主に寝取られ物を集めた、個人文庫です。
「妻は窓明かりのように」―――そんなタイトルのついた小説を、かつて読んだような気がする。 仕事帰り、いつもの駅で降りて静かな団地街をすこし歩き、朱色の屋根に白塗りコンクリートの見なれたわが家が見えてくると、いつも私は、内容も覚えていないその物語のタイトルを思い出す。 明かりのついた窓を見つめながら、私は玄関をくぐり、ドアを二、三度ノックする。そうすると、ぱたぱたと足音が近づいてきて、ドア越しに「どなた?」という妻の詩乃の声がする。 「俺だよ」―――私は答える。 ドアが開く。見慣れた笑顔が、私を出迎える。 そんな瞬間が、そんなありふれた時間こそが、何よりも貴い幸福の形だ―――と、私は思う。 いつも―――思っている。それは私が、かつて一度はその幸福を失った人間だったからかもしれない。 「きょうは早かったんですね。今月の出稿は滞りなくいったのですか?」 夕げの膳を運びながら、詩乃が問いかけた。 「ああ。今月は要注意の作家が二人もいたんだが、なんとか締め切りに間に合わせてもらってね。いつもほどにはドタバタせずに済んだよ」 私はさほど有名でない旅行雑誌の編集長をしている。ライターとして現場に出ていた頃よりはいくぶんましだが、それでも時には目の回るような忙しい日も、ある。 「そう。できあがりが楽しみね」 「おや、ちゃんと読んでいてくれていたのかい」 からかうように言うと、詩乃はきゅっと私を睨んだ。 「読んでいます、毎月。隅から隅まで」 「それはありがたいね。世間には夫の仕事のことなど何一つ知らない奥さんも、五万といるのに」 「それは仕方のないことでもありますよ。―――でも、そうね。その意味でいえば、わたしは幸せなんでしょうね」 膳を食卓に並べながら、詩乃は上目づかいにちらりと私を見た。唇に微笑が浮かんでいる。 小づくりの面輪の中でより目立つ、切れの長いアーモンド形の瞳。ふっくらとした下まぶたのふくらみが艶っぽい。鴉の濡れ羽色をした豊かな黒髪は、ゆるやかなウエーブを描いて、細い頸筋にかかっている。 「何をじいっとご覧になっているの?」 数瞬、ぼうっとした私を見て、詩乃は小首をかしげた。まさか、今さら「君に見とれていた」とは言えない。私はわざとらしい咳払いをした。 「いや、やっぱり何のかんの言って、疲れてるみたいだ」 「お風呂沸いてますから。夕食を食べたらすぐに入ってくださいな」 七年前、私は、前妻の玲子を癌で亡くしている。 私が四十歳、玲子が三十七歳のころのことだ。癌が発覚したのはそれより二年前に遡る。夫婦のどちらにも、辛い闘病生活の始まりだった。 最初の一年、玲子は入退院を繰り返した。最後の一年は、ほとんど病院にいた。 そのころから、合間に玲子の死という大きな悲劇を挟んで、私は長く、わが家の窓明かりというものを見ることがなかった。 詩乃と出会い、ともに暮らし始めるまでは。 詩乃と出会ったのは、今から二年前の冬のこと。私の働く雑誌社にある日、彼女は事務員として新しく入ってきた。 美人だな、とは最初から思っていた。けれど、自分がその美人相手にどうにかなろうとは考えていなかった。当時、私はすでに齢五十に手が届いており、詩乃は一回り以上年下だったのだ。 だから―――彼女と言葉を交わすようになり、ついには身体も交わすようになって、そして今では妻と呼んでいることに、私は今でも、時折、驚きのような感慨を覚えることがある。
2014/11/23(日) 18:46:41 |
窓明かり ・BJ
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寝室の暗がりにうっすらと目が慣れてきた。 同じベッドのすぐ傍らに、見なれた白のネグリジェと、それに包まれた白い素肌があった。 反対向きに眠っている妻に、私はそっと手をまわした。下着をつけていない寝巻きの上から、やわらかな胸のふくらみに触れる。細身のわりに豊かな乳房の、温かくまろやかな感触を掌にかんじる。 「きょうはお疲れだったんじゃないんですか?」 向こうをむいたままで、あらがいは見せなかったが、そっけない詩乃の口調には、かすかなからかいの色があった。 「子どもと一緒でね。目の前に旨そうなお菓子があると、満腹でもつい手を伸ばしたくなる」 「それってほめられてのかしら」乳房にじゃれつく私の手に、詩乃はくすぐったそうに身をくねらせた。 「もちろん」言いながら私は身を起こし、薄い肩を引きよせる。妻はようやくベッドに仰向けになった。 吸い込まれるような黒目がちの瞳が、暗闇のなかだというのに、きらきらとひかって見えた。 肩ひもに指をかける。私を見つめていたその瞳が、すうっと閉じられた。 何かの儀式のような真剣さで、妻の衣類をほどいていった。 ほっそりとした少女のような身体つきに反して、乳房や腰まわりは熟した女の艶気を存分に感じさせる肉で充ちていた。すべてがあらわになり、白いシーツの海になお仄白く浮かび上がった。 ちいさな息遣いが聞こえる。妻の吐息が。色白の乳房も、その吐息に合わせてかすかに弾んでいるように見える。 妖しい果実のようなふくらみの頂きに、口をつけた。舌で敏感な尖りに触れると、彫像のようだった詩乃の顔が切なげにゆがみ、眉間に深い皺が刻まれた。その反応に満足して、私はさらに舌の愛撫を繰り返す。 「そこばかりはいや。やめて」 抗議の声とともに、細い腕が私の胸を突き返そうとする。その腕をつかみ、磔のように押し広げて自由を奪い、なおも愛撫をつづける。 いや―――いや―――の声が、高く、低くなる。いつの間にか、妻の手はシーツをぎゅっと握りしめていた。 私はようやく妻を許した。苦しげにあえいで上下に動く胸乳。先端の尖りが、かたく屹立している。 左右に揺れ動いていた視線が、恨めしげな色をまとって、私をとらえた。 「やめてと言ったのに」 「だから言っただろう、僕は子どもだって」 囁きつつ、私の左手はすべすべとした太腿を撫でまわし、下腹部のあわいに達する。やわらかな草むら、その奥にひそんだ肉の閉じ目へ。指先で忍び入ると、そこはしとどに潤っていた。「すごく濡れているね」―――言わずもがなの言葉を投げると、詩乃はぷいっと顔を横に背けた。羞じらっているような、それでいて拗ねているような、妙に子供っぽい仕草に興奮した。 詩乃との、初めてのセックスを思い出す。 付き合うようになって半年が過ぎたころのこと。それまでにも何度か誘いをかけてはいたのだが、詩乃には毎回さりげなくいなされていた。 当時はもう、彼女がかつて結婚しており、十五年連れ添ったその相手とは、すでに死別していることも聞いていた。そんな過去が私たちを急速に結びつけたのはたしかだったが、今度は逆にその過去が詩乃をして私に抱かれることを拒ませているのではないか―――これは私の推測だったが、死者に操を立てるというのもあながちありえないことではない―――そう思わせる雰囲気が、彼女にはあったのだ。 だからその宵、ほんのりと酒気をまとった詩乃が、ためらいがちにではあるけれど、私の手をとってホテルへ歩み入ったというのは、単なる性欲を超えてうれしいことだった。 とはいえホテルの一室に近づくにつれ、詩乃のほろ酔い気分は醒め、口は重くなり、表情は硬くなっていった。 シャワーを使って、備え付けの寝巻きに着替えて、いよいよ私がそのなで肩に手をかけたとき、なんと詩乃は顔を両手で覆ってしまった。 『あなたがいやなんじゃないの』 泣きそうな声音。 『それなら・・・・・亡くなったひとへの罪悪感だ』 彼女はしばし黙った後で、『そうじゃない・・・・ううん、それもあるけれど・・・・』と呟くように口にした。 私は待った。気の利いた言葉など思い浮かばなかったし、何より―――小さく身を震わせている詩乃の顔が、そのとき不思議なほど美しく見えて、肩に手をかけたまま、私はただ目を奪われていたのだ。 動揺と惑乱が、やがて決意の表情に変わった。真剣そのものの瞳が私を見上げる。睫毛の先が儚く揺れているのを見つめながら、私は彼女に口づけた。 目を閉じて、詩乃はキスを受け入れた。抱きしめた身体の震えが徐々におさまっていくのを私は感じた。 そしてようやく―――私たちはベッドの上でひとつになった。 初めて見る詩乃の裸身は白魚のようだった。その美しさに目を瞠り、やがてはその蟲惑に引きずり込まれずにはいられなかった。そうして微妙な陰影を刻む女体のあちこちに手を這わせるうち、それこそ陸に揚げられた白魚のように怯え、ただ横たわっているばかりだった詩乃に変化があらわれた。すすり泣きのような声が漏れ聞こえ、最初はどこか苦しげな表情だったその顔は、やがて身中からくる感覚に押されて、いっそう切なさまじりの苦しみを見せるようになった。すすり泣きはやがて長啼きになっていった。 ことここに至って、私は先ほどまで彼女が見せていた戸惑いに、亡夫への気遣い以外の意味があったことに気づいた。おそらく詩乃は羞じていたのだ。敏感すぎるこの身体を、男に―――私の目に晒すことを。 一瞬、ふたつの感情が胸をよぎった。ひとつは男にとって宝のような身体を持つ女性と出会えた至福。もうひとつは―――この身体をここまで開発し、長年我がものとしていた男への嫉妬だった。 しかし、そんな複雑に揺れ動く感情はすぐに消え、最後にはただ真正直な欲情だけが残った。深い海のような詩乃の内奥に、やがて私の理性は埋没し、ついには快楽をともなった幸福の淵へとひたすら溶けていった。遠い潮騒のように、詩乃の啼く声がずっと聞こえていた―――。
2014/11/23(日) 18:48:42 |
窓明かり ・BJ
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あのときと同じように、今宵も、詩乃は私の身体の下にいる。 夫婦としての年月を重ねるようになってさえ、いまだ夜の営みで、詩乃が自分から積極的にすべてを解放しようとすることはない。それほど羞恥の殻は厚く、慎みの鎧は硬いのに、あまりに感度の良すぎる身体は、すぐに彼女自身を裏切ってしまう。そんなふうに脆い防壁を突き崩され、やがては喜悦にすすり泣きを漏らす妻の、哀れなような、それでいて何とも艶めいた風情に、私はしばしば息を呑む。 うっ、、、、、、うっ、、、、、、、、あうっ、、、、、、 蜜壺におさまった私の欲望が抽挿を繰り返すたび、眼下の詩乃は白い蛇のように妖しくのたうつ。ぎゅっと閉じられた瞳。眉間に刻まれた皺はいよいよ深い。 蒼白い血管がうっすらと浮いた額に、汗の珠がきらきらとひかっていた。 ぷっくりとした唇は半開きになり、白い歯が零れている。その奥からは、抑えて抑えきれない吟声が絶えず漏れている。 悦びに弱い躯を晒して。 死んだ玲子とのセックスは、詩乃との時間とはまったく別物だった。 玲子は気の強い女で、私に対しても滅多に弱みを見せることはなかった。セックスでも対等の立場で与え、与えられる関係を望んでいた。生活全般にわたって、そうだった。 何かにつけて受け身の詩乃は、私にとって生活をともにするパートナーというよりも慈しみの対象であり、一方で、彼女からは癒しを与えられる―――そんな存在だった。夜の営みでも、自身の快楽以上に、いかに詩乃を悦ばせたかということのほうが、私にとって満足の度合を左右する指標になることが多かった。それは私たちの年齢差からきているところもあっただろうが、もとより詩乃の漂わせている雰囲気が、そんな夫婦関係を規定した部分のほうが強かったようだ。 詩乃の前の亭主を、私は見たことがない。私との再婚の前に、写真等はすべて亡夫の実家に返したと聞いている。 けれど、彼女の死んだ夫が、生きていれば私とかわりない年代の人間であると聞かされたときは、胸が騒いだ。詩乃が「彼」と結婚したのは二十歳のころだという。当時三十半ばでしかも顔を見知っているくらいの関係だった「彼」に、是非にと乞われての婚姻だったらしい。詩乃はあまり話したがらないが、「彼」は大手家電メーカーの重役の甥で、詩乃の実家がほそぼそと経営している家電部品の生産工場とは取引関係にあったようである。 エリートサラリーマン相手とはいえ、その年の差で、しかもおそらくは断れない結婚だったことが、その後の夫婦関係にどう影響したか―――詩乃の口からくわしく聞いたことはない。しいて聞こうとは私も思わない。ただ、詩乃が「彼」と同じ年代の私に、そして私との再婚生活にどんな感慨を抱いているのか、時折、気にかかることはあった。 妻の目が薄く開かれた。 