上がるその顔を見ていた。
 身体が疼いた。
 手を伸ばし、私はネグリジェの胸に触れた。妻が目を開け、咎めるように私を見る。かまわずに胸をさわっていると、妻は身を起こし、一昨日の晩のように私 の性器に指を絡め、ゆったりとさすった。
「それじゃ駄目だ。今日はしたいんだ」
 私は妻の手から身を離し、ベッドの上で彼女と向き合った。
 妻は額に垂れ落ちた髪をかきあげながら、頸を横に振った。
「無理言わないでください。遼一君がいるんですよ」
「遼一が来てからろくにしていない。苦しいんだ」
「だから、手と口で・・・」
「君を抱きたいんだ」
「また肩に傷が出来ますよ」真面目な顔で妻はそんなことを言った。「今度はもっと深く」
「・・・瑞希は欲しくなったりしないのか。それとももう間に合っているのか」
「何のこと・・・・」
「時々、俺に隠れて、赤嶺と会っているだろう」
 私の言葉に、妻の瞳が光った。
「おっしゃる意味が分かりません」
「赤嶺がそう言っていた」
「嘘です。私は会っていません」
「だが赤嶺は、君から聞いたとしか思えない話をした。あいつが知っているはずのない話を」
 暗闇でも妻がすっと目を逸らしたのが分かった。今夜、はじめて見せた動揺の表情だった。それを見てとって、私の心も揺れた。
 こわばった口が勝手に言葉を紡ぐ。
「それならそれでかまわないさ。瑞希があいつと会おうが何をしようが、俺は咎めたりしない。最初に君を引きこんだのは俺だからな。咎める資格などないのは 分かっている」
 先回りしてそんなことを言ったのは、こんなときでも夫としての余裕を保っておきたいという滑稽な見栄からだったか。
 本心とかけ離れた台詞を吐きながら、自らの小ささと醜さに、私は深く絶望した。
 しばらく後―――
「とがめない、何も言わない、というのは、もう私のことを妻と思っていないからですか?」
 はっとするほど強い声がした。
 妻が真正面から私を見ていた。
「君のほうこそ、もう俺のことを夫だと認めてはいないのだろう。一年前からずっとそうだったのじゃないか」

―――奥さんは今でもお前を愛していて、お前のことを決して裏切らないと信じているのかね。

 白い手の幻影がちらつく。
 深い失望をたたえたあの瞳の色も。

「なぜあなたがそんなふうに言うのか分かりません。それならばどうして今も私はここにいるのですか?」
「義務感―――だろう。それとも同情か」
 どちらでも同じことだ、と私は吐き捨てた。つもりにつもった想いが自然に言葉となって出てきていた。
言ってはならぬことだと知りながら。
 妻は黙った。
 おそろしいような沈黙の時間が過ぎる。
 やがて何も言わずに妻は立ち上がり、静かに部屋を出て行き、朝になっても戻ってくることはなかった。


「伯父さん、寝不足じゃない。目の下の隈がすごいよ」
 リビングに行くなり、遼一が目を丸くして行った。
「そうかね」
 つづけて私は何か言い訳をしようとしたが、うまく言葉が見つからなかった。
「今はお仕事のほうが忙しいのよ、伯父さんは。再来月からは東京へ行かなくてはならないし」
 やわらかい口調で、妻がさらりと言った。
 思わず妻の顔を見たが、彼女はその視線にこたえずに朝食の支度をつづける。
 かつての妻は人前で演技を出来るようなタイプではなかった。しかし今は、遼一に私たちの間の軋轢を感じさせまいという気持ちからであるとはいえ、私より もよほどうまく嘘をつく。そう思った。
 妻もまた眠っていないはずなのに、その顔色はいつもと変わらない。彼女の演技は完璧で、遼一が何も気づかないのも道理だと言うべきだった。
 考えてみれば、この一年彼女はずっと演じつづけていたのだ。定期的に赤嶺に抱かれるという非日常的な生活を送りながら、私の前では以前と変わらない貞淑 な妻でありつづけた。それはリセットのようなものだったかもしれない。結婚当初の無機質なまでに「よき妻」であった彼女。夫に対して愚痴も言わず、弱みも 見せない妻に、私は次第に寂しさと苛立ちを感じるようになっていったが、この一年間の妻はあの頃の妻によく似ていた。
「やっぱり寝不足だね、伯父さん。会社、大丈夫?」
 ぼんやりとしている私をのぞきこんで、遼一が心配そうな声を出した。
  1. 2014/10/13(月) 12:08:26|
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卒業後 第22回

 その日仕事を終えてから、私は赤嶺との待ち合わせで使っている「コラージュ」という店に行った。

 赤嶺はいつものようにすでに来ていて、現れた私を見て片手を上げた。
「相変わらずしけた顔してるな。この世の中に楽しいことは何もないのか」
グラスを揺らしながら、赤嶺はのぞきこむような目で私を見た。私はその視線を手で邪険に振りはらった。
「今はくだらん話をする気分じゃないんだ」
「ほぉ。じゃあどんな話がしたいんだ」
「・・・・・・・・」
「今日、奥さんと話したよ」
 何気ない世間話のような声で言った赤嶺の言葉に、煙草に火を点けようとした私の手がとまった。
 妻とはここ2、3日、ろくに会話をしていない。遼一の前では仲の良い夫婦を装いながら、ふたりきりになると私たちの声は途絶えていた。
「けんかをしたそうだな」
「――――――――」
「この前俺が言ったこと、あれはすべて冗談だと言ったろう」
「嘘をつくな。お前は知るはずのないことを知っていた。瑞希から聞いたとしか思えないことを、今だって」
「ああ、奥さんから聞いたさ。電話でな」
「電話・・・・・」
「時々、電話で奥さんと話していた。それはたしかだが、会ってはいない」
 赤嶺の態度はいつものように超然としていて、少しの動揺も見えない。ということは、この男が真実を語ろうが嘘をつこうが、私には決して見抜けないという ことだ。
「―――いつからだ?」
「ここ半年のことかな。最初は俺からかけていた。今は半々かな。奥さんからかかってくることもあれば、俺からかけることもある」
「瑞希と何を話す?」
「尋問かよ。―――プライベートなあれこれについてさ。奥さんはあれでかなり孤独なひとだからな。お前のほかにはろくに話し相手もいないだろ。相談したい ことがあっても、お前以外には誰もいない。悩み事を打ち明ける相手もいないんだ」
 もともと寡黙な妻だが、この一年で私に何か相談事をした記憶はない。それは私たちの間に出来た距離をあらわしている。
 妻にとってその唯一の相手は赤嶺だったのか。
「わざわざ時間をつくって瑞希の相談相手になってやっていたとでも言うのか。いつからそんなにフェミニストになったんだ」
 プレイのときはあんなに苛酷に妻を責めるくせに―――
 言外に皮肉をこめた私の言葉を、赤嶺は涼しい目で受け流した。
「お前が何を考えているのか分かるが、それは見当違いもはなはだしいな。俺はどんなときでも、愛を持って奥さんに接している。奥さんだってそれは分かって いるさ。だから、あんなふうに応えてくれる。分かっていないのは、お前だけだ」
 赤嶺の激しい責めに、なよやかにくねる妻の裸身が脳裏に蘇る。
 徐々に快美の響きをつよめていく吐息が、聞こえる。
「それに肉体だけの関係なんて、いくら俺でもむなしいからな。奥さんが何を感じて、日々をどんなふうに生きているのか、知りたいのさ。最初はお前抜きで俺 と会話することに抵抗を感じていたようだったが、今はあれこれ聞かずとも喋ってくれる」
「・・・・・・・」
「奥さんはお前が思っているような女じゃないよ。感情はゆたかだし、たくさんの言葉も持っている。お前は奥さんを型にはめて、そのままのイメージでいて欲 しいのかもしれないがね」
「・・・・そんなことはない」
「そうかね」
 しらけたように短く言って、赤嶺はグラスに口をつけた。
 この―――眼前の男は、プレイのときには必ずと言っていいほど、妻の身体を縄で縛る。己が身の自由を奪われ、乳房を卑猥な形に絞り出された妻をうつくし いと言う。
 一方でこの男は、私の存在が妻を縛っているのだ、と言外になじっている。妻が自由でいられないのは、私のせいであると言うのだ。
 何という矛盾。しかしその矛盾を矛盾でなくしているのは、妻が赤嶺相手に電話で内心を打ち明けていたという事実だった。そしてその事実こそが私を苦しめ た。
 そんな私に、赤嶺は容赦なく追い討ちをかける言葉をつづけた。
「そうそう。奥さんと電話で話したときに、あらためて信州行きのことを聞いてみた」
「・・・・・・・・」
「行ってもいいそうだ。もちろん、お前が留守を預かることを前提で」
 薄暗い店内に、赤嶺の瞳がきらりと光っていた。

 その晩はあまり遅くならずに家に帰った。
 寝室の衣装棚に背広をしまっていると、妻が後ろから声をかけてきた。
「お夕食はもういいんですよね」
「ああ。外で食べてきた」
「赤嶺さんと」
 振り返ると、ベッドに腰掛けた妻が私を見上げていた。
「何もかも、お聞きになったのでしょうね」
 しんとした声音で、妻は呟くように言った。
「何もかも、とはおおげさだな」ぱたんと棚を閉めて、私は真正面から妻に向き直った。
「知らなかったことを知っただけだ」
 妻が考えこむような目で私を見つめる。
 その表情は何かを待っているようにも見えた。
 だが、私には分からない。妻が何を考えているのか分からない。
 いつからこんなふうになってしまったのだろう。


 ―――奥さんはお前が思っているような女じゃないよ。


 ふと気づくと、妻が泣いていた。
 なぜ、泣いているのだろう。
 私には分からない。
 分からないままに、妻の肩にそっと手で触れた。その手を邪険にはらって、妻は両手で顔をおおった。
「あなたが―――分からない」
 薄紅の唇がうごいて、そんな言葉を紡いだ。
 分からない?
 それは、私の台詞だ。
「瑞希―――」
「私、赤嶺さんの旅行のお誘いを受けました。それもお聞きでしょう?」
「・・・・ああ」
「それでも、あなたはとがめない」
 こんな妻を、と妻が言う。
 とがめたくないわけじゃない。とがめられないのだ。私にはその資格がないから。もうずっと前にその資格をなくしてしまっているから。
「―――俺に何を言ってほしいんだ?」
 苛立ちを含んだ声で、私は低く怒鳴った。ほら、私はこんな間抜けな言葉しか口に出せないのに。
 涙で濡れた瞳が私を睨んだ。
「何も言って欲しくなんかありません」
 きっと睨んだまま、妻は全身で私を見上げていた。
 妻の唇がふるえながらうごくのが見えた。
「わたし、赤嶺さんのことが好きです」
 好き、あなたよりもずっと好き、とむしろ童女のようにあどけなく聞こえる口調で妻は言葉をつづけた。


 あのひとはわたしのはなしをきいてくれる、わたしのいうことをちゃんとわかってくれる、わたしをわかってくれる―――


 うわごとめいた口調で、妻の唇からぽろぽろと言葉が零れる。


 その通りだ。私には分からない。君のことが分からない。今では赤嶺のほうがずっとよく分かっているんだろう。でも、それは君が何も言ってくれなかったか らだ。私に対して本心を語ってくれなかったからだ。すべて私のせいばかりにしないでもらいたい。けれど、ああ、いいさ。結局は君が正しい。私はどうしたっ て君をとがめられないのだ。なぜなら、先に裏切ったのは、何度も裏切ったのは私だからな。あの夜、差し出された白い手を握らなかった瞬間から、私は決定的 に間違ってしまったのだ。


 濁流のように脳内に乱れた感情があふれる。けれど、その感情は胸の内でくすぶりつづけ、喉を通過するうちに灰となって燃え尽きてしまう。
 私は突っ立っている。無表情のまま、棒のように。やがて妻は落ち着き、或いは疲れてベッドに戻るだろう。私は彼女の傍らに身を横たえるだろう。何事もな かったかのように眠るのだ。世界で一番近い距離で。
 そして目覚めた後は、また遼一の前で演技をつづけるのだろう。妻はうまくやってのけるだろう。私もうまくやれそうな気がする。今なら。演技なら。
  1. 2014/10/13(月) 12:09:48|
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卒業後 第23回

 8月某日。私の夏休暇がはじまったその日に、妻は信州へ旅立っていった。

 出発の朝、私は仕事を会社に残してきたと偽って、妻よりも先に家を出た。
 出かけていく妻を見送りたくなかった。考えてみると、そんなことは今まで一度もなかった。私が出て行くばかりだったのだ。
 そして、妻はいつも家でひとり、私を待っていた。
「気をつけて―――行っておいで」
 玄関のドアを開く前に、ようやく私はそれだけ言った。妻がどんな顔をしていたのかは見ていないので分からない。近くに遼一がいたから、そういうときの常 で、伯母の顔で微笑んでいたのかもしれない。

 意図もなく車で街に繰り出し、目に付いたファミレスでコーヒーを飲んでいるとき、携帯が鳴った。
 赤嶺からだった。
「何の用だ?」
「特にこれといって用はない。今、家か」
「いや、今日は用事があって外へ出ている」
 なぜ、私はこの男にまで意味のない嘘をついているのだろう。
「お前こそいいのか? 悠長に電話なんかしていて」
「奥さんとの待ち合わせは昼過ぎだ。それも知らないのか」
「知っているさ」
「今頃は奥さん、俺のために化粧でもしているかな」
 思いついたように赤嶺が言い、私は唇を噛んだ。
「お前は俺にいやがらせを言うために、暇な電話をかけてきているのか」
「まさか」
 赤嶺は低い声で応じた。
「いやがらせというからには、奥さんが俺と旅をすること、お前はまだ腹の底では納得していないんだな」
「・・・・・・・・・」
「奥さんだって年がら年中お前とふたりきりの生活じゃあ、気分転換したくもなるだろう。それくらいの自由は許してやれ」
 この男はいつも自分のことを棚上げしておいて、妻のことを持ち出し私を責める。それが一番効果的なやり方だと分かっているから。
「・・・言っておくが、俺はもし瑞希が望むなら、何だって許すつもりでいる。いつだってね」

 なぜなら、私の我がままを、今まで妻は許してきたのだから。
 ずっと、長い間―――

「ふうん。もしも奥さんがお前を捨てて、俺のもとに走ることになってもお前は許すのか?」
 何気ない口調で言った赤嶺の言葉に、私は絶句した。


 ―――わたし、赤嶺さんのことが好きです。


 耳によみがえる声。

「冗談だよ。本気にとるな」
 くすくすと赤嶺はわらい、さて、俺もそろそろ出掛ける支度をしなけりゃな、と言って電話を切った。


 こうして妻のいない日々がはじまった。

 赤嶺の言ではないが、結婚して後、三日も離れ離れでいることなど今まで一度もなかったので、朝目覚めて、家の中のどこにも妻がいないことが、どうしよう もなくおかしなことのように感ぜられてしょうがない。
 腫れぼったい目をこすりながら、私はリビングで新聞を広げた。
「おはよう。伯父さん、今朝は早いね」
 きちんと身支度をした遼一が、現れるなり、驚いたような声を出した。
「何を言う。いつもこんな時刻に起きてるよ」
「起こされてる、でしょ。それに会社のない日は遅くまで寝てるじゃない」
「そりゃ・・・起こされないからだよ」
 私は顎のあたりを手で触りながらこたえた。ざらざらとした髭の感触がする。目の前の遼一の顎はつるつるとしていて、まだ髭の生える気配すらない。
 その髭のない顔が、私をのぞきこむように見た。
「伯父さん、淋しい?」
 私はしいて笑みをつくった。
「たかが三日間の留守で淋しくなるほど短い結婚生活じゃないよ」
 自らの吐く言葉を自分で信じられないことが、これほどうつろな気分にさせるものだと、眼前の少年もいつか知ることになるのだろうか。

 その日は朝、近所のファミレスでモーニングを食べた後、入院中の京子のお見舞いに行った。
 幸いにして、京子の体調は良さそうだった。
「昨日、主人とひさびさに電話で話したの。相変わらず仕事仕事で、女房の見舞いにも来ないなんていやあね」
 言いながら、京子の顔はけろっとしている。京子の旦那は明人という名の、寡黙で無骨な感じの男である。根っから明るくてお喋りな京子とは、それはそれで 相性がいいのかもしれない。
 離れてはいても妹夫婦は信頼感で結ばれている。そんな気がした。一方で、私たち夫妻はいつでも一緒にいたのに、互いに対する信頼感がある時期から欠けて しまったのだ、とあらためて思った。
「明人さんとうまくいってるんだな」
「え?」
「いや、京子の顔を見てたらそう思って」
「いやあね。子供の前で」
 いつの間に、「いやあね」が口癖になったらしい京子が、遼一の顔を見ながらびっくりしたような顔で言った。遼一が苦笑している。―――どちらが子で、ど ちらが親なのだか。
「兄さんはどうなのよ。義姉さんと、うまくいってるの」
「・・・まあ、普通かな。いまは旅行に行ってるけど」
「誰と?」
「昔からの―――友達と」
「せっかく兄さんの休暇中なのに?」
 わずかに非難する口調になった京子に、なぜか遼一が顔を上げて、「ほかに日が合わなかったんだから、仕方ないじゃない。伯母さんも申し訳ながってたよ」 と言った。
「―――まあ、そういうわけで、今だけは俺と遼一の気楽なふたり暮らしさ」
 後を引き取って、私は言葉を続けた。京子はどこか納得のいかない顔をしていたが、それ以上何も言わず、すぐに話題を変えた。


 不安で、孤独な三日間であった。こんな想いをして、私はいったい何をしているのだろうと思う。
 けれど一方で、昨年の夏に平凡な日常を捨て、誘惑的な非日常の世界に足を踏み出したそのときから、道はここに続いていたようにも感じる。そしてこの道が この先どこへ続いていくのかも分からない。
 “苦しいのがいいのだ”―――赤嶺お得意の論法ならそうなるのだろう。かつての私なら、その言葉にも納得させられる部分はあった。私の前で他の男に抱か れて、女としての未知の貌を見せる妻。二年前の奥飛騨でその妄想が現実と化してから、私はそのときの幻影にずっと縛られていた。思い出すたびに、胸が苦し くて苦しくて、それでいてどこかで昂っていた。
 あの頃はまだ、妻が私を愛していることに疑いを持っていなかった。妻が私からはなれずにずっと傍にいてくれる日常を、私は無邪気に信じていられた。
 しかし、昨夏の出来事をきっかけに、本格的にその道に踏み出してしまってから、現在にいたるまでに私と妻の心はばらばらに離れてしまった。そして、皮肉 なことにばらばらになってしまったからこそ、私は私の罪業を断ち切ることが出来ないでいた。
 そして、今、妻はどこかで赤嶺とともにいる。
 先に、孤独で不安な三日間と書いたが、この頃の私は、妻といるときでさえ、孤独であり不安でもあった。それは妻もそうだったのだろう。

 孤独な人間ほどスキだらけなものはない。

 昔読んだ海外ミステリにそんな一節があったことを思い出した。その小説には天才的なほど人心掌握に長けた犯罪者が出てくる。孤独な人間は彼の瞳に縛ら れ、その言葉に絡めとられる。そして、孤独ではない人間など、この世には存在しない。

 赤嶺が電話で妻の相談にのってやっている、と聞いたとき、私は焦燥感を感じ、嫉妬にも駆られたが、一方でどこか現実感を持てなかった。


 ―――奥さんはあれでかなり孤独なひとだからな。お前のほかにはろくに話し相手もいないだろ。相談したいことがあっても、お前以外には誰もいない。悩み 事を打ち明ける相手もいないんだ。
 ―――肉体だけの関係なんて、いくら俺でもむなしいからな。奥さんが何を感じて、日々をどんなふうに生きているのか、知りたいのさ。最初はお前抜きで俺 と会話することに抵抗を感じていたようだったが、今はあれこれ聞かずとも喋ってくれる。


 たしかに、妻には誰もいない。唯一近しい人間だった私とは、すでに心が離れていた。
 彼女には赤嶺しかいなかった。そして、赤嶺はそのことを知っていた。
 赤嶺は妻の孤独につけこんだのではないだろうか。


 ―――あのひとはわたしのはなしをきいてくれる、わたしのいうことをちゃんとわかってくれる、わたしをわかってくれる。


 子供のような口調で、あの夜、私に訴えた妻の姿が瞼によみがえる。

 妻の身体はいつの間に感じやすくなっていた。赤嶺の指が離れてからも、その感触が常に身体の内側に残っているかのように。
 そして、妻の心にも、私の知らないうちに、赤嶺の手指は入り込んでいた。


 ―――ただの遊びだよ。


 これはそう、赤嶺の口癖だ。

 私は頸を振る。いや、こんなことは嫉妬に駆られた男の妄想だ。妻は旅行に出掛けただけだ。二日後には戻ってくる。
 そして同時に、遼一の前では「公式」に仲良き夫婦として振る舞い、ふたりきりになると言葉を失ってしまうという壊れた生活も再び戻ってくるのだろう。
 けれど、それでもいい。今この瞬間よりはずっといい。そんなふうに思えてしまうのも、心の底で怯えていたからだろう。

 妻は本当に戻ってくるのか、と。
  1. 2014/10/13(月) 12:11:25|
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卒業後 第24回

 翌日は遼一を連れて、映画を見に行った。

 おなじみのアメリカンコミックを原作にしたこれまでにもたびたび映画化されているアクションもので、ひとりだったらまず見に行かない類の映画ではある。
「伯母さんとも映画に行ったりするの?」
 映画が終わり、近くのカフェでコーヒーを飲んでいるとき、ふと思いついたように遼一が言った。
「いや・・・・行っていないな。たぶん、一回ぐらいしか行ってない」
「そのときは何を見たの?」
「・・・・何だったかな、忘れてしまったよ」
 本当は憶えていながら、私はとぼけた。古い映画だから、もし正直にタイトルを口にしても、遼一は知らなかったかもしれない。
 私と妻が一緒に見に行った映画とは、『卒業』だった。妻が選んだその映画を、あの日、私たちは席を並べて見たのだった。
 妻はすでに何度も『卒業』を見ていた。ラストの主人公とヒロインの旅立ちのシーンを見るたび、哀しくなると妻は言った。私はといえば映画よりも、そう 語ったとき妻の顔に浮かんでいた何ともいえない哀切な表情のほうを、今でもより深く憶えているのだった。


 その晩、夢を見た。

 一台のバスが荒野を走っている。
 影絵のように不気味な感じのする乗客たち。一番後ろの席には、妻が座っている。あの映画と同じように、純白のウエディングドレスを着ている。
 乗客たちは一様に振り返り、ウェディングドレスを着た妻に好奇の目を向けている。妻はひどく不安そうな顔をして、両手を膝の上でかたく握り締めている。
 不意に、妻の傍らに座っていた男が彼女の肩に腕をまわし、細い身体を厚い胸板に引き寄せた。教会から彼女を奪って逃げた男だ。
 抱き寄せられた妻は、ほうっと安息の息をついて瞳を閉じた。ようよう我が家に辿りついた幼子のように、幸福そうに。

 違う、あの映画にはこんなシーンはなかった!

