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闇文庫

主に寝取られ物を集めた、個人文庫です。

よき妻 第10回

左手で乳房を隠し、右手に持ったタオルで股間を隠しながら、妻がゆっくりと歩いてきました。途中、ちらっと私と目が合いましたが、すぐに羞じたように目を逸らせます。時刻はもう夕暮れでしたが、夏のことでまだ日は高く、うっすらとした西日が妻の白い裸身をかすかに染めていました。
赤嶺を見ると、彼はいつものように鷹揚にかまえ、明子とふざけあっていましたが、その実、視線はちらちらと妻を見ています。明子はそんな赤嶺を見て、耳元で何か囁きました。

かけ湯を浴びた後、妻はやっと湯船のところまでやってきました。私の浸かっている湯のすぐ近くに立って私を見ます。私がうなずくと、妻は諦めたようにタオルを置いて、皆の前で裸を晒しつつ、湯船に足を沈めました。
「瑞希さんたら、いまどき混浴くらいでそんな悲壮な顔することないじゃない。私だって裸なんだから」
明子が明るく声をかけて、妻はかすかな微笑でそれに応えましたが、決して赤嶺や明子と視線を合わせようとはしませんでした。
「わるいな。うちのはこういうのになれてなくてね」
「あら、私だって別になれてるわけじゃないわ」
唇を尖らせた明子が、くねくねと肢体をゆすって抗議します。その仕草は妻の抑制された色気とは別種の、挑発するような艶っぽさを放っていました。
「それにしても瑞希さん、白いし細いし、本当にお綺麗な身体をしてるのねえ、うらやましいわ。ね、そう思わない?」
明子がはしゃいだ口調で赤嶺に問います。赤嶺は先ほどからはもはや遠慮のない視線を妻に向けていましたが、
「たしかにお綺麗だけど、俺がうらやましいのは瑞希さんじゃなくて――だよ。こんなひとを奥さんにしているんだからな」
言って、にかっと笑いました。その言葉に妻はますます身を縮こませ、その身体は湯の熱さのためばかりでなく、仄赤く染まっています。

「・・・というわけで、こいつは大学時代、お前に惚れてたんだって」
「もうっ。そんな話、瑞希さんの前でしなくてもいいじゃない」
「いいじゃないか、四人こうして裸になって一緒の湯に浸かってるんだから、心の底まで裸になって語り合おうや」
相変わらず黙りこくったままの妻を残して、赤嶺と明子は勝手な話をしています。むろん、作り話です。
「その話は本当なのか?」
私が問うと、明子は微笑んで、
「そうね。好きだったかも」
「この前は好きだったってはっきり言ってたじゃないか」
赤嶺が横から口をはさむと、明子はそのほうを軽く睨んで、
「チャチャをいれないでよ、もう。でもあの頃、――さんに憧れてる女の子は他にもいたのよ。だって凄く優しいし、ハンサムだし、それでいてちょっと翳りがあるところなんか魅力的だったもの。とても私なんかとじゃ釣り合わないと思って告白も出来なかった」
こちらが赤面するようなセリフを明子はさらっと言ってのけました。妻はいま、どんな表情をしているだろうと気になりました。
「だからきょう瑞希さんを見て、納得したわ。ほんとお綺麗で女らしい方、――さんとお似合いだわ」
「僕らのことはともかく、明子だって赤嶺とお似合いだよ。幸せそうだ」
「ふふ、優しくもないし、ハンサムでもないし、翳りなんかどこにもない俺とお似合いだってさ」
赤嶺はおどけたようにそう言うと、明子の裸の肩に手を回し、自らの元に引き寄せました。もう一方の手を明子の乳房に伸ばし、その先端の突起をちょっと摘まみます。
「あん。もう、恥ずかしいことしないで。――さんと瑞希さんの前なのよ」
甘えるような舌足らずの口調で抗議しながら、明子はちらりと妻を見たようです。
そのとき、私は湯の中で自分の手に妻の手が触れてくるのを感じました。私の手をぎゅっと握ったまま、妻はやはりうつむいたままの格好です。その細やかなうなじと裸の背中に私は新鮮な欲望を覚えました。
  1. 2014/10/11(土) 03:48:15|
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よき妻 第11回

夜になりました。
流石に山深い土地だけあって、辺りは森閑としています。
夕食は部屋でとったのですが、その際には私たち夫婦の部屋と赤嶺・明子の部屋の間の襖を開け放って、四人でひとつのテーブルにつきました。
一緒に風呂に入った仲だというのに、妻はまだ打ち解ける気配を見せず、会話にもあまり加わりません。もともと口数の少ない女ではありますし、夫の私とでさえ打ち解けるのにあれだけ時間がかかったのですから無理からぬことではあるかもしれません。
それとも――妻は妻で赤嶺と明子の偽りの夫婦を、どこか信用できない、なんとなくうさんくさいと思っていたのかもしれません。妻は繊細な性質だけに、そういう感受性には特に敏感なところがありました。
夕食が終わって私たちは自室に引き上げました。赤嶺との相談ではスワッピングは明日以降の晩に試みることになっています。しかし、ちっとも場に馴染んでいない妻を見るにつけ、私にはその実現は期待できないように思われてきました。
私は残念なような、それでいてどこかほっとしたような、複雑な心境でした。

夜中にふと目覚めたのは一時を少しまわったくらいの頃でしょうか。色々と緊張した日中の疲れで、床につくとすぐに眠りに入っていったのですが、隣室から聞こえる声で目を覚ましたのです。

きれぎれに聞こえる女の喘ぎ声。高く細く、淫蕩な響きを持ったその声はたしかに明子のものでした。

私は傍らの妻を見ました。妻は目を瞑っていますがずっと起きていたようで、何かにじっと耐えているような表情です。
私はそっと手を伸ばしました。妻がはっと目を開けます。私の意図を察したのか、その口が「いや」とかすかに動きました。
しかし、私は有無を言わせずに妻の布団に忍びこみました。妻の首筋にキスをしながら、浴衣の懐に手を入れて乳房を揉みしだきます。と同時にもう一方の手を、そろそろと妻の下半身へ伸ばしました。
妻は――声をあげると隣室のふたりに気づかれると思ったのでしょうか――無言のまま、いつになく激しく抵抗してきます。私は片腕で妻の両手を束ねて押さえつけ、身体を覆いかぶせるようにしてその抵抗を封じました。そうしておいて改めて、妻の下半身へ、下着の奥へ手を伸ばします。
ようやくその部分に触れたとき、私は驚きました。

妻の股間ははっきりと分かるほどに濡れそぼっていたのです。

驚きとともに見つめる私の目に、その意を汲み取ったのか、妻はほとんど泣きそうな表情になって、私の胸に顔を押し付けてきました。

それがきっかけとなりました。
私はほとんど我を忘れるような強い欲情の中、今までにないほど荒々しいやり方で妻を抱いたのです。
崩された浴衣を腰の辺りに巻きつけたまま、下着だけすべて剥ぎ取られた格好の妻は、私の腕の中でしばらくは必死になって声を殺していましたが、やがて耐えきれぬげに「あっ、あっ」と啼きはじめます。とめようとしてとめられないその声は、男の心をさらに加虐的にさせずにはおかないような哀婉な調子を含んでいました。

いつの間にか、隣室の声はやんでいました。

赤嶺と明子はどうしているのでしょうか。ひょっとしたら、いやおそらくは間違いなく、暗闇に紛れて少しだけ開いた襖の間から、私たち夫婦の情事を眺めているのでしょう。
妻は――そのことに思い至っているのでしょうか。私の下で悦びを喰い締めながら、愛らしい泣き声をあげている妻は――。

「は、、っ、ああっ、、ああんっ」

そして私は果てました。それと同時に抱きしめた妻の身体のびくびくと痙攣する感触が、いつまでも腕の中に残りました。
  1. 2014/10/11(土) 03:49:27|
  2. よき妻・BJ
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よき妻 第12回

「ね、昨夜は凄かったわね」
近くに寄ってきた明子が囁くように言いました。私は後ろの妻と赤嶺を気にしながら、ぶっきらぼうな口調で「何が?」と答えます。
「分かってるくせに」
「・・・・・」
「奥さん、あんなに乱れることもあるのね。普段の楚々とした感じからは想像もできないくらい。凄くエロティックで魅力的だったわ」
明子はそう言いましたが、実のところ私だってあれほど感じている妻の姿を見たのは昨夜が初めてだったのです。

その日の朝、目覚めると横に妻の姿はありませんでした。しばらくして部屋へ戻ってきた妻に「どこへ行ってた?」と聞くと、
「お風呂に・・・」
短く答えるその様子はいつもの妻でしたが、やはり昨夜の乱れ方を恥じているのか目を合わせようとはしませんでした。
その後、部屋の襖を開けはらって、昨日のようにまた四人で朝飯をとったのですが、昨夜の情事を二人に見られていたかと思うと私自身、多少気まずくなるくらいでしたから、妻はなおさらのことでしたでしょう。喋るのは赤嶺と明子ばかりで、私たち夫婦は黙々としていました。なに、赤嶺や明子だって事情は似たようなものだったのですが。

車がないので観光しようにも足がなく、またこの宿がある一帯の閑静な雰囲気が気に入ったので、午前中は特に何をするでもなく無為に過ごしました。午後になって赤嶺が「辺りを散歩しないか」と誘ってきたので、四人そろって宿を出たのです。

「君たちだって盛り上がっていたんじゃないのか」
私が言い返すと、明子は軽く笑って手を振りました。
「駄目。あなたたちが始めだしたら、あのひと、そっちのほうが気になっちゃって。ほら、あのひと前から瑞希さんのファンでしょ。だからね」
『あのひと』とはもちろん赤嶺のことで、その赤嶺は私たちの背後で妻にあれこれと喋りかけています。妻がそれに対して言葉少なく相槌を打っているのを横目で見て、私はふとあることに思い至りました。
あの日・・・赤嶺が我が家へやってきて、妻に「セックスはお嫌いですか?」「ご主人では満足出来ない?」などと問いかけたあの日のことです。私はそれ以前からうまくいっていなかった妻にはじめて離婚を切りだし、そしてその夜、妻は私のベッドへ忍んできたのです。
あのとき妻はこのままでは離婚してしまう、だからなんとか私を引きとめようとしてあのような行動に出たと説明しました。
しかし。
私は昨夜のことを思い出しました。隣室で睦みあう赤嶺らの声を聞きながら、密かに秘所を濡らしていた妻。そのことを私に知られ、恥じ悶えながら私の愛撫に泣き乱れた妻・・・。
それは私がかつて見たことのない妻の姿でした。
もしかすると妻は恥ずかしさで感じてしまう女なのではないか、と私は思いました。羞恥心が人一倍強いだけに、羞恥を強制されると性感を刺激されてしまう女。もしそうだとするとと、あの日妻がベッドへ忍んできたのは、私を引き止めるだけでなく、赤嶺の言葉による嬲りで火照った身体を鎮めて欲しかったからではないか・・・。

「何を考えているの?」
物思いに耽っている私をおかしそうに見て、明子は不意に腕を絡めてきました。まるで以前からの恋人か夫婦のように自然な仕草で。
「自然にして。奥さんが見てるわ」
明子の狙いが分かりました。今夜実行する予定のスワッピングの布石として、私と明子の親密さを妻へ見せつけようというのです。
私は後ろを振り返らずに、なるべく自然な様子で明子と腕を組み、歩きました。
  1. 2014/10/11(土) 03:50:30|
  2. よき妻・BJ
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よき妻 第13回