涙の膜に覆われたぼんやりとした瞳は、しかし私に向って懸命に何かを訴えている。唇が声にならない声を刻んだ。 ―――こんな表情を。 ―――「彼」にも見せていたのだろうか。 「もう逝きたいの?」 妄念を振り払い、あえて冗談ぽい口調で私は問う。言葉より早く、濡れきった肉の輪が、私のものをきつく締めつけてこたえた。 「言ってくれなきゃ分からないよ」 「いじわる・・・羞ずかしいの、知ってるくせに」 私の胸にぐいぐいと顔を押しつけつつ、詩乃はつぶやいた。まるで発熱しているかのように、その肌は熱かった。 焦らすのをやめ、律動を早くした。抜き差しのたびに響く水音を、詩乃のうわごとめいた言葉がかき消す。いじわる―――いじわる―――と彼女は繰り返した。 やがて呆気なく、詩乃は頂点を極めた。絶頂の瞬間、張りつめた弓のごとく細い背がぴんと反りかえり、そのまま骨まで溶けてしまったようにぐったりと弛緩した。それを見送った後で、私も彼女のなかに精を放った。 そのまま、詩乃の横にぐらりと仰向けになった。 静かな夜だ。傍らには詩乃がいる。 その詩乃は私の妻だ。私だけの女性だ。だから私は幸福だ―――そんな他愛もない想念が、胸の内側でひらひらと舞っていた。 ようやく動けるようになった詩乃が、押し黙ったまま、枕もとのちり紙で自身の後始末をして、それから私の萎えしぼんだ性器に新たな紙を当てた。拭うのかと思いきや、小さな手のひらでぎゅうっと握りしめてくる。 「痛いよ」 「痛いようにしているんです」 「責めているのか」 「意地悪だったからです」 そっぽを向いたまま、仏頂面でそんなことを言う。 何が意地悪なものか―――そう言い返そうとしたが、その頃にはもう、私の瞼もとろとろと落ちかかっていた。やはり、もう歳だ。 おやすみも言わず眠りに落ちていきながら、私は、性器を刺激するやさしい紙と指の感触をかんじていた。 翌朝起きると、寝室に妻の姿はなかった。つまり、いつもの朝の光景だった。 あくびをしながら居間に行くと、エプロンを着けた妻の後ろ姿が見える。 「おはよう」 「おはようございます」 「どうも身体が重い。節々が痛むようだ。もう歳だね」 「自業自得です」 振り返りもせず、妻はこたえる。にやけ笑いをしながら、私はテーブルに置かれた新聞を広げる。来月分の雑誌原稿は昨日で出稿を済ませている。今朝はゆっくりと朝食を味わってから、職場に出ればいい―――。
2014/11/23(日) 18:50:07 |
窓明かり ・BJ
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フリーのライターだった時代は、取材と原稿書きで何日も自宅に帰らないことがあった。前妻の玲子には迷惑をかけたと思うが、彼女は彼女で仕事にカルチャースクールにと忙しそうにしていたから、その意味で気は楽だった。もちろん、玲子の癌が発覚してからは、心身両面で思い出したくないほど大変な生活が始まったのだが。 編集長を務める現在は、他人の書いた原稿やあがってきた企画にあれこれといちゃもんをつけたり、編集サイドと営業サイドのトラブルを仲裁したりと、仕事量そのものは減ったものの、クリエイティブな部門にはめっきり関わらなくなって、刺激が薄いといえば薄くなった。これはまあ仕方のないことではある。年かさのいった人間が現場に口を出しすぎると、組織は活性化していかない。とはいえ、昔は厭でたまらなかった激務の日々を恋しく思うことはあった。 「技術や開発の職から管理職に出世した人間で、同じ虚しさを抱えているひとは実は多いようですよ。やはり、現場が一番楽しいってね。でも、秋原さんの場合は、私生活が充実しているからまだいいでしょう。何せ、新婚さんですからなあ」 以前から付き合いのあった画廊のオーナーに、そんなことを言われた。 「新婚さんはやめてください。そんな歳でもないのに、恥ずかしげもなく年下の女性と再婚して、社内でもずいぶん冷やかされたんですから」 「何の恥ずかしいことがありますか。うらやましいですよ。新しい奥さんとは仲良いんでしょう?」 「今のところはね」 「私なんて古女房とのあいだに、ろくろく会話もないですよ。たまにあっても、二、三日前と同じ話を繰り返してる。お互いにボケてきてるから、同じ話を聞いて、二、三日前と同じところで笑ったりしてねえ。まあ、これはこれでボケの効用ですかな」 オーナーはからからとわらった。 挨拶をして画廊を出ると、初冬の風が冷たかった。思わずコートの襟を握りしめる。 今日は午後から休みをとっている。これから銀座のバンプという喫茶店で、詩乃と待ち合わせる予定だった。 ビートルズのイン・マイ・ライフを口ずさみながら、神田駅まで歩いた。 それにしても、新婚さんとはね。 電車の窓の外に流れるビルの海を眺めながら、先ほどのオーナーとの会話を思い出し、私は苦笑いした。この歳でそんなふうに呼ばれるなんて、昔は想像したこともなかった。 詩乃と籍を入れたのは、今年の一月のことだ。齢五十五と三十九のカップルとはいえ、たしかに新婚といえなくもない。だが、やはりそこはかとなく滑稽だ。 結婚といえば、詩乃との付き合いが深まるにつれて、私は次第にそのことを意識するようになっていったのだが、一方の彼女は、私がそれを口にすることを恐れていたような気がする。 『このままでいいの。わたしは―――このままで十分幸せ』 そんなセリフを何度か聴いた覚えがある。そして、そんなときの詩乃の表情は、幸福に浸っているというよりも、何か遠いもの思いに耽っているような翳りがあった。 詩乃は―――何を恐れていたのだろう。 だが、それももはやどうでもいいことだ。 彼女はいまや秋原詩乃になったのだから。私の傍であのころよりも幸福そうにわらっているのだから―――。 バンプには約束の時刻よりずいぶん早くついてしまったので、私はコーヒーを注文し、ラックの週刊誌をぱらぱらとめくって時間をつぶした。煽情的なヌードの載ったこの手の雑誌を私が読んでいると、詩乃は顔をしかめる。玲子なら気にもしなかった。 ずいぶんと性格が違うものだな。 ふっと口元に浮いた微笑を押し殺しながら、私はコーヒーを啜り、胸元から取り出したキャビンに火をつけた。 窓の外に目をやる。薄曇りの空をジグザグと切り取る四角いビルの群れ。雑踏のなかを歩く人々の足取りはせわしない。 その人の波のなか、見慣れた詩乃の顔が現れた。白いコートを羽織り、幾何学的な模様が黒く縫いとられた臙脂のスカートを履いている。長い髪がさらさらと風になびいていた。この店に来たことのない詩乃は、どうやらバンプの位置が分からないようで、すこし途方に暮れたような表情で周囲を見まわしている。私は立ち上がって、手を振ろうとした。 そのときだった。 立ち止まった詩乃を、通りすがりの男がじっと見つめていることに、私は気づいた。歳は四十か五十くらい。黒く染めていることが一目で分かる髪を長く伸ばし、ブラウンのジャケットの内側に紺色のシャツを着こんだ中年男だった。下腹がぽっこりと出ている。 その中年男が、詩乃に近づいて行く。詩乃も男に気づいた。そして――― そして。 瞬間、詩乃の顔色が変わった―――ように見えた。 私は意外の感に打たれた。彼女の驚きの意味が分からなかったからだ。そう、たしかに詩乃は驚いていた。意外なところで意外な知り合いに会った―――そんな驚きのようだった。 男とは旧知の間柄なのだろうか。 だが、それにしては、詩乃の表情は冴えなかった。まだ醒めやらない驚きをたたえた顔には、ちらりとも笑みなど浮かんでいない。 むしろ―――怯えているように見える。 一方の男は片手をあげ、にやにやとわらっている。どこか下卑た笑顔だった。 ふたりはそのまま、雑踏のなかで立ち話をはじめた。といっても、話をしているのは、男ばかりだった。詩乃はうつむいて、その言葉を聞いていた。 そしてようやく、男は詩乃の傍から離れた。終始笑みを浮かべたまま、男は片手を振ってみせた。去っていく男に向かって、詩乃は頭を下げた。こちらは最後まで硬い表情のままだった。ひとりになっても、まだ、どこか呆然として、その場に立ち尽くしている。 急ぎ店を出て、詩乃のもとへ走り寄った。 「いったいどうしたんだ?」 肩に手をかけた私に、詩乃は幽霊でも見たかのように、また驚いた顔をした。 「あ――――」 まずいところを見られた―――。 そのときの詩乃の表情を描写するならば、まさにそんな言葉の連なりが的を得ていた。 私の表情が不審を浮かべるのが分かったのだろう。詩乃はすぐに表情を落ち着いたものに変え、「後ろからいきなり声をかけるの、やめてください。いつもびっくりするんだから」と言った。 「それはわるかった。でも、君も相当ぼうっとしていたようだぜ」 「いつから、いらしてたの?」 「三十分も前からさ。分かりにくい場所を指定して、すまなかった。それはともかく、今の男は誰なんだい?」 「今の男・・・・?」 「たった今、君と立ち話していた男さ」 「主人の―――」口にしてから、詩乃は上目づかいに私を見て、別の言葉で言い直した。「昔の主人の―――友人だった方です」 そうか、としか私は言葉を返せなかった。だが、何かもっと別の、何かもっと聞かなければいけないことがあるような気がした。 「もう、行きましょ。映画が始まってしまうわ」 私の服の袖を引っ張って、詩乃が急かすのに合わせて、私たちは雑踏を歩むふたりとなった。 ハリウッド製の大作は、斜に構えなければ十分に楽しめる内容だった。先ほど、魚の小骨ように刺さった違和感も、映像と音楽の洪水のなかにいつしか飲み込まれ、消えていった。詩乃も、その後はずっといつもの詩乃で、私の他愛無い軽口をたしなめたり、受け流したりしながら、口元を手で押さえてくすくすわらうのも、普段と何ら変わりない彼女の仕草だった。 そんなちいさな出来事があった、半月後のことである。 仕事帰りに、私は古い友人の関谷と会った。映画会社でプロデューサーを務める関谷は、私と高校の同級で、卒業から四十年近くたった現在も交友が継続している貴重な存在だった。 ホテルのバーでひとしきり近況や愚痴を言い合った後で、関谷は「今夜は遅くまで付き合ってくれるんだろうな。よし、面白いところに案内してやるよ」と言った。 「お前の面白いところというと、それは下品なところに決まっている」 「失礼なことを言いやがって」と関谷はわらう。「まあ、外れてはいないけどな」 「もう老人なんだから、少しは自重しなさい」 「何を本当の老人みたいなことを。昔はしょっちゅう、ふたりで朝まで遊んだ仲じゃないか」 「あいにく、俺は新婚さんなんでね」 「その歳で気持ち悪いことをぬかすな」・・・・言われてしまった。仕方なく、付き合うことにして、私は妻に「きょうは遅くなるから」と携帯で話した。詩乃は「あまり遅くならないでね」と念を押して電話を切った。 「奥さんは夜遊びを咎めるほうかね」 「いや、分からないな。お前のとこはどうなんだ」 「もう見捨てられてるよ。あっちはあっちで、女友達と遊び三昧さ」 ぼやく関谷に苦笑しながら、夜の街へと繰り出した。 関谷に連れられてやってきたのは、新宿の中心街からは離れた場所に位置する雑居ビルの、地下二階に入っているクラブだった。 その会員制のクラブ「玄武」は、現会員の紹介がなければ入会できない仕組みになっているらしかった。受付の若い男相手に面倒な入会手続きをして、いざ入店というときに、受付の男からはマスクを渡された。仮面舞踏会でよく見るあれだ。これを付けて入れ、ということらしい。 仕方なく手渡されたそれを顔につけ、店内に入ると、雑居ビルの古ぼけた外観から受ける印象に反して、やたらと派手な内装に驚いた。巨大なシャンデリア。ソファとテーブルはアンティークで、大理石の床には真っ赤な敷物がしかれている。赤は店のイメージカラーとなっているらしく、そういえばマスクの色も赤だ。奥に見えるピアノさえ、真紅にかがやいていた。 正面には一段高いステージがあり、今は重たげな緞帳に閉ざされていた。柵で仕切られた座席は、その周囲をかこむように設けられていた。 「どうだ、すごい雰囲気だろ」 マスクをつけた関谷がわらいかけてくる。 「目がちかちかするな。どうも悪趣味だね」 「時間ぎりぎりだったな。もうすぐイベントが始まる」 何のイベントだ、と問い返す前に、シャンデリアの光が暗くなった。 流れていた音楽が消え、かわりにこれまた赤いドレスを着た美しい女が、そこだけスポットの当たった真紅のピアノに座った。 女の指が控え目な音で、気だるい旋律を奏で始める。よく目を凝らすと、女のドレスは透ける素材でできているようで、その奥に包まれた肌―――下着もつけていない―――がうっすらと覗いていた。 短い演奏が終わった。 それが前奏だったのか、するするとステージの緞帳があがっていく。 あらわになった舞台にいたのはひとりの女だった。 客と同様、赤いマスクが目元を隠している。それでも、すっととおった鼻筋や形の良い唇は、女が相当の器量の持ち主であることをうかがわせるものだった。 だが、そんなことよりも目を引くのは、女がまったくの素裸であり、しかもそのむきだしの肢体を緋色の縄できつく拘束されていることだった。 先に、私は女が「舞台にいた」と書いた。その通り、女は「立っていた」のではなく、宙に浮いた状態でその場に「いた」のだ。乳房を絞り、身体の正面でいくつもの菱形をつくった縄は、彼女の後ろ手を拘束し、そのまま客席からは見えない天井のフックに吊るされていた。 そんなふうに宙空に吊り下げられ、セピア色の妖しい照明に照らされてかがやく身体は、なんと恥毛まできれいに剃りとられていた。女の年齢は分からないが、おそらくは三十の半ばころと思われる。熟女の艶香ただよう躯に、その部分だけ子供のように幼い縦筋を刻んでいるのが、奇妙に煽情的だった。 すらりと伸びた脚が、床から三十センチほど離れて、ぶらぶらと揺れていた。