 私は叫んだ。
 不気味な観客たちが、今度は私を振り返る。スクリーンの前に立った観客にすぎない私を見つめる。

 私はひどく不快な気持ちになる。

 妻はまだ瞳を閉じたまま、私の声などまるで聞こえなかったように、男の胸にゆったりと身体を預けている。
 男が顔を上げて私を見る。

 今度こそ、私はおそろしい恐怖に灼かれた。

 男の顔は―――


 冷や汗をかいたまま、私は目覚めた。
 暗闇の中で、しばらく身動きが出来なかった。まだ、動悸がしている。
 なんだろう、今の夢は。
 まったく現実感のない夢なのに、一方でひどく生々しい感じがした。
 とても―――厭な夢だった。
 思わず、ベッドの隣を見る。もちろん妻はいない。いるはずがない。
 今、彼女は赤嶺とともにいる。赤嶺と同じ床にいる。夢と同じように、赤嶺の腕に抱かれたまま眠りについているのかもしれない。
 私は唇を噛み締める。
 寝ても、覚めても、私には現実感など戻ってはこない。いや、痛みというものが常にリアルな感覚であるのなら、私はいつだって現実の中にいる。


 明日、妻は帰ってくる。
 その最後の晩、私は遼一を連れて普段入らないようなレストランへ入った。
 店に入ってからも、遼一はしきりに申し訳ながっていた。天真爛漫なところのある京子に比べて、息子のほうは歳のわりにひどく遠慮深い。
「子供がお金の心配するものじゃないよ」
 諭すように私が言うと、遼一は真摯な瞳を私に向けた。
「それももちろんあるけど、伯母さんがいないときにこんな贅沢をするのが・・・悪いよ」
 なぜかは分からないが、その言葉に私は刺すような痛みを覚えた。ほとんど絶望的な気持ちにさえなった。
 けれど、遼一の手前、私は普段の表情をつくろった。
「伯母さんは気にしないよ」
「そうかもしれないけど」
 ウエイターがやってきて、その後の不自然な沈黙をさらってくれるまで、私はグラスの水を飲みながら耐えた。

 食事をしながら、私たちは他愛もない話をした。
 やがて、話は妻のことになっていった。
「伯母さんはあれでわりと人見知りでね。あまりひとと喋るのが得意じゃないほうなんだが、遼一には心を開いているようだ」
 栗鼠のようにくりっとした、けれどたしかな知性を感じさせる瞳で、遼一は私の言葉に耳を傾けている。
「いいことだよ。だから、遼一には感謝してる。うちにいる期間が過ぎても、時々マンションに来て、瑞希の話し相手になってやってほしい」
 まだこの世の穢れを知らないような、眼前の少年。
 彼なら、それが出来るだろうと私は思った。
 私には出来なくなってしまったことが、出来るだろうと。
「それは・・・もちろんいいけど」
 少し不思議そうな顔をして、遼一は答えた。
 言葉を続けようとして私が口を開きかけたとき、携帯が鳴った。

 赤嶺からだった。

 心臓の鼓動が一気に跳ね上がる感覚。

「誰からなの?」
 心配そうな声で遼一が聞いてくる。私の顔から血の気が引き、肌が粟立つ瞬間まで、この少年にはすべて見られてしまったにちがいない。
「―――いや、仕事相手だよ。ちょっと席を立つ。食事を続けていてくれ」
 かさかさに乾いた声で告げて、私は席を立ち、トイレへ向かった。

「どうした? 出るのがやけに遅かったじゃないか」
 いつもと同じ、低く落ち着いた赤嶺の声。
「外で、甥と食事をしているところなんだ」
「ふうん。かけなおしたほうがいいか」
「いい。どうせたいした用事じゃないんだろう?」
 こわばった声で、私は独り言のような問いをつづけた。
「明日、戻ってくるんだろう?」
 赤嶺はすぐには答えなかった。やがて、受話器の向こうで含み笑いがした。くつくつと。
「不安なのか? 明日、奥さんがちゃんとお前のもとへ戻ってくるかどうか」
「そうじゃない」
「ふん。お前も三日間、十分楽しめたようじゃないか」
 この男は何を言っているのだろうか。
「心配は無用だよ。明日、俺も奥さんも戻る。―――奥さんの声が聞きたいか」
「・・・いや、替わらなくてもいい」
 この状況で話すことなど、私にはとうてい思いつけそうにない。
 いつにもまして。
 だが―――

「誰も電話を替わるなんて言っていないさ」

 ひどく醒めた声音で赤嶺は言って―――
 それから、ふっとかき消えるように、受話器の向こうの声が途絶えた。

「赤嶺?」
 私の呼びかけにも応えない。しかし、電話は切れていない。静けさの中に誰かの―――おそらくは赤嶺の―――足音だけがかすかに聞こえる。

 やがて―――
 ぱたん、と扉の開く音がして。


「―――誰?」


 怯えたような女の声が聞こえた。
 久々に聞いた―――気のする妻の声だった。
  1. 2014/10/13(月) 12:12:46|
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卒業後 第25回

 寒くもないのに総身が凍りつく瞬間というのは、ある。
 周囲のすべての音が途絶えてしまう瞬間も。


 受話器の向こうから「誰?」と呼びかける妻の声が聞こえたとき、私はたしかにそんな感覚を覚えていた。


「―――俺に決まっているじゃないか」


 なまめかしいような声音で、赤嶺の囁く声がする。


「いったい誰だと思ったんだ?」
「分からない・・・」


 かすれたような妻の声はひどく頼りなかった。


「怖かった・・・こんな格好で置き去りにされて、目隠しまでされて・・・。はやく、はやく扉を閉めて」


 かつりと音をたてて、ドアの閉まる音がする。


「閉めたよ」
「カーテンも閉めて」
「おや、やっぱり憶えていたのか。でも、もう遅いかもしれないな」


 くぐもった赤嶺の笑い声。


「今日は城の近くで祭りがあると、昼間、聞いたろう? 浴衣を着て出かけてゆくひとたちを、何人も廊下で見かけた。ここの庭からなら打ち上げられる花火も よく見えるからね。涼みがてら庭に出てきて、開け放しの窓からこの部屋の中を見たひともあったかもしれない」


 ぎしぎしと何かがきしむような音がする。


「もしかしたら、誰かがフロントに告げ口に行っているかもしれないな。もう少ししたら、血相を変えた番頭が飛び込んでくるかも」
「いや・・・・」


 あえぐような声とともに、ぎしぎしという音が強くなった。


「はやくカーテンを閉めて。お願い」
「仕方ない」


 しばらくして、不意に、響くような高笑いがした。


「案の定だったよ。窓の外に誰かがいた。俺を見て慌てて走り去っていったけれど」
「いやいやいや!」


 悲鳴のような妻の叫び声は、すぐにすすり泣きに変わった。


「ひどい・・・・」


 涙まじりに責める声。
 返事の代わりにカーテンの閉まる音がした。

 
「何も泣くことはないだろう」
「死にたいくらい羞ずかしい・・・・」
「たしかに客観的に見れば、死にたいくらい羞ずかしい格好かもしれないな」


 茶化すような赤嶺の言葉に、妻がもう一度かすかに、「ひどい・・・」と呟いたのが、聞こえた。


「あなたがこんなにしたのに・・・・」
「瑞希が一番綺麗に見えるようにしただけだよ」


 妖しいほどやさしい口調だった。


「それに、さ―――」
「あ、いや・・・・」
「ほら、こんなにあふれている」


 くすくすという笑い声が、すすり泣きにかぶさる。


「これでも言い訳出来るのかい」
「・・・・ちがうの」
「何が、ちがう?」
「泣いたから、だから・・・・」
「ほう、泣くと濡れるのか。これは新発見だな」


 また、笑い声。


「すぐ、そうやって馬鹿にするの・・・・」


 恨むような、拗ねているような、妻の声。


「バカになんかしていないさ。面白い女だな、と思っただけだ」
「やっぱり馬鹿にしてる・・・・」
「違うと言っているだろう」
「はやく、目隠しを外して。怖いの」
「もう少し、このままだ。面白い女を写真に撮っておきたいんでね」


 写真―――

 電話越しの世界からあまりにも遠い場所で、その言葉の意味に、私が思いいたる前に―――


 かしゃり、というデジタル音がした。


「そんなに動くな。綺麗に撮れないだろう?」
「写真なんか撮らないで・・・・」
「もう何枚も撮らせてくれたじゃないか」
「あなたが言うから。無理に言うから。羞ずかしい写真ばっかり・・・・」
「現像に出すのが楽しみだな」
「いや!」
「冗談だよ。すぐにひっかかるな。これはデジカメだと何度も言っているじゃないか。現像には出さないんだよ」
「・・・どうせ、私は世間知らずな女です」
「その、拗ねた顔がいいんだ。目隠しで隠れているのが残念だがね。ほら、もう一枚」


 かしゃり。


 すすり泣きの声が大きくなる。


「また泣く。ということは、また濡らしているわけだ」
「意地悪ばかり言わないで・・・・」


 ふるえるようなその声は、たしかに妻のものなのに、私が一度も聞いたことのない抑揚と響きを持っていた。


「撮ってもいいから・・・・」
「え? なんだって」


 とぼけたように聞き返す赤嶺に、しかし妻は―――


「写真、撮ってもいいから」


 妻は―――


「だから、終わったらやさしくして。やさしく抱きしめて」


 まるで迷子が大人にすがりつくように―――


「抱きしめて。もうひとりぼっちにしないで」


 おねがい―――



 かつん、と耳障りな音がして―――
 私は、私がいた世界に引き戻された。


 たった今、私の手から離れ、落ちていった携帯電話が、トイレの床に転がっていた。
  1. 2014/10/13(月) 12:15:06|
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卒業後 第26回

「―――それで?」
「え?」
「それからの話が聞きたいの。つづきがまだあるはずでしょう? 奥さんが旅行から戻ってきて、さらにあなたたちのおうちからもいなくなるまでの話よ」

 はきはきした口調で言って、遠野明子は私をのぞきこむような目で見た。

 季節は12月。場所は東京荻窪のバー。
 私は二年半ぶりに彼女と再会し、つい先日の妻の失踪にいたるまでの話をしていた。

 突然、携帯に見知らぬ番号がかかってきて、出た相手が明子だったときは驚いた。つい先日、アパートに「彼」が訪れてきたときと同様、いや、それ以上の驚 きだったかもしれない。
 明子は特に用件は言わず、とにかく会ってほしいとだけ、言った。私は承知した。用件は言わずとも、どんな話になるのかは想像がついた。
 私にとって明子は、赤嶺とワンセットでしか考えられなかったし、そうである以上、話題が妻のことになるのは間違いがなかった。
 実際に会ってみると、案の定、明子は妻の失踪を知っていた。
 けれど、明子がどういう立場で、あるいはどういう気持ちで、今回の件にたずさわっていいるのか、いまいち分からない。ただ、前回の奥飛騨同様、赤嶺の片 腕としてことに関わろうとしている―――わけではなさそうだった。
 明子はとにかく話を聞かせてほしい、と私に訴えてきた。どういう経緯で現状にいたったのか、それを聞かせろ、と。
 私はすべてを話すことにした。
 なぜなら、私は心のどこかで予感していたから。
 明子はきっと妻の居場所を知っているのだ、と。

「ちょっと待ってくれ。長い話をして口がくたびれた。休憩させてくれ」
「いいわよ。煙草でも吸いなさいな。私にも一本分けてね」
 明子は言うが早いか、テーブルの上に投げ出されていたボックスから、煙草を一本抜き取り、火を点けた。
「私もくたびれたわ。煙草でも吸わなくちゃ、正直聞いてられない」
 形のいい唇に不釣合いなくらい、勢いよく紫煙を吐き出しながら、明子は鋭い目で私を見た。
「まったく・・・奥さんの意見に同意するわ。あなたというひとが私にはどうも分からない」
「・・・どのあたりが?」
「さあね。二年前の奥飛騨の件、あれは私も関わっているから、大きな顔で意見できないけど・・・。今から思えば大変なことに手を貸してしまったという気 分」明子は一瞬、ふっと暗い顔をしたが、すぐに気を取り直したように頸を振った。「そして一年前、あなたは赤嶺に誘われて、もう一度同じことを繰り返した わけでしょう」
 言った後で、明子はすっと透明な表情になった。
「―――いえ、同じではないわね。二年前は騙まし討ちのように奥さんとのスワッピングを計画したわけだけど、去年の天橋立は奥さんに直接、迫ったわけだか ら。赤嶺に抱かれるように」

 そのとおりだ。

 はじめて妻が他の男に―――赤嶺に抱かれた夜、あれはもう二年も前のことだが、そのとき私は妻が自分の一部であることをつよく感じた。同時に、どうしよ うもなく妻が自分とは別個の人間であることも。
 ひどい矛盾。倒錯した感情。しかし、あれほど妻への想いが高まった瞬間もなかった。たとえそれが綺麗な感情と呼べなくても。
 どれだけ時間が経っても、妻に泣かれても、結局私はその場所から動くことは出来なかった。選んでしまった。一年前、天橋立の宿で。

 あの夜―――天橋立の宿で、赤嶺は妻を抱いた。私はその一部始終を見ていた。部屋の片隅で。

 妻は昼間のうちに赤嶺に抱かれることを承諾していた。それは私と私の行いに対する許しだった。


 ―――許すも許さないもありませんよ。
 ―――夫婦・・・なんですから。


 涙の名残をとどめたまま妻はささやき、ひどく儚い顔でわらった。心中に抱えこんでいるはずの葛藤を必死でおしころしながら。妻はあのとき、どのような想 いで「夫婦」という言葉を口にしていたのだろう。

「そして、最後には奥さんもあなたの希望を受け入れた。その夜、赤嶺に抱かれたわけね。あなたの前で」
「それもそのとおり―――だけれど」

 けれど―――

 あのとき、予想外なことが起きて。
 私たちは―――ばらばらになった。

「何かあったの? その夜に」
 私の心中の屈託を見抜いて、明子が問いを投げかけてくる。


 あの夜は―――奥飛騨の宿の再現だった。

 さまざまに妻を責めた後で、赤嶺は一年前の夜と同じように、彼女を貫いた。
 同じ体位―――犬が繋がるときのように、四つん這いに這わせた妻に、赤嶺は後ろから挿入したのだ。

 妻は目隠しをされていた。

「余計なことを考えないように」

 赤嶺は言った。もちろんあの男は知っていた。妻が腹の底から納得して、自分との行為に及んでいるわけではないことに。

 妻は苦しんでいた。自分を愛していると言いながら、他の男に身を任せよという夫。その矛盾に満ちた言動に妻は苦しんでいた。
 昼間のうちに私に与えた許しは、妻にとってぎりぎりで絞り出した声だったに違いない。

 赤嶺は妻を貫いた。
 貫いて、ゆっくりとしたリズムで、妻の中を行ったり来たりした。

 すでに前戯の段階で、赤嶺の技巧は妻の身体をほとんどほぐしていた。一度は達していた身体だが、まだ燃え尽きないものを赤嶺は巧みに火量を調節しなが ら、ゆったりと責め弄った。
 そして、妻の官能がいよいよ臨界に達したとき―――

「赤嶺は妻の目隠しを外したんだ。それで、妻と目が合った」
  1. 2014/10/13(月) 12:16:55|
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卒業後 第27回

 紅潮した頬。
 まなじりが吊り上がって、ほとんど相の変わった顔。
 瞳は濡れていた。
 その瞳が―――私を見た。


 赤嶺の腰がまた、柔らかい尻に激しく打ち付けられた。
 ひっと短く呻いて、くねくねと妻の細腰がゆがむ。
 顔がゆがむ。
 それでも妻は顔を上げて、私を見ていた。
 すうっ、と―――
 よわよわしい動作で白い手が持ち上がり、虚空にかざされた。
 私のほうに向かって。


「あれは救いを求める手だった」
 私は明子に言った。
「瑞希は俺に向かって訴えていたんだ、助けて、と」


 幻影のなかで白い手が揺れる。


 タスケテ、タスケテ、コノママダトワタシハ―――
 ワタシハ―――


「昼間のうちは赤嶺に身を任せることを承知していたけれど、それは瑞希にとってぎりぎりの妥協だった」

 なぜなら妻は、私との静かな生活が壊れることを何よりも怖がっていたのだから。

 あの瞬間―――赤嶺に与えられる官能が妻に残された理性を完全に覆い隠してしまう前のほんの一瞬―――羞恥も、感傷も、すべてを忘れて、妻は私に向かっ て手を伸ばしたのだと思う。


「でも、俺は動けなかった。いや、そうじゃないな。動かなかったんだ」


 あの夜、行為を始める前に、赤嶺は私に向かって「お前は壁だ」と言った。
 だから、「動けない」のだ、と。
 そして、本当に暗示にかかったように、その後、私は手足の自由を失った。


「まったく、お笑い種だよ。赤嶺に暗示などかけられるはずはない」


 そうだ、お笑い種だ。あのとき、救いを求める妻に対して、私が動けなかったのは。
 動かなかったのは。


「俺がそう望んでいたからだ。他の男の手にかかってオルガスムを迎える妻を見ていたかった。腹の底からそう望んでいたから、俺は何もしなかった。黙って、 見ていた」


 崩れていく妻を。

 私はただ、見ていた。



 それが私の本性だった。



 そしておそらくはあの瞬間、妻も悟ったのだ。どれだけ求めても、願っても、自分の望むものを夫は決して返してくれないのだ、と。


 妻の瞳から、希望の光が消えた。


 羽を痛めた蝶がくらくらと風に揺られながら落下するように、伸ばされた妻の白い手も地に堕ちた。


 まるでそのタイミングを狙いすましたかのように、赤嶺の鋭い刃の一突きが妻を貫いた。


 その最後の一突きで、妻は逝った。


 どうと崩れ落ちた身体は、その身中から赤嶺がいなくなっても、いつまでも果てしない痙攣をつづけていた。・・・


「最初は気づかなかったんだ。そのときの出来事が何を意味していたのか」
 明子は余計な相槌を挟まずに、静かに私を見上げていた。
「旅行から帰って、しばらくして、また赤嶺からプレイの誘いがきた。俺は瑞希に聞いてみた。瑞希はもう拒む気配も見せなかった。何も、見せなかった」私の 喉がこくりと鳴る。「黙って赤嶺に抱かれた」
 手元のグラスのふちに浮かんでいた雫が、ぽつり、と落ちた。
「その後も赤嶺からはときどき、思い出したように誘いがきた。瑞希は静かにそれを受け入れて・・・・俺は俺で、束の間の非日常を味わっていたというわけ さ」
 言いながら、唇が厭な形に歪んだのが自分でも分かった。


 きっかけは何だったのだろう。
 思い出せないくらい些細なことだったのか。それでも迂闊な私はやがてようやく、妻の変化に気づいた。
 気がついたときはもう、妻の心は空っぽだった。
 身よりもなく、親しい友人もいない妻にとっては、それまで私との生活で築き上げてきたものがすべてだった。
 本当に、すべてだったのだ。
 その心のよりどころを、あの瞬間に失って、妻は空っぽになった。
 いや、もとに戻ったというべきか。
 どちらにせよ、妻はもう私に対して弱音や愚痴といったものを決して見せなくなっていた。


 幼い頃に両親を失ったときのように。
 家庭の事情で大学への進学を諦めざるをえなかったときのように。
 あの天橋立の夜をきっかけに、妻は何かを諦めたのだと思う。


「どうしてそう気づいたときに、赤嶺との関係をすべて終わらせて、奥さんをいたわってあげなかったのよ」
 しばらくぶりに口を開いた明子の声は常になく低かった。
「それとも、そうやって苦しむ奥さんを見ているのが、あなたには楽しかったの?」

 天橋立のときのように―――

「それは―――絶対に違う」
 思わず強い調子で、私は言葉を吐き出した。
「瑞希には苦しむという表情もなかった。俺には何も見せなかった。まるで、本当の人形になってしまったようだったんだ」


 私には妻が分からなかった。
 いや、妻という人間を本当に分かっていたことなど、今まで一度もなかったのだろう。
 ただ、妻の変化に気づき、悩んでいるうちに、私はようやく先の天橋立の夜の最後に見せた、妻の凍りついたような表情を思い出したのだった。
 あれが原因だったのではないか、と。


 やがて、もうひとつ別のことに気づいた。
 人形は、赤嶺の手によって操られるときだけ、一瞬の生気を取り戻すようになっていったこと。
 意思のない人形から生身の女へ―――


 赤嶺に抱かれる妻が、瞬間ごとに見せる何ともいえない表情。
 苦痛と快楽の狭間で匂い立つような、一瞬の切なさ。
 ある意味で妻の剥きだしの素顔を見る瞬間は、もう、赤嶺とのプレイのときにしかなくなっていた。


 狂おしかった。


 そして―――

 身体が馴染むのが先だったのだろうか。それとも心のほうが先だったのか。
 赤嶺はいつの間に、妻の心の間隙にも忍び入っていた。

 私はそれを知った。


「だけど、さ」
 困惑したように頸を振って、明子はいっそ切ないような目で私を見た。
「瑞希さんは旅行へ行く前に、あなたに向かって言ったじゃない。どうしてとがめないの、と訴えたじゃない。瑞希さんはたしかに何かを諦めていたのかもしれ ない。だけど、諦めきれないものがそこに、あなたに残っていたとは思わなかったの?」
「あの時点でもうすでに、瑞希は心の中で赤嶺を受け入れていたよ。本人もそれを否定しなかった。赤嶺のことが好きだ、と俺に向かって言った。誇張もあった ろうけど、あれがまったくの嘘だったとは思えない」
 私は唇を噛み締めた。赤嶺にどういう意図があろうと、あの時期、妻が赤嶺の言葉を、心の支えにしていたことは間違いないのだ。
「それもそうかもしれない。でも、あなたが赤嶺と旅行に行く瑞希さんを止められなかったのは、彼女に対して強烈な負い目があったからでしょう」


 また、白い手の幻影がちらつく。


「罪悪感があったからでしょう。これまで彼女を傷つけてきたことに対して。そして、だからこそ、あなたはもう瑞希さんに愛されていない、となかば確信して いた」


 ―――奥さんは今でもお前を愛していて、お前のことを決して裏切らないと信じているのかね。


 何度も何度もリフレインする、赤嶺の言葉。
 私の意識の深層を代弁していたような、言葉。


「瑞希さんはもうあなたを愛していない。赤嶺のことをより想っている。そんな疑惑にとりつかれていたんでしょう?」
「―――疑惑じゃない。それが本当だった」
「でもその時点では、疑惑であればいい、と思っていたのはたしかね」
 明子は容赦なく決めつけた。
「だけどその願いも、旅行中にかかってきた赤嶺の電話で打ち砕かれた」
「―――――――」

 胸が灼けた。

 研ぎ澄まされた刀を思わせる瞳で、明子は私を見つめる。

「あいにくだけど、休憩にはならなかったみたいね。でも、もう終わりよ。―――さあ、つづきを話して」
  1. 2014/10/13(月) 12:18:10|
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卒業後 第28回