そうしてまた夜がやってきました。
「ああ、いい気持ち。ここは本当にいいところだわ」
畳の上に仰向けに倒れながら、明子はしみじみとした口調で言いました。その顔は酒でほんのり赤く染まっています。
「静かで、ゆったりできて、何もかも忘れて開放的な気分になれちゃう。こんな気持ち、大学のとき以来よ」
そう言うと明子は潤んだ瞳で、私を見上げてきました。
「こらこら、大学時代の焼けぼっくいに火がついたんじゃないだろうな」
酒を飲んでいた赤嶺が横から茶々をいれると、明子は余裕の表情です。
「いいじゃない、――さんとは本当に久しぶりに会ったんだから。ね」
そう言うと明子は悪戯な顔になり、「ごろにゃーん」などと言いながら、猫の真似をして私に抱きついてきました。
「おいおい、本気で酔ってるな」
「にゃーん」
私はなかば本当に慌てて明子に言いましたが、彼女はなおも猫の真似をしてしがみつき、離れません。
妻を見ると、向こうもこちらを見つめていたようで、慌てて目を逸らすのが見えました。そのまま妻の手がグラスに伸びます。普段、酒を飲まない彼女にしては珍しく、妻はその夜は多く飲んでいました。傍らに妻がいるのに、はしたなく夫に絡んでくる明子や、そんな明子にデレデレ?している私を苦々しく思っているのでしょうか。表情の読めない女なので、よく分かりません。

なおもしばらくの間、部屋でだらだらと酒を飲んだ後、私たちは床につきました。
そして一時間後。ごそごそと起きだした私を見て、妻はいぶかしげな表情になりました。
「どうなさったんですか?」
「風呂に入ってくる」
この宿の風呂は二十四時間入れるのです。
「そうですか」
何も知らない妻はまた瞳を閉じました。

室内を出ると、玄関にはすでに明子がいました。すべて打ち合わせのとおりです。私たちは目と目で合図をした後、その場にしゃがみこみました。
しばらくして―――。
「奥さん、起きていますか」
室内から赤嶺の声が聞こえました。
「・・・はい」
小さな声で妻が答えるのが聞こえました。続いて襖の開く音がします。
「そちらの部屋に――は・・・いませんね」
最初に「奥さん」と妻だけに呼びかけているので、よくよく考えるとおかしな赤嶺の言葉です。妻は緊張を含んだ声で、
「主人はお風呂へ行っております」
と答えました。
「やっぱりね・・・明子もいま風呂に行っているんですよ」
「・・・・・」
「我が妻ながら大胆な女ですな。主人を残して、他の男と逢瀬とはね。そしてあなたのご主人も」
「・・・お風呂へ行っているだけでしょう」
「混浴風呂にね。そしてこの時間なら他の客はいない。奥さんだって昼間のあのふたりの様子を見たでしょう」
暗闇の中で思わず明子と目が合います。明子は含み笑いをしていましたが、私は妻が気になってそれどころではありませんでした。
「――もひどい奴ですね。こんな美しいひとを置いて、他の女と」
「・・・それ以上、寄らないでください」
妻の声は震えています。
「聞いてください。私は何も残された者同士、傷を舐めあおうと思っているわけではありません。私はあなたが好きです」
赤嶺の言葉を聞いて、それが演技だと分かっているにも関わらず、私の胸はざわめきました。
「はじめて会ったときから、あなたに惚れていた。あなたが――の、私にとって唯一親友と呼べるあいつの妻だという事実が憎かった。私はわるい男です。他の男だったら、私はどんな手を使ってでもあなたを奪いとったことでしょう。でもあいつだけは裏切れない。だが――あいつはあなたを裏切った」
「ああ・・・・」
吐息まじりの妻の呻きが聞こえました。
「泣いているのですか?」
「・・・・・・」

妻のすすり泣く声がします。

私はそれ以上聞いていられませんでした。自分が望んでしたことにも関わらず、いざ妻の泣き声を聞くと、心が痛んで仕方ありませんでした。

もういい、何もかも嘘だ、すべて茶番だったんだ、だから泣かないで。

私はもう少しでそう叫びながら、部屋へ飛び込むところでした。そうしなかったのは、そのときわずかに室内の明かりが灯り、障子の曇りガラス越しに、座りこんだ妻と彼女を抱く赤嶺の姿が映ったからです。

「泣かないでください」
私が言うはずだったセリフを赤嶺が言いました。今まで彼の口から聞いたことがないような、優しい声で。
「心配しないで。大丈夫」

私は―――
私は静かに外へ出ました。先ほどとは別の意味で、弱い私は妻と赤嶺の会話をそれ以上聞いていられなかったのです。
  1. 2014/10/11(土) 03:51:31|
  2. よき妻・BJ
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よき妻 第14回

「なんで部屋から出て行っちゃったんです? いいところだったのに」
先ほどの赤嶺と妻を思い出しながら、ぼんやり風呂に浸かっている私に、明子が話しかけてきました。
「いや、分からないけど聞いてられなくて」
「奥さんを愛しているのね。でもなおさら分からないわ。今度の事はそもそも――さんが計画したんでしょ? 私はそう聞いているけど・・・」
「それは・・・そうだよ」
「それなのにいざ奥さんが他の男に口説かれるときには、聞いていられなくて逃げちゃうなんて・・・男心は複雑なのね」
明子はふざけた口調でそう言って、ぺろっと舌を出します。私は苦笑しました。

ちゃぽん・・・・。

流石にこの時間の風呂は他に利用客もなく、辺りは静まりかえっていて、湯のたてる音だけが時折響いています。
「ねえ・・・」
近寄ってきた明子が、私の腕をとりました。軽く触れた乳房の感触に、私は情欲を覚えます。
「あれから赤嶺と奥さんがどうなったか気にならない?」
「・・・・・」
「もしかして今頃はもう」
そう囁きかける明子の瞳は、小悪魔のように妖しく揺らめいていました。
「奥さん、アレのとき、とってもいい声で泣くのね。昨夜は聞いていて、こっちまでぽおっとなっちゃった」
「・・・・・」
「赤嶺はとっても上手いのよ。私、いっつも泣かされるの。泣くまいと思っていても、やっぱり泣かされて、最後はいつも「挿れて、挿れて」っておねだりしちゃうの。私でさえそうなんだから、素人の奥さんじゃひとたまりもな、あっ」
気がつくと、私は手を伸ばし、明子の乳首を強く摘まんでいました。
「怒ったの?」
「違う」
「怒ったんだ・・・」
くすくすと笑いながら明子は、私の耳たぶを甘く噛みました。私も我を忘れて明子の見事な乳房を掌に包み、揉みたてます。
「楽しみましょ。ふたりに負けないくらい」
あくまで私の嫉妬心を駆り立てようとする明子の言葉。宿屋の風呂場というシチュエーションもあいまって、私は激しく昂ぶりました。
それからはふたり、獣のように荒々しく何度も交わりました。客か宿の清掃員が来るなどということは考えもせず、私は一匹の牡となって明子の身体を嬲り、明子はそれに応えてあけっぴろげな喘ぎ声をあげました。
私の身体の下で股を放恣に開き、切なげに顔を歪める明子。私の妄想の中でそのとき彼女は妻でした。そして私自身は赤嶺と化していました。

明子との奔放なセックスを終えて、私だけ先に部屋へ戻ったのはいつのことだったでしょうか。すでに空はかすかに白みがかり、朝の訪れの近いことを告げていました。
部屋のドアを開けるとき、私は少し躊躇しました。赤嶺と妻が今もなお、この部屋の中で睦みあっている・・・そんな妄想がふっと頭に浮かんだのです。
ドアを開けると、室内は暗く、私が出て行ったときかすかについていた室内灯も消えていました。
暗い部屋の中で妻は静かに寝ていました。布団にも衣服にも乱れは見当たりません。まったく普段の通りの端整な寝姿です。
私は布団へ入りました。胸は熱く高鳴っていましたが、身体はひどく疲れきっていました。
私は目を瞑りました。
暗闇の中で、誰かが私をじっと見つめている気がしました。
  1. 2014/10/11(土) 03:52:26|
  2. よき妻・BJ
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よき妻 第15回

「起きてください、もう朝ですよ」
私は瞳を開けました。目の前に妻の顔がありました。
「皆さん、もう起きてらっしゃいますよ。あなたも早く」
「ああ・・・」
私はぼんやりと布団から起き上がりました。昨夜は寝た時刻も遅く、また様々なことがありすぎてよく眠れなかったので、身体にだるい感じが残っています。
てきぱきと布団をたたむ妻の姿を見つめながら、私はその姿に普段と違う様子がないかどうか観察しました。しかし、どうもよく分かりません。
朝食が運ばれてきて、私たちはまた四人で卓を囲みました。私は食事をしながら赤嶺の顔
をちらちらと見ます。
(お前は昨夜、妻を抱いたのか?)
私としては一刻も早くそのことを確認したい気持ちでした。しかし、赤嶺もまたいつもと変わらない様子で箸を使っています。
その赤嶺が思いがけない提案をしたのは、食事が終わって皆が寛いでいたときでした。
「きょうはお互いのパートナーを交換して遊びに行かないか?」
「・・・どういうことだ?」
「俺は瑞希さんと、お前は明子と一緒に行動するってことだよ。せっかく普段とは違う場所に来てるんだから、普段とは違う相手と旅を楽しむのもわるくないと思ってさ」
こんなプランは私たちが事前にたてた計画にはありませんでした。私は赤嶺の真意を掴みかねて、その顔をまじまじと見つめましたが、赤嶺は平然たるもので、今度は明子に向かい、
「どうだ?」
と尋ねます。
「面白そう。私は賛成よ」
明子は即座に賛成しました。
赤嶺は妻を見ました。
「奥さんはどうですか?」
「私も・・かまいません」
妻がほとんど躊躇することなくそう答えたことに、私は驚愕しました。
「ということで女性陣は皆賛成しているけど、お前はどうだ?」
赤嶺が屈託のない口調で聞いてきます。私は皆がグルになっているような疑心暗鬼に囚われながら、
「いいよ、それで」
とぶっきらぼうに答えました。
「じゃ、決まりだ」
赤嶺はにこりと笑います。私はその笑顔になぜとなく不吉なものを感じて、目を逸らします。
(これは何かある・・・)
一番の疑惑のもとはこの問答の間中、妻が一度も私を見なかったことです。

「ねえ、せっかくだからどこかへ行きましょうよ」
部屋にぼんやりと寝転んだままの私に、明子がさすがに焦れた声をあげます。すでに赤嶺と妻の姿はありません。
「分かってるわ。奥さんのことが気になっているんでしょう」
「・・・君は赤嶺から昨夜のことを聞いたのか?」
『昨夜のこと』とはもちろん、私と明子が部屋を出て行った後、赤嶺と妻に起こったことを指しています。
「さあねえ」
明子は世にも曖昧な返答をしました。その顔は駄々っ子を見つめる大人のような小憎らしい微笑を浮かべています。
「――まったく、あなたも赤嶺も瑞希さんのことばっかり気にして。私のこと、なんだと思っているのかしら」
「・・・すまない」
「すまないと思っているのなら、さ、早く出かけましょ。行き先はどこでもいいわ。私を楽しませてくれるならね」
明子に促されて私はようやく重い腰をあげました。しかし相変わらず、心の中は重く濁ったままでした。
  1. 2014/10/11(土) 03:53:30|
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よき妻 第16回