2014/11/23(日) 18:51:11 |
窓明かり ・BJ
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「―――きょうは誰と飲みに行ってらしたの?」 台所に立って、やかんの水を火にかける詩乃の背中が言った。 「関谷だよ。いつか話さなかったかな。高校時代からの腐れ縁で」 「ああ、あの映画を作っていらっしゃる方」 「当人は映画プロデューサーなんて高級な肩書きの似合わない、およそ無粋で非文化的な男だがね」 かすかなわらいごえ。こちらからは後姿しか見えないが、おそらくいつものように口元に手をあてているのだろう。 胸元から取り出したキャビンに、火を点けた。 「大事なひとのことほど、ちょっと悪く言ってみせるのはあなたの癖ですね」 煙草をふかしていると、唐突にそんな言葉がふってきた。 「なんだい、いきなり」 「出会ったころ、あなた、よく玲子さんのお話をしていたでしょう。玲子さんのことを話すときも、あなたはそんなふうにちょっとふざけて、でもとても懐かしそうに話してた」 そんなこともあったかもしれない。 「玲子はともかく、関谷の場合はちがうね。君も実際に奴に会ってみれば、俺の描写がいかに正確無比だったか、きっとわかるよ」 急須をのせた盆を抱えて戻ってきた詩乃は、含みわらいをしながら「はいはい」と言って、私の目の前で湯呑に茶を注いだ。 「はい、どうぞ」 「ありがとう」 「どういたしまして」 詩乃はまだ微笑をうかべている。あなたのことなら何でもわかっているわ、というような笑みだった。 ふと、そんな詩乃から目をそらして、私は白い湯気のたちのぼる茶を啜る。舌がひりひりとするくらい熱かった。 「君は―――あまり話さなかったな」 「何のことかしら?」 詩乃は小首をかしげた。 「英輔さんのことさ」 連れ合いを亡くしていること―――それは私たちを結びつけた最初の接点で。 逆にいえば、まだそのくらいの共通点しか見つからなかったころ、先ほど詩乃が口にしたように、私はしばしば玲子の話をした。 気の強かった彼女。彼女の趣味。彼女の好きだった花。彼女の愛していた仕事。彼女とのささやかな年月―――。 私は聞いてもらいたかったのだろう。同じような傷を持った誰かに、死んだ妻がどんな女だったのかを―――。 そんな私の勝手な想いに、詩乃はいつも穏やかな微笑を浮かべて付き合ってくれた。そう、ちょうど先ほど見せたような、深い包容を感じさせる笑みを浮かべて。 私がいつしか玲子の話をしなくなったのは、そんな詩乃の微笑に―――生きている女のほほえみに心惹かれてしまったから―――だった。 けれど――― 思い返してみれば、私の話を聞くばかりだった詩乃は、あのころもあれからも、彼女の夫―――最初の夫である「彼」のことはほとんど口にしなかったのだ。 柏木英輔。 それが「彼」の名だった。 陽だまりのように和やかだった詩乃の顔が、わずかな翳りを見せた。それがどういう心情の変化をあらわしたものか、私には判断がつかなかった。 「そうね」どこか他人事のような口調で詩乃は言った。「あまり話さなかったかもしれない」 「どうして―――と聞いちゃだめかな」 あら、というように、翳りを帯びた大きな瞳に、かすかに悪戯な表情がまじった。「あなた、遠慮しているの? わたしが傷つくと思って」 「べつに、そうじゃない」 「―――たいした理由はないんですよ。だって、亡くなった夫のことなんて、ほかの男性に聞かせる話じゃないでしょう」 「俺は話したよ」 「あなたはいいの」どうしてだか、やけにきっぱりと詩乃は言葉を返した。「だって、わたしは楽しかったもの。玲子さんのお話を聞いて、幸せな気持ちになったもの」 立ち上がり、空になった湯呑を片づけながら、詩乃はそんなことを言った。そのまま台所へ向かう細い背中に、私は再び「どうして」と繰り返す。 振り返った詩乃は、今度は困ったような、すこし疲れたような笑みを浮かべていた。 「こんなことを言っては、若くして亡くなった玲子さんに失礼かもしれないけれど―――わたし、玲子さんってとっても幸せな人だったと思うの。しっかりと自分の意思があって、短くても自分の生きたい人生を生きて、あなたというパートナーにも恵まれた―――」 その言葉に何とこたえるべきか、私にはわからなかった。 「だから―――あなたがいきいきと話していた玲子さんのお話は、わたしにはすごく楽しかった。楽しくて―――羨ましくて―――、彼女の幸せをちょっぴり分けてもらえた気がしたの」 詩乃の返事は、「どうして」の回答になるものではなかった。だが、そう言って、また私に背を向けて洗い物をはじめた詩乃に、なぜだか私は、それきり二の句を告げることができなかった。 ひさしぶりに関谷と飲んだその夜、私が今まで無意識に避けていた詩乃の亡夫―――柏木英輔に話を向けたのには理由があった。 関谷と訪れた「玄武」は、集客のためのイベントとして、素人女性が出演するという触れ込みでSMプレイのショーを催す店だった。あの夜、全裸で吊られていた女は、当夜のメインゲストだったのだ。 ショーの前にアナウンスがあった。それによると、かの女はある一家のまっとうな主婦であり、小学生の息子を持つ母親でもある。だが、ふとしたことをきっかけに別の男と知り合い、仄暗い悦びを骨の髄まで教え込まれた。今ではその男の命令どおり股間を無毛に保ち、夫にはさせず、表では普通の生活を続けながら、時折こうして「玄武」の舞台に立っている、根っからの淫乱女だ―――。 自分に関するそんな紹介が流れる間も、女は蓑虫同然の身体を宙に揺られていた。 そんな説明が真実かどうかは分からない。すべてはクラブ側の演出にすぎないのかもしれない。だが、もし真実だとすると、仮面をつけて裸身を晒されている女は、普段の生活でこそ心に仮面をつけて、夫や子供の前では違う自分を演じているのだ。そして、今この場では逆に、目元を隠す一方で、剥き出しの自分を晒している―――。 それは胸がひやりとするような想像だった。だが、何故そんな感覚を覚えるのか、釈然としなかった。こんなもの、私とは何の縁もない世界の話なのに。 ショーがはじまると、舞台上の女の背後には、男ふたり―――いずれもタキシードにマスクをつけた姿だった―――がつき、手にした黒革の鞭を、なぶるように女の肌に這わせはじめた。ただそれだけで、女は打たれる恐怖に頬を引き攣らせる。 だが―――その引き攣った頬から頸筋までうきあがった紅潮は、恐怖のためばかりではなかった。こんなことに関しては素人の私でも分かる。恥辱、屈辱、凌辱。その渦中にいる女の表情は、たしかに与えられる責め苦に歪んでいるのに、一方でそれと矛盾した陶酔の色があった。 鞭がしなる。激しい打擲音と同時に、今度は女の背がしなる。 あえかな悲鳴があがる。 苦痛を訴えるその声には、どこかに媚びが含まれている。薄暗い悦びの匂いがする。 また、続けざまに柔肌を鞭が舐めた。赤い蚯蚓腫れが増えていくと同時に、後ろ手を背中で縛りあげられた不自由な肢体の波立ちは大きくなり、女の声は甲高くなっていく。まるで絶頂への階段を駆け上がっていくように。前髪のはりついた額や胸の谷間に浮かんだ汗の珠がきらきらと跳ね飛ぶ。 陰惨な光景。 猥らな女。 喰い入るように舞台を見つめている男たち。誰もかれもが素顔を仮面で隠し、ただそれだけの匿名性で、普段は心の奥底に隠している獣欲をあらわにしていた。 ふと――― そのとき私は、この虚偽に満ちた空間で、ステージの袖にただひとり、マスクをつけていない男の姿を捉えた。 『彼は―――?』 傍らの座席についた店の女の子に問う。彼女はああ、とうなずいて、 『ああ、あのひとはうちのオーナーです』とこたえた。 オーナー、か。 言われてみればそれらしい雰囲気はある。肥え太った身体を不似合いな白いタキシードに包み、長く伸ばした髪を整髪油でてらてらとひからせた中年の男。腕を組み、壁に背中を預けて、舞台の様子をうかがっている。 だが―――私はこの時、何とも言えないしこりのような感覚を覚えていた。 正体不明のそんな違和感の正体に気づいたのは、ステージの男たちが得物を鞭から紅い蝋燭に持ち替え、セピア色のスポットライトに照らされた艶めかしい素肌に、じゅくじゅくとした蝋涙を散らし始めたころだった。 つんざくような女の悲鳴。噴き零れる吐息には、蝋に劣らない熱気がこもっていた。 くねくねと芋虫のように、女の肢体が蠢く。それを見ているうち、なぜだか私の胸に蘇る情景があった。 ―――昔の主人の―――友人だった方です。 詩乃との待ち合わせの午後、窓越しに見かけた男。 酷く驚いていた、彼女の瞳。 また紅いものが滴り、痛みと喜悦の入り混じった啼き声を絞り取る。だが、そんなものは、もう私の意識からは離れていた。 そうだ。 あのとき、通りがかりの妻をつかまえて、下卑た笑みを向けていた男は。 淫猥な見世物の行われている舞台の端に、私はもう一度目をやる。 だが。 そこにはもう、男―――「玄武」のオーナーの姿はなかった。 その後も、ショーはつづき、関谷は終始ニタニタと下品な笑みを浮かべて、『どうだ、面白いだろう』と何度も言ってきたが、私はそんな感想を同じくする気分ではなかった。ただ、夏の日の入道雲のように、胸の内に不穏なざわめきが広がっていくのをぼんやりと感じていた―――。
2014/11/23(日) 18:52:18 |
窓明かり ・BJ