 妻が帰ってきた日、外出していた私は家に戻る途中、マンションの階段で遼一とすれ違った。

「あ、伯父さん。伯母さんならもう帰ってきてるよ。疲れているみたいで今はもう寝室で休んでいるみたいだけど」
「・・・そうか。遼一はどこへ行くつもりなんだ? この時期じゃ図書館も休みだろう?」
「そういつもいつも図書館で、がりがり勉強ばかりしているわけじゃないよ」わらってはいたが、遼一の口調は普段とどことなく違っていて、微妙にたどたどし かった。「ちょっと考え事がしたくて・・・。散歩でもしてこようかなと思って」
「迷子になるんじゃないぞ」
 遼一はかるく肩をすくめて見せた後、「じゃあね」と言ってまた階段を降りていった。

 玄関のドアを開けると、見慣れた妻のハイヒールがあった。
 見慣れているのに、それがそこにあることが、なんだか信じられないような心地がした。
 私はほうっと息をつき、また吸い込んだ後で、「ただいま―――」と小さく呟いた。

 妻は寝室で横たわっていた。
 帰ってきてからシャワーを浴びたのだろう。簡単な部屋着に着替えている。
 妻の眠りはとても深く、私が部屋に入ってきても目覚める気配がなかった。いつも眠りの浅い彼女にしては珍しいことだった。そういえば目の下に隈があり、 細面の顔はいよいよ細く小さくなったようである。

 規則的な寝息が聞こえ、その度に胸元がちいさく隆起するのが見える。

 さざ波立つ心を両手にぶらさげながら、私はしばしベッドの前に立ち尽くして、妻の静かな寝姿を見つめた。
 やがて、私はそっとベッドに這い上がり、真上から妻を見た。
 形の良い睫毛は伏せられたまま、身動きのしない妻の顔が造り物のように見える。
 ふと、ぴしりと閉じられた胸元に、赤い痣のようなものに気づき、私は唇を噛みしめた。

 無意識のうちに両の手がするすると伸びて、妻の服のボタンを外し始める。


 あらわになってゆく、妻の肌。痣は胸元だけではなかった。
 白くすべやかな肌のところどころに、朱い縄痕が生々しく残っていた。


 このすべて―――赤嶺の指紋なのだ。


 そういえば、昨日の通話の最後の部分で、妻は拘束されていたようだった。
 拘束された裸身を、写真に撮られていた。
 もともと妻は写真がひどく苦手なのである。自然に浮かんでくる以外、笑みをつくることが苦手な彼女は、私がカメラをかまえると余計に緊張するらしく、す ぐについと視線を逸らしてしまう。いくらなだめてもすかしても、なかなかうまくいかない。
 肌をさらしながら写真を撮られるなど、もってのほか。
 私の知る妻なら、そうなのである。
 けれど、昨夜、妻は絡めとられた裸身を、赤嶺のカメラの前にさらしていた。
 もちろん、厭がってはいた。厭がってはいたけれど―――

 ―――撮ってもいいから。
 ―――写真、撮ってもいいから。
 ―――だから、終わったらやさしくして。
 ―――やさしく抱きしめて。


 ―――もうひとりぼっちにしないで。


 あの―――すがりつくような声が、今でも耳に残っている。
 目の前でこうして静かに横たわっている妻から、たしかに発せられたはずの声が。

 私は眠りつづける妻の下穿きをそろそろとおろし、膝の辺りまでショーツを下げた。
 淡い翳り。
 すっと縦に入った深い切れ込み。
 私の無骨な指がその切れ込みに伸びて、ふるえながら柔らかい肉の花弁をひろげる。

 こんこんと眠る身体の奥で、たしかに息づいている妻のいのち。それは普段より、赤く腫れているように見えた。

 あたたかい。妻の肢体はいつも冷えた感触がするのに、この部分の体温だけは常に高い気がする。
 けれどそのあたたかさが、今この場では私の心を冷え冷えとしたもので満たした。
 説明のつかない衝動が襲ってきて、妻の花びらに触れる私の手指をまたもぶるぶるとふるわせる。
 私は身を乗り出し、覆いかぶさるようにして妻のその部分に口をつけた。
 舌を這わせた。
 頬に当たる柔らかな絹草の感触。けれど舌の這いこんだ部分は、あくまでもなめらかで熱っぽい。
 ふと―――
 かすかな呻きを聞いた気がして、私は口をつけたまま、妻の上体を見た。
 妻は先程と同じ姿勢で横たわっている。ただ、投げ出された手の指がシーツにしがみつくようにかくんと折れ曲がっていた。
 妻は目覚めているのかもしれない。そう思った。目覚めているけれど、そうでないふりをしているのだと。

 そう考えたとき、私の胸の内で鈍く駆り立てられるものがあった。

 先程までのあるかなしかの気遣いまで振り捨てて、私は舌で妻を蹂躙した。紅色に艶ひかる襞をざらついたもので嘗め回し、繊細な神経の張り巡らされた箇所 を執拗に弄っていく。充血し、色づいた肉芽をいやらしくこづきまわし、包皮につつまれたそこを口中に含みながら、奥に秘匿された瑪瑙を吸いたてた。

「く・・・・・っ」

 呻きが大きくなった。
 細い手指は隠しようもないほど、もはやシーツに食い込んでいる。
 優美な線を描く雪白の胸乳の頂点で、薄桃の突起がとがっていた。

 やがて―――声を押し殺したまま、妻は達した。

 その瞬間、太腿からふくらはぎにかけての肉が引き攣るようにひくひくと動き、また張りつめたので、私にはそれと分かった。
 シーツに食い込んだ指はぶるぶるとふるえ、ひらかれた胸は苦しそうに喘いでいた。
 それでも、妻は声をたてようとはしなかった。

 私は顔を話し、そんな妻の姿を見つめた。最前までの凶暴な気持ちが失せ、泣きたいようなやるせない気持ちが腹の底から押し寄せてくるのを感じた。
 のっそりと身を起こし、私はゆっくりと妻の衣服をもとどおりになおした。
 前のボタンを閉じるとき、あらためて妻の顔を見た。かたく瞳を閉じていた。相変わらず寝たふりをやめる気はないらしい。けれど先程気をやった名残で、白 かった頬には血の気が差し、鼻頭は紅潮して仔兎のようだった。
 しばしその顔を見つめた後で、私はぐったりと彼女の傍らに身を横たえ、同じように瞳を閉じた。疲れと気だるさが、やがて私の意識を彼方へと押しやった。


 気がつくと、部屋の窓から西日が差していた。
 べっとりと張りついてくるような、凄いほどのオレンジ色。それは光の当たらない場所に、くっきりとした陰影をつくり、この部屋の中の小さな世界さえおぼ ろに変えていた。

 胸元に妻の身体があった。

 妻は私にしがみつくように、小さな顔を私の胸に埋めていた。切れ切れに、嗚咽が聞こえていた。

 私は腕を回し、細っこい撫で肩を抱いた。何ともいえず胸が苦しかった。妻の顔の押し当てられている部分から、その痛みは広がっているようだった。
 しばらくの間、お互いの顔を見ることなく、言葉もなく、私たちは抱き合っていた。

 不意に、玄関のほうで扉が開く音がして、「ただいま」と遼一の声がした。

 だから―――私は妻から身を離して、起き上がった。部屋を出る最後まで、瞳を開いた妻の顔を見ることはなかった。
  1. 2014/10/13(月) 12:19:22|
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卒業後 第29回

 定時きっかりに会社を出る。
 黄昏時の夕景の中に男の姿はあった。


「近くまで来たんでね。毎回毎回『コラージュ』で待ち合わせというのも芸がないしな」
 赤嶺は言って、咥えていた煙草をぷっと吐き捨て、革靴でぐいと踏みつけた。
「それにしても暑いな。冷房の効いた店に行こうや」
 私たちはしばらく歩き、会社から少し離れたに通りにある喫茶店に入った。


「飲み屋じゃない店に、ふたりで連れ立って行くのも久しぶりだな。学生時代以来じゃないか」
 赤嶺はふっと目を細めて、珍しく昔を懐かしむような顔をした。
「昔話はいいよ。今日の用件は何だ?」
「用件ね。あの頃の不良学生がそんな言葉を使うようになったとはね」
「不良学生はお前のほうじゃないか」
「お前の素行だって誉められたもんでもなかったぜ。―――それにしても、今のお前と俺の間の話題といえばひとつしかないだろう?」
 それは―――分かりきったことだ。
「先日の旅行は楽しかったよ。あらためて礼を言わせてもらう。大切な奥さんを三日間も貸してくれてありがとう」
 普段のように道化るでもなく、むしろ素っ気無い口調で赤嶺はそんなことを言い、ぎょろりとした目で私を見た。
「俺もついつい夢中になってしまってね。最後の最後で、お前に楽しんでもらおうと思って、あんな電話の余興を思いついたわけだが、楽しんでもらえたかな」
「―――――――」
「なかなかにスリリングな体験だったんじゃないか。まるで本当に奥さんを俺に奪われたような―――そんな心地がしたろう」
 ふふふ、と赤嶺は笑いながら、またピースに火を点けた。
 私は黙って、夕日に照らされたその横顔を見つめた
「ずいぶん無口じゃないか」
「疲れているんだ」
「それに顔色も蒼いようだな」赤嶺は一度言葉を切って、宙に煙を吐き出した。「―――身体は許しても、心まで奪われるのはいやなのかね」
「・・・話が繋がっていないぜ」
「繋がっているよ。分かっているくせに」
 そして赤嶺は咥え煙草のまま煙に目を細めながら、鞄から封筒を取り出した。
「写真が入ってる」
 私が中身を問うより早く、赤嶺は答えた。
「旅行中に撮った写真だよ。楽しかった旅行の空気を少しでもお前に味わってほしくてね」
 唇は笑みの形を保ってはいたが、赤嶺の大きな瞳は異様なほど光っていた。
 封筒を持つ掌が汗ばんでくるのを私は感じた。
「別に、今、見てもいいんだぜ」
 大きな瞳で私を見据えながら、赤嶺はざらりとした声で誘いかける。
「―――見たくてたまらないんだろう?」
 私は赤嶺を睨み返した。
 なぜだろう。昔から知っているはずの男なのに、今この場では正面から対峙しているだけで胸が苦しい。
 おそろしい。
 いや、本当におそろしいのは―――
 赤嶺から視線を逸らせないまま、私は封筒の中身に手を伸ばした。


「はい、伯母さん」
「ありがとう。遼一君が手伝ってくれると助かるわ。その引き出し、台に乗らないと届かないの」
「伯母さんは小柄だから。ぼくだってそう背の高いほうじゃないよ」
「これから、もっと伸びるわ。きっと」
「どうかな。父さんもあまり大きいほうじゃないし」
 台所から妻と遼一の会話が聞こえてくる。
 ネクタイを外しながらそれを聞いていると、台所から遼一が顔を出した。
「伯父さんは背が高いよね。180くらいあるんじゃない?」
「・・・いや、そんなにはないよ。78か、そのくらいだと思う」
「ふうん。伯母さんと並んで立ってるとすごく高く見えるけど。でも、男と女の身長差っていいよね。なんか絵になる感じでさ。まあ、男のほうが低かったら話 は別だけど」
 闊達に喋りながら笑ってみせる遼一。たぶん、彼は私と妻の間に流れる微妙な緊張感に気づいているのだろう。私たちに気を遣っているのだ。
 とても、申し訳ない気がした。
 同じ想いだったのだろう。エプロン姿の妻がやってきて、たまらない表情で背後から遼一を見ていた。
 ふと、私と目が合った。
 その瞬間―――つい先程、赤嶺に手渡された写真の映像が瞼を駆け巡った。


 写真は幾枚もあった。

 最初に手に取った数枚は、旅行中のスナップのようなものだった。カメラを前にした彼女がいつもそうであるように、どこかこわばった表情をして、うつむい ているものが多い。赤嶺に言われて無理に笑みをつくろうとしているらしいものあったが、やはりあまり成功していない。不自然な笑みが、かえって抱きしめて やりたいほどの心細さを感じさせる。
 普段の―――妻だった。
 やがて、普段にない写真があらわれた。
 旅館の一室らしい部屋で、浴衣を着た妻が膝を崩して座っている。
 その写真を見て覚えた違和感の正体が、最初、私には分からなかった。しばらく見続けて、ようやく分かった。
 写真の妻が真正面からカメラを見据えていたのだ。
 頬から鼻頭にかけてほんのりと赤く染まっているのは、酒のせいか、それともこの写真の前に行われていた何かのせいか。それは分からない。けれど、妻の瞳 はカメラを前にしたときの普段の居心地の悪さを感じさせないほどとろりと潤んで、真正面からレンズを―――その向こう側の男を見つめていた。

 浴衣の左肩がわずかにずり落ちて、そこだけ白い肌があらわになっている。

「なかなかいい表情をしているだろ? 風呂上りの一枚さ」
 私の手元を覗き込んでもいないのに、私が見ている写真を察して、赤嶺は言った。
「―――花の開く直前ってところか」
「何をしたんだ。この、前に」
「奥さんの顔がすべてを物語っているだろ。少しばかり煽っただけさ。その後の長い夜への期待をね」

 期待。
 それなのか。この妻の浮かべている表情は。

「奥さん、浴衣がよく似合うな。頸が細いし、撫で肩だしね。その写真を見ていると、女郎なんて古風な言葉を思い出さないか」

 女郎―――

「いつも慎み深い女がそんなふうにもの欲しげな顔をする一瞬に、俺は惹かれるね」

 頭蓋の奥で反響する赤嶺の言葉。それを聞きながら、私の指は写真をめくっていった。

 花の開く直前、と赤嶺は表現したが、その後の写真は妻が次第に落花狼藉へと向かっていく過程を写したような、生々しさのあふれるものだった。

 他の下着をすべて剥ぎ取られた状態で、浴衣だけを羽織ったまま、帯紐で後ろ手にくくられている写真。ご丁寧なことに帯紐は胸にも回され、上下から絞り出 すように乳房を挟んで背中へわたされている。

 卑猥な形に歪められたなめらかな胸乳の丘上で、薄桃の乳首がつんと立っていた。

 そんなふうに拘束された格好のまま、さらに妻は幾枚か写真を撮られていた。囚人のような立ち姿、後ろ姿、さらには畳の上に横になって仰向けに正面を晒し ている姿、あるいは顔を畳に突っ伏すように押し付けた格好で、尻だけをあげている姿。淡い翳りも、その奥の縦筋もあらわに、妻はすべてを見せていた。

 どの写真の妻も切ない表情をしていた。切ない表情でカメラのほうを向いていた。半開きになった口元から白い歯が零れている。まるで見てはいけないものを 見てしまったように写真を持つ私の手は震え、ざわざわとしたものが爪先から髪の毛の一筋にまで電流のように私の身体を駆け巡った。―――


「どうしたの? 急にぼうっとして」
 その一言で、混沌とまじりあった私の意識は、すうっと現在に引き戻された。
 眼下から遼一が私を覗き込んでいる。その背後で妻がじっと私を見つめていた。
「・・・いや、何でもない。仕事のことを考えていただけさ」
「そう。伯父さん、急にぼんやりすることがあるから、心配になるよ」
「―――このひとのこれはいつものことですよ」
 ふうわりと妻は言って、私の横に並んで立った。
「うん。やっぱりちょうどいいくらいの身長差。お似合いの夫婦だね」
 むしろ静かな口調で、遼一は言い、綺麗な微笑を浮かべた。
 その邪気のない言葉にいつもの軽口で応えることが出来ず、黙って妻を見た。妻もまた、しっとりとした瞳で私を見返した。その唇がかすかにふるえているの に気づいた瞬間、妻はうつむいて、つっと歩みを進めた。
「お夕食が冷めてしまうわ。はやく支度をすませなくちゃ」
「そうだね」
 遼一は応えて、また妻を手伝いに台所へ向かう。私はソファに腰を下ろし、左手でこめかみの部分を押さえた。
  1. 2014/10/14(火) 00:46:22|
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卒業後 第30回

 八月も終わりに差しかかった頃、京子の手術が行われた。その前日は仕事で忙しく、電話でしか話すことは出来なかったが、ともかくも普段どおりの妹で安心 した。

「女は自分の血を見慣れているから、いざってときには度胸があるものなのよ」
 電話口で京子は恬淡と語った。
「そうかもしれないな」
「遼一は元気にしている?」
「今、替わるよ」
 傍らの遼一に受話器を渡し、私はソファを立って寝室へ行った。しばらくして、風呂上りの妻がやってきた。
「京子さんの様子はどうでした?」
「いつもと変わらないよ。落ち着いたものだ」
「そう。やっぱり強いひとですね、京子さんは」
 呟くように言って、妻は鏡台の前に座り、しっとりと濡れた洗い髪をかわかしはじめた。
 その後ろ姿を眺めながら、私は先程京子が口にした言葉を思い出していた。

 女は自分の血を見慣れている―――か。

 いくら年を重ねても、毎月の経血を宿命づけられた身体の感覚が私には分からない。男には決して分からないだろう。その意味で、あけっぴろげな京子も、寡 黙な妻も、私にとって永遠の謎だ。
 妻は京子を苦手にしているわりにことあるごとに彼女を誉めるが、それはまんざらお世辞というわけでもなさそうである。性格が正反対であるがゆえに、京子 のことが眩しく見えるのだろうか。その傾向は私たちと赤嶺との付き合いが本格化したこの一年で、ますます強まったように思える。
「京子さんの退院はいつになりそうなのですか?」
「まだ正確な日取りは決まっていないようだけど、術後の経過が良いようなら2週間以内には退院できるそうだよ」
「そうですか。遼一くんとの生活もあとわずかですね」
「・・・淋しいかい?」
 髪を梳いていた手が一瞬止まり、やがて妻はぽつりと言った。
「淋しくて・・・こわい」

 こわい―――か。

 妻の言わんとすることが分かった。
 子は鎹という。遼一は私たちの子ではないにせよ、遼一のいる前では私たちはよき夫婦を演じてきた。裏側にあるどろどろしたわだかまりを隠して。その不自 然さはたしかに息苦しく辛いものであったが、ある意味でこの一ヶ月、遼一は私と妻を繋ぎとめてきた。たとえうわべだけの関係であっても。

 その鎹―――遼一はもうすぐいなくなる。

「もう、これで嘘をつく必要がなくなるな」
 私の呟きに、妻が振り返った。黒目の大きい瞳が私を見つめて、「嘘?」と言った。
「この一ヶ月の生活のすべてだよ。何から何まで―――嘘だった。嘘をつきすぎて、何が本当なのか、俺にはさっぱり分からなくなった」
 妻は静かに私の言葉を聞いた。
 その唇が動いた。
「赤嶺さんのことが好き」
 そう言った後で、妻は私の顔をちらりと見た。
「―――私が前に言った言葉」
「・・・・ああ」
「あれも嘘だと思いますか?」
 言葉に―――詰まった。
「答えてください」
「君が言った言葉だろう」
「あなたがどう思っているかが、私は知りたいの」
「嘘であってほしいとは思う。だが―――」

 だが、俺は、君が私に知られているとを知らないであろうことを、知っている。あの夜の電話で赤嶺にすがりついた言葉も、赤嶺のカメラに収められた妖艶な 姿も。すべて知っているのだ。

 妻は探るような目で押し黙る私を見ていたが、やがてその視線を外し、寒くもないのに手の甲をしきりとさすった。
 それから、ぽつりと言った。
「私に義理の兄がいたということは知っていますよね」
 唐突に語られた言葉に戸惑いながら、私は知っていると答えた。
「君が育った叔父さんの家の子供だろう。つまり、血縁上では君の従兄弟にあたる」
「そうです。義兄は私が27歳のときに車の事故で亡くなりました」
 それも、知っている。
 妻はまだ手の甲をさすりながら、沈んだ口調で語り始めた。
「両親を亡くしたとき、私はまだ小学生でした。親戚会議の結果、私は叔父夫妻に引き取られることになって・・・・あなたと結婚するまで、ずっとその叔父の 家で暮らしていました」

 そのわりに―――今の妻は叔父夫妻と疎遠である。

「叔父にも叔母にももちろん感謝しています。私を育ててくれたこと、高校までださせてくれたこと。叔父の家は旅館を経営していましたから、その手伝いをす る関係でいつも厳しいことを言われていました。でも、冷たくされたわけではありません」

 そこで、妻はもう一度「でも」とつづけた。

「私は淋しかった。実の両親でない家庭の子供は皆そうだと思いますが、それまでは親戚とはいえ他人同然だったひとたちの中で暮らすのは、いろいろと気苦労 の多いものです。私がもっとひとと簡単にうちとけられるような、そんな可愛げのある子供だったら、また違っていたのかもしれません。でも、私はそうではな かったんです」

 私はふと遼一のことを思った。妻も同じ想いだったのか、ふと壁の向こうに目をやって、またうつむいた。

「子供の頃から私は、いつも叔父と叔母の顔色をうかがっていました。叔父と叔母の気に入るような子供になりたくて、でもなれなくて、たまに優しい言葉をか けてもらえると、それだけで嬉しくて・・・・。だから、義兄は―――」

 妻は目を細めて、昔を思い出す顔つきになった。

「義兄はうらやましい存在でした。義兄は生まれつき、王様だったんです。自由で、奔放で・・・・子供らしさも、大人びた口ぶりも、すべてが魅力的に映って しまうようなひとでした。叔父夫妻の家はすべて義兄を中心にまわっているようでした。そして―――私は兄の影でした」

 ふっ、と妻は苦しげに聞こえる吐息をついた。

「私が実の子供であっても、同じことだったかもしれません。義兄はそれくらいカリスマ性のある人間でした。叔父夫妻の愛情を独占する義兄をうらやましく思 いながら、それでも、私にとっても、義兄は王様でした。義兄が好きだったとか、そういうことではなくて―――ただ、王様だったんです。義兄は謎めいてい て、何を考えているのかよく分からないひとでした。私のことをどう思っていたのかも分かりませんでした。けれど、他の誰よりも私の話を聞いてくれたことは たしかです。いつも、ゆったりと落ち着いていて、優雅に笑いながら『それで?』と話の続きを促す義兄の姿を思い出します」

 妻はいったい何を語ろうとしているのか。話の行き先が見えないままに、滅多に話さない過去を話す妻を、私は魅入られたように見つめていた。

「高校を卒業して、私は本格的に叔父の旅館で仲居の仕事を手伝い始めました。でも、接客の仕事はなかなかうまくいきませんでした。私は相変わらず不器用 で、特に男のお客さんが苦手だったんです。高校は女子高でしたし、私が身近に接していた男性といえば、義兄しかいませんでした。女将さんである叔母にも、 よく叱られていました。『どうしてもっと自然に笑顔を作れないんだ』―――そう怒られて、鏡の前で、独りで何時間も笑顔の練習をさせられたこともありま す」

 私は想像した。今よりも若い、娘の頃の妻が鏡台に向かって、笑みの練習をしている場面を。
 それはぞっとするほど、孤独な光景だった。

「そんなある日でした。ひどく叔母に怒られて、旅館の庭に出て隅っこの木の陰で泣いていたところに、義兄がやってきたんです。いつものように悠然と、まる で世界が自分のものであるかのように自信に満ちて。そんな義兄の姿を見て、私は自分がとても惨めな存在のように思えました。義兄は私をじろりと眺めまわし た後、『夜になったら俺の部屋に来い』と囁きました」