それから明子とふたり、飛騨観光をしましたが、山深い緑の美しさや素朴な伝統美溢れる工芸などを見ているときも、私の脳裏によぎるのは生臭い想念だけでした。
いまこうしている最中も妻と赤嶺はどこかのホテルで昼間から情事を楽しんでいるかもしれない。そんな邪推がどうしても頭に浮かんできます。
(何をいまさら・・・)
苦しい心境の私を、もうひとりの醒めた自分が笑います。
(今度の事はおまえ自身が望んで計画したことではないか)
(その結果がどうなろうと、もとよりお前の覚悟のうえのことだろう)
そしてそれはたしかにそうなのです。

宿へ戻ったのは夕方も六時を過ぎた頃でした。
「遅かったな」
部屋へ入った私に赤嶺が声をかけました。その横に妻が行儀よく座っています。そろって浴衣を着た二人は、知らぬ者が見たら夫婦と思うくらい違和感がありません。そんなくだらない事実が、私の胸をかすかに痛ませました。
「疲れただろう。まずは風呂へ入ってこいよ。おれたちはもう入ってきた」
『おれたちはもう入ってきた』
その言葉にひっかかる心をこらえて、私は「ああ」とうなずきました。出がけに妻をちらりと見ましたが、彼女はうつむいていて視線を合わせませんでした。

風呂から戻ってくると、すでに夕餉の支度は出来ていました。
卓の一方に妻と赤嶺が並んでいます。私は何も言えないまま、明子と並んで座ります。これでは本当にどちらが夫婦なのか分かりません。
私がむっつり黙り込んで食事し、また酒を飲んでいるのを知ってか知らずか、赤嶺は陽気に笑いながら、妻にあれこれ話をしています。妻は相変わらず静かな受け答えをしていましたが、その様子にも以前とは違う親しさがあるように見えて仕方ありません。
「――さん、これ食べる?」
「お酒、もっと注ぎましょうか」
明子は大きな瞳をくりくりと動かしながら、あれこれと私の世話を焼いてきます。まるで私の妻であるかのように。
私はすべてがどうでもよくなり、なされるままに明子の世話を受けながら、したたかに酔っ払いました。

「それにしても暑いわねえ、クーラー効いてるのかしら」
皆の酔いもだいぶ進んだ頃、明子がぶつくさ言いながら立ち上がりました。その足取りは相当にふらふらとしています。
「大丈夫か。足がふらついているぞ」
「大丈夫、大丈夫。それにしても暑いわぁ。私、もう我慢できない」
明子はそう言うと、皆の顔を見て悪戯な微笑を浮かべ、浴衣の帯を解き始めました。
「おい!」
「いいじゃない、今夜は無礼講だもん」
甘ったるい口調で言いながら、明子はふりふりと腰を揺らしつつ、しどけない仕草で浴衣を脱ぎ捨ててしまいました。ブラジャーはつけていなかったので、パンティだけのセミヌード姿です。
パンティだけになった明子は、ふらふらとした足取りで私に近寄り、しなだれかかりました。
「明子!」
「あ~ん、身体が熱いわ。――さんも分かるでしょう」
明子の豊かな乳房の感触を私の背中が感じます。その部分はたしかに熱く火照っていて、淫らな熱を伝えていました。
「まったくしょうがない女だな」
さすがの赤嶺も苦笑していましたが、
「でもたしかに暑いな。瑞希さんはどうですか?」
「・・暑いです」
妻の短い返答を聞いて、次に赤嶺は驚くようなことを言いました。
「明子みたいに浴衣を脱いだらいかがです? 涼しくなりますよ」
「な・・・」
何を馬鹿なことを、と言いかけて私は言葉を飲み込みました。
一瞬、窺い見た妻の顔に、ただならぬ張りつめた気配を感じたからです。
妻は―――まっすぐ赤嶺だけを見返しました。そして言ったのです。
「・・・そうですね。私も脱ぎます」
  1. 2014/10/11(土) 03:54:49|
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よき妻 第17回

妻の意外すぎる発言に私は呆気にとられました。次の瞬間、思わず「馬鹿なことを言うな」と叫びだしそうになった私の腕を明子が掴みました。その顔にはまたあの悪戯な表情が浮かんでいて、目で私に「何も言うな」と伝えています。
そうこうしているうちに、妻は立ち上がりました。何も言わずに細やかな指を帯に這わせ、赤嶺を見ました。赤嶺がうなずくと、妻は帯を解き、さらに浴衣へ手をかけました。その口元はかたく引き締められ、瞳は何かに憑かれているようです。私は混乱の極みにいましたが、そんな凄絶とも言える妻の表情に目を奪われていました。
ついに妻は浴衣を脱ぎさり、白いスリップとパンティだけの姿になりました。私は何も言えずにその姿をぼんやり眺めていましたが、赤嶺が、
「スリップも脱いだらどうです? もっと涼しいですよ」
と言ったときには、全身がかっと熱くなるような気がしました。思わず睨みつけましたが、赤嶺はそ知らぬ顔をしています。
妻は赤嶺の言葉に大きな瞳を見開きましたが、すぐに、
「そうですね・・・」
と返事をして、今度はスリップに手をかけました。妻は気が違ってしまったのではないか、と一瞬、私は本気で思いました。
手指を震わせながら、男の言われるままに下着を脱いでいく妻。私はまったく見知らぬ女のストリップを見ているような錯覚さえ覚えます。

さらり。

妻の手から離れたスリップの落ちる音が聞こえるくらい、辺りは静まり返っていました。
静寂の中でひとり立っている妻は、白いパンティだけの姿です。見慣れたはずの小さい肩と細く長い手足、綺麗な珠の乳房、そして透けるような白い肌が、こうして明かりの下で見ると、普段とは違う艶めかしい陰影を浮かべているように見えました。
『普段とは違う』・・・たしかに違います。ここには明子が、そして赤嶺がいて、食い入るような視線を妻に向けているのです。ふたりともすでに風呂場で妻の裸は見ていますが、こんな状況での脱衣ショーは、また違った扇情的な興奮を誘うのでしょう。そしてそれは私も同じだったのです。他の男の言いなりに服を脱ぎ、乳房まで晒した妻に、私は燃えるような嫉妬と、そして同じくらい激しい欲望を感じていました。

パンティ一枚だけの姿になった妻はしばらくの間、虚脱したように立っていましたが、
「涼しくなったでしょう、奥さん。こっちに来て、私の酌をしてくれませんか」
という赤嶺の言葉に、催眠術でもかけられたかのようにふらふらと座り込み、赤嶺の傍へ行きました。まだかすかに震えている手が、赤嶺の差し出した杯に酒を注ぎます。乳房を丸出しにしたまま酌をしている妻は、知らない者が見たら間違いなく赤嶺の情婦だと思うことでしょう。
そんなしどけない妻を楽しげに見つめていた赤嶺が、不意に彼女の耳元に口を寄せ、
「がんばったね・・・」
と小さく囁く声が聞こえました。
(がんばったね・・・)
その言葉の意味を詮索する以前に、私はその囁きにいかにも情の通じ合った男女のやりとりを感じて、強いショックを受けました。

「奥さんを見てたら、私、ますます熱くなってきちゃった・・・」
生温かい吐息とともにそう囁いた明子が、もはや慎みの影もなく、私にしなだれかかり、耳たぶを甘噛みしてきました。こちらも丸出しの若い乳房が、その存在を誇示するかのように私の腕や胸にぐりぐりと押し付けられます。いつの間にか悪い夢に迷い込んだような気分でいた私は、明子の挑発的な仕草を制止することもなく、ただなされるままになっていました。視線は相変わらず妻に向けたままでしたが、妻はこちらを顧みることはありません。
明子の手が私の股間に伸びました。傷つけられた心とは対照的に、私のそこはすでにこれ以上ないほど猛っていました。その肉棒に明子の手が絡みつき、男の身体をよく知った女らしい淫らな愛撫を繰り返します。
「う・・・・」
快感のあまり、私は思わず一方の手で明子の裸の身体をぎゅっと引き寄せました。明子はにんまりと笑って、私の顔に口を寄せ、貪るようにキスをしてきました。
口内をねちゃねちゃと荒らしまわる濃厚なディープキスにうろたえる私の視界に、妻が映ります。妻は今夜はじめて私の顔をまっすぐ見つめていました。目の前で別の女と痴態を繰り広げている夫を彼女はなんと思っているのでしょうか。彼女の瞳に映っているのが、悲哀の色なのか、それとも軽蔑の色なのか、そのときも私には分かりませんでした。
私をじっと見つめる妻に、赤嶺が顔を寄せ、何事か囁きました。そうしているうちにも、赤嶺の手は伸びて、若々しく上を向いた妻の乳房の、その頂点の突起をぎゅっと掴んだのです。
「あ・・・・・っ」
妻の顔が切なげに歪むのが見えました。
  1. 2014/10/11(土) 03:56:00|
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よき妻 第18回

赤嶺は妻の反応を面白がるように、摘まんだ乳首を親指の腹でぐりぐりと擦りあげます。妻はぎゅっと瞳を瞑り、眉根を寄せて押し寄せる快感に耐えているようです。
赤嶺の手は好き放題に妻の片方の乳首を蹂躙した後で、もう一方の乳房へ移りました。卑猥に弄ばれた乳首は遠目からも分かるほどにきゅっと屹立し、乳房は火照って紅に染まっていました。
乳首弄りを続けながら、赤嶺は妻の口元へ顔を寄せました。目を瞑ったままでじっと快感に耐えていた妻は、突然かぶさってきた赤嶺の口に、
「んん・・・」
と小さく呻きながら、自ら朱唇を開いてそれに応えました。

私は気が変になりそうでした。
結婚した当初、私は妻が理解できませんでした。そのことに悩み、苦しみ、赤嶺の助けもあって、ついに私は妻と分かり合えた、本当の意味で愛し合うことが出来たと思っていました。そしていま眼前の妻は、その赤嶺に肢体を好きにさせながら、唇の愛撫にまで応えているのです。
妻はまた私にとって未知の女になりました。気が狂うほどに愛しいのに、いくら手を伸ばしても届かない女になりました。
そして――。
私はそのことに慄然としつつ、なぜか恐ろしいほどの興奮に見舞われたのです。

奥飛騨の静かな宿で、私たちのスワッピング――そうです、初めからその目的のために来ていたはずなのでした――は続いています。
うねうねと肢体を揺らしながら、派手な嬌声をあげて私にしがみついてくる明子。すでにほとんど崩れかけた浴衣を腰の辺りに巻きつけたまま、私は明子を抱き上げ、あぐらの上に乗せてその乳房に吸い付きました。明子は熱い鼻息を洩らしながら、女っぽさに満ちた裸身をくねらせ、私の首筋にキスの雨を降らせます。
卓を挟んだ向こう側では、赤嶺が妻の耳を舐めまわしながら、両手で乳房をねっとりと揉みたてています。赤嶺のごつごつとした掌にたわめられ、引き伸ばされ、ぐりぐりと揉みまわされる妻の乳房。私が妻の身体のうちでも最も好きなその部分は、いまは他の男の玩具と成り果てていました。
「ひっ、ひっ」と切ない声をあげて、妻が泣いています。その額にはうっすらと汗が浮かんでいます。潤みがかった瞳は、すでに宙を彷徨っているようです。
妻を快感の淵に追い込んだ赤嶺は、弄りまわした乳房から一方の手を離すと、今度はパンティにそろそろと手を伸ばしていきます。そのパンティはすでに傍から見てもはっきり分かるほどに、ぐっしょりと濡れそぼっていました。
「あっ、あっ、だ、だ、、、めっ」
赤嶺の手がパンティへ伸びるのを見て、妻が抵抗の気配を見せましたが、その声はすでにろれつがまわっていません。赤嶺は笑いながら妻の顔をもう一方の手で触り、親指をその口元に差し入れます。
「んんんっ」
赤嶺の親指は妻の舌を嬲り、唇を歪ませます。妻は諦めたようにきゅっと瞳を瞑ると、まるで赤子のように一心にその親指をしゃぶりはじめました。
おとなしくなった妻を尻目に、赤嶺の手はパンティの上から妻の秘所を撫でまわしはじめました。赤嶺のごつい指がその部分を一撫でするたびに、妻の小さな裸身がびくりと痙攣します。私との営みのときにはほとんど見せたことのないような妻の激しい反応に、私は目を見張りました。
やがて赤嶺の手はそろそろとパンティの中へ潜り込み、直に妻の秘所を嬲り始めました。妻の反応もさらに激しくなり、親指を入れられたままの口からすすり泣くような声が洩れ聞こえはじめます。唇の端からわずかに零れたよだれが、室内の明かりに照らされてきらりと光って見えました。
  1. 2014/10/11(土) 03:57:01|
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よき妻 第19回