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詩乃と連れだって入った赤坂のPホテルのバーには、すでに石倉彰の姿があった。私たちの姿を見て、彰はいつものように颯爽とした笑顔をみせる。 「こんばんは、義兄さん。姉さんも、ひさしぶりだね」 彰は詩乃の二つ歳の離れた弟であり、私には義弟にあたる。 「きょうはわざわざありがとうございます。―――なんか、すごいな。月刊Rの編集長さまが僕なんかのためにお祝いに駆けつけてくれるなんて」 「いきなり冷やかすなよ。いや、そんなことはどうでもいいか。彰くん、このたびは栄えあるK大文学部教授への昇進、本当におめでとう」 「おめでとう、彰。姉さんも自分のことのようにうれしいわ」 私の声に唱和するように詩乃も祝いを述べる。 精悍なおもざしをわずかにゆるませて、彰は「ありがとう、義兄さん、姉さん」と頭を下げた。 K大仏文学科を卒業し、そのまま大学に残った彰が、大学史上最年少の若さで次期教授に決まったのはつい先日のことだった。 どちらかといえば普段は感情表現の控えめな詩乃だが、この報せが届いたときの喜びようといったら、ひととおりのものではなかった。むろん私もうれしかったが、それは常にない喜びようの妻を見られたといううれしさのほうが勝っていたかもしれない。 ともあれ、今夜はその祝賀会というわけで、彰と夫婦ふたりで飲むことになったのだ。 「―――しかし、その若さですごいね。もちろん、ここまでくるためには並大抵の努力じゃなかったろうが」 乾杯を終えた後で、あらためて感嘆する私に、彰は「もういいですよ。あんまり誉められると背中がこそばゆい」と照れくさそうに手を振った。 「まあまあ。何にせよ、わたしなんかの親戚から大学の教授先生がでるなんて夢にも思わなかった。これも君の姉さんと結婚したおかげだな」 傍らで穏やかにカクテルを傾けている妻に水を向けると、詩乃は大きな瞳をぱちくりさせて「あら」と口元に手をあてた。それから妙に色っぽい流し目で、「後家の未亡人で渋々手を打ったあなたも、ようやく少し元がとれてよかったですね」などと言う。 「お、その絶妙の切り返し。さすがは石倉教授の姉上だ」 「あなた、ちょっとふざけすぎですよ」 そんな他愛ないやりとりを眺め、微笑を浮かべていた彰は、「夫婦仲が良くていいですね」と、ほっとため息をつくように言った。 「君はまだ身を固める気はないのかい?」 「今は余裕がありませんね。助教授なんて肩書きがついていたって、実収入は微々たるものでしたから。これからはそういった面では多少ましになるでしょうけれど、残念ながら相手がいない」 「高望みしすぎなんじゃないか。君ならいくらでも寄ってくる女性はいるだろう」 本心から私は言った。客観的に見て、石倉彰は男前と呼べる容姿の持ち主だ。姉と似た切れ長の二重に黒目がちの瞳。俳優のように高い鼻梁、薄い唇。地位や名誉や収入といった要素を抜きさっても、内外ともに充実した男だと思う。 「どんな女性が理想なんだね」 「そうですねえ。穏やかで、寛容な、やさしい女性がいいかな。思春期の中学生みたいな答えですみません」 「ちいさい頃から母さんやわたしにがみがみ言われて育ったから。正反対の、おっとりとおしとやかな女性に憧れているんですよ、きっと」わけしり顔で詩乃は言い、それからいたって真面目に付け加えた。「でも、早く安心させてね」 「はいはい。最近は口を開くとこうなんだからね」 降参のポーズで両手をあげて、彰は私に苦笑を向けた。 詩乃がトイレへ行き、しばしの間、私と彰はふたりで杯をつきあわせた。 「―――義兄さんには本当に感謝しています。義兄さんと結婚してから、姉さんは見違えるほど明るくなった」 唐突に、彰がぽつりと呟いた。 「どうしたんだい、急に」 「きょうはうれしい日でした。教授になったからじゃない。そのことで、今まで姉さんにかけていた重荷を、ほんのわずか取り除けた気がしたからです」 「重荷ってなんだい。姉さんは君のことをそんなふうに思ってなんて」 「思っていなくても」彰は珍しくつよい口調で、私の言葉を断ち切った。前髪のかかった眉間の辺りに懊悩の翳があった。「事実、僕は姉さんに負担をかけていたんです。大学への入学したときからそうだった。知っていますか? 姉さんが前の亭主を結婚したのは―――しなくちゃならなかったのは、僕のためなんです。僕を大学に行かせるために、姉さんは二十歳の若さで、よく知りもしない男の妻になった」 およそ二十年も前の話だ。 当時、詩乃と彰の実家は、経営していた家電の部品工場が押し寄せていた不況の波と大手企業による生産ライン一括化の波にうまく乗れなかったこと、加えてふたりの父が投機に失敗したこともあって、借金で首も回らない状態になっていたという。長男である彰を進学させることすら、ままならなかったらしい。 そんな苦境に喘いでいたさなかのこと。有力取り引き先企業のひとつであるM社で重役を務める男が、石倉の実家に姿をあらわれた。 ―――甥の英輔が、あんたのとこの詩乃さんを娶りたいと言っておる。 石倉家の経済状況を知りぬいた上で、まるで天与の助けを与えるように、男は押しつけがましく言った―――という。 「僕が言うのもなんですが、当時の姉は町でも評判になるほどうつくしかった。今だって綺麗だけれど―――あの頃は、望めばどんないい結婚もできるはずだったんです」 私は思わず唾を飲み込んだ。 「英輔さんとは―――いい結婚じゃなかったのか」 「はたから見ればそうだったかもしれません。相手はM社でエリートの地位が約束されたひと。歳の差があったことを除けば、まず玉の輿といっていい。でも―――僕にはそうは思えなかった。いや、そうは思えなくなったんです」 どこか苦しげな表情で、彰は言葉を絞り出していた。 それは、どうして―――? しかし、そのとき詩乃が席に戻ってきて、それきり彰は今まで見せていた苦渋の表情をぱたりとひっこめたので、私も口に出そうとした問いをそっと仕舞いこんだ。 祝いの席は終始和やかにつづき、詩乃はずっと上機嫌で、いつになく酔ってしまったとしきりに言っていた。そんな珍しい姉の姿を見つめる彰の目には、安堵とともに切なさの色もまじっているようで、なぜ彼がいまだ身を固めようとしないのか、私にはどこかですとんと腑に落ちるものがあった。 そんな感慨と同時に――― 私は、先日の出来事を思い出していた。 あのいかがわしいSMクラブ「玄武」での一件。 オーナーと呼ばれていた男。 かつて、詩乃の死んだ夫、英輔の友人であったという男。 あの男は、詩乃を知っていた。 いや、そんなことに問題はない。 たとえ、どんな種類の友人がいたとて、それは個人の自由だ。その友人が、友人の妻と顔見知りだったからといって、そこに何の不思議があるのか。 けれど。 あのとき、たしかに詩乃は驚いていた。いや、もっと正確にいえば、その驚きには怯えがいりまじっていた。 まるで過去から浮かび上がってきた亡霊を見るような―――。 ―――歳の差があったことを除けば、まず玉の輿といっていい。でも―――僕にはそうは思えなかった。 ―――いや、そうは思えなくなったんです。 過去より現れし亡霊―――その名は。 だが――― 私はそこで思考を放棄した。 傍らには慈しみ合う姉弟。 その姉は私の最愛の女性だ。 だから―――もう何も考えない。 考えてはいけない。 「何をぼんやりしているの?」 気がつくと、詩乃が横から私の顔をまじまじと見つめていた。心配そうな顔をしている。 「いや―――何でもないよ」 そう、何でもないんだ。 この胸にわいた厭な予感など、幸福な現在の前には何の意味も持たない。 「身体の具合でもわるいの? 昨日から急に冷え込んだし、あなた、風邪をひきやすいから」 「何でもないったら。熱もないし、身体はいたって健康だよ。ちょっと考え事をしていただけさ」 「そう? ならいいけれど」 かすかに眉をひそめた表情を柔和なものに戻し、詩乃はまた、妻の顔から姉の顔になった。 今にして思えば――― この時点で、私はひとつの選択をしてしまったのだ。 酷く、間違えた選択を。 だが、そのことに私がようやく思い当ったのは、以後ずっと時間が経ってからのことだった。
2014/11/23(日) 18:53:31 |
窓明かり ・BJ
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時間は安穏と流れ、そうして三年の月日がたった。 私はゆるやかに老境の坂をのぼり、とうとうあと二年で定年というところまできてしまった。 仕事一筋―――というほどでもないが、ライターとして出発して以来、ジャーナリズムの世界で衣食してきた人間が、キーボードを打つやかましい音と煙草の煙うずまく職場をはなれ、さてどんな余生を送っていくのだろう。趣味といえるほどの趣味もない。 もっとも、不安は感じていなかった。 むろん玲子が死んで以後ずっと一人きりのまま生活していたら、不安の量は比較にならないものだったろう。 だが、いまの私には詩乃がいる。 話し相手がいる。同じベッドで眠る彼女がいる。 だから―――不安などない。 そんなふうに。 私は思っていたのだ。 詩乃は四十二歳になった。 三年間で、彼女も相応に歳をとったのだろうが、しかしその顕れ方は、夫の私とはずいぶん違う。 痩せすぎといえるほどだった肢体には幾分肉がつき、線にまるみが出たようだが、いっぽうで頬のあたりは肉がおちていっそうほっそりした。そのためか、もともと大きな瞳が余計にくっきりして見えるようになった。 すでに結婚して四年。しかし自分の妻ながら、はっとするほど妖艶に感じられることがあった。 そんな―――ある日のことだ。 紙メディアの不況がささやかれるなかでも、ありがたいことに月刊Rはしぶとく生き残っていて、私は私で、まだその編集長のポストにいた。編集部の長としてエゴの強いライターたちをいさめ、けれど時にはそのエゴを認め伸ばしてやることが、長年この世界にいる自分の最後の務めだと―――そんなことを思っていた。 その日も新企画を持ってきた若手と対立する古株の激しい言い合いを、なるべく第三者の立場で宥めつつ、最終的な決断は保留にして、家路についた。 さあ、どうしたものだろう―――。 考えあぐねつつ、ふといつもの場所でわが家を見ると、冷え冷えとした窓に映るは闇ばかりで、一片の明かりもない。 そういえば、きょうは銘流会の宴席があるのだったな。 二年と半年ほど前のことになるか。詩乃は新しい何かをやってみたいと、銘流会という華道組織に入った。性格が生真面目なのでつづくだろうとは思っていたが、以来、こうして平日の夜にも時折、集まりの会に出て行くことがあった。 窓明かりのない淋しげな家のドアに、私は鍵を差し入れた。 詩乃が戻ってきたのは、夜の十一時をまわったころだった。 「ごめんなさい。きょうはとても遅くなってしまって」 入ってきた途端に詫びる詩乃は、すこしうつむきかげんだった。インナーに黒のシャツ、瑠璃色の薄いジャケットを着て同色のスカートをはいていた。詩乃の好みにしてはすこし派手のようだが、このところ彼女の嗜好には幾分変化があり、時には私がどきりとするような服装をすることもあった。 ほんのりと顔があかかった。かなり飲んだのだろうか、と思い、近寄って見ると、やはり酒の香りがした。 「べつにかまわないよ。夕食は用意してくれていたものを食べたよ。それよりも、君は楽しめたのかい?」 「・・・・・・・ええ」 「そうかい。なら、ますます問題ないさ」 呑気な声で私が言うと、一瞬、詩乃の表情がこわばったように感じた。 気のせいだろうか。 詩乃はもう一度、「ごめんなさい」と頭を下げて、浴室へと消えていった。テレビもつけず居間でゆったりと煙草をふかす私の耳に、しばらくして、彼女のシャワーを使う音が聞こえてきた―――。 ―――とつぜん胸元に触れてきた手は、ずいぶんと熱かった。 暗い寝室。シーツの海。触れてくる手は妻のものでしかありえない。 と思う間もなく、私の肩にちいさな顔が押し付けられた。 「どうしたんだい?」 尋ねる声に、詩乃は答えない。その代わり、乱れた息遣いが聞こえた。苦しげなような、それでいて聴く者の胸をぞくりとさせるような吐息。 多少の驚きを覚えながら、それをおもてには出さず、私は身体の向きを変えて、妻のほうをむいた。 暗がりのなか。 潤みきった詩乃の瞳が見えた。 見つめると、すぐに厭がって、また私の肩に顔を押し付ける。だが、寝間着の胸元をつかむ手はいよいよつよく、息はいっそう乱れている。 こんな情態の妻を、私は今まで見たことがなかった。 あなた、とちいさく呼ぶ声がした。なんだい、と言葉を返しても、詩乃はあなた、あなたとただ繰り返すばかりで、しかもその声は次第に大きく、切なげな吐息は狂おしいほどになっていく。 と、思う間に。 するり、と詩乃は私の身体の上に移動した。 まっすぐに垂れ落ちた長い髪が私の視界を覆う。 その奥に、先ほどの潤んだまなざしがあった。 詩乃、と私は彼女の名を呼ぼうとした。だが、それが声になる前に、私の陰茎を白く細やかな手が撫ぜた。手はしばしその部分をまさぐった後で、寝間着の下に入り込み、年相応に衰えた肉棒をつかんだ。 はあ、はあ、はあ。 あえぎを抑えられないまま、艶やかな黒髪をぱらぱらと振り乱す様には、夜叉めいた鬼気が漂っていた。私の耳から頸筋までのあちこちになめらかな唇を這わせつつ、豊かな乳房をぐいぐいと胸に押し付け―――、詩乃は握りしめた肉柱をさすっていた。 いつも受け身で、わずかな愛撫にも鋭い反応を見せ、すぐに高みへと駆け上がっていく妻の、まるで人がちがったような娼婦めいた奉仕だった。いや、それは奉仕などというものではなく、ただ私という男の欲情を掘りおこし、肉芯の熱を滾らせるための所作だった。 驚き、翻弄されながら、しかし私は眼前の妻の凄じい濃艶さに釣り込まれた。そうしていきりたった男根を、私にまたがった詩乃が、根を絞るばかりに食い込んだ手で、自らの内側へ招きいれた。 そこは。 息を呑むほどに濡れていた。 その後はもう、夢幻のようだった。 あっ、あっ、あっ、あっ、あっ――― 淫らな嬌声のリズムはどんどんとはやくなった。 そのたびに私の身体の上で舞うものの動きもはやくなり、やわらかな餅のような臀や腰のうねりは激しくなっていった。乳房が跳ねるように大きく弾んでいた。 際限なく、詩乃は昂まっていった。昂りの果てに絶頂を迎えても、いつものようにぐったりと弛緩することがなく、その熱はいっそう熱く、その欲望を満たそうとする動きはいっそう淫らさを加えていくようだった。 涙すら、流していた。それでも自身を衝き動かすものを鎮められずに、乱れ舞う躯を止められないでいる詩乃は、先ほど感じた印象を超えて、まさに夜叉そのものだった。 男を求めて、喰らう夜叉。 そんな―――そんなイメージは、私のよく知る控え目で羞じらい深い妻からは、一万光年以上かけ離れたものだった。 だから―――これは、夢幻にちがいなかった―――。 私が意識を失ったのが先か、それとも妻が先に失神したのか、それすら覚えていない。 翌朝、目が覚めると、詩乃はとうに寝所を抜け出して台所に立っており、味噌汁に入れる小葱を包丁で刻んでいた。 陰茎に鈍い痛みを感じながら、私はただぼんやりと立ちつくして、その背中にかけるおはようの挨拶をなかなか思いつくことができなかった。