 妻はそこで細い眉をたわめ、額にかかった前髪をそっと撫でた。
 なぜとなく緊張して、私は息を呑んだ。

「夜になって―――義兄の部屋へ行きました。昼間のことを慰めてもらえるのだろうか、なんて馬鹿な期待を持って。義兄は決して他人を慰めないひとでした。 いつも私の話を聞いてくれたけれど、それ以上何かを言ってくれるということもなかったんです。でも、その夜は、ひょっとしたら何か優しい言葉のひとつでも かけてもらえるかもしれない、と私は思いました。誰かひとりでもいい。誰かに自分の存在を肯定してもらえないと、もう一秒だって耐えられない―――その夜 の私はそんな気持ちでした。そんな気持ちで・・・私は義兄の部屋の扉を開けました」
  1. 2014/10/14(火) 00:47:39|
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卒業後 第31回

 そのとき、居間の戸が開く音がして、廊下をこちらにちかづいてくる遼一の足音が壁越しに聞こえた。妻は話を中断した。足音は私たちの寝室の前で止まり、 「おやすみなさい」という声が戸の向こうから聞こえた。
 「おやすみ」を返す私と妻の声がそろい、その後で奇妙にしんとした沈黙が、目を見合わせた私たちの間に落ちた。

 遼一の足音が遠ざかっていく。
 妻の洗い髪はもうかわいている。

 私は話のつづきを促した。
 表情の深い瞳で私を見た後で、妻はゆっくりと口を開いた。

 
「―――屋敷の離れにある兄の部屋に向かって、扉を開いた私は驚きで立ちすくんでしまいました。部屋の中にいたのが義兄だけではなかったからです。義兄の 友人で私も何度か見かけたことのあるひとがいたのです。
「立ちすくむ私を、義兄は強引に手を引いて部屋の中に引き入れました。そして、私に友人を紹介しました。その友人の男性は義兄と同じ大学に通っていたひと で、家によく遊びにやってきていました。『この家で何度かお前を見かけるうちに、こいつ、お前のことを好きになったんだってさ』―――義兄は言いました。
「意外な話の成り行きに私は困惑して、黙り込んでしまいました。友人の彼は照れたようにへらへらと笑いながら、困惑する私を見ていました。その視線がなぜ かとても厭な感じで、今すぐにでも腰を上げて部屋から出て行きたいと思いましたが、義兄の手前、それも出来ませんでした。黙り込んだ私を見て、義兄はふっ と笑いながら、友達の彼に『妹はこういうことに疎くてね。でも、お前のことを嫌がっているわけじゃない』と私の気持ちを勝手に代弁しました。その後で、義 兄は『じゃあ、お邪魔虫は去るからな』と言って、離れを出て行ってしまったんです。
「ひとり取り残された私は、今の状況が理解できないままに、ただ捨てられた子犬のような心地でした。義兄は他の誰よりも私のことを知っていたのに、私の気 持ちなどいっさいかまうことなく、ただ友人に頼まれるままに私を彼に押し付けて、さっさと去っていってしまったのです。義兄はやっぱり王様で、私は彼に とって奴隷のひとりでしかなかったのだ―――とそのとき思いました」

 そう言った後で、妻は少し前かがみになって、2,3度小さく咳き込んだ。ふたたび顔を上げたとき、その瞳がかすかに潤んでいるのが分かった。

「落ち込む私とは逆に、友人の彼は義兄がいなくなって少しづつ大胆になっていきました。『緊張しているんだね』彼は私の傍らに座って囁きました。『こうい うことは初めてなんだろ。君のことならお兄さんから何でも聞いているよ』そう言った後で、彼は私の手を握って、君のことが好きだと何度も繰り返しました。 この家に来て、母屋の旅館で働く私の姿をいつも見ていた、と彼は言いました。『その仲居の衣装もよく似合っているよ。とても可愛い』甘い声で囁く彼に、け れど私はどうしようもない嫌悪感が湧いてきて、ほとんど泣き出しそうな気持ちでした。
「うんともすんとも言わない私に、彼のほうも段々不快そうな表情になっていきました。『僕のことが嫌いなのかい?』彼は言いました。『どうなの?そうなら そうとはっきり言ってよ』私の肩を揺さぶって、彼はしつこく聞きます。がくがくと揺さぶられ、眩暈さえ覚えながら、私はようやく頸を横に振りました。『嫌 いじゃないの?』その問いにも、うなずきました。そうしたら彼は、薄笑いを浮かべてこう言ったんです。『お兄さんの言ったとおりだ』―――その言葉の意味 を考えるよりも前に、彼は私の唇に唇を押しつけました」

 最後の部分を一息に言って、妻は口を閉じた。
 束の間、アルバムの曲と曲の切れ目のような、胸の騒ぐ静寂が場に落ちた。
 しかし妻の話はまだ終わらない。やがて、彼女はまた口を開く。

「一瞬、何が起こったのか分からなくて―――でも次の瞬間、私はほとんど無意識のうちに悲鳴をあげて、彼の身体を突き飛ばしていました。震える脚で立ち上 がって、私は後も振り返らず部屋を飛び出しました。突き飛ばされた彼が何か悪態を叫んでいましたが、私の耳にはもう聞こえていませんでした。裸足のまま駆 け出して、家の敷地からも飛び出して、私は走りました。もちろん行く当てはありません。でも、一秒より早くあの離れの近くから離れたかった。
「結局、2,3時間私は外を彷徨いました。辺りはもう真っ暗で、足の裏は血だらけで、衣装もあちこち汚れていました。こんな格好で帰ったらまた叔母に怒ら れる、と私は思いました。それから離れに残してきた彼と、彼を押しつけた義兄のことを思いました。何がどうしてこうなったのか少しも分からず、けれどどの みち自分はあの家に帰らなければならないことだけは頭の隅の冷えた部分で分かっていて、そのことが余計に疲れた身体を重く感じさせました。
「死んでしまいたい、いっそ死んでしまいたい。そんなことをずっと考えながら、私はとぼとぼと夜の中を歩きました。本当にその気になればいつでも死ねる ―――そう考えることが不思議に安らぎになることがあると、その夜、私は知りました。実際にそうする勇気もないくせに、ね」

 なぜかそこで妻は顔を上げて私を見、久々の―――本当に久々の微笑を浮かべた。

「季節は秋で夜の空気は冷たくて、身体はどんどんと冷えていきました。吐く息は真っ白で、月が空の真ん中にぽっかりと浮かんでいて・・・・今でもあの夜の ことはよく憶えています」

 そんな強烈な体験なら、忘れようにも忘れられないだろう。

「色々なことを考え、想いながら、私は結局、叔父の家に向かって足を進めるしかありませんでした。家の前まで来て、道の端で誰かが煙草を吹かしているのが 見えました。―――義兄でした。
「義兄は私の姿を確認すると、煙草を靴で踏み消して、近寄ってきました。私は怖かった。義兄に怒られると思ったからです。おかしな話ですね。怒るべきなの は、その権利があるのはこちらのほうなのに、その私が怯えていたなんて。
「でも想像に反して、義兄は怒っていませんでした。普段と同じ口調で『どこをほっつき歩いてたんだ』と素っ気無く言いました。その言葉を聞いて、ようやく 私の中にも怒りが蘇ってきて、私は泣きながら先程のことを非難しました。はじめて義兄のことを大声で詰りました。
「切羽詰まった声でとがめる私を見ながら、けれど義兄は最後まで言わせず強引に手を引いて、私を抱き寄せ、『でもこれで少しは分かっただろう?』と言いま した。突然のことに戸惑い、抗いながら、私は『何のことか分からない』と答えました。『男のことがだよ。お前は何にも知らないから』義兄はそう言って ―――笑いました。そして」


 そこでまた、妻の言葉が途切れた。私は黙ってその続きを待つ。


 けれど、「そして」につづく言葉はなかった。


 時計の秒針の動く音が、大きすぎるほど大きく聞こえた。寝巻きを着た妻の、薄い肩の辺りから蒼白いうなじにかけての肌に映った陰影を、私は見つめてい た。
 2分ほどそんな時間がつづいたろうか。
 妻の唇がようやく動いた。

「・・・義兄が死んだのはもう八年も前のことになります。今話した夜の出来事からも八年後ですね」
 その16年の間、私が妻とともに過ごしたのは、わずか五年にすぎない。その五年の間にもいろいろなことが―――本当にいろいろなことがあった。

「瑞希にとって―――お義兄さんはどんな存在だったのかな」

 私はようやく口に出す言葉を見つけ、妻に問うた。

「今でも分かりません。叔父の家の中では、私は義兄の影のようなものでした。それとは別の意味で、義兄はずっと―――私を支配していました。亡くなるま で、ずっと義兄は、私の支配者でした」
 支配という言葉をこれほど不穏な響きで聞いたことは、かつて私の経験にはなかった。
「俺も―――」
「え?」
「瑞希にとっては俺もお義兄さんと同じような暴君だったんだろう。だから、離れていくんだろう」

 自分でも何を言っているのか、何を言いたいのか、分からないままに私の呟きは声となって外へ出て行った。

「赤嶺のことが好きになったのだろう?」
「・・・先程、私は聞きましたね。『赤嶺さんが好き』と言った言葉を嘘だと思うかどうか。あなたは嘘だと答えてくれなかったけれど」
「俺は知っているんだよ」
「何をですか? 私の何を知っているんですか?」
 妻は大きな瞳に潤ませながら、微笑した。
 その質問にも私は答えることが出来なかった。
「君のことじゃなく、ただ俺がひどい夫だったというだけだ」
「それならば私も同じです。自棄になって、あなたと遼一君を残して、赤嶺さんと旅行へ行った。私はひどい妻です」
 同じです、と妻はもう一度呟いた。
 私は立ち上がって、妻の細身を抱いた。どうしても、そうしたかったから。
 柔らかい肌。どうしてだろう。同じ人間なのに、妻の身体はどうしてこうも柔らかくしなって、まるで骨がないかのように感じられるのだろう。この腕につよ く力をこめたらそれだけで消えてしまいそうだと、不安に駆られるほどに。

 しばらく、そのままで抱き合っていた。やがて、どちらからともなく、私たちは身を離した。

 歯を磨いてくる、と言って、妻は立ち上がった。出て行く前に、「でも、あなたは義兄と同じじゃないの」と妻はぽつりと言った。

「違うの。私にとって、あなたはもっと―――」
「・・・・・・・・」
「義兄と近く感じるのは、あなたじゃなくて、むしろ―――」
 何かを言いかけた後で、妻は混乱したように頸を振って、しずかに部屋を出て行った。
 私はどさりとベッドに背中から倒れた。
 今夜語られた妻の言葉を考えた。
 彼女は何を言おうとしたのだろう。


 初めて知った義兄と妻の関係。
 妻ははっきりしたことは語らなかった。ただ、義兄に支配されていたと言った。
 支配。
 義兄が亡くなるまで、ずっと―――
 はっきりしたことを語らなかった、或いは語れなかったことが、先程の「そして」のつづきを暗示しているような気がした。
 新婚当時、すでに妻は処女ではなかった。もう年齢も30に届こうとしていたし、私はその事実をしごく当然のことだと考えていたのだが、そこには「当然」 ではない関係が潜んでいたのかもしれない。
 妻が現在、叔父夫妻と疎遠なのも、その「当然」でない事情が絡んでいるのかもしれない。
 どうして妻はそんな、出来るならば隠しつづけていたかっただろう過去のことを、今夜打ち明ける気になったのだろう。


 ―――同じです。


 先程の妻の言葉が頭に反復した。
 そしてもうひとつ、妻が最後に語りかけてやめた言葉。


 ―――義兄と近く感じるのは、あなたじゃなくて、むしろ―――


 むしろ―――赤嶺だと言いたかったのだろうか。
 妻は義兄と赤嶺をだぶらせているのだろうか。


 彼女にとって―――おそらくは―――初めての男であり、その後の人生の長い期間「支配」されていたというその義兄。
 義兄という存在が自身に対して意味していたものに対して、妻は「今でも分からない」と言ったが、本当のところどうだったのか。
 そこにはっきりと上下関係があったにせよ、時に酷い振る舞いをされたにせよ、妻は義兄のことを愛していたのではなかったか。たとえ自分でもはっきりとし た自覚がなかったとしても。
 幼い頃から、ただひとり、彼女のことを「他の誰よりも知っていた」男のことを。


 同じです、と妻は言った。私と同じように心に闇を抱えているのだ、とその言葉は語っていたのかもしれない。
 妻の闇。その闇は義兄の幻影を通して、赤嶺と結びついているのだろうか。


 私は立ち上がり、寝室の明かりを消した。横たわって目を瞑り、闇に―――本物の闇に身を任せた。妻の足音が近づいてくるのを、漆黒の中で聞いた。
  1. 2014/10/14(火) 00:49:01|
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卒業後 第32回

「遅れてわるいな。撮影のほうがいろいろとトラブってね。早く抜けてくることが出来なかった」


 言葉どおり、珍しく遅れてきた赤嶺が、席に腰を下ろしながら言い訳した。
 場所はいつもの『コラージュ』である。

「お前でも仕事が忙しいときがあるんだな」
「何を言ってやがる。いつも忙しく稼いでるぜ。―――今日は新人の娘の撮影でな。それもまったく現実を知らない素人娘さ。モデルを芸能界への足がかりか何 かと勘違いしてるような、な」
 苦笑じみた薄笑いを赤嶺は浮かべた。この場合の『モデル』とは普通の意味とはもちろん違う。赤嶺の業界での『モデル』―――すなわちAV女優である。
「今も昔も風俗業界は苦界さ。吉原の頃と変わらない」
「吉原ね。さしずめお前は女衒か」
「腕の良い女衒さ。俺は顔が良いとか、身体が凄いとか、そんな反応でモデルの良し悪しを決めるわけじゃない」
 赤嶺はじっと私の顔を見た。笑みの滲んだその目は底意を含んで、何かを語りかけているような気がした。
 私は正面の男を―――妻の義兄に似ているのかもしれないその男の顔を見返した。
「俺たちの仕事のモデルはさ、演技の練習なんてつんでいるわけじゃない。その意味でリアリティを求めるのは間違いだ―――そう思っている奴もいるかもしれ ないが、こと濡れ場の撮影となると条件は違う。濡れ場で演技なんてされたらいっそ興醒めというもんだ」
「演技だろ」私は声をひそめた。「セックスの最中をカメラで撮られながら、カメラを意識しないで燃えあがれる女なんていない」
「まあ、普通はね」赤嶺はあっさり認めた。「けれど、俺の言う意味で演技なんて出来ない女ってのもたまにはいるのさ。底の底から、女そのものの身体という のかな。カメラを向けられていようが、厭な男が相手だろうが、一度火を点けられると人が変わったようになる女がね」
 赤嶺はウイスキーの杯を干しながら、歌うような口調でつづけた。
「目が吊り上がって、顔を真っ赤にして、普段の姿とまったく結びつかないほど相が変わって・・・・そういう女を相手にしていると、はたしてセックスは快楽 なんだろうかと疑問に思う瞬間さえある。相手の女に拷問でも強いているような気さえする。でも涙をぽろぽろと流しながら泣き喚くその身体は、これ以上ない ほど濡れている。女体の神秘だね」
「・・・・・・・・・」
「他人が俺の職業についてなんと言うかどう思うかは知ったこっちゃないが、ああいう瞬間の剥きだしの女の表情ってのは、俺にとって尽きない興味の対象 ―――大袈裟なことを言えば俺の芸術の対象さ。あの表情をカメラに収めることが、ね。後でどれだけの人間がその俺の芸術をせんずりの種に使うか―――そん なことは知ったこっちゃないが」
 ざらりとした声で言い放ち、赤嶺は下卑た含み笑いを浮かべた。それから唐突に、
「ところで、俺が渡した写真はすべて見たのか」
 と聞いた。
 ちょうどそのとき―――私はその写真を思い浮かべていたのだ。赤嶺が妻を、妻の痴態を撮影した写真。その中の一枚を。


 それは旅館の一室で仰臥した妻の写真―――
 身に何もまとっていない妻が、白くぬめ光る肌を晒して仰向けに横たわっている。
 その腕は頭上でひとつに縛りあげられ、固定されている。

 写真の妻は、なめらかな素脚を大きく開いていた。大きく開いて、生白い太腿のあわい、そこだけが黒い翳りに覆われた部分まで、すっかり開いて―――
 そして、妻のその部分は優しい線に縁どられた女体に似合わない、無骨なバイブレータを含んでいた。

 綺麗に手入れされた腋下も、すべやかな腹も、その下のおんなもすべてを晒しながら、解剖台の蛙のような格好で、含まされたバイブレータを受け入れなが ら、それでも妻の顔はカメラを向いていた。
 いや、正確には顔だけがカメラを向いていたのだ。その視線の先は彼方に在って、もはやカメラを意識してはいなかった。ちょうど今、赤嶺が言ったように、 そのまなじりは吊り上がり、歪んだ瞳は異様な光を放ちながらしかしぽっかりと開いて、この世の何も見ているようではなかった。頸から胸にかけての肌まで、 すっかりと紅潮させて―――何も説明されなくても、絶頂を迎える寸前を撮られた写真だと、分かりすぎるほど分かるくらい―――。
 磔にされ、生命の深淵でぐらぐらと揺れているような妻。その瞬間をカメラは冷酷なまでに、濃厚に捉えていた。苦しそうに引き攣り、白い歯を覗かせている 朱唇から、妻のそのときの声が聞こえてきそうなほどに、それは臨場感のある写真だった。
 すべてが剥きだしであった。


「あれがお前の芸術なのか」
 無意識に―――私は呟いていた。
「ふふふ、たしかに奥さんは最高の素材だと思うよ。あれほど演技の出来ないひとも珍しいからな。普段はどれだけ繕っていてもね」
 赤嶺は白い歯を見せて―――笑った。
「可愛い女だよ。お前もそう思うだろ」
「・・・・・・・・・」
「男殺しの身体。ぞくぞくするような声色。それこそ昔の吉原にいたら、毎日でも遊びたいという輩がいたろうな。自分がそんな身体をしていることに、本人は 長いこと気づいていなかったようだが―――」
 赤嶺はちらりと私を見た。
「最近ではそうでもないようだな。どうだ、奥さんとの性生活は充実しているのか。―――ちょうど、甥っ子もいなくなったんだろ。ようやくはばかりなく楽し めるようになったんじゃないのかね」

 つい先日、京子の手術が無事終わり、退院の日を迎えた。その翌日に遼一も我が家を去り、今は久々に私と妻だけの生活が始っている。
  1. 2014/10/14(火) 00:50:12|
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卒業後 第33回

「それとも奥さんとはまだ冷戦状態で、楽しむことも楽しめないでいるのかね」
「別に・・・・・・」
「なげやりな返事だな」
 ふふんと鼻でわらって、赤嶺はまたピースの箱に手を伸ばした。
「そういえば、お前もうすぐ出張で家を空けるとか言っていなかったか」
「ああ。九月の末からな。―――今日はその件で話をしにきたんだ」
 煙草に火を点ける赤嶺の顔を、私は正面から見据えた。
「―――これを機会に、お前との関係を考え直したい」
「俺との関係?」
「とぼけるなよ。お前と俺と・・・瑞希との関係だ」
「どうしたいんだ?」
「断ちたい」一言で私は答えた。「もう―――普通の夫婦に戻りたいんだ」

 醒めた目で赤嶺は私を見つめたが、とりあえず何も口を挟まなかった。

「お前は以前に聞いたな。“怖くなったのか?”って。正直に言うよ。怖いさ。ずっと怖かった。―――この一ヶ月は特に」
「だから、やめたいというのか」
 赤嶺は低い声で言った。
「ああ。もう限界だ。俺は―――妻を失いたくない」
「都合のいい話だな」赤嶺は嘲笑を浮かべた。「お前はこの一年、俺と奥さんの関係を見ていて、少しの愉しみも掠めとらなかったとでも言うのか。俺に奥さん を奪われるんじゃないか、そんな不安のなかでもお前は心の底では薄暗い悦びを得てはいなかったのか」
 私は唇を噛んだ。
「そもそも、最初に言い出したのはお前だぜ」
「分かっている」
「いや、分かっていないな。さっきお前自身が言ったように、これは俺とお前だけの問題じゃない。お前と俺と、そして奥さんとの問題だ」

 赤嶺は言葉を切って、すべてを見通すような目で私を見つめた。

「当たり前の夫婦関係のリセット―――それがこの一年間お前が選択してきたこと。逆に言えば、その意味で夫としてのお前の優越性なんてものはもうないの さ。お前にも、俺にも、奥さんにも、ひとりの男として女として選択する権限がある」
「・・・瑞希が選択するとでもいうのか」

 私ではなく、お前との関係を。
 お前を。

「ありえない話だと―――思うかね」
 ふーっと宙に紫煙を吐きながら、赤嶺はゆったりと問いかける。
 そして、私の口からは肯定も否定も出てこなかった。


 ―――もうひとりぼっちにしないで。


 眼前の男に向かって放たれた、あの、すがりつくような言葉が。


 ―――義兄と近く感じるのは、あなたじゃなくて、むしろ―――


 言いかけて途切れた、あの言葉が。


 はねつけようとする私の声を奪うのだ。


「俺は俺なりにこの一年、時間をかけて奥さんとの信頼関係を築いてきたつもりだしな」
 クールな声音で赤嶺は言って、煙草を灰皿に押しつけた。
「どちらにしても、性急に関係を終わらせられるのは勘弁してもらいたいな」
「俺は九月にはもうここにいないんだ」
「奥さんは東京に連れていかないのか」
「いや、こっちに残る。短期だし、会社が用意しているのはワンルームのマンションだからな」
「それで、か」
「なんだよ」
「いや―――なんでもない」
 あからさまに含みのある言い方をして、赤嶺はじっと私を見た。
「じゃあ、こうしよう。お前が出張の間、俺は自分からは決してことを起こさない。このことを約束する」
「・・・・・・・・」
「とりあえずの冷却期間だ。お前が戻ってきたら、三人でこれからのことをどうするか、きちんと話し合おうじゃないか」
 私は赤嶺の目を見返した。
「“自分からは”と言ったな。それはどういう意味だ」
 赤嶺は冷ややかな顔で、「言葉どおりの意味だよ」と答えた。
「俺のいない間に、瑞希がお前に連絡をよこすとでもいうのか。“会いたい”とでも言うというのか。そうしたらお前は会うのか。そういう意味なのか」
「言葉尻をとらえて、よくもそれだけ邪推できるもんだな」
「お前という人間を信用していないからな」
「信用していないのは奥さんのことじゃないのか」
 ふふん、と赤嶺は哂い、私の胸は鋭く痛んだ。
「とりあえず今夜はこの辺でお開きにしよう。俺もこの後まだ用事があるんでね。東京から戻ったらまた連絡をくれ」
 がたんと音を立てて、赤嶺は席を立った。


 家路につきながら、私は静かに赤嶺との会話を反芻していた。

 ―――信用していないのは奥さんのことじゃないのか

 赤嶺との関係に区切りをつけたい。私はもうすぐこの地を―――家を離れる。その前になんとかしなければ。
 それは不安だったからだ。怖かったからだ。赤嶺に言ったように。
 私のいない間に、妻が赤嶺と会って、そのままどこかへいなくなってしまうんじゃないか。あの夏休暇の間に抱いた恐れが、近頃はその強さを増して私を支配 していた。
 京子が退院し、遼一というバランスメーターが我が家から去って、私と妻の日常はかつての静穏さでゆるやかに流れていた。だが、その一方で目に見えない部 分ではぎりぎりの緊張感を孕んでもいる。
 私はそれを常に意識していた。
 この前、妻から聞かされた義兄の話も尾を引いているのかもしれない。あれ以来、何度もその話を思い出し、見たことのない義兄のことを考えた。私と出会う 前の妻。そのもっとも身近にいた男。妻を支配していた男。

 ある夜、夢を見た。まだ若い、娘のころの妻が男に抱かれている夢。男は妻を組み伏せ、余裕のある腰づかいで妻を啼かせながら、不意にこちらを見た。
 その顔は赤嶺だった。笑っていた。その笑みを見た瞬間、私は目覚めた。
 眠りながらずいぶんとうなされていたようだ。傍らの妻が、眉をひそめて私を見ていた。

“具合でもわるいのですか。顔色が真っ青。汗もこんなにかいて・・・・”
“いいや。どこもわるくないよ。厭な夢を見ただけだ”
“どんな夢・・・?”