むんとする熱気、汗の匂い、そして心をかきむしられるような妻の啼き声。
私たちは四匹の獣でした。互いの痴態から快楽を盗み取っては欲情する獣でした。
「あんっ、ああんっ、あ、あーっ」
すでに十分以上は赤嶺の手で秘所を嬲られ続けている妻が、もはや耐えられぬげに悶え泣き、全身を震わせました。
「瑞希は可愛い声で泣くな。今夜はもっともっと泣かせてやるからな」
紳士の仮面をかなぐり捨てた赤嶺は妻の名前を呼び捨てにし、そんなことをほざきました。
「あ、あっ、も、だめ、、、、もうすぐ、もうすぐです」
妻はうわごとのように呟きながら、ふらふらの身体で赤嶺にぎゅっとしがみつきました。
「逝きそうなのか? 瑞希」
「いや・・・」
「なんだ、まだ逝きたくないのか」
「・・・・・・」
「逝きたいならきちんと私にお願いするんだ。『早く瑞希のパンティを脱がせて、あなたのおちん*んで思いっきり逝かせてください』と」
「やっ、そんなのだめです、言えない」
「それならまだ逝かせてやれないな」
赤嶺はにたりと笑うと、しばらくやめていた秘所嬲りを再開しました。赤嶺の手がパンティ越しに蠢くたびに、妻の尻がびくっびくっと跳ね上がります。
「あんあんあん! い、いじわる」
妻は真っ赤に染まった顔を赤嶺の胸にぐいぐいと押し付けています。そんな妻を赤嶺はさも満足げに笑みながら見つめているのです。

「もう。奥さんのほうばかり見て・・・」
明子が私の耳元で囁いてきました。その明子の手が私の下着の中に差し込まれ、いきりたったものをぎゅっと握り締めました。私は思わず顔をしかめます。
「犯される奥さんを見て、こんなになってる。本物の変態さんね」
明子はうふっと笑って立ち上がり、私の視界を遮りました。そのまま、自らの手でパンティを脱ぎ下ろします。私の目の前に明子の黒々とした陰毛に覆われた恥裂が晒されました。
「触って」
明子の言葉に促されるように私は秘芯へと手を伸ばし、濡れ濡れとした肉裂へ二本の指を差し込みました。
「ああ・・・・」
明子が深い愉悦の吐息を洩らしました。
「気持ちいいのか?」
「とってもいい・・・」
陶酔の表情を浮かべた明子は、次の瞬間、ぞっとするほど蟲惑的な笑みを私へ向けました。
「奥さんのことを考えながらしたら承知しないんだから」
それだけ言うと、明子は私をゆっくりと押し倒しました。

私の上に明子が騎上位でまたがった格好で、ふたりは繋がりました。
女として磨き抜かれた明子の技巧、肉棒をきつく締め付けてくる膣襞の感触に、私はえぐられるような快感を味合わされます。
ゆっくりと悦びを喰い締めるかのように、明子の上半身がうねります。滑らかな乳房の上にふつふつと浮かんだ汗の玉が、私の胸にぽたぽたと垂れ落ちました。
「はああ・・・・」
瞳を瞑ったまま、満足げな顔でエクスタシーに浸る明子。その肢体の影で妻は――。
妻は―――。

「は、や、く」
「うん? 聞こえないぞ。もっと大きな声で言うんだ」
「は、や、く、パ、パンティを、、、脱がせて、、、、」
「あ、あなたの、お、お、おちん*ん、、、、」
「逝かせて、、、ください、、、、瑞希を、、、逝かせて、、、ください、、、」
  1. 2014/10/12(日) 07:25:51|
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よき妻 第20回

「逝かせて、、、ください、、、、瑞希を、、、逝かせて、、、ください、、、」

挿入をねだる妻の声。
私以外の男の肉棒をねだる声。
息も絶え絶えなその声は、快感よりもむしろ苦悶を感じさせるような鬼気迫る調子でした。

まさに自業自得、身から出たサビとしか言いようのないことですが、そのときの妻の声は、
(妻を失ってしまった・・・)
という感慨を強烈に自覚させるものでした。
自業自得・・・たしかにそうです。これは私が望んでしたことなのです。他の男に抱かれて欲望を曝け出す妻を、私は心の底から見てみたいと思っていたのです。その覚悟も出来ていたはず・・・でした。

結局、私は昔から何も変わっていない、ただ図体が大きくなっただけの子供でした。何かを得ようとするならば、同じくらい大切な何かを失わなければならないこともある。そんな理屈を頭では理解しながら、決して受け入れようとしない未成熟なままの心を抱えたわがままな子供でした。

快楽を貪っている最中、急に私の力が抜けたことに驚いたのか、
「いったいどうしたのよ? ――さん」
そう言って私の顔を覗き込んだ明子は、恨みがましい目つきをしました。
「もう。せっかくいいところまでいってたのに」
私はすまないと言うかわりに明子をそっと抱きしめました。

自らうつ伏せの姿勢を取り、妻は言われるままに尻だけを高く上げています。すでにパンテイは剥ぎ取られ、妻は生まれたままの姿です。
赤嶺の目に妻の濡れそぼった秘口、そして尻の穴までが晒されています。
薄笑いを浮かべた赤嶺は、眼前に差し出された陰部を両手指で広げ、その卑猥な感触を楽しみ始めました。と同時に妻の顔が切なげに歪みます。

ぬちゃ・・・ぬちゃ・・・

鮮紅色の肉裂に根元まで埋まった赤嶺の指が蠢くたび、妻の口から喜悦混じりの泣き声が洩れます。
女の身体を知り尽くした男の淫猥ないたぶり。口先三寸という言葉がありますが、今の妻は指先三寸で赤嶺に操られる淫らな生き人形です。
ようやく赤嶺の指が妻の陰部から引き抜かれました。蜜をいっぱいに付けたその指を妻の尻になすりつけた後、赤嶺はようやく浴衣を脱ぎ始めました。
妻は昂ぶりきった肢体をもてあましているのか、鼻で泣きながら尻をぶるぶると震わせています。男を欲しがって泣き咽ぶ妻の、宙を彷徨うかのようだった視線が、ふと私の視線と出会いました。
何かに打たれたように、妻ははっとした表情になりました。

「あ、あう、あ、、、、」

私の目を見つめたまま、妻が口をぱくぱくと動かしました。何か告げようとしているようですが、言葉にはなりません。
そのときでした。
下着まで脱ぎ去り、一糸まとわぬ姿になった赤嶺が妻の後ろに立ったのです。
学生時代からボクシングをやっていた赤嶺は、ごつごつと筋肉のついた逞しい身体つきをしており、股間でおえかえっている極太の怒張は天を突かんばかりの迫力です。その赤黒い凶悪な怒張が、いまから妻の小ぶりの性器へ入ろうとしているのです。

ふと赤嶺は私を見ました。出会ったときからずっと変わらない、あの不敵な瞳で。
そして。
赤嶺はにっと笑ったのです。
これから先、一生忘れられそうにないその笑みが、私の脳裏に焼きついた、まさにその瞬間でした。

赤嶺の怒張がずぶり、と妻の性器を貫きました。
  1. 2014/10/12(日) 07:27:04|
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よき妻 第21回

「――――――っ」
後ろから赤嶺に貫かれた瞬間、勢いよく弓なりに背を反らせ、妻は声にならない呻きをあげました。
端整な顔は引き攣ったように歪み、首筋から上が真っ赤に紅潮しています。
「挿れられただけでイッたのか? 淫乱な身体だな」
赤嶺は妻と私を同時に嬲る言葉を吐き、妻の両手を太い腕でがっちりと掴みます。
そのときでした。
「や、、、やめて、、、、」
かすれた声でそう言って、妻は涙を滲ませた瞳を薄く開きました。その目はたしかに私を見つめています。
「うん? どうした、瑞希。大好きなおちん*んを食べられてうれしいだろう?」
「いや、、、、きらいです、、、、もういや、、、抜いて、、、おねがい」
「何を今更。瑞希に頼まれたから挿れてやったんだぞ。自分だけイッたからって、それでおしまいなんてことは許さない」
赤嶺はサディスティックな笑みを浮かべました。
「私の味を瑞希がしっかり覚えるまではね」
そう言い放つと、赤嶺は握り締めた妻の手首をぐいっと自分のもとに引き寄せました。
「あうっ」
悲鳴をあげて妻の身体がのけぞります。間接が抜けそうなくらい手首を引き絞られ、強引に背を反らされた妻は、いかにも苦しそうな表情です。
赤嶺は妻をそんな体勢にしておいて、逞しい腰を妻の尻肉にばこんばこんと打ちつけ始めました。
「いやぁっ、、あっ、、、ひっ、ひっ、、、」
いかにも男そのものといったふうの赤嶺の極太の肉棒が、妻の膣襞をえぐりながら激しく抜き差しされます。その抽送の迫力は妻のか細い身体が壊れてしまうのではないかと思えるほどでした。
男の目からは暴力としか思えないような交合です。
しかし女、性感の高まった女には、そんな暴力的な営みがまた別の感覚をもたらすことを、私は変わりゆく妻の様子で知ることになりました。
初め苦悶に満ちていたはずの妻の顔。ぎゅっとたわめられた眉、引き絞られた口元が、徐々に緩んでいきます。上下に激しく振れる乳房の突起は、はっきりと屹立していました。
「くうっ、、、、んんんっ、、、、」
尻に一突きをくれられるたびにあげる妻の声が、次第に肉の悦びを刻んでいくのが分かります。
「あんん、、、そ、そこはだめ、、、あ、あああああっ」
生々しい恍惚の声が妻の口から洩れはじめました。その顔はすでに私の知る妻ではない、快楽に酔う『牝』の表情を晒していました。
私は胸を切り裂かれるような痛みを感じながらも、その蟲惑的な『牝』に見とれていました。
  1. 2014/10/12(日) 07:34:11|
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よき妻 第22回

赤嶺は妻をどうしようもない情態に追い込んでおいて、不意に抜き差しをやめました。膣に咥えさせられたまま、放りっぱなしにされた妻は呆けた表情で赤嶺を見返します。
「いい顔だ」
赤嶺は嘲うようにそう言うと、また抽送を開始しました。呆けたようだった妻の顔が、再び喜悦の色に染まります。
「あっ、あっ、たまらない、、、」
物欲しげに雪尻を振りたてながら、赤嶺に子壷を貫かれる悦びに妻はどんどん蕩かされていきます。突かれる度に餅のような乳房が上下に振られ、玉の汗を散らすのがはっきりと見えます。