2014/11/23(日) 18:54:48 |
窓明かり ・BJ
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分煙化が進むこの世の中で、月刊Rの編集部にはまだその波が押し寄せてこない。 ・・・・上に立つ人間のせいだろう。 その日もわたしは自身の席で、ぷかぷかと煙草をふかしながら、誌面にのる形に組まれた原稿のゲラ刷りを見ていた。 「―――編集長。ただ今、戻りました」 そんな声にふと目をあげると、ラフなジャンパーにジーンズ、肩にはカメラをぶら下げた青木がいた。 「お、御苦労。箱根のほうはうまくいったかね?」 「まあまあですね。最近はいかに充実した取材をするかより、いかに出張費を抑えるかに頭を悩ませますな」 「そう言うな。この不況で、管理の人間からうるさく言われてるんだ」 私は苦笑いした。 まだ若いくせに誰に対しても遠慮のない口を聞く青木を煙たがる者も多いが、私はこのいかにも頑丈そうな、フットワークの軽い青年に、ライターとしても人間としても好感を持っていた。 「きょうはもう直帰してよかったのに。わざわざ会社まで戻ってくるとは律儀だな」 そう言うと、青木はなぜか居心地のわるそうな顔をした。 「どうした?」 「いえ、実は編集長に個人的なお話があるんです」 「個人的に? 結婚でもするのかね。仲人役なら頼まれるよ」 「そんなんじゃありません」今度は青木が苦笑いした。「少しだけお時間をいただけないですか」 「今からだろう? 一階のビローズでどうだい」 「いいですね。でも十五分ほど待ってください」 「先に行ってるよ」 私はコートをつかんで、席を立った。 ビローズは編集部のある雑居ビルの一階に、もう二十年近く居をかまえる喫茶店だ。かつて詩乃がR編集部に事務員としていたころは、一緒に訪れたこともあった。 いつもの窓際の席に着き、コーヒーを注文した。裏通りとはいえ、窓の外の人波は絶えない。 店内にはビーチボーイズのゴッド・オンリー・ノウズ―――邦題「神のみぞ知る」が流れている。I may not always love you(永遠には君を愛さないかもしれない)、か。思えばずいぶんとシビアな歌詞だったのだな。メロディーと歌声は神々しいばかりにきらきらとしているのに。 キャビンに火をつける。紫煙の彼方に、脈絡もなく、妻の顔がぼんやりと浮かぶ。 先夜の狂乱を思い出す。そうだ、あれはたしかに狂乱だった。 あの夜のことを、詩乃と話題にしたことはない。詩乃はおくびにも出さない。今までどおり楚々として、生真面目な詩乃のままである。あの夜の媚態―――いや、狂態など、一片の名残りも留めていない。 だから、いよいよ夢のような気がしてくる。 けれど―――あれは間違いなく現実だったのだ。身体がそれを憶えている。 灼けるような悦楽の記憶が。 あれほどの快美を味わったことはない。それは共鳴のような感覚だった。芯から性の愉悦に身を震わし、逃れられない業のようなものに首輪を嵌められて、苦悶交じりに悶えあえいでいたおんなの熱に巻き込まれたような感覚―――。 その詩乃は一昨日から家を空けている。通っている華道の銘流会の懇親旅行で、金沢まで行くと言っていた。 『年末のこの時期に、あなたには申し訳ないんだけれど』 本当にすまなそうな顔で言う詩乃に、私はいつものように『かまわないよ。楽しんでくるといい』と鷹揚な言葉を返した。 前妻の玲子はよく旅行だなんだと家を離れる女だった。それに比べると、詩乃はほとんど遠出することはない。マスコミの常で、あまり都内を離れられない私にしたって、彼女と旅行に行く機会などそうそうないのだから、たまには女友達と違う空気を吸ってくるのもいい。 私がそんな言葉を返すと、詩乃はいっそうすまなそうな顔をしていたが、やがて大きくため息をつき、その後でなぜだかすこし哀しそうな笑みを浮かべた。 『どうしたんだい』 『ううん、何でもないの。あなたがそんなふうにやさしいから、わたし―――』 しかし、詩乃はそこで言いかけた言葉を途切らせ、『じゃあ、お言葉に甘えて、出掛けてきますね』とだけ言った。 そして、きょう詩乃は家に戻ってくる予定だった。いや、今頃はもう帰ってきている時刻だろう。 ビローズの扉が開いて、大柄な青木の姿が入ってくるのが見えた。 「あ、コーヒーで。―――すみません、遅くなって」 かまわないという代わりに、私は煙草を持った手をかるく揺すって見せた。 「君も大変だな。あちこち飛び回って、若いのにろくろく遊ぶ暇もないだろう。そうさせている人間がこんなことを言うのもなんだが」 今さら何を言うんですか、と青木はわらった。 「好きでついた仕事ですから。取材と称して、普段見られないものを好きに見られるなんて、ほかの仕事じゃできないことでしょ。僕にはこの職しかできませんよ」 「それは頼もしいね」 「編集長だって若い頃はバリバリだったんでしょ。ほかのマスコミの人間と飲むときも、秋原真の名前はよくあがりますよ。迅速で綿密な取材、妥協を許さないペン」 「どこの敏腕記者の話だね、それは。私は昔から自分の興味ある分野にしか頸を突っ込まない、わがまま気ままな奴で、上の人間には煙たがられていたよ。だから君のような型破りには、ついつい採点が甘くなる」 「あ、ひどい。それって暴言ですよ」 苦笑いして、青木はウエイトレスの運んできたコーヒーを啜る。 「それで。話というのは何なのだね」 本題に水を向けると、青木は今までのどこか無理したようなおちゃらけた表情を改め、しばし凝視するように私を見つめた。 「なんだい、そんなあらたまった顔して。気になるな」 肩の力を抜かせるようにくだけた口調で私が言っても、青木はなおためらいを見せていたが、ようやくのことで口を開いた。 「ご足労を願っておいて何なのですが、本当はこんな話をするのは気が進まないのです。けれど―――」 そこで、また口ごもる。いつも、きっぱりとした言葉を貫く青木にしては珍しい態度だった。これはよほどのことか、と私はすこし緊張した。 「それは、何かね。社内の人間に関する醜聞のようなことなのかい」 言葉を濁した私に、しかし青木は頸を振った。 「ちがいます。僕がお話しようとしているのは―――」 柏木詩乃さんのことです―――。 と、青木は言った。 なぜ――― その名前がここで出てくるのか。 私は戸惑った。 柏木は詩乃の旧姓―――亡夫の苗字である。詩乃が以前編集部で働いていた折は、その名前だった。 「ああ、失礼しました。今は―――秋原詩乃さん、いや奥さまとお呼びしたほうがいいですね」 「いや、君にとって馴染み深い呼び方でかまわないだろう。それで―――?」 話のつづきを促す私の胸は、何かよくない予感で、騒いでいた。 その予感を裏づけるような暗い目で、青木は私を見た。「まずはこれを見ていただけますか」―――そう言って、抱えた封筒から、何かを取り出す。 それは写真だった。
2014/11/23(日) 18:55:47 |
窓明かり ・BJ
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「ご存知のとおり、この数日、僕は箱根近辺の取材に出ていました。あちこちで写真も撮りました。お手元の写真はその一枚、湯本駅近くの宿街で撮影したものです―――」 手渡された写真には、たしかに古くからの観光地であるかの温泉街がうつっている。こ綺麗な宿の連なる通りを行きかう人並み。一年でもっとも温かい湯が恋しくなる季節だけあって、人の数は多く、年代性別もさまざまだ。 ふと。 切り取られた場面の左隅に、目がとまった。 これは――― 「お気づきになられましたか?」 青木の声がする。だが、私にはそのほうを見る余裕がなかった。 人ごみに埋もれるようにして歩いているひとりの女がいる。 裾がフリルになった白のブラウスに、ベージュのカーディガンを羽織り、藍色のロングスカートを茶革のベルトで締めつけている。黒のストッキングにハイヒール。長い髪が風にたなびいて、耳元を飾りつける銀のイヤリングをあらわにしていた。 ちらりとも笑みはなく、むしろ生真面目な表情で道を行く彼女は、私のよく知る女性に―――瓜二つだった。 女はひとりではなかった。 並んで歩く男の姿があった。 背の高く、苦みばしった顔つきの中年で、歳は女と同じころと思われる。太い眉に高い鼻梁、ぎらりとしたものを感じさせる瞳。どこか外国の舞台役者めいた男だった。ダークスーツに黒のシャツを着込んだ、キザな恰好をしていた。 ふたりが道連れであることに疑いはない。 なぜなら女の細腕は、男の太い腕に絡めとられていたからだ。 まるで恋人同士のように。 いや、この写真を見た百人中百人が、ふたりはカップルだと思うにちがいない。女の表情が不自然なまでに硬いことから、何か後ろ暗い秘密を抱えているような妖しさを、ふたりの関係に想像するかもしれない。 そんな―――写真だった。 「写真を撮影したときには気づかなかったのです。今朝、帰りの電車に揺られながらデジカメをチェックしていたときに、はたと・・・・・。もちろん、僕は会社にいたころの詩乃さん、いえ、奥さましか知りません。ただ、あまりにも―――」 「・・・・・ああ、よく似ているね」 そう。女は詩乃にそっくりだった。 ―――そのうえ。 悪いことに、女の身に付けている服装のひとつひとつも、私の記憶にあるものだった。 「―――すみません。お尋ねするのが前後してしまいました。奥さまはこの数日、ご自宅にいらっしゃいましたか?」 一瞬。 嘘をつこうかどうか、こんな状況下でも、私の脳はせせこましく動いた。 だが、結局は本当のことを口にすることにした。 「いや、華道をやっている友だちと金沢まで旅行に行くと言って、出掛けている。今ごろはもう自宅に戻っているはずだが」 そう口にする自分の言葉が、まるで絵空事を口にしているように空虚なものに感じられて、私はひそかに慄然とした。 「そう―――ですか」 青木は考え込むような表情をした。 その様子を見るともなく見ながら、私はまたキャビンに火をつける。 ライターを持つ手が小刻みに震えるのが自分でも分かった しばらくして、青木は真剣な目で、私を見つめた。 「編集長―――僕は迷っていたんです。この件について、あなたにお話しするべきか。だって、そうでしょう? 夫婦のことに、僕のような第三者の若造が告げ口めいたまねをするなんて・・・・・・。でも、お話しようと決めたのには、理由があるんです」 「それは」 「この―――男です」青木は写真を指差した。その指は苦みばしった男のほうを向いていた。「僕は―――この男の素性にも、心当たりがあるのです」 午後は代休をとって、あてどなく渋谷や上野の雑踏を彷徨い歩いた。 ただ、歩いていたかった。都会の底で息をする深海魚の群れみたいなこの人ごみの中で、自分もそのひとりとなって、何も考えないでいたかった。だが、そんな私の願望は、あとからあとから湧き出してくる思念に破られずにいなかった。 なぜ? どうして? いつから? 詩乃は私に嘘をついていたのか? そんな疑問符のひとつひとつが浮かび上がるたび、私の心臓の血管は収縮してきりきりと痛んだ。女の正体が詩乃であるかどうか、それは詩乃の通う華道会に問い合わせれば―――その懇親旅行とやらが本当にあったのか、あったとして彼女が参加していたのか、そのことを問い合わせれば、まず七分くらいは明らかになると思える。だが、謎の答えを知りたいという渇望と、知りたくない、知るのが怖いという怯えの狭間で、心はぎゅうぎゅうと締めつけられ、真冬だというのに私の身体は冷え冷えとした汗で湿っていくのだった。 そして――― 夕闇が立ち去り、辺りが昏黒に閉ざされたころ、私はようやくわが家の前に立った。 窓明かりがついている。詩乃と再婚して以来、その光は常に私の心を慰め、明日への道筋を照らしてくれるものだった。 だが―――今宵にかぎっては、その明るさがあたかもおそろしいもののように、私の目には映じた。 明かりのついた窓を見つめながら、私は玄関をくぐり、ドアを二、三度ノックする。そうすると、ぱたぱたと足音が近づいてきて、ドア越しに「どなた?」という詩乃の声がする。 「俺だよ」―――私は答える。 ドアが開く。見慣れた笑顔が、私を出迎える。 私は思わずその顔からついと視線を逸らした。そして「ただいま」と言った。 「お帰りなさい。きょうは早かったのね」 「ああ、ちょっとね」 「わたしのほうこそ、ただいまと言わなくちゃ。二日も家を空けてすみませんでした」私の手から鞄を受け取りながら、詩乃は詫び、それから私を見つめてもう一度微笑を浮かべた。「もうお風呂わいてますから。あなた、お疲れのようだし、すぐに入ったらいかが」 「そう・・・・しようかな」 私はのろのろと玄関に足を踏み入れる。夕食の匂いがする。それは―――わが家の匂いだった。 顔をあげる。廊下を歩んでいく妻の後ろ姿が見える。それもまたわが家のありふれた光景だった。 そんな光景の中に佇んで、私は思い出していた。 会話の最後の辺りで、青木の口にした言葉を。 『僕は―――この男の素性にも、心当たりがあるのです』 『ごく一部の世界では少しばかり名の知られた男です。編集長は聞いたことありませんか? 赤嶺という男のこと―――』