 ―――君を失う夢だよ。


 もちろん、そんなことは言わなかったが。


「ただいま―――」
 言いながら玄関のドアを開いた。いつもならすぐに出迎えるはずの妻が姿を現さなかった。
 風呂にでも入っているのかと思いながら、靴を脱ぎ、部屋に上がった。
 書斎に向かう途中の廊下で、私は愕然とした。
 物置用の小部屋の戸が開かれ、廊下にスーツケースがひっくり返っていた。今度の出張のことを考えて、妻が引っ張り出したものらしい。
 赤嶺から渡されたあの旅行中の妻の写真を、私はこのスーツケースに隠していた。その頃は遼一が私の書斎を使っていたから、他に隠す場所がなかったのだ。
 案の定、妻はその写真を見たようだった。廊下に裸の妻の写真が幾枚か散らばっている。
 私は溜息をついた。
 寝室の戸を開ける。妻はいない。書斎も同じだった。
 玄関に靴はあった。とすると、妻はやはり浴室にいるのだろうか。
 私は浴室へ向かい、戸の向こうから声をかけた。
「瑞希―――いるのか?」
 返事はなかったが、シャワーの音はした。
 仕方なく、私は廊下へ戻り、写真を拾い、スーツケースを物置部屋に押し込んで、妻を待った。
  1. 2014/10/14(火) 00:51:35|
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卒業後 第34回


 かなり長い時間が経過して、ようやく妻が居間に姿を現した。怒っているのか。悲しんでいるのか。判別のつかないくらいに妻は無表情を顔中に装い、私から 離れた場所に腰掛けた。
「あのさ―――」
 何か言葉を繋ごうとしたが、こんなときの常で私には言葉が思いつかない。それを待っていたように妻が「何も言わないで」と低く言った。

「分かっていたことです」
「・・・何が?」
「赤嶺さんがあの写真をあなたに見せること。私の―――羞ずかしい写真」

 装った無表情がそのとき一瞬だけ崩れたのは羞恥のためだったか。
 そして、その一瞬に、私の内側で狂暴なものがざわめいたのはなぜだったのか。

 しばしの沈黙の後、私は背広のポケットに入れていた写真を掴みだした。微動だにしない妻の、瞳だけが動いて、それに一瞥をくれた。わずかな動揺が瞳には しって、妻は視線を逸らした。口元がきゅっと結ばれるのが見えた。

 取り出した写真を、私はテーブルの上に一枚一枚並べていった。
 卓上に、妻の淫靡な姿を捉えた写真が繚乱とあふれた。

「よく―――撮れているな」

 私の呟きに、妻の薄い頬がひくりと動いた。

「とても綺麗に写っている」
「それは皮肉ですか?」

 ようやく妻が喋った。

「素直な感想だよ。赤嶺は写真の腕がいいようだ。瑞希の身体の細部までくっきりと・・・どの写真も私の見たことのない顔をしている」

 言葉を吐きながら、自分の声が他人のそれのように聞こえた。

「瑞希もよく見たらどうだ。自分が写っているくせに、この写真を見たのは初めてなんだろう」

 妻は写真を見るかわりに、私を見た。私も黙ってその目を見つめ返した。そのまま2秒、3秒・・・やがて、妻は一度瞳を閉じ、それから観念したように卓上 の写真に視線を移した。

「どうだ? 俺の言ったとおりだろう。実に綺麗に撮れている。そうじゃないか?」
「いやらしいだけです」
 しゃがれた声で、妻はこたえた。
「写っているのは君だ」

 私は―――頭のどこかで他人事のように考えていた。これではまるで、妻の不貞を詰る夫のようだな、と。けれど、それは事実と異なっていて、最初にけしか けたのは私だったのだ。

 そのはずなのに。
 そのはずだったのに。

 挑むような鋭い視線を写真に向けていた妻の目から、涙が一筋、二筋と流れ落ちた。それなのに妻の嗚咽は聞こえない。妻は声ひとつたてずに泣いていた。唇 を堅く噛み締めたまま。

「どうして・・・泣くんだ」

 妻はこたえなかった。

「哀しいから? 俺といるのが辛いから? 写真の瑞希とはまるで違う。俺といるときの君はいつもそんなふうだ」

 声をたてずに泣きながら、妻は頸を激しく横に振った。

「赤嶺とふたりだけでいるときの瑞希は、まったく違う顔をしているんだろう」
「私は―――いつも私です」

 張り裂けるような声音で、不意に妻は叫んだ。

「あなたは誰よりも私のことを知っているはずなのに・・・それなのに、どうしてあなたはいつもそんなことを」
「知らないよ。俺は瑞希のことなど本当はこれっぽっちも知らなかったんだ。お義兄さんのことも、写真の君がこんな顔をするなんてことも知らなかった」

 義兄の名前を出されて、妻の眸が怯えたように揺れた。細い頸ががくりと落ちた。

「“もうひとりぼっちにしないで”」

 私が口に出した言葉に、妻の肩だけがぴくりと動いた。

「今年の夏の旅行中に、君が赤嶺に言った言葉だ。君は知らなかっただろうが、そのときの会話を俺は聴いていたんだ。大阪で、電話越しに」
「また・・・・私を欺いたんですね」

 その『また』が一昨年の奥飛騨の一件を指していることは、すぐに分かった。

「赤嶺のやったことだ。けれど、そのとき初めて俺は君の本音が聞けた気がする。だから―――あいつには感謝しているよ」

 そう言って歪んだ笑みを浮かべるこの男は、いったい誰なのだろう。

「あのときは・・・身動きがとれない姿にされていたから。羞ずかしい格好のまま、ずっと部屋に置き去りにされていたから・・・・だから」
「写真を撮ってもいい、と言っていたじゃないか」
「早く終わってほしかっただけ・・・・あの時間が」
「もう嘘をつかなくてもいいんだ」
「嘘なんかついていません。あなたに、私は」
「前に赤嶺のことが好きだと言ったね。あれも嘘ではないんだろう」
「あれは・・・・違う」

 違う、違う、違う、と何度も妻は言った。
 引き攣るような声で。

「それなら俺にも見せてくれ。赤嶺に見せた姿を見せてくれ」

 この写真のような姿を、顔を―――そう言って、私は写真の一枚をてのひらで叩いた。

 妻は顔を上げた。その瞳は強い怒りと、同時に深い絶望のようなものをたたえて、私を睨みつけた。

 私を睨みすえたまま、妻は無言ですっと立ち上がった。
 ゆっくりと衣服を解いていく。
 妻は裸になった。

 そして―――写真の妻と同じように、背中に両腕を回した。まるで見えない縄に両の手首をぐるぐると拘束されているかのように。

 その姿勢で、全裸の妻が私を見た。お白州に引き出された罪人のような格好で、しかし妻の瞳は燃えていた。激情に、燃えていた。

「写真と同じにしてくれ。そのままソファに腰掛けて、脚を開いて奥まですっかり見せてくれないか」

 私の声は乾いていた。私の脳も乾いていたのだろう。たがの外れた神経はどこからどこまでも麻痺していて、身体中を逆流しているはずの血の流れもまるで意 識されなかった。

 妻は言うとおりにした。ソファに裸の尻を沈め、すらりと伸びた脚を縦膝にして横に割った。見えない縄に両腕を縛られたままで。
 割り裂かれた脚の付け根。白磁のような太腿と対照的な漆黒の毛叢。その奥に秘められた女の証が、わずかに閉じ目を開いて薄紅をあらわにしていた。

 奴隷そのものの姿を晒しながら、妻の膝はがくがくと震えていた。涙を流しながら私を睨むことをやめない妻の瞳も、がくがくと揺れていた。このまま妻の気 が触れてしまうのではないか、と不安になるほどに。


 違う。そうではない。
 気が触れているのは。
 とっくにおかしくなっているのは。


 意識の声が最後まで言い終える前に、私は立ち上がり、妻を残して居間を出て行った。背後で妻の声が聞こえた気がした。なんと言ったのかは分からなかっ た。何もかもが幻覚に思え、ただひとつ確かな自分の存在が疎ましかった。
  1. 2014/10/14(火) 00:52:58|
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卒業後 第35回

 仕事の都合で予定が早まり、9月に入ってすぐ次の週にはもう私は東京へ旅立ち、妻だけが我が家のマンションに残った。

 夏休暇、そして先夜の出来事と、度々バランスを崩してきた私たちの夫婦関係は、ことここにいたって足元からぐらついていた。普通なら、このタイミングで の単身赴任は、頭を冷やす意味で都合のいい別居なのかもしれない。
 
 普通なら―――

 けれど、妻のひとり残る街には赤嶺がいる。

 だから、東京へ行く前に、赤嶺との関わりをすべて断っておきたかった。けれど、もしもあの夜、私の願いに対して赤嶺が“分かったよ”と答えたとしても、 私の不安は決して消えなかったに違いない。

 ―――信用していないのは奥さんのことじゃないのか。

 そうだ。あいつは的確にそのことを見抜いていた。もしも、赤嶺が関係を終わらせることに同意していても、私はやはり疑心暗鬼に駆られていただろう。私に 隠れて、赤嶺は妻と会うのではないか―――そんな疑念に囚われてやきもきとした毎日を送っただろう。

 つくづく勝手な男だとは自分でも思う。
 自身の欲望にさまざまに妻を巻き込んで、そして私の言うとおりにこれまでの人生を犠牲にしてきた妻を、私は疑っているのだ。

 本当なら、愛想を尽かされても仕方ない。そうも思う。けれど、そう思っているからこそ、妻はきっと私に愛想を尽かしているに違いない、となかば確信して いるからこそ、私は妻の前でどんどん厭な人間になっていく。

 東京へ行く前に、遼一に電話をした。
 時々はマンションに遊びに来て、妻の話し相手になってやってほしい。そう頼むと、遼一は戸惑いながらも「うん」と答えた。
 遼一は優しい少年だ。幼いうちからずっとそうだった。遼一を見ていると、優しさというものは生まれつきのものであると思う。だからこそ、容易に他人に心 を開かない妻も、遼一の前ではあれほど優しい笑顔を見せるのだと思う。
 もしも遼一が今より10も20も年上で、同じように妻からあの笑みを向けられていたとしたら、私は平静でいられただろうか。そんなことを考えて、苦笑し た。いったい何を考えているのだろう。やはり私は病気だ。


 東京の荻窪に会社の用意したマンションがあり、そこで私は暮らし始めた。
 家具つきのマンションであり、家からは最低限の荷物しか送らなかった。そのわずかな荷物も私はほどかないで、ずいぶんそのままにしていた。かすかでも家 の匂いのするものを見るのが、なぜだかそのときの私は怖かったのだ。
 そういうわけでいくつかのダンボール箱が、梱包されたまま狭い部屋に転がっていた。無言で荷づくりをする小さな背中の幻影が、それを見るたび思い出され た。

 別居生活が始り、それでも私と妻はときどき電話をした。
 近況について、仕事について、毎日の生活について。普段と違って会わずにいるのだからもっと話すことがありそうだが、私は無口で、妻はいっそう無口だっ た。
 顔が見えないで話すのは、不安だ。妻の心を測れないでいる今だからこそ余計に。口を開けば先夜と同じように、赤嶺の名前を口に出してしまいそうだった。 話している間すら、今も妻の傍らには赤嶺がいて、笑いながら私たちの会話を聴いているのではないか、という妄想がたびたび私の脳裏を支配した。
 そして私がそんなふうに疑っていることを、妻も気づいているようだった。元来口下手な妻だったが、電話ではいっそ聞き取れないほどかすかな声で話した。

 私は妻と結婚するまで一人暮らしが長かったが、妻にとっては生まれて初めての一人暮らしだった。両親を失ってからはずっと叔父叔母の家で、結婚してから は私とともに暮らしていた。
 ずいぶん昔、そのことを指摘したとき、妻ははじめて気づいたというように少しだけ黙って、それから、「でも・・・叔父の家でも一人暮らしのようなもので した」と言って、淋しそうに微笑ったことがある。
 東京での生活を始めた私は、夜寝る前などに時々、そのときの妻の言葉と表情を思い出した。そして、私との結婚生活でも妻は一人暮らしのような淋しさを感 じていたのでないか、と思った。そう思うたび、やりきれない気持ちになった。


 妻を東京へ呼んだのは、11月の初旬のことだった。
 電話で話していて話題が尽きた際に、私は「一度、東京へ来てみないか」と誘ってのだった。単身赴任を始めて、週末の休みに幾度か大阪の我が家へ帰ったこ とはあるが、妻が東京へ来たことはなかった。
「・・・いいんですか?」
「ああ。今週末なら仕事にも余裕があるから。瑞希は東京を訪れたことがないんだろ」
 案内するよ、と言うと、妻は低く「うれしい」と答えた。
「じゃあ、今週末に。新幹線で来るだろう。駅で待っているから、また時間を教えてくれ」
 一息に私が喋った後、しばしの沈黙の後で、妻は「あの・・・・」と言った。
「何?」
「実は・・・・大切なお話があるんです」
 そう言った。その声がいつにもましてか細く、そして切実だったので、私の身体は凍りついた。
 ついにこの瞬間がきたのか―――と、そのとき私は思ったのだった。「大切な話」とは私との離婚に関する話に違いない。何の疑いもなく、私はそう感じた。
「東京で聞く」
 やっとのことで私は言った。ようやく絞り出したその声が予想外に強い調子だったので、電話越しにも妻がびくりとしたのが分かった。
「じゃあ、今夜はもう遅いから俺は寝るよ」
 妻が言葉を続けるのを恐れるように、私は一気に言葉を重ねた。妻はしばらく黙った後、「分かりました」と答え、それから「おやすみなさい」と言って電話 を切った。
 通話が途切れた後も、私はその場を動くことが出来ず、握りしめた受話器を睨みつけていた。
  1. 2014/10/14(火) 00:54:30|
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卒業後 第36回

 その週末、私は新横浜の駅に妻を迎えにいった。

 少しばかり遅れていったのだが、あらかじめ伝えておいた待ち合わせ場所に妻はいなかった。妻は携帯を持っていないので、こういうときは困る。じりじりと 待っていったら、ようやく妻があらわれた。

「ごめんなさい。ちょっと迷ってしまって」
 しばらくぶりに見る妻の顔色は少し蒼褪めていた。普段あまり出歩かないから、人あたりしたのかもしれない。都会の人ごみのなかで見る妻は、いつもより小 さく見えた。
「いいよ。とりあえず、どこへ行こう」
「どこって・・・私は初めて来たんですよ」
「そうだけど」妻の体調がよくなさそうだから、あまり歩き回るのも疲れるだろうと私は考えたのだ。「とりあえず、その荷物を持つよ」
「ありがとうございます」
 妻のバッグを受け取りながら、私は彼女の空いた左腕に自分の右腕を絡ませようとして、やめた。

 東京をまわるのは明日にして、私は妻を連れて横浜の馬車道へ行った。
 レトロな雰囲気を残した街並みを連れ立って歩きながら、私は内心で妻がいつ「大切な話」を切り出すのか、とそればかりを考えていた。
 私と離れたこの二ヶ月の生活の中で、妻はひとり思い、考えてきたのだろう。これまでのこと、私とのこと。それで妻が何か決意して、今日そのことを私に伝 えようとしているのなら、答えは分かりきっていた。
 滑稽なもので、その瞬間が訪れることを何より恐怖し、どうしても避けたいと思いながら、実際に私の脳裏を支配していたのは妻がいざ離婚話を切り出したと き、自分がどのような顔をするか、という問題だった。見苦しい懇願、激昂した表情、そのどれも私は妻に見せたくなかった。そんなことを考えながら、結局、 私は『卒業』のベンジャミンのように、愛した女の心をつかむために見栄もプライドも捨てさることが出来そうにない、本当に小さな男だったのだと心の中で自 嘲した。あの映画を昔、妻と見たときにおぼえた他愛ない感慨が、これほど我が身に迫ってくる日がこようとは想像もしていなかったのに。
 傍らで歩く妻の横顔を見た。先程よりは血色が戻り、薄曇の光のなかで静かに前を向いている妻の顔。長い睫毛のつくる繊細な影と、下瞼のふくらみに今さら ながら色気を感じた。
 そして、赤嶺のことを思った。私と別れた後、妻は赤嶺のもとへ行くのだろうか。赤嶺のあの太い腕がこの細身を毎日のように抱く日が来るのだろうか。
 本人がいくら否定しようが、妻が心のある部分であの男を受け入れていることは分かっている。おそらくその下地は妻の中にすでにあって、それはかつての彼 女の中で義兄の存在が占めていた部分であったが、この一年のうちで赤嶺の影がそこに重なるように大きくなっていったのではないか。その部分が私の占めてい た位置よりも大きくなったということではないだろうか。
 私と別れた妻を、赤嶺はどうするのだろうか。一緒になることはないだろう。それは私との義理の問題ではなく、あの男は生来、結婚というシステムを嫌悪し ているからだ。
 あの男は―――


 ―――ふふふ、たしかに奥さんは最高の素材だと思うよ。あれほど演技の出来ないひとも珍しいからな。
 ―――男殺しの身体。ぞくぞくするような声色。それこそ昔の吉原にいたら、毎日でも遊びたいという輩がいたろうな。


 最後に会ったとき、赤嶺が妻について語っていた野卑な言葉を思い出した。あのとき、たしか赤嶺は自分の商売について、つまりヴィデオ撮影について語って いたのだが、その関連であの男は妻のことを話題に持ち出したのだ。
 まさか―――な。そんなことはありえない。一瞬、脳裏に浮かんだ不穏な想像を、私は打ち消した。いくらあいつでも、そこまでのことが出来るはずがない。 第一、妻が拒否するだろう。


 ―――俺の芸術だよ。


「潮の香りがしますね」

 不意の妻の声で、私の意識は現実に戻った。
 いつの間にか、海岸通りを過ぎて、万国橋の手前に来ている。
 吹きよせる潮風に目を細め、妻は私を振り返った。
「この先に横浜港があるのさ」
「私って、海、好きなんですよ。子供の頃に見たことがなかったから」
「そうか。京都は海が―――」
 言いかけて、やめた。内陸部のイメージが強いが、京都も日本海側で海に面している。妻とも訪れたことがあるではないか。―――あの天橋立の海を。
「この辺り、もともとは外国の方がたくさん住んでいた土地ですよね」
 いささか自信なさそうに、妻が問う。
「そう、旧居留地というのかな」
「赤い靴はいてた女の子、異人さんにつれられて行っちゃった・・・・って歌がありましたね」
「よこはまの波止場から船に乗って・・・というやつか」
「あの歌、子供の頃に聞いて、とても怖かったの」
 とっても、ともう一度妻は繰り返した。
「実際は、アメリカの牧師夫妻に養女に出された女の子をモデルにした歌らしいけどね。結局、その女の子はアメリカへは行けなかったみたいだけど」
「どうして?」
「結核にかかっていたらしい。横浜の孤児院で亡くなったそうだよ。たった9歳で」
「そう・・・・可哀想」
 低い声で妻は呟き、赤い靴の女の子を悼むように、その一瞬、すっと瞳を閉じた。


 横浜をまわって、荻窪のマンションにつく頃にはもう日が暮れていた。

「雨が降ってきたようですね」
 狭いマンションの一室で、久々の妻の手料理をつついていると、妻がぽつりと言った。耳を澄ませてみると、たしかに窓の外からかすかな雨音がした。
「本当だ。明日は晴れてくれるといいけど」
 そうですね、と妻は答えたが、その声は心ここにあらずという感じだった。

 私は―――箸を置き、妻の顔を真正面から見た。妻は長い睫毛を幾度かしばたたいた。

「瑞希」
「はい?」
「電話で・・・言ってたろう。大切な話がある、と。そろそろ聞かせてくれないか」

 待つことに焦れた私は、結局自分からその話を切り出したのだった。切り出して、全神経で身がまえていた。

「私も・・・・そのことをずっと考えていました。あなたに言わなければならないことを」

 妻は呟くように言い、それから正座した身体をすっと伸ばした。
 自らの心音が耳にまで届いているような、そんな心地を私は味わった。
 大きな瞳が私を見る。

「私・・・・妊娠しています」
  1. 2014/10/14(火) 00:56:13|
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卒業後 第37回

 頭の中が真っ白になる―――

 その慣用句がおそろしいど正確な表現だったことを、その瞬間の私は身をもって体験した。
 ぐらり、と胃の腑が揺れた。


「まだ一月目なんですけれど―――」


 頭蓋の中身だけでなく、視界までもが真っ白だ。途切れた世界の中でおぼろな声だけが聞こえた。


「喜んで―――くれないのですか」


 この女は何を云っているのだろう。


「あなたの―――あなたと私の子供ですよ」


 私の子供―――?