「奥さん・・・・すごい」
私の上でぽつりと明子が呟きました。その瞳は魅入られたように、妻と赤嶺の情交に見とれています。
明子もまた、妻という『牝』の妖しい魅力に惹きつけられているのでした。

赤嶺はバックから散々妻を泣かせたあげくに達することは許さず、体勢を入れ替えて今度は自分が下になりました。そのまま崩れ落ちそうな妻の身体を引き寄せて、怒張を呑み込ませます。
赤嶺の身体の上にまたがった妻。その股間は大きな怒張をすっぽりと呑みこんでいます。涙で赤く腫れ上がった瞳は夢遊病者のようですが、赤嶺が下から子壷を突き上げだすと、新たな精気を吹き込まれたかのように妻の腰は淫らにくねりだします。
赤嶺のものをしっかりと喰い締めた妻の細腰が、与えられる打撃に合わせてぽんぽんと撥ね、その度に妻の口から快美の声が洩れます。細く高く、淫蕩に響くその啼き声に誘われたように、私と明子は立ち上がり、ゆらゆらと二人のもとへ近寄っていきました。
「あ、、、、あな、た、、、、」
近づいてきた私に気づいた妻が、泣き濡れた瞳で私を見つめました。
「瑞希」
私はその晩はじめて妻の名前を呼びました。
「あうあ、、、ごめ、、ごめんなさい、、、わ、わたし、、、わたし、、、、ああっ」
がくがくと肢体を震わせながら、妻がそんな言葉を口にします。しかし、その間も妻の細腰は赤嶺をしっかりと受け入れたまま、離そうとはしないのです。
それはたまらなく哀しく、たまらなく淫蕩な光景でした。
私は我を忘れ、涙でぐちゃぐちゃの妻の顔を抱き、唇を吸いました。口の中で妻の舌がひくひく痙攣しているのを感じながら、私は汗で滑光る上半身をねっとり愛撫してゆきます。
「あ、、あなた、、、、、ううう」
もはや完全に崩れかかった妻は悦楽の呻きを洩らし、私の愛撫に熱く反応して全身をわなわなと震わせるのでした。
「奥さま、、、、可愛い、、、、」
ふと気づくと、明子もまた、陶酔した表情で妻の傍らに座り込み、淫らに蠢くその尻や背肌に頬擦りしつつ、細い指で乳や腹を優しく擦っていました。
夫の私、間男?の赤嶺、その愛人である明子と、これ以上ないほど異常な取り合わせの三人に昂ぶりきった全身を弄られ、愛された妻は、深すぎる愉悦に狂乱したように尻を揺さぶりたてていましたが、やがて、
「ああンっ、、た、たまらないっ、、、あ、あ、もう、逝きますっ、逝ってしまいますっ」
一声高く長啼きして、遥かな高みへと駆け上っていくのでした。

それは長い夜のまだまだ始まりにすぎませんでした。
その夜、私たちはそれから明け方近くまで、三人がかりでたっぷりと妻を愛したのです。
  1. 2014/10/12(日) 07:35:49|
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よき妻 第23回

いつの間にか私は眠り込んでいたようです。ううーんと唸りながら目を開けた私に、近くで煙草を吸っていた赤嶺がふっと笑いかけました。
「だいぶお疲れだな。もうロートルなんだからほどほどにしとけよ」
そう言う赤嶺も無精ひげは伸び、目の下には隈が出来ています。私は裸のままでしたが、彼も隣で寝ている明子もすでに浴衣を身に着けていました。
「お前は寝ていないのか?」
「いや、少し寝たよ。さすがの俺も今回はくたびれた」
屈託のない笑顔を浮かべる赤嶺に、私は曖昧な笑みを返しました。
ふたりの視線の先には、畳の上にしどけなく裸の寝姿を晒す妻がいます。
その表情は先ほどまであれほど乱れ狂っていた女とは思えないほど安らかで、あどけなくさえ見えました。

煙草を吸い終わった赤嶺が不意に立ち上がって、寝ている妻の傍らに行きました。
気配に気づいた妻が薄目を開けましたが、その瞳はいまだ夢の中にいるかのようでした。
「お目覚めかい。身体の調子はどう?」
「・・・身体中・・ばらばら・・・」
とろんとした口調で、妻が答えました。
「昨夜は凄かったな」
「いや・・・・」
「風呂へ行こう。疲れがとれるよ」
赤嶺はそう言って、妻の身体を抱き上げました。
「裸はいや・・・着るものを」
「分かったよ」
赤嶺は落ちていた浴衣をいいかげんに妻にかぶせました。
「じゃあ、行って来る」
赤嶺はちらりと私を見てそう言うと、妻を抱えたまま室外へ消えました。
私は何も言わずにそれを見送りました。

しばらくして、明子が「うーん」と呻きながら、薄目を開けました。部屋に私しか残っていないのを見てとって、
「赤嶺と奥さんは?」
「風呂へ行ったよ」
「まったく・・・朝から元気ねえ」
それだけ言って、また眠ってしまいました。
しばらくして私は立ち上がりました。

浴場へ入るガラスの扉から、かすかに明け方の光が差しこんでいました。
私は音を立てないように、その扉の傍に行きます。
ガラス扉越しに妻と赤嶺の姿が見えます。他の客の姿は見えません。
赤嶺は妻を抱え上げ、立位で繋がっていました。
あれほどくたびれていたというのに、妻は赤嶺の首へしどけなく抱きついたまま、ふかぶかと怒張を咥えこんだ腰を激しく揺さぶらせています。瞳を瞑ったその表情は、心の底から愉悦を味わっているようでした。
がっちりと逞しい赤嶺の肉体と妻の女らしい細やかな肢体は見事な対比を描いていて、古代ギリシャの神々を描いたヨーロッパの絵画を思わせました。

しばらくそんな二人をぼんやり見つめていましたが、やがて私は静かにその場を離れました。

部屋へ戻って布団を敷き、ひとり眠っていると、妻と赤嶺の戻ってきた気配がしました。
しばらくして隣に妻が滑り込んできました。私は瞳を瞑って寝たふりを続けます。
目が覚めたら、私たちはどうなるのだろう。そんなことを考えながら、私はいつしか眠ってしまいました。
  1. 2014/10/12(日) 07:37:05|
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よき妻 第24回

目が覚めたらもう昼近くでした。
「あなた、起きないと。もうすぐチェックアウトの時間ですよ」
瞳を開けると、妻がいました。いつものように端整に服を着こなし、顔にもやつれや疲れのようなものは見えません。
私はその顔をじっと見つめていましたが、口から出てきたのは次のような間抜けな言葉でした。
「・・・朝飯はどうした?」
「キャンセルしました。赤嶺さんたちは仕事の用事があるらしく、朝も早いうちにお立ちになりましたし、あなたはお疲れのようだったから」
どことなく強張った口調でしたが、妻は私がじっとその顔を見つめていても、いつものように瞳を逸らすことはありませんでした。
それにしても赤嶺たちはどうして去ったのでしょうか。仕事の用事があるなんて聞いていません。普通の男女なら朝になって私たち夫婦と顔を合わすのが気恥ずかしかったという説明も成り立ちそうですが、あいにく赤嶺と明子は普通の男女ではありません。
とりあえず私は起き上がりました。
昨夜は衣服やら何やらで、あれほど散らかっていた部屋が今はもうきちんと片付いています。てきぱきと布団を畳み、帰り支度を整えている妻を見つめながら、私はぼんやりとした面持ちで歯を磨きました。

宿を出ると外は晴れ渡っていました。夏の休暇も明日で終わりです。
私たちは小さな駅前の喫茶店で朝食をとると、高山行きの電車に乗り込みました。電車はとても空いていて、客は私たちのほかにニ、三人しかいません。
目の覚めるような飛騨の緑深い山々を窓越しに眺めながら、私は頬杖をついていました。こうして陽光の下で広がる山々を見ていると、昨夜までの宿屋での出来事がまるで夢のように感じられますが、それが夢でないことは私と妻の間に流れているぎこちない空気が証明していました。
「あの、、、、、」
小さな声で妻が言いました。
「ごめんなさい、、、その、、、昨日は」
「・・・謝る必要があるのは俺だよ」
私は言いました。
「瑞希が謝ることは何もない。今度のことは全部、俺のせいなんだ。俺が・・・最初から仕組んだことなんだ」
私は何もかも告白してしまいたい気持ちでいっぱいでした。それがたとえどのような結果になっても。いや、結果などすでに出てしまっているのかもしれない。そのときの私はそう思っていたのですが―――、
「・・・知っています」
妻の返答は驚くべきものでした。
「・・・どうして?」
「二日目の夜に・・・あなたと明子さんが浴場へ行った後、赤嶺さんにすべて聞きました。
あなたが・・・私を赤嶺さんに抱かせるために、お二人をこの旅行へ引っ張り込んだことも、すべて」
「・・・赤嶺はどうしてそれを?」
「分かりません。あのひとは・・・最初からそのおつもりで来たのですから当然でしょうけど、あなたたちがお風呂場へ行った後、私を誘ってきました。けれど、私がどうしてもそれに応じないのを見て、その話をなさったんです」
「・・・・・・」
「私はその話を聞いて腹が立ちました。私が今度の旅行をどれだけ楽しみにしていたか、あなたには分かりますか? それなのに・・・」
妻の淡々とした口調にかえって凄みを感じ、私は何も言えませんでした。
「私はあなたを憎みました。一言の相談もなしにそんなことを赤嶺さんに約束したあなたのエゴを憎みました。あれだけ私のことを愛していると仰ったのに、まるで物みたいに私を赤嶺さんに抱かせようとしたあなたを」
「・・・・・・」
「私のそんな想いを見て取ったのでしょうか、赤嶺さんは『彼が憎いですか。怨みに思いますか』と尋ねてきました。私がうなずくと、あのひとは『それなら彼を裏切ってみたらどうです。彼の思惑を知りつつ、それにのせられかと思うと、あなたはしゃくかもしれませんが、なに、私の見るところ、彼はそう強い男ではありません。彼はあなたのことをすべて自分の思い通りになる女だと思っています。あなたを私に抱かせてみたいと思いつつ、心の底ではあなたが裏切ることなどないと思っているんです。あなたが私に抱かれるなら、彼はきっと深く傷つくことになるでしょう』・・・そう言ったんです」
「・・・・・・」
「あなたが私のことを『すべて自分の思い通りになる女だと思っている』という赤嶺さんの言葉を聞いて、そのときの私は本当に腹が立ちましたし、今度の一件を見ていると、たしかにそうとしか思えませんでした。復讐のために私は本当に赤嶺さんにこのまま身を任せようかと思いましたが、そのときは決心がつきませんでした。赤嶺さんは『結論は今でなくてもいいです。私の言ったことを考えておいてください』と言って、去っていきました。私はそのまま気が抜けたように横たわっていました。
やがてあなたが戻ってきました。私は目を瞑っていましたが、あなたがお風呂場で明子さんを抱いたこと、そして私が赤嶺さんに抱かれたのではないかと勘繰っていることは、なんとなく分かりました。私はその夜、眠っているあなたをずっと見つめながら、一睡も出来ませんでした」
あのとき、私が感じた暗闇の視線は妻のものだったのです。
  1. 2014/10/12(日) 07:38:14|
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よき妻 第25回