2014/11/23(日) 18:57:33 |
窓明かり ・BJ
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「―――どうしたの? どこか具合でもわるいんですか?」 出された夕食を前にして、なかなか箸のすすまない私の様子に、詩乃は眉を寄せて心配げな表情になった。 「いや―――ただ単に食欲がないんだ。帰る前に、仕事で付き合いのある人間のところで茶菓子を馳走されたから。そういう君こそ、一口も食べないのか」 「え? ・・・・・はい、今夜はちょっと遠慮します」詩乃は虚を突かれたように瞳を大きくした。「金沢で美味しいものをいっぱい食べてきたから―――すこしダイエットしないとぶくぶくになっちゃう」 ぐっ、と口中にわいた苦い唾を、味噌汁でながしこむ。 「・・・・・たかだか二、三日の話でおおげさだな。見たところ、ぜんぜん変わったようには見えないよ」 「女も四十路を過ぎると、見えないところにすぐお肉がつくんです」 冗談ぽく言って、詩乃はかすかに微笑った。 「―――そうかね。じゃあ、あとでひさしぶりに確認させてもらおうかな」 あえて冗談のように、私も言おうとした。それは私の真情だったかもしれない。 何もかもが―――冗談であってほしかった。 しかし、詩乃はほんのすこし黙って、切れの長い瞳でちろりと私を見つめ、「ごめんなさい、今夜は疲れているから・・・・・」と言った。 普段の詩乃なら―――、「夕食の席で変なことをいわないでください」と拗ねたようにそっぽを向くのが常の反応だった。或いはそれは、青木の話を聞いた後だから、覚えた異和感なのかもしれない。だが、どのみち、転がり始めた私の疑心は雪だるまのようにふくらむばかりだった。 私が黙り込むと、詩乃はうつむき、長い手指をもう一方の手指で落ち着きなくさすった。内心の動揺をあらわしているような仕草だった。それとも、これも私の目が疑いで曇っているからなのか。 いったい何がまともで、何が妄想なのだろう。たった一日の間に、私の世界はまったく色を変えてしまったようだった。 わずかの間に、さらにほっそりしたような頬を心持ち蒼褪めさせた詩乃は、ふと私と目が合うと、今度は何だか弱々しい笑みを浮かべた。「お茶を淹れますね」―――そう言って、立ち上がる。 女らしいなよやかな曲線を描く後ろ姿。そのまるみを帯びた腰の辺りを、私の目線は無意識に追いかけていた。 詩乃が浴室へ消え、私はひとり冷蔵庫からブランデーを取り出してちびちびと舐めた。 杯を干すたびに喉はかっと熱くなり、頭の芯は白く霞んでいく。 『編集長は聞いたことありませんか? 赤嶺という男のこと―――』 青木の言葉が蘇る。 そんな男は―――知らなかった。 『もう三年前になりますか。当時の国交相だった東原邦治の不正な金の流れを記載した秘密文書が、大々的にマスコミへリークされたことがあったでしょう』 それはマスコミ関係者なら経緯を知らぬ者はいない大スキャンダルであり、最終的に東原は大臣の席を追われたばかりか、懲役をくらい、政治家として永遠に葬り去られる事態となった。 『当時取り沙汰されたあの秘密文書は匿名で郵送されたものでしたが、リークの少し前に、東原の秘書が不自然な形で失踪していることが関係者の間で話題になったこと、ご記憶にありませんか』 『あの女秘書―――国崎有香という名前でしたっけね―――現在も見つかっていませんが、どうやら失踪の少し前に男ができていた形跡がありました。報道の連中が血なまこになっても、詳しい裏をとることはできませんでしたが―――』 『国崎秘書をたぶらかし、秘密書類を持ち出させるまでに溺れさせたその男―――きな臭い筋の話によると、当時、東原が糾弾の声をあげようとしていたMUIに依頼されたのではないかと、そんな噂のある男』 MUIはバブル崩壊以後、宗教界でつとに勢力をふるうようになった新興宗教団だが、以前から関東で三指に入る暴力団との癒着が噂になっていた。 『僕が先ほどあげた赤嶺という名前―――この赤嶺こそ、MUIに依頼されて国崎秘書を情事に溺れさせた男ではないか、と、その筋では囁かれているんです』 『あくまでも、噂です。そもそもこの赤嶺という男、七年ほど前に東京へ移ってくるまでは、近畿方面でエロビデオの制作なんかをやってたらしいんですな。そのころからある程度、裏側の人間と関係を持っていたと聞きます。というのも―――この男、凄腕の女殺しなのだそうです』 おんな・・・・・ごろし? 『女たらしではなく、女殺し。どんな生硬い女であれ、触手を伸ばした相手を情事に狂わせるばかりか、人格性癖まで一変させるほど強烈に「仕込む」のだそうです。嘘みたいな話ですし、実際確証はない。真実だとしても、それはドラッグか何かの力を使ってのことかもしれない。都市伝説めいて恐縮ですが、現実に赤嶺という男の周囲にはそんな怪しげな噂が流れているのです』 『きょう、詩乃さんのことをお話したのは、このためです。僕はかつて赤嶺を見たことがある。政財界の大物が集うという妖しげな秘密クラブへ、若さ任せで頼まれてもいない潜入取材をした折のことです。取材はあえなく失敗して半殺しの憂き目に遭いましたが、そのときに偶然、赤嶺の顔を見ました』 『それが一年前のことです。そして―――先ほどお見せした写真に映っていた男は、記憶にある赤嶺に見えて仕方がないのです』 だから。 だから―――気をつけてくれと。 青木は云った。 見たこともないような必死の形相で。 思い出すだけで―――私の混乱は頂点に達する。 愛した妻が浮気していたかもしれない。これだけで、普通の人間なら失意、怒り、悲しみ―――それらの入り混じった困惑の極みに立たされる事態だ。 その妻の相手が、MUIだの暴力団だのと関わりを持っているような胡乱で危険な男だとしたら―――どんな冷静な男であれ、気が狂いそうになるはずだ。 真実をたしかめなければならない。 だが、たしかめるのが怖い。 とはいえその怖さは、少なくとも現時点では、赤嶺とかいう得体のしれない男に感じるもの以上に、妻の真実を―――私の知らなかった真実を突きつけられるのではないかという恐怖が勝っているようだった。 真実を知って、詩乃と、詩乃が連れてきたこの穏やかな生活を失うのではないかという怖れ。実際、このことよりも私の心を脅かすものなど、この世には存在しないと思える。 絶対に。 ブランデーを舐める舌に血の味がまじった。口元を食いしばりすぎて口中のどこかが切れてしまったようだった。 私は立ち上がり、台所へ向かった。世にも情けないやり方で、真偽をたしかめるために―――。 風呂からあがってきた詩乃は、いつものように鏡に向って髪にドライヤーをあてた。その傍らには、ミネラルウォーターの入ったコップがある。詩乃は風呂上りに、そして起きぬけにも水を飲むのが習慣の女だった。 鏡に詩乃の顔が映っている。長く伸ばした髪を丁寧に乾かしていくその表情は、いつものように生真面目なものだった。時折、鏡ごしに背後の私を見て、そっと微笑んでみせる。その度、私は胸を刺す痛みと罪悪感を甘受した。 「今夜のあなたは静かね」 ふと、詩乃がそんなことを口にした。 「・・・・・おかしいかね」 「ううん・・・・・でも、やっぱりおかしいかな。本当に体調はよろしいの?」 「よろしいよ」 そう返すと、詩乃はくつくつとわらった。 「うん。そのほうがあなたらしいわ」 「おしゃべりで、子供じみた男が亭主でかなしくならないかね」 「何をいまさらおかしなこと言ってるの」 化粧台にドライヤーを置き、純白のネグリジェを着た詩乃は、ゆっくりと私のほうへ歩みよってきた。 哀婉と憂愁の入り混じったような色が、その瞳には浮かんでいた。 「・・・・・・ごめんなさい」 不意に、そんなかすかな言葉が聞こえて。 ふわり。 私の胸にやわらかいものが飛び込んできた。 おどろいた私に、そっと口づける唇があった。 そして、また消え入りそうな声が聞こえた。 「だいすき―――」 一瞬のことだった。 詩乃の身体はすぐに私から離れた。 ほんのりと頬の紅潮した顔が、羞恥と照れわらいを浮かべ、私のほうを向いていた。「ああ、恥ずかしい」 「・・・・・どうしたんだい、急に」 「だって、あなたにわるいから。今夜は・・・・これで許して」 それはどういう心情を含んだ所作だったのか。最後まで、私には分からなかった。 妻「おやすみなさい」と言った。 ―――半刻が経った。 ブランデーのグラスを卓に置き、私は立ち上がった。 両の足が、情けなくふるえている。それを励まして、妻の眠る寝室へと向かった。 扉を開くと、明かりの消えた寝室に、静かな寝息が響いていた。 詩乃が深い眠りについていること―――それは分かりきっていた。 数年前から私は次第に寝つきがわるくなって、知り合いの医者からかなり強力な眠剤を処方してもらっていた。私の身体を心配した詩乃には、くれぐれも常用はやめるように言われているのだが―――。 その睡眠薬を、今夜、私は妻に使った。詩乃が風呂につかっている間に、彼女の飲むはずのミネラルウォーターに溶かしておいたのだった。 妻を騙した罪悪感は、しかしこの時点では、これから行う作業の緊張を前に霞んでしまっていた。 寝室の明かりを灯し、そろそろと布団を引きめくる。 ネグリジェを着た詩乃の寝姿があらわになった。やわらかな枕に左頬をつけ、艶やかな髪をシーツの海に浸からせて眠っている。 呼吸と同時に胸の辺りがかすかに上下している。死んだように眠りの世界に入っている妻が、たしかに生きているという証拠だった。それを目の当たりにする私の心中には、奇妙な安堵と不安が同時に去来していた。
2014/11/23(日) 18:58:50 |
窓明かり ・BJ