 その瞬間に、私の意識は現在へ吸い寄せられた。
 妻がいる。戸惑ったような、不安そうな表情を浮かべている。

「俺の子供・・・・?」
「あなたの他に・・・誰が父親だと仰るのですか?」

 妻は微笑った。本当に哀しそうに。

「―――いつ?」
「たぶん・・・九月の末にあなたが大阪に帰ってらっしゃったときに・・・あのときに」

 羞ずかしげにうつむきながら、妻はこたえる。
 その仕草が不思議なほどなまめかしくて、私はまるで見知らぬ女がそこに座って私と話しているような気がした。

 東京へ単身赴任してからも、私は幾度か大阪へ帰っている。それはたしかだ。妻の言うとおり、九月の末に私は帰り、そして妻を抱いた。
 けれど―――

「君は・・・ピルを飲んでいたのじゃないのか」

 正確には一年前―――赤嶺との関係が始ってから、妻はピルを服用し始めたはずだった。

「八月の旅行から帰ってきて、それ以来飲んでいませんでした」
「なぜ?」

 妻はちらりと私を見た。

「不安だった―――からです。このままでは、もう、あなたと夫婦でいられなくなるとずっと思っていました。だから」

 だから、確かなものがほしかったのだ―――と、眼前の女は云った。

「あなたに何も言わずにいたことはお詫びします。ごめんなさい」

 妻は私に向かい、頭を下げた。

 私は沈黙した。ずいぶん長いこと。
 再び顔を上向けた妻は、そんな私を静かな瞳で見つめていた。

「都合が―――よすぎないだろうか」

 ようやく口を開けるようになった私から飛び出したのは、そんな言葉だった。
「え・・・・?」
「俺と瑞希は結婚してもう五年になる。ここ一年は除くとしても、その前の四年間はいっこうに子が出来る兆しがなかった。正直に言うと、俺は、俺か君のどち らかの身体に問題があるんじゃないかと疑ってすらいたんだ」

 そして私は、それでもいいと思っていた。
 妻さえいてくれるならば。

「遼一が我が家に来ている間、そして瑞希があいつとの旅行から帰ってきてから、俺と君は数えるほどしか、していない。それなのに」

 それなのに、妻は孕んだのだ。

 私は言葉を詰まらせて、目の前の妻を見た。知らず知らず私の視線は、彼女の下腹の辺りを向いていた。服の上から見るそこはまだわずかのふくらみも見えな いのに、見慣れたはずの妻の肢体がまったく違うものに見えていた。

 私の言葉に、妻は少し身じろぎした。そして一瞬あらわにした動揺を隠すように両手を膝の辺りでぎゅっと組んだ。

 私はそんな妻の仕草をじっと見つめていた。

「あなたが仰りたいことは・・・・なんとなく分かります。いえ、分かっていました。ずっと・・・あなたがそう仰るんじゃないか、そればかりを考えて、私は 今日この日がきて、あなたにこの子のことを伝えるのが怖かったの」


 嬉しかったのに、ね。


 うつむき、小さな手ですっと下腹の辺りを撫でながらそう囁いた声は、私ではなく、別のものに向けて語られたような気がした。

「厭な想像が当たってしまいました。あなたはやっぱり疑っているんですね、私のこと」
「疑いたくはない、けれど」
「夏からずっと、あのひととは会っていません。本当です」
「―――――――」
「もちろん子供が出来るようなことも・・・・決して」

 目元を紅く染めながら、妻は必死な声で言う。

 息苦しい沈黙が落ちた。

 もしこれが何でもない普通の夫婦の間に起こった出来事なら、それは喜ぶべきことだったろう。私たちは結婚して五年もの間、子を持つことがなかった。私は 平気だったが、妻はひそかにそのことを気にしていたのかもしれないし、遼一が我が家に来ていたときは母親の京子のことを羨ましいと言ったこともある。
 だから、喜ぶべきこと―――なのである。

 しかし―――

 この数ヶ月間は私と妻が結婚して一番、性交渉を持たなかった時期だった。遼一が来ていたこともあるし、何よりもあの男のことで夫婦間が緊迫していたから である。九月末に私が帰った日の夜と、妻は受胎の月日の見当を口にしたが、妻の言うその夜ですら私と彼女は三十分も抱き合っていなかったように思う。果て るとき、妻のなかに出したのかどうかすら、私の記憶にはなかった。それくらい、淋しい交わりだったのだ。


 もちろん―――私は信じたかった。
 妻のようやく孕んだ子が、私の子でもあると信じたかった。


 しかし―――この数ヶ月、私のいない家で、妻はずっと私の知らない時間を過ごしていて。

 妻のすぐ近くには、あの男がいて。


 最後に会ったとき、あの男は何と言っていただろうか。


 ―――ありえない話だと―――思うかね。


 そう、言っていた。


 沈黙は続いている。
 考え込むときの癖で、私は煙草のケースを取り上げたが、咎めるような妻の顔に気づいた。


 ああ―――そうだ。


 妻は身ごもっているのだ。


 母親なのだ。


 そして父親は―――


「瑞希。冷静に話を聞いてほしい」
「・・・・はい」
「俺には確信が持てない。その子の父親だと・・・自分自身に言い切る自信がないんだ」

 妻は哀しげに頸を振った。

「あなたの子供です。きちんと検査すれば分かるはずです」
「それは子供が生まれてきてからの話だろう」


 DNA鑑定でも何でもいい。
 検査の結果で、もし否が出たら。


 そのときは―――地獄だ。


「だったら・・・どうしろ、とあなたは仰るのですか。この子を堕ろせと・・・そう言うの」

 その質問に私が答えなかったことが、妻にとっての回答となった。

「私はもう若くありません。これが最後の機会かもしれないんです」
「今まではあまり子供のことを口にしなかったじゃないか。どうして今になってそんなに拘泥するんだ」


 その発言は、決して声に出してはならない言葉だったのだろう。


 妻は大きく瞳を見開いた。
 ひゅう、という音が、彼女の喉から漏れ聞こえた。


 これまでの人生で苦しかったことは多々あるけれど、これほど苦く辛い瞬間は私にはなかった。


 ふらり、と妻が立ち上がる。
 その瞬間の妻が、私にはまるで幽霊のように見えた。


「昔―――まだ私の両親が生きていた頃―――」


 今までと、まったく違うトーンの声が、した。


「私は小学校にあがってまだ間もなくて・・・その日は・・・家族総出で買い物に出かけていて・・・。お父さんがいて、お母さんがいて、私は真ん中でふたり に手を握られていました。余った手でお父さんは買い物袋を抱えていて、お母さんは時々面白い冗談を言って・・・それでみんな笑って・・・。でも、長い交差 点にさしかかったとき、何かのはずみで私はふたりの手から放れて、ひとりだけ先にててっと走っていったんです。そうしてふたりを振り返った―――」


 妻の長い髪が、はらりと落ちた。


「その瞬間、私の目に飛び込んできたのは、信号を無視して突っ込んできた乗用車でした」


 妻の両親が交通事故で亡くなったことは、以前に聞いていた。


「どうしてなのか分かりません。私が両親についてはっきりと覚えている記憶は、後にも先にもそれだけなんです。もっと幸せなことが、もっと大事なことが あったはずなのに。それなのに、ふたりが自動車にはねとばされて、永遠に私の前からいなくなってしまった・・・そのときの光景だけが、ずっと―――」
「瑞希―――」
「今までも、私は怖かった。あのときのように一度手を放してしまえば、私の大切なものは永遠に消えてしまう。そんなイメージがずっと頭の中にあって――― でも大切にしようとすればするほど、私の掌からは何もかもが零れていってしまう。失ってしまうの」


 見上げた私の視線に、妻はくるりと背を向けた。


 私は立ち上がって、妻の肩先にそっと手を置こうとした。妻は激しく肩を震わせ、私の手を強くはらった。


「放っておいてください!」


 悲鳴のように妻は叫んだ。


 振り返った切れ長の瞳が私を睨んでいた。その瞳から涙が一雫こぼれ落ちたのが私の目に映った瞬間、妻は身を翻して部屋を出て行った。すぐに玄関のドアが 音を立てた。

「待て!」

 慌てて、私は妻の後を追った。玄関のドアを開けると、先程妻が言ったように雨が降っていた。
 廊下の向こうで、一基しかないエレベータの扉が閉まるのが見えた。
 階段を駆け下りた。ロビーで妻の姿を探したが、見つからない。

 私は走った。
 駅までの道を、ずぶ濡れになりながら。

「雨だというのに」

 途中で幾度か呟いた。
 そうだ。雨だというのに。
 こんな時刻に。どこへ行くというのだ。


 結局、私はその夜、二度と妻を見つけることが出来なかった。
 その後のことは、まだ、知らなかった。
  1. 2014/10/14(火) 00:57:37|
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卒業後 第38回

 季節は秋から冬へ移り変ろうとしている。
 初めて過ごす東京の冬。私はひとりだった。

 先夜、私の部屋を飛び出していった妻は、朝になっても戻ってくることはなかった。
 そのまま大阪のマンションへ帰ったのだろうか。
 何度か自宅に電話したが、妻が電話を取ることはなかった。家の電話には着信時に番号が出るようになっている。私の携帯番号を見て、妻は電話を取らないで いるのかもしれない。
 また、妻と話せたとして、私はいったいどうするのか。

 ―――あなたと私の子供ですよ。

 妻の言葉を、私は信じきることが出来なかった。
 信じたかった。けれど、もしも―――子供の父親が私ではなかったなら。
 妻とあの男がまだ関係を持っていて、お腹の子の父親が赤嶺だったなら。
 想像しただけで、私の正気はその事実に耐えられそうになかった。

 けれど―――

 あの夜部屋を飛び出していった妻の幻影は、いつまでも心の底に巣くって、夜毎に私を苦しめた。私の抱いた疑いがすべて妄想で、妻の訴えたことが真実な ら、私は今度という今度こそ彼女を精神的に追い詰めてしまったのだろう。
 救いようがない。
 どちらにせよ―――私は彼女と話さなければならない。時は止めようがなく過ぎていく。妻のなかに宿った新しい命が日々成長していくのと同時に。
 あの夜は雨が降っていた。身重の身体を雨に打たれた妻は無事でいるだろうか。それも不安だった。

 しかし、東京での仕事は苛酷で、先週休みを取ったことも影響して、次の週末は働きづめだった。大阪へ帰ることも出来ず、電話は相変わらず繋がらないまま だった。京子にでも電話して妻の様子を見に行ってもらおうかと考えたが、そのための口実が思いつかなかった。たとえ肉親でも、私たちの事情は打ち明けられ ない。妻の様子も普通ではないだろう。
 そのまま一週間が過ぎ、十日が過ぎた頃のことである。その日も深夜に帰った私はマンションの郵便受けに手紙を見つけた。
 妻からの手紙だった。
 短い文面であった。しかし、それは私の心をかき乱すのに十分な重さを持っていた。


 ―――大変なことをしてしまいました。


 そんな一行で。
 手紙は始っていた。


『大変なことをしてしまいました。
 もう二度と、あなたに会わす顔がありません。
 本当にごめんなさい』


 短い手紙と一緒に、妻の名前の書かれた離婚届も同封されていた。

 何だろう、これは。

 わずか三行の文章を何度も何度も読み返したが、私の心は空っぽになったようで、頭は今の状況について明確な像を結んでくれない。
 筆圧の強い筆跡はたしかに妻の手になるものだが、普段は几帳面な文字が乱れている。それは書いた人間の動揺をあらわしているのか。
 妻がしてしまったという『大変なこと』とは、いったい何なのだろう。

 子供のことだろうか。

 私は考えた。
 妻に宿った子供はやはり赤嶺の子で、彼女はそれを知りながら私に嘘をついていたのだろうか。この手紙はその告白と謝罪なのか。
 あの夜に見た妻の涙、あれも嘘だったのだろうか。

 ―――放っておいてください!

 あの激情も。
 嘘だったのだろうか。


 ―――お前にも、俺にも、奥さんにも、ひとりの男として女として選択する権限がある。

 夏の終わりに、あの男が言っていた言葉を思い出した。
 掌で広げた離婚届を、あらためて私は見つめた。
 妻の下した選択を。

 震える手で受話器を取り上げ、妻に電話をかけた。
 しかし、繋がらない。
 もうあのマンションにはいないのだろうか。
 妻は出て行ったのだろうか。

 俺に、一言も言わせないで終わるつもりなのか。

 いない妻に呼びかける。
 私のせいだと言うことは分かっている。けれど、夫婦として暮らした五年間が、こんな紙切れ一枚で終わる現実に、私の胸は潰れそうだった。


 翌日の朝、私は京子に電話をかけた。
「ああ、兄さん。どうしたの?」
「―――頼みがあるんだ」

 妻の様子を見に行ってほしい、という不思議な頼みを、妹は不審そうに聞きながら了解した。
「いいけど・・・後で詳しい事情教えてね」
 私は曖昧に返事を濁した。
「じゃあ、午後から兄さんのマンションに行くわ」
「ありがとう」
「それと・・・・これはこっちの話なんだけど、遼一の様子が少しおかしいのよ。なんだか落ち込んでいるみたいで、ろくに話もしようとしないのに」
「受験が迫ってナイーブになっているんじゃないか」

 言葉とは裏腹に、私の知る遼一は自らが大変な状況のときほど、周囲に心配をかけまいと陽気に振る舞ってみせるタイプの少年だった。

「そうかもしれないね。私、遼一に無理をさせてるのかな?」
「京子のせいじゃないさ。あいつはそんなことを気に病むような奴じゃないよ」
 京子にはすまなく思うものの、そのときの私には遼一の心配までしている余裕はなかった。
 ともあれ妻のことを頼む、と最後に言って電話を切った。


 その日は一日中、仕事が手につかなかった。
 妻のことばかり考えていた。
 五年間。そう、わずかに五年の間だったのだ。今まで妻とともに過ごした年月は。
 もうずっと長く、一緒にいたような気がしていた。けれどたった五年前まで、私たちは顔を見知ることもなく、それぞれ別の人生を歩んでいた。
 どうしてだろう。夫婦が危機になってから、妻は自分の過去についてそれまで語らなかったことを幾度か話した。あれは何かのサインだったのだろうか。
 出会った頃の妻は、ほとんど自分のことを話さなかった。見合い結婚だったから、私は私が知る以前の妻が何を考え、どんなふうに日々を過ごしていたのか知 りたかったのに。けれど、妻は昔のことについてはひたすらに無口で、私の問いかけにも黙りがちであった。私はそんな妻のよそよそしさに苛立ったものだが、 妻は妻で抱え込んだ重い過去とずっと戦っていたのかもしれない。妻にしてみれば、それまで縁もゆかりもなかった私という見知らぬ男と一緒になることは、普 通の女性がそうである以上に大変なことだったのかもしれない。
 人生は抱いた夢や幻想が次第に醒めていく過程だと、誰かが言っていた。私は先夜、妻が出て行く前に話した、彼女の両親の亡くなったときの情景を思い描 く。突っ込んでくる車、一瞬で消え去った最愛の人、その光景の一部始終を見つめていたのはわずか8歳の少女だった。普通ならまだ夢や幻想にくるまれて幸福 に笑っていられる年頃で、彼女はそんな人生の深淵に触れてしまったのか。


 ―――大切にしようとすればするほど、私の掌からは何もかもが零れていってしまう。失ってしまうの。


 彼女自身が口にしたように、妻はようやくその事実を芯から受け入れたのかもしれない。
 夢から醒めたのかもしれない。
 その結果が、私との離婚だったのかもしれない。
 もしもそうなら―――その夢の中でさえ、あまりにも私は妻に幸せをあげられなかったと思う。
 むしろ、私は彼女からあまりにもたくさんのものを奪ってしまった。
 わずか五年。その五年の間に、妻が心の底から笑い声をあげたことが幾度あっただろう。
 妻はいつもどこか淋しそうに微笑った。
 そんな表情をしているとき、彼女はいったい何を考えていたのだろう。
 妻が別れるというのなら、私にそれを引き止める権利はない。とっくにない。それは分かっているけれど、最後にもう一度だけでも話をしたい。話を聞きた い。今までもたくさん時間はあったのに、私は今頃になって痛切にそれを望んだ。
  1. 2014/10/14(火) 00:59:18|
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卒業後 第39回

 仕事から帰って、京子に電話をかけた。

 合鍵の場所を教えて、部屋の中にまで入ってもらったのだが、やはり妻はいなかったらしい。
「義姉さんが帰ってきたら兄さんに連絡するよう、一応、書置きを残してきたけれど・・・やっぱり警察に届けたほうがいいんじゃない?」
「それは・・・・駄目だよ。話を大事にしたくないし、第一、事件性がない自主的な失踪の場合、警察は動かないから」
 手紙の内容からして、妻が自分から出て行ったことは間違いないのだ。

 また連絡する、と言って、私は電話を切った。


 夕食をとりに近所のファミレスへ行った。
 晩秋の雑踏はせわしなく、誰も彼もが早足でどこかへ向かっている。
 吐く息は、もう、白い。
 私はかじかんだ手をコートのポケットに突っ込み、明かりに誘われる蛾のように街をふらふらと歩いた。

 ファミレスの店内に入り、こわばった身体を温める。こわばった頭を動かそうと努力する。考えなくてはならない。これからのことを。
 会社帰りに郵便局に寄って、通帳の残金を調べてみたが、余分に引き出された形跡はなかった。妻は金もろくに持たずに消えてしまったらしい。身重の身体 で。
 行き先はどこか。妻の場合、実家ではない。というよりも、妻に実家はなく、彼女が育った京都の叔父夫妻の家とは以前から疎遠だった。どんな非常事態でも その京都の家へ戻る、という選択肢は妻の性格からして考えられない。
 他に懇意にしている友人も親戚も、妻にはなかった。
 だとすれば―――
 いや、こんなことは考えないでも分かっていたことなのだ。妻がいなくなったら、行き先として私が疑うべき場所はそこしかなかった。ただ、考えるのを避け ていたかっただけなのだ。


 ―――ふうん。もしも奥さんがお前を捨てて、俺のもとに走ることになってもお前は許すのか?


 さりげない口調であいつがそんな台詞を口にしたのは、そう、まだ季節も夏の頃だった―――。


 三度目のコールで赤嶺は電話を取った。
「大阪へ戻るまで、連絡は取らないという話じゃなかったか?」
 第一声とは裏腹に、赤嶺は私の電話を予期していたような口ぶりだった。
「今、どこだ」
「もう帰って自宅にいるよ」
「―――そこに瑞希はいるのか?」
 一息に言って、私は赤嶺の返事を待った。
 しばしの間の後、赤嶺は素っ気無く答えた。
「ああ、いるよ」
 私は―――
 ぎりっと唇を噛んだ。
「電話をかわってくれ」
 また、しばしの間。
「―――話せないと言っている」
「そんなわけにはいかない。大切な話なんだ」
「まあ、落ち着けよ」ライターに火を点ける、かちりという音が受話器越しに聞こえた。
「瑞希の身体のほうは大丈夫なのか? 妊娠のことは・・・知っているんだろう?」
「―――ああ」
「お前の、子供なのか」

 妻の子はお前の子で、だから、いよいよ妻はお前を選んだのか。
 お前が妻を孕ませたのか。

「奥さんは無事でいるし、体調のほうも問題ない。心配するな、俺はお前よりもずっと女の身体のあつかいにはくわしいんだ」
 赤嶺は私の質問の後のほうにだけ、しゃらりと答えた。
「一時期はかなり精神的に錯乱していたけれど、最近は落ち着いてきたようでね。今は腹の子供を無事に産むことだけを考えている。奥さんが望むのなら、俺は 出来るかぎり、その援助をしてやるつもりさ」
「いつからそんな慈善家になった? やはりお前が」

 ―――父親なのか。

「見当違いな意見だな。まあ、奥さんは俺にとっても大事なひとだがね。だが、どのみち、俺は男であれ女であれ、ギブ・アンド・テイクの関係しかとらない人 間さ。お前もよく知っているだろう」
 含みのある言い方を、赤嶺はした。
「ギブ・アンド・テイク?」
「俺はお前に普通じゃ味わえない快楽を提供してきた。俺は俺で、その関係を楽しんできたがね。今は奥さんとの個人契約さ。奥さんの望みを叶えてやるかわり に、俺は俺の望みを奥さんに叶えてもらう。奥さんも―――それは承知でいる」
「お前の望み―――?」
 私はマンションの机に置きっぱなしになっている離婚届を思い出した。
 妻と私が離婚すること―――それがこの男の望みなのだろうか。
「お前が考えていることはなんとなく分かるが、たぶんそれは違っているな。どちらにせよ、賽は振られたんだ」

 もう後戻りは出来ないぜ―――

 無表情な声音で赤嶺は言った。それは私に向かって発せられたようにも、自分自身に向かって言っているようにも聞こえた。
 普段はこの男の精神の底に沈められている狂気のようなものがうっすらと表面に浮かび上がってきたように、そのときの私は感じた。
「・・・俺にはお前が何を言おうとしているのか分からない」
「そのうち分かる―――かもな」
 ぞっとするほど醒めた声で、赤嶺は答えた。
「俺の今の望みは、瑞希と直接話すことだけだ」
「向こうがそれを望んでいない」
 冷徹に赤嶺は言い放った。
「そして俺も今は、仕事のほうが忙しいんだ。ちょうど有望な新人女優が入ったところでね」

 久々に仕事への意欲で燃えているところさ―――

 赤嶺は言った。

「悪いが、俺にとって今の優先順位はそちらにある」
「お前の事情なんて知らない。とにかく話し合いの場を持ちたい。俺と、瑞希と、お前と三人で」
「今さら話すこともないと思うが―――考えておくよ」

 待て―――と叫んだときには、電話はもう切れていた。
 料理を運んできたウェイトレスが、驚いたように私を見ていた。
  1. 2014/10/14(火) 01:00:49|
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卒業後 第40回

 次の日曜日、ようやく休みがとれて私は大阪へと帰った。

 梅田からそのままT市にある我が家のマンションへ向かう。
 当たり前のことだが、妻はいなかった。
 テーブルの上に、京子が残していった書置きがある。
 それ以外は、これといって変わったところはなかった。
 いつものように整然と片付いて、乱れたところが少しもない。

 ―――伯母さんは潔癖症なのかな。

 毎日毎日飽きもせず掃除ばかりしている妻に、目を丸くした遼一がそんな感想を言ったこともあったっけな。

 照明もつけない薄暗い部屋の中で、私はぼんやりとそんなことを思った。
 たとえ妻がいなくても、この部屋には妻の残影のようなものが色濃く漂っていて。
 それが辛かったから、私は早々にマンションを後にした。
 逃げるように、我が家から。いや、もうそこは私の―――私たちの家ではなかった。


 赤嶺の家のあるマンションに辿りついたのは、もう日も落ちかけた頃だった。
 都心にあるこのマンションはセキュリティーが厳しく、カードキーがなければロビーを通ることも出来ない。
 私は出入り口の横にあるインターフォンに、赤嶺の部屋番号を押した。
 応答がない。
 不定休の赤嶺は仕事で家を出ているのかもしれない。
 妻は―――いるのだろうか。

 ―――いるのなら出てくれ。

 祈るような気持ちで何度もインターフォンをかけたが、結果は空しかった。
 私は玄関から少しはなれた場所へ行き、マンションの上階を見上げた。
 あの部屋だ。
 あの部屋に―――妻が。
 妻と赤嶺が、今はともに暮らしているのだ。
 夕焼けの残光に照らされたオレンジ色の窓を眺めながら、私はもしかしたらそこに映るかもしれない人影を幻のように追い求めた。


「おい―――」

 不意に、背後から声をかけられたのは、それからどれくらいの時刻が経過した頃だったろうか。
 振り返ると、闇に閉ざされた世界でそこだけ明るい街灯の下に、黒衣を着た大きな男が立っていた。
「赤嶺―――」
「いったいいつからそこに立っていたんだ。傍から見れば完全に不審者だぜ」
 呆れたように言いながら、赤嶺の鋭い眼光がゆるむことはなかった。
 暗闇の中で私は赤嶺と対峙した。
「―――用件は分かっているだろう。瑞希に会いに来た」
 赤嶺の眼光はゆるまない。
 動かない。
 ただ私を見つめている。私は内臓までめくり返されて私のすべてを見られているような心地がする。
 私にはこの男の内側など、まるで測り知ることが出来ないのに。
 前触れもなく、赤嶺はついと歩みを前へ進めた。
 私を通り抜け、マンションの玄関へ向かう。
「待てよ!」
「付き合ってられんね。出直してくれ」
 むしろ軽やかに告げて、赤嶺はカードキーをセキュリティーに通す。
 硝子の扉が開く。
 あの扉の向こうの階段を駆け上がれば妻に会える。
 一瞬のうちに私の脳裏を占めた思考はそれだけだった。
 私は走った。
 ―――その肩を。
 赤嶺の手が押さえつけた。
「ここはお前の家じゃないぜ」
 ぐいっと引き戻され、私は大理石のうえに尻餅をついた。
「―――そして奥さんはもう、お前の女じゃない」
 妙に淡々とした声が頭上から聞こえた。
 声の主を見上げたときにはすでに、赤嶺は硝子扉の向こうへ消えていた。
「待て。そんな言葉で納得出来るか!」
 私は叫ぶ。赤嶺が振り返り、口を開いた。その声は低く、かすかで私の耳には届かなかったが、なぜか私には赤嶺が何を言ったのか、分かった。