「翌朝になって赤嶺さんが『パートナー交換』を提案したとき、私は彼の意図を察しました。そのときの私はもう決心を固めていて、赤嶺さんの提案に賛成しました。あなたの見ていないところで、彼に抱かれる決心です」
「・・・・・・」
「私が赤嶺さんの提案に賛成したことにあなたは驚いているのを見て、私はいい気味だと思いました。私だってあなたに逆らえるのだと思い知らすことが出来たと思ったのです。けれど、いざ赤嶺さんと街へ出て、ホテルへと入ろうとしたとき、私の足は停まってしまったんです」
妻は私の瞳をまっすぐ見つめました。
「結局、私たちは似たもの夫婦なのかもしれませんね。互いに相手を裏切ろうとしても、いざそのときになると怖くなってしまう臆病者。それが私たちなのかもしれません」
「・・・そうだな」
私は目を伏せて、妻の言葉に同意しました。
「赤嶺さんはそんな私を見て無理強いしようとはしませんでしたが、私は意気地のない女と思われただろうと恥ずかしく思い、また彼に申し訳ないことをしたと思いました。私たちはしばらく高山市を観光した後、宿へ戻りました。しばらくしてあなたと明子さんが戻ってきました。ずいぶん遅かったので、私たちのようにどこかのホテルに行ってきたのかと思い、あなたへの嫉妬や哀しみ、怒りでいっぱいになりました」
あのとき私は妻と赤嶺を見て、ふたりの昼間の情事を妄想したものですが、妻も同じように考えていたのでした。
「夜になって、明子さんが急に裸になり、あなたへ抱きつくのを見て、これが作戦なのだと分かってはいても、私の苛立ちは募りました。あなたが憎くて憎くてたまらなかった。―――だから私は赤嶺さんの誘いにのって、明子さんと同じように服を脱ぎました。でも・・」
妻はそこで少し言葉を切り、ためらう素振りを見せました。なんと言葉を続けたらいいのか、迷っているようでした。
「・・・あなたの目の前で服を脱いで、赤嶺さんや明子さんに裸を晒そうとしたとき、たしかに私の心には復讐の心がありました。でもいざ脱いだそのときは、なんというか・・もうそれどころではなかったんです。恥ずかしくて、気が変になりそうで、・・・でもいやな気持ちじゃなかったんです。うまく口では言えませんが・・・」
「・・・・・・・」
「そうこうしているうちに、あなたと明子さんは私の目の前で、、、、、、、でもそれを見ている私はさっきまでの嫉妬一辺倒の気持ちではありませんでした。しばらくして赤嶺さんに身体を触られたとき、私は・・・・すごく感じました」
「・・・・・・・」
「私は自分という女が分かりません。恥ずかしい思いをすることが何よりもいやだったはずなのに、そのとき私は昂ぶってしまっていたんです。あなたの目の前で違う男性に身体を触られている・・・そのことがすごく・・・・。私の前で明子さんと戯れているあなたを淫らだと思いましたが、同じように、それ以上に自分のことを淫らだと思いました。恥ずかしいことが何より嫌い、他人に恥ずかしいところを見せるくらいなら死んだほうがましという普段の私がどこかへ消えてしまって・・・そしてそのことが凄く快感だったんです。いつも鬱陶しく思っていた自分の殻から抜け出られたように思ったのでしょうか。あなたの目の前で赤嶺さんにいいように弄ばれて感じてしまう淫らな自分が、崩れていく自分がなぜか愛しかったんです」
そう語る妻は今まで見たこともない凄艶な顔で、私は思わず息を呑みました。
「次第に崩れていくなかで、私はもうこのまま赤嶺さんに抱かれてもいいと思いました。『目の前を見てごらん。彼だって明子としているじゃないか』そんな赤嶺さんの誘いに私はいつしかうなずいていました。赤嶺さんは私に言い訳を用意してくれただけなんです。誰よりも求めていたのは、淫らだったのは私なんです」
「・・・・・・・」
「でもそのうちにあなたと目が合ってしまい・・・・私は束の間、普段の自分を思い出しました。ここで一歩踏み出せば、もう後戻りは出来ないのだと私はようやく我に返って、赤嶺さんを拒もうとしました・・・。けれど、すぐに自分を抑えられなりました。もうどうなってもいい、この渇きがおさまるのならば、気持ちよくなれるならば、後のことはどうなってもいい・・・そんなふうに思ってしまいました。流されてしまいました。これではあなたを責める資格なんてありませんね。私は本当に淫らな女です」
妻はそっと目を伏せました。
「私はあなたの目の前で、赤嶺さんと交わりました。最初はやっぱり死にたいほど恥ずかしかった。でもすぐに気持ちよくなって・・・。あなたに見られながら、いえ、見られていることに私はどうしようもなく昂ぶりはじめました。恥知らずな自分をあなたの目に晒している、そのことが異常なまでの興奮を誘いました」
「・・・・・・・・」
「その後はあなたも知ってのとおりです。あなた、赤嶺さん、そして明子さんにまで愛されて、私は数えきれないくらい達しました。あなたに見せつけるように淫奔な姿勢をとったり、破廉恥な言葉を言いながら昂ぶって、昂ぶって、このまま死んでもいいと思ったくらいでした」
「・・・・・・・・」
「朝起きて、赤嶺さんに浴場へ連れて行かれたときも、私の中には淫らな火がまだ消えずに残っていて、赤嶺さんにせがんでその場で抱いてもらいました。本当にどうしようもない女です。いくら謝っても足りないでしょうけど、せめて言わせてください。ごめんなさい、本当に申し訳ないことをしました」
妻はそこまで言って、言葉を切りました。
しばしの沈黙の中に、電車の路面を走る音だけが聞こえます。
次に語りだしたのは私でした。
  1. 2014/10/12(日) 07:39:20|
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よき妻 最終回

「俺は昨夜の瑞希を見ていて、すごく哀しかった」
「・・・・・・・・」
「自分で最初に裏切っておいて何を言うかと思うかもしれないが、そうだったんだ。赤嶺の言うとおり、俺は瑞希のことを自分の思い通りになる女だと傲慢に思っていたのかもしれない。いや、そう思っていなければ、今度のことなんて初めから計画しないだろう。それでいて赤嶺に奪われる瑞希を見て、とても辛かった。口惜しくてしょうがなかった」
「・・・・・・・・」
「でも・・・赤嶺に抱かれて、ありのままの姿を剥きだしにしている瑞希を見て、俺は切なく思うと同時に、凄く興奮したんだ。それまで俺の知らなかった瑞希は、こんなにも蟲惑的だったのかと思った。さっき瑞希は自分という女が分からない、と言ったが、俺だって自分のことなんて分からない。瑞希を心の底から愛しているのに、他人に抱かせようとする自分。そして実際にその場面を目の当たりにしてたまらなく苦しいのに、興奮してしまう自分。俺はそんな矛盾に満ちた存在なんだ。こんな言い方は卑怯かもしれないが、個人差はあれど、人間なんて皆そういったものかもしれないとも思うよ。でもたいていの人間は、内面に抱え込んだ矛盾をあからさまにしてしまうと自分や周囲の人間を壊してしまうかもしれないと分かっているから、強いきっかけでもないかぎり、自分自身で定めた境界線から決して出ようとはしないだけだ」
「その境界線から出てしまった人間はどうなるんでしょうか」
妻はぽつりと呟くように言いました。

「私たちは・・・これからどうなるんでしょうか」

それは妻にとっても、私にとっても胸をえぐられるような問いかけでした。
「・・・分からない」
最後まで卑怯な私はそんな言葉を返すことしか出来ませんでしたが、そのかわりに震えている妻の肩を強く抱き寄せました。ありったけの想いをこめて。
妻の嗚咽を胸で聞きながら、私は窓越しに移り変わっていく外の景色を見つめます。

季節は夏。
私たちを乗せた電車は美しい緑の山々の間を縫うように、ゆっくりと走っていきました。
  1. 2014/10/12(日) 07:41:21|
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卒業 第1回

 私の好きな夏目漱石に、「門」という小説があります。

 「門」の主人公は宗助という男です。親友を裏切り、その妻であった御米と結ばれた彼は、その後もずっと罪の意識を背負いながら、御米とともに暮らしています。社会から切り離されたような、お互いにお互いしかいない夫婦の淋しい日常、哀しみに満ちたいたわりあいが描かれているあの作品を、私は時折思い出します。
 あの夫妻の淋しさ、それと裏返しの結びつきの強さは、彼らの背負う過去からきていることは疑い得ません。
 彼らの裏切り、彼らの罪が、二人を心身ともに結びつけ、或いは縛りつけているのです。
 ―――そう。
 あの濃密な関係の奥には、暗い秘密が潜んでいるのです。

「あなた、起きてください。もう朝ですよ」
 遠慮がちに揺り動かす手で、その朝、私は目覚めました。
 見ると、そこにはいつものように妻がいます。寝巻き姿の私と違い、すっかり普段着に着替えた格好で。
「もう朝か。昨夜はあまり寝た気がしないな」
 私が言うと、妻はちょっと瞳を逸らしました。あまり感情を表に出さない妻ですが、さすがに付き合いも深まった今は、微妙な表情の変化で彼女が何を考えているのか分かるようになっています。
 つまり、今、妻は恥ずかしがっているのです。
「それに腰も痛い。やっぱりこの年で無理はするものじゃないな。瑞希はどうだ?」
 瑞希というのは妻の名です。
「私は別に」
 小さな声で言葉少なに答え、妻は私に背を向けました。
「早く起きて顔を洗ってください。そんな顔をして行ったら、会社の女の子に笑われますよ」  
 後ろで一本にくくった長い髪が朝の光に揺れているのを見ながら、私は昨夜抱いた妻の身体の感触を思い出していました。

「今日は遅くなりますか?」
「いや、何も予定はないから、いつもの時間に帰れると思う」
「そうですか」
 人によっては素っ気無く思うだろう妻の受け答えは、昔からずっと変わらないものです。結婚した当初はそんな妻の態度によそよそしさを感じてもどかしく思ったものですが、今ではもう馴れてしまいました。
 私は玄関口に立って、ぼんやりと見送る妻の顔を見つめました。
 妻はちょっと動揺したように、視線を逸らします。長い時間ひとと見つめあっていられないのも、また昔からのことです。  
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」 
 私は妻の声に見送られ、外の世界へ歩き出しました。
 すでに初夏の暑さを滲ませた日差しが、駅へと急ぐ私の背中に突き刺さるようでした。


 その日は午後三時をまわった頃にようやく外回りから解放され、私はべとべととまとわりついてくる汗まみれのシャツを不快に思いながら、目についた喫茶店に避難しました。
 アイスコーヒーを注文し、ハンカチで汗を拭いつつ、クーラーの効いた店内にほっとした想いを味わいました。まったくその日は殺人的な暑さだったのです。
 あまり流行らない店なのか客のまばらな店内に、懐かしいビーチ・ボーイズのサーフィンUSAが流れています。あの陽気なコーラスを聴くと、ああまた今年も夏がやってきたんだなぁという気がします。
 やがて運ばれてきたアイスコーヒーの、水滴で濡れた涼しげなグラスを見つめながら、私はキャビンに火を点け、深く吸い込みます。
 そう、夏はやってくるのです。
 今年も。