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静かだ。 あまりにも静かすぎて耳が痛むようにさえ感じられる。だというのに、心音の高鳴りは私の身体全体をざわめきに包みこむようだった。 夫婦の寝室。 私たちの寝室。 しかし今宵、ベッドで深い睡眠状態にあるのは、妻ひとりだった。 寝室の明かりが皓々とその穏やかな姿を照らしている。朝に弱い私と早起きが信条の詩乃、明るい照明の下で、彼女の寝姿を見た記憶は私にはほとんどない。 口元をむすび、きつく目を瞑っている詩乃。その面差しだけを見つめていると、まるで人形が横たわっているようにも思える。だが、白のネグリジェに包まれた肢体は、たしかに息づいているのだ。 見慣れたはずの彼女の裸身にしろ、私にとっては常に暗がりの中にあるものだった。暗闇に仄見える羞恥の表情と、責めるような、それでいて甘えているような涕泣こそ、私にとって最も親しく、愛しさを覚えずにいられない詩乃との夜の感触だった。 あらためてその感触を思い出し、思わず一息深く息を吐いた。 私はいったい何をしているのだろう。 どうしてこんなことになったのだろう。 なぜ眼前の、この愛しい生きものに、今宵の私は、これほど千々に乱れきった気持ちで向かい合っているのだろう。 そんな今さらの感慨が私を襲い、老いた心身を責め苛む。 けれど。 けれど、ここでためらう手をとめてしまったら。 私は永久に詩乃を疑いながら、それでいて何気ないふうを装いながら、この先の人生を生きていかなければならない。彼女の微笑みに応じながら、心の底では悶えるような猜疑と嫉妬に耐えていかねばならない。 そんなのは、ごめんだった。私は朗らかに生きていきたい。そして死にたい。一日でもいいから妻よりも先に。 だから――― こんこんと睡っている妻に、私はようやく手を伸ばした。 最近肩こりがひどくなった、とよく嘆いている細やかな撫で肩に手をかける。ゆっくりとネグリジェを引き下ろしていく。普段の閨の所作とはちがう、不器用でためらいがちなやり方で。やさしい肩のまるみ、眩しいような胸元が少しづつあらわになる。そして――― そして。 私の心臓は止まりそうになった。 しっとりと吸いつくような柔肌。 そこに。 幾つもの紅い線がはしっていた。 年輪を重ねた女体の微妙な陰影と、歳月を重ねてなお失われない瑞々しさを併せもつ、雪白の裸身。そこに、毒々しいばかりに紅の痣が刻みつけられていた。 その手の経験がほとんどない私にも、一目で分かるくらいに。 それはくっきりとした縄痕だった。 眩々と―――目眩がした。 よほど、つよく締めつけられたのだろう。 なめらかな胸元から腹、そして若々しく弾む乳房の周囲にも紅い縄痕は残り、幾何学的な模様を描いて、均整のとれた女体の美を汚していた。 そのうえ。 妻の躯に刻みつけられていたのは、縄痕ばかりではなかった。 柔肌を荒々しく揉みしだき、つかんだ手指の痕。 口づけの痕。 そんな痕跡が、至るところに、残っていた。 もりあがった乳房の、いつもは可憐な桜色をしている乳首も、男の手で弄られ、口で吸われつづけた形跡をとどめて赤く腫れあがり、いつもより肥大しているようだった。 かつて想像したこともないほどの衝撃に見舞われて、なぜだろう、その瞬間の私の脳裏には、幻燈器で映写されたように、さまざまな場面が、言葉が巡っていた。 『お風呂わいてますから。夕食を食べたらすぐに入ってくださいな』 『このままでいいの。私は―――このままで十分幸せ』 『じゃあ、お言葉に甘えて、出掛けてきますね』 『だいすき―――』 そんな、妻の言葉と。 青木に見せられたあの写真―――箱根の町で、知らない男と腕を絡めた妻をうつした写真の光景が、くるくる、くるくると瞼の裏をまわっていた。 しかし――― 私が今夜味わうことになっていた残酷は、これだけではなかったのだ。 夢の中にいるごとく朦朧とした手つきで、詩乃の秘密を隠していた寝衣を剥がし、彼女の下腹から太腿にかけての肌があらわになったときに、そのことが分かった。 変態助平女詩乃 ちんぽ好き牝犬 淫乱おまんこ妻 絶対服従永久奴隷 下手糞なマジックインキの文字で書かれた、そんな卑猥な文句が。 生白い下半身のあちこちに、ならんでいた。 極めつけの文句は、淡い恥毛の茂みの上にあった。 誰でも挿れてOKの♀穴↓ 声が―――聞こえていた。 狂おしいような歯ぎしりと、喉の奥から洩れる意味のない叫び。 それはたしかに私の口中から聞こえるものなのに、自分ではそのことが意識されなかった。がたがたと震えながらその場に立ち尽くす私は、まるで壊れたテレビのように言葉にならない声を漏らして、眠りつづける妻の汚されきった身体をいつまでも眺めていた。
2014/11/23(日) 19:00:09 |
窓明かり ・BJ
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「あなた、起きてください―――起きて」 そんな声で、私は目覚めた。 瞳を開けると、眼前に詩乃の姿があった。眉を寄せて、大きな瞳が心配そうに見開かれている。 「こんなところで寝て・・・・・風邪をひいてしまうじゃない」 足もとの卓には倒れたグラスと空になったブランデーの瓶。そうか、昨夜はあれからぐだぐだに酔いつぶれて、そのまま居間のソファで眠ってしまったのだった、と記憶がよみがえった瞬間、ずきりとこめかみに痛みがはしった。 「あっ―――痛」 「大丈夫?」 「だいじょうぶ・・・・・ではない」 「困ったわねえ、今日は仕事お休みにできないかしら?」 「・・・・・そんなわけにはいかない」 真実はそうではなかった。 ただ、このまま家になどいられない、妻と向かい合っていられない―――そんなふうに漠然と感じただけだった。得体のしれない危機感のような感覚で。 ―――だが、それはなぜだ? そんな問いを思い浮かべたときに、蘇ってくる情景があった。 シーツの上に横たわる裸身。 その肌身に刻みつけられた縄痕。 そして――― 『誰でも挿れてOKの♀穴』 なまめかしい下腹に浮かび上がった、そんな文字の羅列が蘇って。 私は呻いた。 「やっぱりだめよ、あなた。辛そうだし、顔色が真っ青だもの。せめて午前中だけでもお休みになって。ね」 散らかった卓上を片づけながら、詩乃は下から私を覗き込むようにして言う。 ―――その肢体には、今も。 「本当にもう。無茶な飲み方をして・・・・・お年もお年なんだし、これからはもうすこ し考えて節制しなくちゃ」 ―――淫猥な男の痕が残っている。 「うるさい―――」 「え」 「うるさいと言ったんだ。すこし静かにしてくれないか」 私は苛々した声音で怒鳴った。 元来、悠長な性格で、怒ったり叱ったりすることのなかった私のそんな声に、詩乃の瞳が驚きで見開かれた。 薄い唇が何か言おうとしてかすかに動き、結局、何も言わないまま閉じられた。そのまま詩乃は、黙ってテーブルを片づけた。ずきずきと痛む頭蓋を両手で押さえながら、私もまた黙ってそんな妻から目を逸らした。 それからはろくろく言葉も交わさず、一時間も経たないうちに、家を出た。 『仕事へ行って来る』 そんなふうに妻には言ったが、実のところ、きょうは職場へ出るきがしなかった。こんなとき、融通の効く仕事で、また立場でよかったと心から思った。 ほんの少し傷ついた表情を残したまま、相変わらず何か言いたげな様子を唇の端に留めて、しかし妻は普段と同じように『行ってらっしゃい』と私を見送った。 時刻はまだ早朝を少し抜け出たばかりで、冬の外気がひどく頬を刺す。頭の中にはまだ厭な酔いが残ったままで、それ以上に、心には無数の棘が、針が刺さっていた。 真実を知りたいと思った。 知らなければならないと思った。 真実を知ってしまった。 その後のことなど考えてもいなかった。 いや、想像はしていたのだ。もしかして、ひょっとして、と―――。だが、最悪な想像はしょせん想像にすぎず、それを上回る現実を喉元に突きつけられた私は、ただひたすら混沌の渦の中にいた。 怒りはある。哀しみもある。憎悪もある。 これまで私を騙して、何事もないような顔をして、妻の役割を演じていた詩乃と、そして写真の中でしか見たことのないあの男―――赤嶺に対して。 いつから始まっていたのだろう。 あの縄痕。肢体に書かれた卑猥な落書き。 それはどこからどう見ても、男と女の淫靡な結びつき、それもノーマルとは言い難い背徳的な関係を感じさせるもので。 私の知る妻とはまるで縁のないようなその世界に、詩乃はいつからはまり込んでいたのだろう。おそらくは男の手に引かれて。 あの男―――赤嶺は危険だと、青木は云った。 『どんな生硬い女であれ、触手を伸ばした相手を情事に狂わせるばかりか、人格性癖まで一変させるほど強烈に「仕込む」のだそうです』 詩乃は情事に狂ったのだろうか。あの男に溺れたのだろうか。 仕込まれたのだろうか。愛した男の快楽に応えるように。それを自身の悦楽とするように。 それはいつから? そして――― どこまで? 昨夜のあの悪夢のような瞬間に、私は詩乃を叩きおこして問い詰めるべきだったのか。細頸をつかまえて、この売女めと罵声を浴びせて、荒れ狂う感情のまま頬に二、三発お見舞いしてやればよかったのか。 けれど―――それは私にはできなかった。そもそも、そういうことができない人間でもあるし、もうひとつ、行為に及んでしまえば、言葉にしてしまえば、決して戻れない場所へ私たちが行ってしまう、と―――そのことを無意識に悟っていて、怖かったからだ。 私は酷い臆病者だ。そして愚かだ。 もう二度と、もとの場所へなど戻れはしないのに。 つよい北風が乾いたアスファルトの路面を吹きすぎていく。舞い上がった砂埃を避けて、私は目を瞑った。 自宅から徒歩で三十分ほどの距離にある小さな公園。そのベンチに私は腰かけて、何時間もぼんやりと煙草を吹かした。そのほかのことは何にもする気になれなかった。 気がつくと、寒々とした公園に人の影がふたつあった。 ひと組の母娘だった。娘はまだ幼い。小さな赤いコートに緑の襟紐―――そんなクリスマスカラーの衣装がよく似合っている。おぼつかない足取りで、けれど元気いっぱいに毬をつき、また空中に投げ上げるなどして、ひとり遊びしている。 娘を見守る母は―――藍色のコートに、黒い細身のパンツを履いている。地味な装いだが、長い髪を後ろでくくった横顔は、遠目にも分かるほど整っていた。歳のころは詩乃と同じくらいだろうか。小柄で細すぎるほど細い体型も合わせて、日本画から抜け出したようなという表現がぴったりくる美しい女だった。 私が彼女らに興味を持ったのは、何も母親が美人だったからという理由ではない。無邪気な娘がひとり毬と戯れているのを見つめる母親の横顔には、たしかに愛しげな微笑が浮かんでいるのに、彼女の顔にはそこはかとない憂愁があって、妙に気にかかったからだ。 どこか酷く不安定な―――しかしその不安定さこそが、この冬の色合いに沈んだ公園で、母親の存在を異質に浮き立たせていた。 と、私の足もとに何かが当たった。毬だ。それに手を伸ばそうとしたらもう、娘の顔が近くにあった。瞳のつぶらな、可愛い子だった。髪を母親とおそろいのポニーテールにしていた。 「おじちゃん―――」 毬を取って、と言われるのかと思ったら、娘はまじまじと私の顔を見つめ、「しつぎょうちゅうなの?」と言葉をつづけた。びっくりした。 「ちがうよ」思わず苦笑が出る。きょう初めての笑いだった。「ただ、ここでほんの少し休憩しているだけ」 「きゅうけい?」 娘が小首を傾げる。しまった、難しすぎたか。―――だが、それならなぜ「失業中」は知っている。 説明しようと口を開きかけたとき、遠くから母親が走ってくるのが見えた。 「―――すみません、この子がご迷惑をおかけしましたか」 落ち着いた声音だったが、急に走った女の頬は紅く染まっていた。 「いや、迷惑なんてかかっていないですよ」 私はこたえる。娘は母を振り返ってにこりとわらい、「おじちゃん、しつぎょうちゅうじゃないんだって」 「何を言ってるの」母親がめっと、娘をたしなめる。「失礼なこと言っちゃだめ」 「しつれいってなーに?」 思わず、私はまたわらってしまった。困り顔をした女も、そんな私の反応に安堵の度合を深めたのか、うっすらとはにかむようにわらった。 「かわいい盛りですね」 「何でもかんでも、なーにと聞かれて・・・・・困ってしまいます」 母親は呟くように言って、本当に困ったような顔をした。そんな表情のよく似合う女だった。 「いや、おめめのぱっちりした、本当にかわいい娘さんだ。きっと、将来はすごい美人になりますよ」 あなたのような、とはさすがに口にはしなかった。 「ありがとうございます。このご近所の方でしょうか?」 「え? ああ、近所といえば近所ですかね。あなたがたは?」 「最近、こちらに越してきたんです。だから、まだ友達もいなくて」女はほんの少し切なげな目で娘を見た。「この子がちょっとかわいそうです」 「すぐにできますよ。娘さんにも、あなたにも」 私が言うと、女は娘のように無邪気な、それでいてやはりどこか安定を欠いた微笑を浮かべた。 「ありがとうございます」 そう言って頭を下げ、母娘は去っていった。母親の細やかな背と、その手を握る、跳ねるような足取りのクリスマスカラーが小さくなっていくのを、ベンチから私は眺めた。 不意に、携帯の着信音が鳴った。見ると、青木からの電話だった。 胸が騒いだ。 「あ―――編集長。お休みのところ、すみません」 こちらの状態を慮るような気づかいあふれる声に、しかし私はそのとき、さざ波のような憎しみを感じてしまった。それを押し殺して、「仕事の用かね」と答える。 「ちがいます。編集長、すみません。あの―――赤嶺の居場所をつかんだんです」 赤嶺。 妻の―――相手。 彼女を―――仕込んだ男。 「どう―――されますか?」 かじかむ手で握り締めた携帯から、青木の声が聞こえる。 もう一方の手指に挟んだ煙草から灰がまたぽつり、地面に落ちた。