 納得とかそういう問題じゃない。
 それが事実なのさ。


 そんな言葉を残して。
 赤嶺はエレベータに乗り込んでいった。


 悪夢が現実になった。
 そんな気分だった。
 赤嶺は本当に私から妻を奪い去ろうとしている。
 いや、そうではなく―――
 過去形で語ったほうが正しいのかもしれない。
 ―――奪い去った、と。
 もっとも妻は赤嶺に幽閉されているわけではない。
 自ら飛び込んでいったのだ。
 あの男のもとへ。
 ならば、奪い去られたのは心だ。
 妻の心。
 かつて私とともに在ったもの。
 私が手放してしまったもの。
 
 一昨年の夏、奥飛騨の宿で、赤嶺の太い腕が妻の裸身をかき抱いたとき。
 赤嶺にいざなわれ、至上へと導かれていく妻を見たとき。
 その姿があまりにも美しくて。
 果敢無くて。
 私の目にはその瞬間のふたりがまるで異世界の住人のように映じた。
 今の私はひとりで。
 道行く人々はすべて他人で。
 何のことはない。
 異邦の徒は―――私だったのだ。


 その夜、どうやって家路についたのか覚えていない。
 そして私の辿った家路は、かつて私たちが暮らした部屋ではなく、東京の冷たい一室へ続いていた。
 家の扉の前に、細い影が立っていた。
 見憶えのある輪郭。
 弱々しい声がした。

「伯父さん―――」

 遼一の声だった。
  1. 2014/10/14(火) 01:02:03|
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卒業後 第41回

 温かいものを作るためにガスレンジの前に立ったが、私の台所は哀れなもので、インスタントのスープくらいしかなかった。それでもないよりはマシだろう と、やかんで湯を沸かす。
 ワンルームの居間兼寝室では、遼一が電気ストーブの熱に当たっている。
 先程、部屋のドアの前に立っていたときの遼一は、粉をふいたように白かった。今こうして眺めてみても、以前会ったときより幾分か痩せたように見える。
 カップに入れたスープを持って、遼一のもとに持っていった。
「ありがとう」
 スープを受け取りながらも、遼一は私の目を見なかった。
 どう見ても様子がおかしい。だいたい、なぜ遼一がこんなところに―――東京にいるのだ?
 ふと、私は見た携帯の画面に、二度ほど京子からの着信があった。私は私で今日はずっと気が動転していたので、気づかなかったのだ。
「お母さんから電話があったようだ」
「―――僕がいなくなったからだと思う」
 言葉少なに遼一は答えた。
 やっぱり、そうか。
「いつから?」
「昨日から」
「なんで今の時期に家出なんか・・・」
 そもそも家出という言葉と、遼一のキャラクターが結びつかない。
「どうしても伯父さんに会わなくちゃと思って」
 それまでの弱々しい口調とはうってかわって、思いがけず激しい調子だった。
 自分の声にはっとしたように、遼一は私を見た。
「それじゃ、家を出て、まっすぐここへ来たのか」
「うん、ずいぶん迷って時間がかかったけど」
 それじゃあ昨夜はどこに泊まったんだ。そう私が聞く前に、遼一の声が私の言葉を遮った。
「伯母さん・・・いなくなってしまったんでしょ?」
 遼一の口から出た「伯母」という単語が、一瞬、妻と結びつかなかった。
 しかし、次の遼一の一言はさらに予想外だった。
「伯母さんが出て行った原因は・・・たぶん僕なんだ」


「それは―――」
 私は呟いていた。

 それは―――どういう意味なのだ?


 私の疑問は最後まで声になることがなかった。
 遼一の瞳に涙が滲んでいるのが見えたから。
 この少年が泣いているところなど、私はこれまでついぞ見たことがなかったのだ。

「2週間前の日曜日、僕は伯父さんの家に行ったんだ。その2,3日前、伯母さんと電話で話した母さんに身体の具合がよくないって言ってたらしいから、お見 舞いに行こうと思って」

 2週間前の日曜といえば、この部屋から妻が飛び出していった翌日ではないか。
 たしかに私と会ったときの妻も、あまり体調が良さそうではなかった。
 あれは妊娠の影響だったのだろうか。京子と話した際には、妻はあえてそのことに触れられなかったのかもしれない。

「部屋の前でチャイムを鳴らして、でも伯母さんは出なくて・・・。いつも家にいるひとだから不安になったんだよ。起きてこれないほど具合がわるいのか な、って思って。それで、前に聞いてた場所に合鍵を取りに行って・・・勝手に家の中に入った」

 そこで何かを思い出したように遼一は言葉を途切らせた。
 先程から続く厭な胸騒ぎがつよくなる。
 昏い瞳が私を見た。
「そこで、僕は」



 ――――――――――――――――――――――
 ――――――――――――――――――
 ―――――――――――――

 鍵を回して、遼一は伯母の家に入った。
 もう夕暮れ時だというのに、薄暗い部屋は照明のひとつもついていない。
 それでも入った瞬間にひとがいると分かったのは、廊下の奥から音楽が聞こえてきたからだ。
 ビートルズ。この曲はそう、ペパーズの最後に入っている曲だ。静かな出だし、曲調なのに、間奏で激しいオーケストレーションの入る不思議な曲。
 伯父が帰ってきているのだろうか。この家でプレイヤーにCDをかける人間は伯父しかいなかった。
 玄関にはたしかに男物の革靴があった。この靴は記憶にない。伯父のそれよりもサイズが大きいような気がした。
 誰か、来ているのだろうか。
 なぜだか、寒気のようなものがした。この曲のせいかもしれない。幻想的でどこか眠たげなヴォーカルには、うっすらと狂気の匂いがする。
 けれど―――ここまで来たら、伯母の様子を確かめないではいられなかった。伯母が自分にとって、他のどんな異性よりも愛しい対象であること。もう誤魔化 しようもなく、遼一はそのことを自覚していた。
 靴を脱ぎ、冷たい廊下を部屋の奥へ、遼一は静かに歩みを進めていった。
  1. 2014/10/14(火) 01:03:21|
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卒業後 第42回

 ここに住み暮らしていたのはわずか数ヶ月前なのに、いま足を踏み入れたこの場所はずいぶんと印象が変わった気がする。
 とりたてて何かが変化しているわけではない。
 ただ―――どこか冷え冷えとしている。
 ふと、曲が終わった。
 しばしの静寂を挟んで、通称インナーグルーヴと呼ばれる、曲ともいえない奇妙な音が流れる。

 ―――サージェントペパーは特別なアルバムでね。

 ビートルズが好きな伯父がいつか語っていた。

 ―――あれを聞くといつも、アルバムのなかでひとつの時代の始まりと終わりが表現されているように感じる。

 始まりと終わり。

 不意に、居間の扉が引かれ、遼一は反射的に台所のほうに隠れた。
 ぱちりと音がして、居間の照明がついたのが分かる。
 心臓がわなないた。
 今、一瞬だけ目の端でとらえた人影は男のもので、それもやはり伯父ではなかったように見えた。あれはもしかしてこの家に忍び入った強盗の類ではないか。 しかし、強盗が悠長に音楽など聴くはずもない。
 では、やはりあの男は伯母の客なのか。
 その伯母はどこにいるのだろう。
 なぜさっき呼び鈴を鳴らしたときに、伯母は出なかったのだろう。
 それを考えると、やはりあの人影は強盗のように思われてくる。伯母は強盗に身動きできない状態にされているのではないか。
 想像して、ぞっとした。
 静寂と化した空間を遼一はいっそう忍び足で歩き、台所の物陰から居間のほうを眺めた。

 そこにはやはり、見知らぬ男がいた。

 大きな男だ。伯父も背は高かったが、男はさらに高い。
 男は外人のような容貌をしていた。鼻梁が高く、窪んだ眼窩に大きな鋭い目。肩幅は厚いが、全体的に鋭角的な印象がある。
 濃い眉をわずかにしかめて、男はソファに身を沈め、煙草を吸っていた。何か考えこんでいるようにも見える。
 その瞳が動いて、離れた場所の物陰に隠れている遼一を見た―――気がした。
 一瞬、血の気が引いたが、男はすぐに視線をほかの場所へ移した。
 見つからなかったのだろうか。
 安堵する前に、居間の扉が開いた。
 伯母だった。
 白いバスローブを身にまとった伯母は、艶々と光る洗い髪にタオルを巻きつけた姿でゆっくりと居間へ入ってきて、男の正面に腰掛けた。
 今まで風呂に入っていて、だから呼び鈴に応えることがなかったのか。あの男は強盗などではなく、やはり伯母の客だったのか。だとすると、いったいどうい う種類の客だ? 伯母の親しい友達など遼一はその存在を聞いたことがなかったし、伯母が伯父以外の男と話をしているところなど見たこともなかった。
 なぜだか、とても不安になった。
 その不安感はいま目の当たりにしている伯母の姿から受ける印象からきているのかもしれない。湯あがりだというのに、伯母の横貌は遠目にも透きとおるほど 白く冴えていて、どこか生気が欠けていた。

 それなのに―――
 久しぶりに見る伯母は以前にまして美しく見えた。

 濡れた豊かな黒髪と、頼りないほど細い頸筋の白さの対比が、怖いほど鮮やかで。
 バスローブの上からでも分かる、優美な身体の線がとても綺麗で。
 どこまでも―――女そのものだった。

 見知らぬ男は何も言わず、そんな伯母の姿を大きな目で見つめていた。


 だから―――遼一はいっそう不安になった。
  1. 2014/10/14(火) 01:04:34|
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卒業後 第43回

 日が落ちる。
 窓の外の世界が急速に蒼褪めていく。
 男は煙草を灰皿に揉み消して立ち上がり、窓際へ向かって歩く。
 世界が夜に変わるその一瞬を見届けようとするかのように。
「気分は落ち着いた?」
 男が不意に口を開いた。
 ビロードのようになめらかで艶のあるその声は、男の冷たい容貌に比して、ずっとやさしげに響いた。
「おかげさまで・・・・」
 窓際に立った男に背を向けて座ったまま、伯母は言葉少なに答えた。
「今日はご迷惑をかけてしまって、すみません」
「そんなこともない」
 男は振り返って伯母を見た。
「事情はだいたい分かったが―――これからどうするつもりだ?」
 伯母は静かに頸を振った。
「いまは先のことは考えられません」
「いまが考え時だろう。そろそろ自由になったらどうだね」
 あいつから―――
 見知らぬ男は言葉をつづけた。
「そうでなくても身体の中に枷を背負っているというのに」
「・・・子供は枷ではありません」
「枷にしようとしたんじゃないのか? あの男を繋ぎとめておくための」
「ちがいます」


 遼一にはふたりの会話の内容がまるで理解できない。
 ただならぬ緊迫感だけをそのなかに感じていた。


「じゃあ、その子を堕ろすのかい。それがあいつの望みなんだろう?」
 伯母は答えなかった。


 子を・・・堕ろす?
 ―――誰の子供の話だ?


「五年も一緒にいたにしては、君も案外、あいつのことを何も分かっていないね」
 また煙草を咥えながら、男はふとやさしげな口調を冷徹なものにあらためた。
「あいつは何のかんのと理屈をつけているが、結局のところ俺と君との間柄を邪推して、嫉妬することに悦びを覚えているのさ。だから出来た子のことも、絶対 に自分の子だと信じようとしない」


 あいつとは誰だ?
 これは伯父の話なのか。


 遼一は伯母を見た。
 伯母の表情は凍りついたようで、伏せた瞳も引き締めた唇も微動だにしない。
「子供はつくらないほうが正解だったな。あいつはそんなこと、まるで望んじゃいなかった。そうじゃないか? あいつが口に出して君の子が欲しいと一度でも 言ったことがあったか? ないだろう。そうでなければ、35になる子のない妻にピルを飲ませ続ける生活を一年もつづけるはずがない」
「もうやめて」
「普通の家庭の幸福なんてものに、あいつは興味がないのさ。あいつにとって用があるのは、母でも妻でもない。自分の思い通りに、自分の欲望を満たしてくれ る玩具。君に求められていたのは、ただそれだけだったんだよ」
 伯母は両手で顔をおさえ、いやいやするように激しく頸を振った。
 男は怖いほど冷静な目で、そんな伯母を見つめた。

「まあ、あいつの気持ちも分からないではない―――」

 そう言って。
 男はゆっくりと伯母に近づいていく。

「男を狂わせる君の美しさは、そういう種類のものなのさ。男の玩具になるのがふさわしい―――そう思わせるような美しさ。もっともっと壊してみたくなるよ うな―――」

 背後から、男は座っている伯母の肩を抱いた。
 太い手がバスローブ越しに、その下に息づいているはずの乳房をつかんだ。
 見つめる遼一は思わず叫び声をあげそうになる。

「やめて―――」
「それはそれでおあいこと言うべきかな。君の周囲の男たちは皆一様に不幸な運命を辿るようだ。最初にこの罪な肉体を弄ったのは、そう、君の義兄だったか」

 手の玩弄ではなく、男の言葉に、伯母の身体がふるえたように見えた。

「交通事故で亡くなったそうだが、亡くなるその前夜も、彼は君を抱いていたんじゃないのかね。ハンドルを切り損なったのも、その瞬間に君の身体のことでも 考えてぼんやりしていたんじゃないのかな」


 ちがう―――
 弱々しく、伯母は叫ぶ。


「それから君を育てた叔父さん夫妻だ。いまは疎遠にしているようだが、本当のところその原因は何だね? 義兄とのことが知れたから? それとも―――叔父 さんが君にフェラチオでも強制したのか? 彼の夫妻の仲はいまどうなっているんだね?」


 その瞬間―――
 がっくりと、伯母の全身から力が抜けてしまったように見えた。


「そして―――あいつも君と出会っておかしくなった」
 黒衣の男は魔術師のように、力を失った伯母の耳元に囁く。
「あたたかい平凡な家庭。どれだけ求めたところで、そんなものから一番縁遠いのは、もしかしたら君自身かもしれないよ。いや―――この身体か」


 魔術師の手がバスローブの前をはだける。
 初めて目にする伯母の真っ白な胸が、遼一の瞳に灼きついた。
  1. 2014/10/14(火) 01:05:45|
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卒業後 第44回

「いやっ―――」

 脱がせられたバスローブを両の手で引き戻そうとした伯母は、それが叶わぬと知ると、するりと自ら脱ぎ去って、下着だけの姿となり、そのまま逃げようとし た。
 その肩を、男の手が掴む。
 一瞬にして、伯母の細身は男の厚い胸板へ引き寄せられた。
「暴れると身体に障るよ」
 ざらりとした声音で囁くように言う男の声に、伯母はしばしいやいやを繰り返していたが、やがてぐったりと男の胸に身体を預けた。


 遼一は―――見ていた。
 上衣を剥ぎとられた後にあらわれた、眩しくかがやくような肌を。
 わずかな眼前で、男の逞しい胸に抱き取られている伯母を。


 伯母の肢体はどこまでも華奢に、繊細につくられているように見えた。
 すらりと伸びた手足は少女のように細い。
 さらさらと流れるような黒髪が、いまにも折れてしまいそうな頸筋から、絹地をひろげたような背肌にうっすらと張り出た肩甲骨の翳の辺りまでかかってい る。
 かたちよくくびれたウェスト。薄白のショーツの貼りついた尻のまるみ。雪白のふくらはぎから、すっきりとした脛や足首まで、どこまでも美麗な線を描いた 躯は、それが見てはいけないものだからこそ、遼一の目におそろしいほど蟲惑的に映った。


 頭が眩眩とした。


 くぅっと仔犬の鳴くような声がした。
 伯母の耳朶がいつの間に赤く染まっている。
 たおやかな胸のふくらみを隠していた下着がずらされ、男の手指が触れていた。
「はなして・・・・しないで」
「このところずいぶんとご無沙汰だったんだろう。前よりも反応が敏感だな」
 男の低い声に笑いが含まれる。
 むしろ苦しげに顔を歪めた伯母が、熱い息を吐くのが分かる。
 物陰からそんな伯母の表情を見つめる遼一は、信じられない想いとともに、身中に濃密な何かがせりあがってくるのを感じる。
 総身が震えた。
 それは恐怖だった。
 恐怖と―――

「相変わらずいい身体だ。乳房が熱くなってきた」
「これ以上は、もう、許してください」
 全力疾走した後のように切れ切れに言葉をもつらせながら、伯母は両手で男の胸を押し、囚われの身から逃れようとした。
 そんな伯母の姿はまるで、大人に向かって抵抗しようとしている幼い子供のように見える。
 助けなければ、と遼一は思う。伯母を助けなければ、と遼一は思う。そのために自分はここへ来たのだ。だが、動けない。自由を失った身体が、がくがくと震 えている。
 男と伯母は自分の手の届かないところに立っている。男の発する異様な妖気と、そして伯母自身の発する蟲惑が、遼一を絡めとっていた。
「ストレスは毒だよ」
 悠々と伯母の抵抗をいなしながら、男は妖しく囁いた。
「俺に任せておけばいい。厭なことも、これからの不安も、すべて」

 すべて忘れさせてやる―――
 男は云った。

「それに瑞希はとうに知っているだろう。俺は一度やると言ったことはどうしたってやる男だってことを」
 呼称を「君」から「瑞希」へ―――伯母の名前へと変えた男の口ぶりは、まるで恋人に語りかけるような、ゆったりとした声音だった。
 凄みを帯びた艶気のようなものを感じさせるまなざしが、伯母に向けられる。両腕は伯母の身体をとらえたまま、決して離そうとしなかった。
 伯母が顔をあげた。一瞬、魅入られたように男のまなざしをその瞳に受け、全身が硬直したように見えた。それから、伯母はくなくなと頭を振り、また細い頸 をうなだれさせた。

「いれないで―――ください」

 不意に、伯母の唇から出てきた言葉を、遼一は理解できなかった。
 男も少し虚をつかれたような顔をした。
「どうしてもするというのなら、私が口でします。それで許して。なかにはいれないで」
 羞恥のためか男の胸に顔をぐいぐいと押しつけながら、伯母はそれでも必死な声で訴える。
 男はようやく納得がいったような顔になって、また―――笑った。
「お腹のややが心配なのかね。俺はそんな下手なことはしないよ」
「・・・・・・・」
「けれど、君が望むのなら、そうしよう。約束するよ。君が自分からそうしてほしいとねだらないかぎり、今日はここにはいれない」
 悪魔じみた不吉な笑みを滲ませながら、男は伯母のショーツの底にすっと手を這わせた。
 びくり、と伯母が身体をふるわせたのが分かった。
  1. 2014/10/14(火) 01:07:08|
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卒業後 第45回

 わずかに肌身を隠していた下着を脱ぎ去り、伯母は男の目に素裸を晒した。

 男と―――遼一の目に。

「両腕を頭の後ろで組んで、見せてくれ。瑞希のヌードを見るのも久しぶりなものでね」

 伯母は言われたとおりにした。


 その美しさに憧れていた。
 その優しさに惹かれていた。
 その瞳に時折よぎる哀しみに、胸の痛むような愛しさを感じていた。
 その女性が、今こうして、まるで知らない男の目に生まれたままの素裸を晒し、言われるままに肢体を開いて、すべてを見せている。
 頭がどうにかなってしまいそうだった。自分のなかで大切に築き上げていたもの、これまで信じてきた常識が、不意に投げ込まれた石ころで一瞬にして破片の 山となってしまったような衝撃だった。

 だというのに―――遼一の目は吸い寄せられるように、伯母の裸身に釘付けになっている。

 遼一とて年頃の少年だ。友人の持っている雑誌やビデオで、裸の女性を目にしたことは幾度もある。
 しかし、はじめて目にする本物の女性の裸身は、まったく異なった次元で遼一に迫っていた。

 照明の下で、そこだけぼうとけぶっているような―――伯母の裸像だった。

 蒼みがかってみえるほど白い肌がひかっているようだ。薄く静脈の線までが浮き出て見える胸元。その下にかたちよく盛り上がった双の乳房は透きとおった玉 のようで、細身の肢体にそぐわない豊かさを見せていた。ほんのわずか俯いたふくらみの頂点に、桜色の乳首がひかえめに佇んでいる。
 なめらかにくびれた腰まわり。恥骨の刻む薄い陰影のはざまに、漆黒の繊毛が茂っていた。それはどこからどう見ても女っぽい伯母の、もっとも女らしい部分 だった。うまれてはじめて女性のその箇所を目にした遼一は、玲瓏な陶器のような伯母の裸に息づいている恥毛に、かえって息苦しいばかりの生々しさを感じ た。

「綺麗だ。孕んでいるとはとても思えないな」

 たっぷりと時間をかけて、腋までもあらわに曝した伯母の全裸を鑑賞していた男がふと呟いた声で、遼一の意識が引き戻された。
 先程から、伯母とこの男との会話に幾度かあらわれた「子供」の話。それはもう、疑いようもなく、伯母の身体に新たに宿った命のことを指していると思われ た。
 無意識のうちに視線が、伯母の下腹の辺りに向く。優美な線を描いたそこは、男の言葉を裏づけるようにわずかなふくらみも窺えない。
 その視線を感じたように、伯母は羞ずかしげに身じろぎして、頭の後ろで組んでいた両手でその部分を隠した。
「そんなふうに・・・見ないでください」
「当たり前の関心さ。これから瑞希の身体が変わっていくのを見るのが楽しみだ」
 ふとそんなことを言って、男は伯母を手招いた。
「さあ、約束したことをしてもらおうか」
 少しだけ俯いていた視線を上げて、伯母は男を見つめた。
「ひとつお願いがあります」
「なんだね?」
「いつものように両手を縛ってください。・・・そのほうがいいの」
 男は興味深げに片方の眉を上げた。
「どうして?」
「そのほうが・・・心が楽です」
 胸元の辺りまで朱に染めながら、伯母ははっきりと言った。
 くっと男が笑う。
「縛られていたほうが、無理やりされているのだと自分に言い訳できるからかい。―――ずるいね」
 床に落ちていたバスローブの紐を掴んだ男に、伯母は背を向けて後ろ手に両腕を差し出した。その手首に男が紐をぐるぐるにかけていく。きつく結わえられた のか、伯母は眉根を寄せて、痛みをこらえるような表情をした。
 その耳元に男は顔を近づけて、囁いた。

「だが―――縛られたことを、あとできっと後悔するよ」

 何も答えずに、伯母は目を瞑った。
  1. 2014/10/14(火) 01:08:21|
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卒業後 第46回