 私は妻の顔を思い浮かべました。今年の夏休暇にはまた彼女を連れてどこかへ旅行にでもいくのだろうか、と他人事のように考えて、ふと暗いものが心の隙間に差し込むのを私は感じました。
 もちろん、妻を外へ遊びに連れて行くのが厭なわけではありません。それどころか、妻が生活に必要な場以外ほとんど出歩かないことを、私は気に病んでいました。妻はまだ三十半ばと若く、子育ての忙しさもないのに、彼女の日常は私と私との生活に終始していて、あまりにも閉じられてしまっているように感じられるのです。それこそ、「門」の御米のように。
 だから、出来るだけ妻を外へ連れ出してもっと楽しませてやりたい、人生の喜びを味あわせてやりたいというのは、私の望みでもあったのですが、それとは別に胸の奥で去年の夏の出来事が意識すまいとしても浮かび上がってきて、私を動揺させるのでした。

 それはあの奥飛騨の宿での出来事―――
 私たちの―――秘密。


 煙草を揉み消した私は、会社に戻るため、店を出て暑い日の光の下へゆっくりと歩き出ました。にわかに滲みだす額の汗をシャツの袖で拭いながら、ふと見上げると、ぽっかりとした入道雲が青い空に浮かんでいました。
  1. 2014/10/12(日) 08:06:22|
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卒業 第2回

「今日は暑かったですね」
 Yシャツにアイロンをかけながら妻が言う声に、「そうだね」と生返事しながら、私はベランダの戸を開きました。生温かい夜風が、クーラーの効いた室内にのっそりと吹き込んできました。
 ベランダで煙草を取り出した私を見て、妻はため息をつきました。
「禁煙するんじゃなかったんですか?」
「少しづつ量は減らしてるよ」
 嘘です。
「朝顔が綺麗だな」
 マンションの小さなベランダには、妻が育てている花木が遠慮がちに置かれています。そのときは薄青の朝顔が形のいい花を咲かせていました。
「もうそろそろ、きちんと健康のことを考えてもいい歳ですよ」
 誤魔化されませんから、とでも言うように、妻は少しだけきつい目をして言いました。結婚した当初は遠慮して私の素行にはほとんど口を挟まなかった妻ですが、近頃はちょっと口うるさくなっていました。
「食事の後の一服は格別なんだ。――うん、分かってる。もうすぐやめるから」
「本当に約束してください」
「約束する」
 即答した私の言葉にあまり真実味を感じなかったのか、妻はまだきつい目をしていましたが、諦めたようにくるっと背を向けました。
「私はひとりぼっちになるのは厭ですよ」
 ぽつりとそんなことを呟いて部屋を出て行く妻の背中を紫煙越しに眺めながら、私は深く息をつきました。

 私の両親はまだ健在ですが、妻は幼いうちに両親と死別していました。彼女が小学校にあがってすぐの頃と聞いています。その後、ひとりになった妻は、古い旅館を経営する母方の叔父夫妻のもとに引き取られ、私と見合い結婚するまでの20数年、そこで暮らしていました。
 その間、大学に進学することも就職することもなく、ずっと叔父の旅館を手伝っていたそうで、妻の世間が狭いのもそんな過去に一因があるのでしょう。
 叔父の奥さんには格式高い旅館で働く者としての作法をだいぶ教え込まれたようで、妻の挙措やちょっとした言葉遣いなどにそれを感じることもありますが、それよりも、どちらかといえば無愛想な妻によく客商売が務まったものだと感心します。かつて冗談めかしてそのことを言ったとき、妻がちょっと暗い顔をして黙ってしまったので慌てたことがあるのですが、何かその当時に厭な記憶でもあるのかもしれません。私と結婚してから、妻はその叔父夫妻とさほど密な関わりを持っていませんでした。
 天涯孤独とは言わないまでも妻の身の上はそれに近いものがありました。もし私に死なれたら・・・と、不安に感じるのも無理からぬところかもしれません。

 しばらくして寝室へ行くと、妻はすでにベッドの中でした。明かりを消して私もベッドに横になると、妻は私を避けるように反対向きに寝返りをうちました。・・・まだ怒っていたようです。
 暗がりの中、私はそっと手を伸ばして妻の薄い肩を触りました。柔らかい皮膚の下、尖った骨の感触を掌に感じながら、ゆっくりとなぞるように妻の身体に手を這わせていきます。妻は身じろぎもせずに横たわったままでしたが、私の手が胸に触れると、わずかに身をすくめるような動作をしました。けれども、それ以上抗いはしませんでした。
 寝巻き越しに温かい乳房を掌に受けていると、妻の脈拍がかすかに感じられました。
「瑞希」
 名を呼ぶと、妻は少し気羞ずかしげに、ようやく私のほうへ向き直りました。その肢体をぐいっと引き寄せます。胸に胸を寄せると、妻の腕がおずおずと私の頸を抱きました。
 そのまま私は妻に口づけました。唇を合わせたまま、妻の耳に指を絡ませると、妻は閉じていた瞳を薄く開きました。
 ふるふると睫毛が揺れ、黒々と濡れたまなざしが私を見つめます。その表情に蟲惑されながら、私は顔を離し、今度は妻の頸筋に唇を這わせました。妻の肩が揺れ、私の背中を掴んだ手指に力がこもります。
 そのまま胸元まで唇を這わせた後、私はわずかに身体を離して妻の寝巻きの前を開いていきました。妻は頸を捻じ曲げて横を向き、瞳を閉じています。やがて開かれた妻の胸が、暗闇に仄白く浮かび上がりました。
 ゆっくりと覆いかぶさるように身体を倒して、私はその胸の頂きに口をつけます。
 小さな啼き声が暗い室内に静かに響きました。
  1. 2014/10/12(日) 08:07:20|
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卒業 第3回

 去年の夏。
 休暇をとった私は、妻を伴って岐阜県奥飛騨へ出かけました。

 ―――妻を他の男に抱かせる。

 そんな、背徳的な企みを抱いて。
 妻は私の計画を知らず、いつものように言葉少なに、しかし嬉しそうに私とともに家を出たのでした。
 そんな妻の様子に心を痛めなかったわけではありません。けれども、当時の私は自分の企みに憑かれていました。
 物静かで、時として退屈なほど禁欲的な妻が、他の男の手によって女としての未知の素顔を露わにする。そんな瞬間を、どうしても見てみたかったのです。
 やがて―――私の願望は現実のものとなりました。
 それも、私の想像を遥かに超えて。
 妻は―――


 妻は薄闇に蒼白くけぶる脾腹を喘がせて、私の指の玩弄に耐えていました。しっとりと吸いつくような肌の感触に魅了されながら、私はそろそろと掌を這わせ、均整のとれた妻の乳房の頂点に指を触れさせました。小さく尖った薄桃色の乳首を親指の腹でやんわり刺激すると、妻がかすかに呼吸を乱すのが分かりました。
 乱れた髪がシーツの海に散らばり、上気した妻の頬にわずかに貼りついています。
 そんな姿を私の目に晒しつつ、喘ぐ胸を小さく隆起させ、必死になって声を殺している妻。その顔に口を近づけて、“そんなに我慢しなくていいんだよ、ここには二人だけしかいないんだから”と囁きかけたくなりながら、しかし私の頭はまったく別の情景も思い描いていました。
 それは山深い古宿の一室。素朴な畳の香り。近くを流れる渓流のせせらぎ。窓の外の深い闇―――
 静けさの合間を縫うような吐息。絡み合う身体。肌の熱気。汗。女の細腰を掴む男の太い腕。のけぞる背中。肉のぶつかる音。乱れ、跳ねる髪。紅潮した顔。歪む口元。
 男の腰が一撃を加える度、組み敷かれた女の肢体が大きく震え、啜り泣きのような喜悦がその口から洩れ聞こえます。ぐずぐずと崩折れてしまいそうな腰は、しかし物欲しげにくねり、次の刺激を求めているのです。
 女は私を見ています。その意識は半ば飛んでしまっているようで、男に突き入れられる度ごとに、虚ろな視界が揺れ、その焦点を失いかけます。しかしそれでも女は私を見ているのです。私を見つめているのです。
 私は思わず悲鳴をあげたくなります。もうやめてくれ、と叫びたくなります。しかし、それは出来ません。何故なら女と同じくらい、私も昂ぶっているからです。真実は肉体に宿り、言葉は虚偽に過ぎないという真実を私は思い知ります。
 女の発する声は、次第に高く、透きとおっていきます。苦悶のためでなく、ぎゅっと寄せられた眉根。唇の端から垂れたよだれがきらきらと光っています。やがて女の身体はがくがくと揺れ始め、カタルシスの到来を予感させます。私を見つめる女のまなざしに怯えのようなものが走ります。私は何も言えません。声を発することすら封じられたまま、食い入るように女を見つめています。
 ついにそのときがきて、女は昇りつめます。大きく喘ぐ胸が盛り上がり、男のものを飲み込んだ腰が蠢きます。咥えこんだものをきつく締めつけるその中の動きまでが見えるようで、私ははっと息を呑みます。
 高みを極めた瞬間、女は一声高く長啼きします。ぎゅっと寄せられていた眉根が緩み、汗ばんだ顔がさっと色づきます。その視界は今度こそ焦点を失い、視線は宙に浮きます。今の女にはもう何も見えていないのです。快美だけが彼女の心身を攫い、満たしています。この世の何もかもから解放されたようなその表情。苦悶から深い愉悦へと移り変わってゆく女の変化が、さながらスローモーションのように、どこまでも克明に、私の目には見えているのです―――


 ・・・そこで唐突に我に返った私は、身体の下で妻が不思議そうに私を見上げているのに気づきました。
 その無垢な瞳。
 この妻が、たった今まで幻視していた女と同じ女だという事実に、私は慄然とします。
 あれはたしかにあった出来事なのです。それなのに私は、いまだにその事実を受け止めきれてはいません。しかし、忘れることも決してありません。
 妻をこの腕に抱きしめるとき、私はいつもあのときの情景を思い出すのです。それは引きずりこまれるような感覚です。私は腕の中の妻を愛しながら、あのときの妻を想い、知らず知らずのうちに我を忘れているのでした。

 それはどうしようもなく激しく、そして暗い昂ぶりでした。

「どうかしたんですか?」
 真顔で黙りこくっている私に、妻が心配そうに声をかけました。
 妄念を振り払うように、私は強いて笑みを浮かべました。
「ああ、ちょっと考え事をしていた」
「こんなときに・・・」
「ごめんごめん、瑞希をこんな状態にしておきながら放ったらかしにして悪かった」
 真面目に言ったのですが、妻はそれを自分に対するからかいと取ったのか、少し顔を赤らめて「別に私は・・・」と呟きました。
 私は妻の横に寝転がり、その腰をぐっと引き寄せて、寝巻きの下に手を忍ばせました。慌てたように抗う動きを見せる妻に委細構わず、私の手は寝巻きの下の下着のさらにその下へ入り、柔らかい毛叢をさすりました。繊毛も、手の甲に張り付く布も、しっとりと濡れていました。
「これで言い訳出来ないだろう」と、口に出したわけではありませんが、妻はそんなふうに言われたように感じたのか、羞ずかしげに小さく呻いて、私のほうに向き直り、私の腕にしがみつくようにして、肩口に顔を埋めました。さらりとした黒髪が私の顎に触れます。
 私の指は自然と毛叢の奥の閉じ目へと伸びました。湿り気を帯びたそこの、温かい肉の感触が私の指を包みます。そこに指が達した瞬間、私の腕に顔を押しつけたままの妻の頸が、くんと動き、零れた吐息が腕をくすぐりました。妻はそのまま股を閉じ、私の手はすべやかな太腿に挟みこまれます。同時に、肉の輪がきゅっと私の指を締めつけるのを感じました。