2014/11/23(日) 19:01:20 |
窓明かり ・BJ
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青木に教えられた六本木の「SEED」は、蒼みがかった照明の印象的な、どこか深海を思わせる雰囲気の小さな酒場だった。ホステスもいない、老いたマスター同様に枯れた雰囲気の漂う店内に、私は足を踏み入れた。 『正確な住所までは分からなかったのですが、どうやらこの「SEED」の周辺に赤嶺は居をかまえているようです。それで、時折、ふらりとここへ立ち寄るらしいのです』 ―――ということらしい。 もちろんそれが今夜のことか、明日の夜のことか、それともずっと先のことなのか、もちろん分からない。しかし、それ以外の手がかりが見つかるまでは、ずっとこの店に通いつめる気持ちになっていた。 かつて前妻の玲子を亡くしたとき、私は一度何もかもを失った気になった。 そして数年後に出会った詩乃は、私が亡くしたものと同じくらい価値のあるものを私の生活に運んできた。 私にとって、彼女との出会いは、暮らしは、転機であり、再生であり、何よりもかけがえのないものだったのだ。その大切な中身がいつの間に掏り取られていたことに、私は気づいてもいなかった。 詩乃、と私は胸の内で妻に呼ぶかける。 君には分かるか、それが私にとってどれだけ残酷なことだったか。 そして、まだ会ったことのない赤嶺という男。 お前にとっては―――遊び半分のことだったかもしれない。詩乃は私より十以上も若く、美しい。その潔癖さを感じさせる美しさは、たしかに汚したくなる種類のものだったかもしれない。私自身、そんな衝動に駆られたことがないとはいえない。だが、お前が汚したのは妻だけではないのだ。 会わずにはいられなかった。たとえ危険な男だろうが、面と向かってこの老いぼれの憤怒を、やるせない想いをぶつけてやらなければ気が済まない。今まで写真の中だけの存在だった男が、青木の電話で実体を持って近づいてきたときに、私の内側に生まれたのはそんな感情だった。 店の奥のカウンターに、私は腰かけた。 古いジャズが流れている。私はドライ・マティーニを注文した。 ふと携帯を見る。十五分前に、妻からの着信があった。きょうだけで三つ目の着信だ。ふつか酔いの顔面蒼白で出て行った私を心配しているのか、それとも昨夜の今日で、私の態度の変化に何事かを勘づきかけているのか。 詩乃は焦っているのかもしれない。 『だいすき―――』、あの囁きで誤魔化しきれなかった嘘に、私がようやく気づいたのを薄々と感じているのかもしれない。 ずきり、と胸が痛んだ。それがどういう種類の痛みなのか、或いは恐怖なのか、それも私には判然としなかった。分かっているのは―――これまでの自分が道化だったという事実だけだった。 赤嶺と対決したら、その後には妻が待っている。私は順序を間違えているのかもしれない。この期に読んで、妻との対峙を先延ばしにしているのは―――ただの未練だ。これまでの歳月にぎゅっと詰まったものへの未練。しかし、それが未練にすぎないことも、分かりすぎているくらい、私には分かっていた。 カクテルの底に沈んだ照明の光が濃度を変えているのを見つめながら、もの思いに沈む私の目に、ふと、バーの扉が開くのが見えた。 背の高く、肩幅の広い男が入ってきた。鷹のように鋭い目つきにひそむ、どこか不遜なかがやき。 間違いなく―――赤嶺だった。写真で見た印象よりは幾分年上で、四十も半ばを過ぎた頃のように思えたが、なめし皮のような皮膚も、白髪の一本もない髪も、ただならぬ精気に満ちていた。 赤嶺はひとりだった。一瞬、その目が私の顔を通り過ぎていったが、何の反応もその表情にはあらわれなかった。 赤嶺は私とは逆側のカウンターに座った。ウイスキーを注文し、咥えたキャメルに火を点けて、盛大に煙を吐き出している。 私は―――立ち上がった。ともすれば震えがちになる片手にグラスを抱えて。その震えは恐怖ではなかった。相手はどう見てもまっとうな素性の人間と思えない雰囲気を漂わせていたが、ことここに至って、私が対峙しているのは妻を寝盗った男というばかりだった。ただ、それだけだった。 だから、私は震えていたのだ。 隣席に無言で陣取った私を、酒杯を舐めながら赤嶺はちらりと見た。 そして、私が言葉を発する前に、言った。 「あなたの顔には見覚えがある」 「―――――――」 「秋原真さん、ですね」 そう言って。 赤嶺はにかり、とわらった。 虚を突かれた私は一瞬戸惑ったが、この男が私の顔と名を知っているのは教えた人間がいるからで、その可能性のある者は妻しかいないという事実にすぐ辿りついた。 「詩乃から聞いたのだな」 怒りで舌が麻痺したかのようだった。 「それ以外にだって可能性はあるでしょう。あなたは月刊Rの編集長で、マスコミ畑の人間には多少なりと知られた存在だ。―――まあ、こんな言い抜けはくだらないから、よしますがね」 ぬけぬけと口にして、赤嶺はまた紫煙を吐いた。 その肩を、私は渾身の力を込めて掴んだ。 「ふざけるな―――!」 赤嶺はひそとも眉を動かさなかった。 「失敬。あいにく、こんな口のきき方しかできない人間でね」 きなくさい雰囲気をかぎ取ったマスターが振り返り、厭な顔で私たちを見つめた。「お客さん、荒っぽいことをはじめるなら外に出てもらいますよ」 赤嶺は両手を上げて見せた。「彼もああ言っているし、あと数分は話し合いに努めませんか」 「お前と話すことなどない」 「初対面でお前呼ばわりとはずいぶんですな。だが、聞きたいことはあるはずだ。そうでしょう?」細まった目が私を見つめた。「たとえば、先ほどあなたが口に出した名前について」 これほどふてぶてしい男を、私は初めて知った。ジャーナリズムの現場でずいぶん場数を踏んできたつもりだったが、今、相手にしているような男は見たこともなかった。 「・・・・・・・いつからだ」 腹の底から絞り出すように私は訊いた。 「いつから詩乃と知り合った。いつから・・・・・・深い仲になった」 おや、というように、赤嶺の太い眉が動いた。「それすらまだ聞き出していないのですか? 彼女から」 私は答えなかった。 値踏みでもするような目で赤嶺は私を眺め、それから言った。「ふうん―――、年格好や容姿はよく似ているのに、どうやらあなたは『彼』とはずいぶん違う人間のようだ。まあ、それも聞いてはいたが」 「誰の―――ことだ」 「死んだ柏木英輔氏のことですよ。彼女の夫―――前の夫の。先ほど、いつから彼女と知り合ったと聞きましたね? それはまだ、彼が生きていた頃からです。もう十五年ほど前のことになるかな。あなたの後半の問いに対する回答も同じことだ」 それは。 それはつまり。 「英輔氏が生きていた頃から―――詩乃と不倫関係にあったということか」 十五年もの長きにわたって。あいだに前夫との死別、私との再婚をはさんで。 だが、そう言った私を見返す目に、嘲弄するような光が灯った。 「不倫ね―――。どうやら、あなたには誤解があるようだ。マスコミの人間らしくもない」 「何だ、と―――」 「柏木詩乃―――いまは秋原詩乃ですか。ともかくも私は常に、彼女にとってオブザーバーのような立場だった。つまり、お仕事ですな」 「分かるように言え」 「私がまだ二十代だった彼女と寝たのは、幾度か孕ませたことすらあるのは―――その所有者に依頼されたからです」 所有―――者? 孕―――ませた? 「つまり、夫ですよ。あなたではなく、その前の。―――もっとも、あれが世間一般でいうまっとうな夫婦関係だったかどうかは、さだかではありませんがね」 赤嶺はくぐもった笑い声をあげた。
2014/11/23(日) 19:02:26 |
窓明かり ・BJ
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「そんな」 そんな馬鹿なこと、あるわけないだろう―――! 私は叫び、赤嶺を睨みつけた。 柏木英輔氏のことを私は知らない。 私が詩乃と知り合ったときにはすでに、彼はこの世から去っていた。 けれど。 けれど、自分の妻を他の男に―――目の前でわらうこの男に望んで差し出すなどという馬鹿なこと、あるわけがない。 「ふふん。だから私はさきほど言ったのです。あなたはマスコミの人間らしくない―――とね。世の中には自身の女を他の男に抱かせ、その閨を鑑賞することで興奮する性癖の人間など決して珍しい存在ではないんですよ。―――私の友人のひとりにもそんな男がいました」 だが、英輔氏の場合は少々レアケースだった、と赤嶺はつづけた。 「彼はそもそも金の力で、彼女をわがものにした。その力は結婚生活の間ずっと、夫婦間のあいだに作用していたのです」 ―――姉さんが結婚しなくてはならなかったのは、僕のためなんです。 ―――相手はM社でエリートの地位が約束されたひと。歳の差があったことを除けば、まず玉の輿といっていい。でも―――僕にはそうは思えなかった。いや、そうは思えなくなったんです。 彰の言葉を思い出す。 あのときの彼の、暗い翳りを帯びた表情も。 「しかし、英輔氏はそれだけでは飽き足らなかった。だから、私のような男にも声をかけたのです」 なんでもない事実を述べるように。 赤嶺は淡々と言った。 そして蛙を舐める蛇のような目で、私を見た。 「彼女がどんなふうに長い歳月を過ごしてきたか、あなたは聞かされていなかったかもしれない。だが、あなただって薄々何かを感じていたはずだ。どれだけ彼女が隠し通そうとしてもね。閨で見せる振る舞い、過剰なほどに敏感な肢体―――」 そんなことはない。 この男が言っているのは嘘っぱちだ。 そう否定しようとする頭は、しかし別の情景を描いている。 シーツの海を泳ぐ詩乃。あの悦びに弱い躯。 そして先夜に見せた、息も切れ切れだった狂態。 まるで赤嶺の言葉を裏付けるように、普段の慎ましさから離れ、性の喜悦に悶え、喘ぎ、涙まで流して長い髪を振り乱す妻を、私は今まで見たことがなかったか―――。 それは。 それはすべて――― 「英輔氏の望みによってつくりあげられたものです。彼は自分を愛し支える女よりも、意のままに嬲り、辱めるための淫らな雌犬こそを欲した。その意味では―――彼女はじつに有能な妻でした」 言葉を切り、赤嶺は紫煙をくゆらせた。 嘘だ。 嘘だ。 嘘だ。 かたかたとキーボードで打ち込んだように、そんな空虚な文字の羅列が脳裏を満たしていく。 そう、嘘なんだ。 なぜなら、この男が言っていることが嘘でないとすれば、 本当に嘘だったのは――― 不意に、胸のポケットにいれた携帯が鳴った。 手にして見なくとも分かる。 詩乃からだった。 「携帯、鳴ってますよ」 言わずもがなのことを赤嶺は言う。 「とらなくてよいのですか?」 私は無言で眼前の男を睨みつける。 理性の平衡はとうに失われている。 だから―――私の右手は胸ポケットに伸びることなく、ただただ拳をかたく握り締めて、そのまま赤嶺の頬を殴りとばした。 カウンターの中のマスターが、「ひやっ」という奇怪な叫びを漏らした。 叫んだのは、マスターだけではない。私もだ。それは驚きのためだった。 私の拳は中空で止まっていた。赤嶺の平手に阻まれていたのだ。 くわえタバコをしたままの赤嶺は、まるで子供の手をひねるように私のパンチを受け止めて、それから酷く醒めた目で私を見上げた。 「暴力沙汰はよしたほうがいい。すくなくともここでは」 「あんたたち、何をしてるんだ。すぐに出て行かないと警察を呼ぶぞ!」 赤嶺の声にかぶさるように、マスターの大音声が響いた。店内のわずかな客たちも、みな私を非難するように見ていた。 だが、私は動かなかった。動けなかった。赤嶺を睨みつづけていた。そうでもしないと、気が遠くなってしまいそうだった。 携帯の着信音はいつしか鳴り止んでいた。
2014/11/23(日) 19:03:32 |
窓明かり ・BJ
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