「せっかくだから―――これも着けてもらおうか」

 両手を拘束された伯母をしばし眺めていた男が、不意に鞄から取り出したものは、犬用のものとしか思えない赤い首輪だった。

「この前、撮影で使ったものが鞄に入れっぱなしになっていたのでね。ちょうどいい」

 黒曜石のような瞳が男の手にしたものに向けられた。小筆で描いたような柳眉がわずかにしかめられたが、伯母は何も言わず、顔を少しだけ上向けて、男に向 けて白い喉をさらした。

 かちり、と音をたてて、無骨な首輪が繊細な頸に嵌められる。

「つい最近母親になったばかりだが―――今日は犬になってもらうよ」

 ざらっとした男の声音が、静かな空間になまめかしく響いた。



 よみがえる光景はいつも蒼い―――。

 夏。伯母とふたり連れ立って歩いた、坂上にある図書館への道。
 生温い微風が吹いていた。
 鮮やかな木々の緑が眩しくて、少しだけ前を歩く伯母の背中はそれ以上に眩しく見えた。
 そして、あれはいつのことだったろうか。

 ―――ありがとう。

 やさしく告げられた言葉を聞き、朝露に濡れた花のような儚い笑顔を見たのは。
 記憶に残るそんな光景は奇妙なほど鮮明で、だからこそ心が痛んだ―――。



 遠のいていた意識が、次第に輪郭を取り戻す。
 それにつれて、ぼやけた視界の光景も明確になっていく。
 今―――
 遼一の視界、そのなかで、裸の伯母が跪いていた。
 ソファに腰掛けた男の膝下に。

 伯母の両腕は後ろで縛られている。そのために肩甲骨が浮き出して、光沢のある背肌に翳ができている。
 伯母は赤い首輪だけを身に着けた姿で膝を床につけ、尻だけをかすかに浮かし、下を脱いだ男の股間に顔を埋めていた。
 遼一自身とは比べものにならないほど長大で、赤黒い男のそれを、伯母の小さな口が頬張っている。
 頬がぺこりとへこむ。膨らんだ鼻孔から熱い息がふきこぼれているのが分かる。
 たわめられた眉根は、口中におさまらないものをもてあつかう苦しさを見せていた。
 しかし、それでも伯母は小さな顔を前後に動かして、男のそれをより深く呑みこんでは唇でしごく動作を繰り返していた。
 時折、はあっと吐息をこぼして、呼吸を取り戻すように、伯母の唇が男のものから離れる。
 けれど、そんなときも、伯母の視線はそそりたつ肉の柱から離れることはない。
 いつの間にか、伯母の顔は紅潮していた。
 うっすらとかいた汗がきらきらと光り、ほつれた髪の幾筋かが頬に貼りついている。
 すっ、と形のよい唇が薄く開いた。
 強度を失わない眼前の屹立の先端に、桜色の舌が触れていく。
 なめらかな舌は怒張をすべるように移動する。根元の毛叢に高い鼻を埋めて、伯母は男の付け根から醜い肉の袋にまで丁寧な舌の愛撫をほどこしていく。
 艶のある黒髪がまた、はらり、と落ちる。
 赤い首輪の金具が、きらり、とひかる。
 むっちりと白い尻が微妙に蠢いていた。


 それは一匹のうつくしいけだものとしか思われない姿だった。
 そして、そのけだものは間違いなく、遼一がよく知っているはずの伯母なのだった。


 見知らぬ男はそんな屈辱的ないきものに伯母を堕としながら、ひとり悠然と唇の奉仕を受けている。
 わらっている。
 節くれだった指が時折、伯母の豊かな髪にさしこまれ、ペットの毛並みを確かめるような仕草でさらさらと髪を梳いた。


 はぁ、はぁ、と―――
 狂おしげな吐息が聞こえる。
 彼方で聞こえるようなそれが、自らの口から出ているものだと、もう遼一は意識していなかった。
  1. 2014/10/14(火) 01:09:21|
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卒業後 第47回

 自ら望んだことだったのだが、手を封じられた状態で唇だけの奉仕をつづけることは、相当に体力を使う行為なのだろう。次第に伯母の動きは緩慢になって いった。
 一方の男は笑みを崩さない。肉の屹立の勢い同様に、その余裕は失われることがなかった。
 ふと、伯母が含んでいたものを吐き出し、顔を引いた。
 切なげに喘ぐ胸元まで薄く汗ばんでいる。顎がはずれてしまったように、閉じる力の失われた半開きの唇からよだれの糸がきらきらと垂れ落ちた。
 男の手指がそんな伯母の唇を拭う。
 伯母は童女のように目を閉じて、男の手を受けていた。

「もう降参かね?」
 からかうような口調に、伯母がきゅっと恨むようなまなざしで男を見つめた。
 男はふっと目を細める。
「それでもずいぶん巧くなったものだ。あいつにもいつもそうしてやっているのかい?」

 また、「あいつ」という単語が出た。
 遼一には男と伯母の関係が分からない。おぼろげに分かるのは「あいつ」が伯父を指し、この男もまた伯父と顔見知り以上の関係にあるらしい―――というこ とだけだ。
 もうひとつ分かったことがある。
 伯母とこの男の関係―――性的な意味での関係だが―――は今に始ったことではない。まだ経験のない遼一にも分かる。男に唇の口技をほどこす伯母の仕草は 慣れを感じさせた。
 その行為への慣れという意味ではない。
 この男の肉体への―――慣れだ。
 今、男を見つめた恨むようなまなざしにも、唇を拭う男の手を受け入れる仕草にも、幾度も身体を重ねた男女の間にうまれる特有の媚きが滲んでいた。遼一は それをはっきりと知覚はしなかったが、おぼろげにそんな何かを感じた。


 背筋がぞわついた。


「それにしても―――ずいぶん変わったものだ」
 まだ胸を小さく隆起させながら、首輪をつけただけの裸身を休めている伯母を、悠然とした目が見下ろした。
 すっ、と―――
 男の右の手指が伸びて、伯母の胸の突起を摘まむ。
 瞬間、伯母は電気に触れたようにびくっと尻をもじつかせたが、あえてその玩弄に逆らおうとはしなかった。
「男のものをしゃぶりながら、ほら、こんなに乳首を硬くしている。自分でも分かるだろう?」
 鈴をころがすように男が桜色のとがりを指の腹でなぶると、伯母は小さく声をあげて不自由な身をくねらせた。意識せずに出てしまったその声は、たしかに伯 母が身中に感じたらしい心地よさの響きを伴っていた。

「淫らな―――身体だ」

 敏感な伯母の反応に、男はかすかに含み笑いして、今度は人差し指でその部分を何度も弾いた。子供が気に入った玩具をいじくるような他愛無い動作に、しか し伯母は「んっ、んっ・・・」と呻いて、くねりながらいやいやと頸を振る。
 気のせいか、男の手指に触れられているうちに、伯母の乳房が張りつめ、つんと上向いてきたように、遼一の目には見えた。
「いや・・・・もうそこはいじらないで!」
 ついに伯母が屈服の声をあげた。
「気持ちがよすぎるからか。こんな身体になってしまっては、独り寝の夜はさぞ辛かっただろう」
 男のからかいに、伯母は乱れた髪を左右に揺らしながらまた頸を振って、そのまま唇の奉仕を再開しようとした。だが、その細い顎を男の大きな掌がとらえ て、無理やりに上向かせる。
「股の奥も、もう濡らしてしまっているんだろう?」
 毒々しいような笑みを瞳に滲ませて、男はさらに問いをつづける。
 伯母の顎を掴んだ掌の親指が動き、くいっと鼻頭を上向かせた。伯母は顔を真っ赤にして、顔への辱めを逃れようとするが、男の力の前には無力だった。
「こうすると、犬じゃなくて豚になるな。うつくしい顔が台無しだね」
 そんなことを言いながら、男は、伯母の鼻をさらに上向かせる。
「やめて・・・恥ずかしい・・・」
 加えられる恥辱に耐えかねて、伯母は本当に辛そうに眉間に深い皺を寄せた。潤んだ瞳が哀訴するように男を見る。


 ふるわせた首輪の金具がちりんと鳴った。


「じゃあ、正直に答えるんだ。もう濡らしているんだろう?」
「・・・・濡らして・・・います」
 少しのためらいを浮かべた後で、伯母は小さく答えた。
「濡らしたところに、太くてかたいものをいれてほしくなったんじゃないか」
「それは―――駄目」
 
 間髪いれず、という感じで、伯母は口走るようにそう言った。
 必死の声。しかしそれを予想していたように、男は冗談ぽく片方の眉を吊り上げた。

「そうかね。それではまだまだ、こちらも楽しめるというところだ」

 ようやく男の手が伯母の顔からはずれた。
 がくり、と伯母の裸の肩が落ちる。

「口はもういい。ソファの上にあがって、濡らしているところを見せてくれ」

 どこまでも冷徹に、男はつづけてそう言い放った。
  1. 2014/10/14(火) 01:10:26|
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卒業後 第48回

 遼一は子供の頃から客観的に物事を見られるタイプだった。だからこそ、というべきか、中学生に上がって、周囲が恋愛ごっこに興じ始めたときも、なかなか その波に乗ることが出来なかった。
 女の子たちのなかには遼一に寄ってくる子もいた。綺麗な顔立ちをしていると言われ、優しい性格だと誉められた。誉められれば悪い気はしないし、可愛い子 に好感を持たれれば嬉しい。それはたしかだが、その子のことばかりを考えて、夜も眠れないほど悩まされるなどという事態は、小説や映画の中の話だけだと ―――思っていた。
 今年の夏がくるまでは。
 伯母と一緒に暮らしたあの一月がくるまでは。
 どうしてこんなにも伯母のことが気になるのか―――母親ほど、というよりも母親と同じ歳の女性にこんな気持ちになるのは、自分でもおかしなことだと思 う。けれど、同時に学んだことがあった。
 恋は理屈ではない。
 姿かたちが好みだとか、性格に惹かれるとか、そんなものは後づけで、ただただ気がつくと伯母の一挙手一投足を見つめていた。
 彼女が傍にいるだけで胸が騒いだ。
 そして―――伯母が伯父と一緒にいるときは、彼女が伯父のものであることを否応なしに意識させられて、締めつけられるような切なさを味わった。
 好きだった。誰よりも好きだったから、余計に苦しかったのだ。


 今、遼一の目には、ソファに腰掛けた伯母が映っている。
 いや、腰掛けているのではない。
 ソファの上に裸の尻を乗せ、両脚を大きく開いているのだ。
 男の目に、太股の奥に隠された部分を見せるべく。
 背中でひとつにより合わせられているためにあからめた顔を覆う手はなく、男の目に晒したままの相貌は汗ばんで、上気している。そんな表情までが匂いたつ ような妖しさに満ちて見えるのはなぜなのか―――。
 以前とは違う苦しみに身を灼かれながら、遼一はぼんやりと思った。

「もっと腰を落として、股を広げるんだ」

 雪白の内腿をぴしりと打ちながら、男が要求するのに答えて、伯母はようやくといった感じで身をよじる。


 生白くかがやく太腿の付け根の淡い繊毛に覆われた部分が裂けた。

 柔らかそうな毛なみの奥に縦に引かれた肉の切れ込みが割れて、

 ひらかれた縦筋からあざやかなピンクの粘膜があらわれる。

 明るみに出されたその箇所に男のごつい指が触れていく。

 外気に触れた瞬間にきゅっと収縮したようなその肉を、

 男の手指がVの字の形でさらに割りひらこうとする。

 どこか遠くで伯母の言葉にならない声が聞こえる。

 ひろげられた花弁が刷いたようにさっと色づく。

 そこは照明の光を受け返すようにかがやき、

 きらきらと―――ひかっているようで。

 いや―――そうではなかった。


 本当にひかっているのだ。


 伯母の奥からあふれたものが、

 草木にびっしりとついた朝露のように濡れひかり、

 いくらかは薄紅色の襞から会陰までたらたらとつたいおち、

 裸の臀部の重みを受けてくぼんだソファにまでしたたっていた。



 ―――知識としては知っていた。 

 女性のその部分が濡れるという現象が何を意味するのか。
 だがそれは、あくまでも知識として、だけだ。
 実際に女性の性器を見るのも、ましてや濡れたそこを見るのも遼一には初めてのことだった。


 頭の中でぐわんぐわんと鐘が鳴ったような―――
 そんな心地がした。


「おやおや―――これは大変なことになっている」

 節くれ立った指で伯母のおんなを広げながら、からかう口調で男は言った。
 すすり泣くように喘ぎながら、伯母はくなくなと細頸を揺らし、乱した前髪で顔を隠そうとする。その髪を男の手がすっと払った。
 潤沢にうるんだ瞳が男を見た。
「腹の子を盾にとられて無理やり―――のわりには、これは大洪水すぎないかね」
「・・・さわられたから・・・」
「どこを?」
「胸を・・・胸をさわられたから」
「たかがあれだけ乳首を嬲られたくらいでこんなになるというのかね? そんな身体では男なしで3日も持つまい」
 呻くような声をあげて、伯母は広げた脚を閉じようとする。
「まだだ」
 一声きつく言って、男の平手が伯母の内腿に飛んだ。
「正直に言うがいい。俺のものをしゃぶっているうちに、もうここを濡らしていたのだろう? それとも両手を背中で結わえられたときにははやそうなっていた のかな」

 秘奥を広げていた男の手指が、抉りこむように伯母のなかに挿れられる。
 挿入の瞬間、伯母の骨細の肢体がはっきりと分かるくらいに緊張した。
 唇がわななくのが―――見えた。
 薄笑いを浮かべながら、男はうるおった部分の指を蠢かせる。
 むしろ優雅にさえ見えるその手つきだったが、それでいて何か闇の中に隠されたものを引きずり出そうとしているかのような荒々しさを、遼一はその動作に見 てとった。

 
 やがて―――
 

 ぜいぜい、と―――
 苦悶じみた喘ぎ声が聞こえてきた。
 それは伯母の喉から出ているものとは信じられぬような、切羽詰まって狂おしげな響きを持っていた。
 ぬめひかる乳房が上下に動いている。
 時折、がちがち、と歯の根が合わさる音がする。


 ああっ―――
 精神の奥底から湧きあがったような叫びをあげて、伯母が顔を振りたてた。仔兎のようにあかく染まった鼻頭に玉の汗が浮かんでいる。
 ほつれた髪の幾本かを唇に噛みながら、睨むように男を見つめたその顔は、おそろしいほど凄艶だった。
 手の動きを止めぬまま、男はそんな伯母をまともに見返した。
 また―――薄くわらった。


「―――そんな顔を、きっとあいつは死ぬほど見たがっているよ」


 胸を衝かれたように、伯母の顔に動揺がはしった。


「こんなに感じやすい躯をしているのに―――」


 くすくすとわらいながら、男の指がまた襞肉をひとえぐりする。
 ううっと鋭く呻いて、伯母の腰が浮きあがり、内腿が引き攣れるようにぴんと張った。

 男は指を引き抜いた。


「みだらな血、みだらな躯か―――」


 謳うような口調で男が言う。
 背中から崩れた伯母は不自由な両手で身体の重みを受けながら、ぐったりと頸をソファの背にもたせかけた。
 切れの長いその目元から涙が一筋零れ落ちるのを、遼一は見た。
  1. 2014/10/14(火) 01:11:32|
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卒業後 第49回

 銀鈴をふるわせたような―――声がする。

 嫋々とした繊細な響きが、静かな部屋に染みとおっていく。
 時折、その響きに嗚咽が混じる。
 けれど、次の瞬間には熱に浮かされたような「あっ、あっ」という声が、胸をかきむしられるような音階で静寂を破る。

 遼一や伯父と会話するとき、伯母はいつもゆっくりと落ち着いた口ぶりで話した。しっとりとしたその声の穏やかな響きが、遼一は好きだった。
 けれど、今こうして耳にしている伯母の声ともいえない声は、別人のもののように聞こえる。いや、それはひとの発する声とも思われず、まるで笛の音のよう だった。
 それでいて、ひどく―――
 ひどく、なまめかしい。

 なめらかにくびれた笛に伯母が変わったとしたら、その笛を演奏せしめているのはあの見知らぬ男だ。
 先程とは逆に、ソファに乗せられた伯母の足元に男は跪き、割り開かれた合わせ目を覗き込んでいる。ごつごつとした男の指先が、ピンクから目の覚めるよう な薔薇色に染まったその部分に沈み、微細な襞肉のなかで妖しく蠢いているのが分かる。開ききった両脚の腿が、がくがく、と痙攣するような動きを見せてい た。
 下半身に玩弄を受けながら、伯母はソファの背に頭を崩れさせ、仰向けに白い喉をさらしている。時折、何かを呑みこんだようにその喉がごくっと隆起する。
 涙を滲ませてあかくなった目がぽっかりと開ききって、熱っぽい喘ぎとは裏腹に、どこか遠い虚空を覗き込んでいるようだった。遼一はこのまま伯母があの世 のひととなってしまうのではないかという恐怖さえ感じた。
 それくらい、伯母の様子は違っていた。

 性の行為に及ぶとき、女は皆このような姿を晒さずにいられないのだろうか。
 与えられる快楽がつよすぎて、むしろ苦しみに歪んだような表情を見せずにいられないのだろうか。
 それとも―――伯母は特別なのか。

“みだらな血、みだらな躯か。”

 男の言葉がよみがえる。
 聞くに堪えない言葉だった。普段なら世界中のどんな人間が相手でも、伯母に向かってそんな言葉を吐く人間がいたら、遼一は身の危険も顧みずそいつに向 かって食って掛かっただろう。

 けれど。

 ―――透きとおった長啼きが聞こえる。

 けれど今は。

 ―――玉のような乳房が揺れて、乳首の先から汗の雫が落ちる。

 伯母が―――魔物のように見える。

 おそろしいほどに蟲惑的な魔物。

 遼一は無意識のうちに理解する。
 叔母の中には何か別のいきものが棲みついている。
 本人でも抑えきることの出来ない業のようなものが。
 そして見知らぬ男は、伯母のその業を引き出す術をとことんまで知り尽くしているのだ―――。

 ふと―――
 伯父の顔が浮かんだ。


 あなたは知っているのか。
 あなたの妻がこんな表情を見せる瞬間があるということを。
 あなたは見たことがあるのか。
 これほど狂おしい妻の姿を。


 ちかちかと幻燈写真のように。
 伯母の白裸が瞳の奥でまたたく。
 自らの意識が犯されていくのを遼一は感じる。
 熱い。
 脳が熱い。
 身体が熱い。
 激しい痛みを感じる。肉体の痛みだ。その痛みがどこから来ているのか、遼一にははっきりと分かっていた。
 股間が勃起している。痛いほどに。


 男の身体が伯母の足元から離れた。
 たとえ拘束されていなかったとしてももはや指先ひとつ動かせぬ様子の伯母は、仰向けに崩れたまま、まだ虚空を見ている。精神の回線が混濁したようで、し かしぜいぜいと激しく上下する胸がその表情と裏腹に、激しい生の証を刻んでいる。張りつめた足指が、解剖台にのせられた蛙のようにぴくぴくとわなないてい た。


「まだまだ終りじゃないよ―――」


 なめらかな男の声が低く響き渡る。


「今日はとことんまで搾り尽くさせてもらう」
  1. 2014/10/14(火) 01:12:38|
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卒業後 第50回

 男が鞄をあさっている。
 まだ正常な意識が戻らぬふうの伯母は、油を垂らしこまれたようにとろりと潤んだ瞳を開ききっていた。ソファの背からずり落ちそうな肢体がなよやかにくび れて、ぬめ光る肌のところどころに微妙な陰影をつくっている。
 男が戻ってきて伯母の前に立ち、うつむいた顎を掴んでくいと上向けた。
 弛緩していた瞳に、徐々に光が戻ってきた。
「まだ夢を見るには時刻が早いよ」
 甘いようでぞっとするほど冷めた声に、伯母の瞳が上向いた。
「こんなのは・・・・もういや」
 呼吸が平常に戻っていないのか、苦しげに声を途切らせながら、ようよう伯母の唇が動いた。
「あれほど悦んでおいて、よくもまぁそんなことが言えるものだね」
「ちがう・・・・・」
 噛み締めるような吐息とともに、伯母の目からまだ涙が零れた。
「ちがう、そんなのじゃない。くるしくて・・・つらい。いやなの。こんなのはいや。私、こんなの全然好きじゃない・・・・」
 伯母の口ぶりは少女の頃に戻ったようで、それはいまの彼女の精神の状態がさまざまに混沌としているのを反映しているのかもしれなかった。
「苦しいのがいいんだ」
 ちがう、ちがう、と呻くように言いながら、伯母は狂おしげに頸を振った。どこにそんな力が残っていたのかと驚くほどの激しさだった。だが、男の手がまた 伯母の細顎を掴んで、自らに向けさせた。
「まだ分かっていないようだな」
 男の指が伯母の唇をなぞるように触れた。
「義兄、義父―――君の性は目覚めからずっと、君よりも上位の立場の者とともにあった」
 官能的とさえ思えるようなバリトンが響く。
「少女の頃から君は、身体も、心も、支配されることに慣れている。そして性は、理性などという後づけのものなど及ばぬくらい人間の生理を奥深く規定するも のだ。誰もその流れに逆らうことは出来ないのさ」
 まるで大学の講義のように能弁に男は語る。
 放心したような表情で伯母はそれを聞いている。
「そして、君の両親だよ。永遠の上位者とも言うべき存在が君には欠落している。もっとも悲惨と言うべき形で、それは一瞬にして君の前から失われた」
「やめて!!」
 引っ裂けるようなもの凄い声を、伯母は発した。
 その声をまともに受けて、しかし男には少しも動じる様子がなかった。
「だから君の自我は、底のほうではいつもぐらついている。幸せな日々はいつまでもつづかないことを、君は誰よりも知っている。君はいつも怯えている。絶え 間ない不安感に苛まれている。それから逃れる方法を君はいつまでも求めつづける。両親に代わるような存在、必要とし、必要とされていると実感できるような 存在を」
 目に見えて分かるほどに、
 伯母の総身はふるえていた。
「君はたしかによき妻だったかもしれない。夫に対する献身、惜しみない愛情、貞淑。けれど、所詮、両親に代わる存在などどこにもいないんだよ。少なくと も、あいつにはなれなかった。最初から、お互いに求めるものが違っていたのさ」
 もう気づいているんだろう―――
 男は伯母の耳元で囁きかける。
「一方で、喪失を何より嫌う君の心と結びついているのかもしれないが、君の身体は支配されることで昂る反応が染みついている。第二の上位者だった義兄や義 父に教え込まれたように。君のセックスが求めているのは愛情などではない。蹂躙される痛みや哀しみ―――そんなものが君の性の誘発剤となる。君が求める愛 情と君のセックスは決して一致しないものなんだよ」


 また―――
 伯母に嵌められた首輪の金具が、ちりん、と鳴った。


「だから、最初に言ったじゃないか。あたたかい平凡な家庭などという空想をどれだけ求めたところで、そんなものから一番縁遠いのは、君と―――男を狂わす このみだらな身体だと」

 まろやかな乳房を、男の手がすっと撫であげた。
  1. 2014/10/14(火) 01:13:39|
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