 そのままの格好で、私たちはしばし静かな時間を過ごしました。
 指の先に妻の熱を感じながら、私は傍らの妻を見つめ、彼女の呼吸の音に安らぎを感じていました。
 幸せ―――という言葉を想いました。
 そう、たしかにそのときの私は幸せだったに違いないのです。仕事も上手くいっていたし、何よりもこうしてすぐ傍にいつも妻がいてくれる。私と彼女の安息を妨げるものは、何もない。
 何もない、はずでした。

 しかし―――

 だらだらとした安息の日々の奥には、抑えようとして抑えきれないものがひっそりと蠢いているのを私は常に感じていました。それは、本来なら手を出してはいけない禁断の果実を口にしてしまった者だけが感じる、憂鬱な衝動。

 決して色褪せてくれない、記憶―――

「何を考えていらっしゃるんですか?」
 気がつくと、妻が顔を上げて、私の顔を見つめていました。
「今日のあなた、どこか変ですよ。すぐにぼうっとして」
「・・・暑かったからかな」
 そう―――
 きっとこれは、暑さからくる気の迷い。
 何しろ、もう夏は近いのだから―――

「瑞希は今、幸せなのかな」
「どうしたんですか、いきなり」
「別に・・・ちょっと聞きたくなって」
 黒々とした瞳を大きく開き、妻はしばし私を見つめていましたが、やがて真顔のまま、「幸せですよ」と答えました。
「本当に・・・いつまでもこのままの日々が続けばいいと思っています」
 その声は、心底そう願いながらも決してその望みが果たされないことを知っているかのように儚げに響いて、私は少しどきっとしました。

 妻は―――あのときのことをどう思っているのだろうか。

 今まで何度となく考えたその疑問が、また蘇りました。
 あの日以来、私たちの間で、奥飛騨の宿での出来事を口にしたことはありません。それは二人の間のタブーでした。

 私の心が妻を裏切ったこと。
 妻の身体が私を裏切ったこと。

 そのすべてに蓋をして、なかったように振る舞って、私たちはようやく安定を得たのです。それは表層的な安定かもしれません。私の心の奥底であのときの出来事がいつまでも消えずに揺らめいているように、妻もまた忘れてはいないのでしょう。妻は決してそのことを私に悟らせようとはしませんが。
 夜の営みの中で私は妻を抱きながら、時々狂おしいほどそのことを意識します。何も言わない妻の耳元に口を近づけて、囁いてみたくなります。
 まだ覚えているのかい―――と。
 あのときのことを。
 あの悦びを。
 そして―――あの男を。
  1. 2014/10/12(日) 08:08:13|
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卒業 第4回

 暮れかかる日と裏腹にネオンの色があちこちにきらめきだした街の人波をすり抜け、その夕方、私は目指す『コラージュ』に辿り着きました。
 『コラージュ』は以前よく利用していた店ですが、ここ最近はめっきり足が遠のいていました。雑居ビルの地下にあるそのクラブの深海を模したような内装を懐かしく眺めながら、私は歩みを進め、待ち合わせた男のテーブルにつきました。
「久しぶり、だな」
 その男―――赤嶺はよく響くバリトンで言い、にっと笑いました。
「ああ、一年ぶりだ」
「とりあえず何か注文しろよ」
 ぐいっと私にメニュー表を押し付けつつ、赤嶺は飲みかけの杯に口をつけました。

 赤嶺という名のこの風変わりな男は、高校以来の私の旧友でした。私の数少ない友人の中でもっとも付き合いの長い一人ですが、その長さのわりに私は彼のことをよく測りかねています。
 いついかなるときも本音か冗談か判断に困るようなことしか言わないこの男は、その押しの強さと独特の凄みで、昔から異彩を放っていました。不敵といえばこれほど不敵な男を私は他に見たことがありません。ひとを小馬鹿にしたような目つき、嘲弄的な言辞で数多くのトラブルを起こしながらも、ふんっと鼻で笑うだけで一向に動じる気配のないこの男は、しかし独特のカリスマ性を備えていて、私自身、彼の奔放さにはずっと魅力を感じていました。細々とであれ、赤嶺との付き合いは高校卒業後も続き、お互いに社会に出てからも時折連絡を取っていたのです。
 そう、一年前のあの日までは―――

「元気そうでまずは何よりだな」
 ピザの切れ端を摘まみながら、まったく心のこもっていない口調で赤嶺は言いました。
「お前もな」
「奥さんは元気にしているのか?」
「・・・ああ」
 短く答えながら、やはり赤嶺が「奥さん」と口にするのを聞いて動揺を抑えられない自分自身を私は感じました。そんな気配を敏感に察したのか、赤嶺はそのまなざしに悪戯な笑みを浮かべて私を見つめました。
 その唇がゆっくりと動きました。
「―――なんだ、まだこだわっているのか」
「・・・こだわって、わるいか」
 他人の心に聡い赤嶺に誤魔化しは通じないので、私は投げやりな口調で答えました。
「拗ねるなよ。子供じゃあるまいし。第一、あのときのことはお前が言い出したんじゃなかったか」
「その話はよそう」
「その話がしたくて今日は来たんだ」
 平然と赤嶺は切りかえしました。
「この一年、忙しくてなかなかお前と連絡を取る時間がなかったからな」
「・・・なんだ、俺に気を遣っていたわけじゃないのか」
「なんでお前に気を遣う必要がある?」
 そのとき、ウエイターが料理の皿を持ってきて、私たちの会話は束の間中断しました。

 ウエイターが去った後、空になった杯にバーボンを注ぎ足しつつ、赤嶺はきらきらとよく光る瞳で私を見ました。
「俺からすればむしろ、お前から連絡が来なかったのは意外だったかな」
「どうして?」
「あのアソビが一回きりで終わるようなものだと思っていなかったからさ」
「・・・・・・」
「あのときはお前の嗜好に応えるよう、俺なりに努力したつもりだがな。お前の望みを見事に叶えてやったし」赤嶺はそこでにやりと笑いました。「それに奥さんのほうだって、ずいぶんと満足させてやったつもりだ」

 すうっ、と―――

 塞がりかけた裂け目に、再び鋭利なナイフが刺し込まれるのを私は感じました。

「きっとすぐにでも連絡がきて、次の日取りを決めるもんだと思い込んでいたんだけどな」
 私は黙って手元の酒杯を空にしました。
 そして、やっと言いました。
「お前にとってはただのお遊びでも、俺たち夫婦にとっちゃ深刻な問題だ」
「何を偉そうに。お前が言い出したことじゃないか」
「それはその通りだけど・・・」
「優柔不断な奴だな」
 赤嶺は軽蔑したように、高い鼻を蠢かせました。
「結婚だ夫婦だといったって、結局は、社会生活をそつなく健康的(『厭な言葉だな』と赤嶺は呟きました)に送るための一形式に過ぎないし、その実体は昔から変わることのない男と女だ。ましてや、お前たちには子供がいないんだからな。楽しめるうちに楽しんだほうが得ってもんじゃないのか」
「結婚したこともないくせに、よくそれだけ分かったようなことを言えるな」
「分かってるから結婚しないんだ。そんなこたぁともかく、奥さんのほうはあのときのことについてどんな感想を持ってるんだ? そっちのほうが俺は気になるね」
「瑞希は――――」

 ―――あの夏の日。
 妻を他の男に抱かせてみたいという私の妄執は、現実のものと化しました。
 現実のものとさせたのは、赤嶺の力です。赤嶺は言葉巧みに妻を誘い、操り、私の眼前で彼とまぐわうことを妻に承知させました。
 そして―――妻は本当に赤嶺に抱かれたのです。
 その一部始終を私は見ていました。
 最初は演技だった、と妻は言いました。私への復讐のつもりで―――これも赤嶺が彼女へ吹き込んだ言辞ですが―――妻は赤嶺に抱かれることを承知したのです。
 しかし、途中から演技は演技でなくなりました。
 嘘は快美の喘ぎへと変わり、裏切りの怯えは悦びの痙攣へと変わりました。
 そう。
 赤嶺との交わりで、妻は芯から感じてしまったのです。
 このことは翌朝になって、妻自身の口から告白されました。告白されなくても、すべてを見ていた私には、何もかも分かりきった事実でした。あのような妻の姿を見たのは、あのときが最初で最後です。
 私への告白を終え、妻は泣きました。怖い、と言って泣きました。これから私たちがどうなるのか、どうなってしまうのか、それが不安でたまらない―――そう彼女は言いました。
 その不安にどう答えてやるべきなのか、私には分かりませんでした。
 だから―――高山へ向かう電車の中、震える妻の肩を抱いたあの夏の朝以来、妻は口をつぐみ、私も口をつぐんで、私たちの「夫婦の日常」を保ってきたのでした。

「瑞希は・・・何も言わない。たぶん、今でも恐れているから。奥飛騨でのことが原因で俺との生活が壊れてしまうことをね」
「―――お前はどうなんだ?」
「え?」
 思わず聞き返すと、赤嶺は額にかかった髪をかきあげながら、斜めに見下ろすように私を眺めやりました。
「お前も恐れているのか」
「そりゃあ・・・そうかもな。誰だって失うのは怖い」
「どうしてただのアソビに壊れるとか失うとか、そんなことばかり考えるのかね」
「お前には分からないかもしれないけど、普通の人間ならそうだよ」
「でもお前はあのとき、愉しんでいたんだろう?」
「・・・・・・・・」
「俺に抱かれる奥さんの姿を見て、お前は興奮していただろ?」
「・・・・・それは」
「今さら言葉を濁すなよな」
 執拗な追求に、私は両手を上げました。
「わかったよ。そうだ、たしかに興奮していた。でも愉しんだというのは、ちょっと違う」
「違わないさ。まあいい。それだけは聞いておきたかったんだ」
 謎めいた口調で呟いて、赤嶺は咥えたピースに火を点けました。


 夜の十時頃に赤嶺と別れ、私は家路につきました。
 電車に揺られながら、私はいつしか沈み込み、赤嶺との会話を反芻していました。

 ―――お前はあのとき、愉しんでいたんだろう?

 赤嶺の問いかけは、私自身がこれまで胸の内で繰り返したものでもありました。
 妻との生活をつつがなく続けるため、彼女をこれ以上傷つけないために、理性はその言葉を必死になって否定します。

 けれど―――

 この身体に宿るあのときの記憶は、私の理性を嘲笑うように、じわじわと熱を高めていくのです。
 今夜の赤嶺との会話は、そんな乾いた真実を掘り起こさせ、正面から私の喉もとに突きつけるものでした。

 いつもの駅に着いたことを告げるアナウンスが響き渡り、私は顔を上げました。
 吊り革を握る私の掌は、いつの間にかじっとりと汗ばんでいました。


「はい、お水」
 妻が差し出したコップを、「ありがとう」と言って私は受け取りました。
 静かに水を飲み下していく私を見つめながら、妻は私の正面に腰掛けます。
「でも、珍しいですね。あなたがそんなにお酒を召し上がるのは」
「ちょっとね、昔の友達と会って懐かしかったから」
 言いながら、私は妻の瞳から視線を逸らさずにいられませんでした。
 風呂からあがったばかりの妻は、普段は後ろでひとつにくくっている髪を肩先まで垂らしていました。水気を帯びて艶やかに光る黒髪に、細い頸から胸元にかけての白さが眩しく映ります。
 私も妻も静けさを好む性質なので、家に居るときはろくろくテレビもつけないのですが、今夜に限ってはその静けさが居心地悪く感じられたので、私はソファから立ち上がり、棚の上のオーディオ機器をいじりました。
「あ、この曲・・・」
 やがて流れ出した曲を聴き、妻はちょっと瞳を輝かせて私のほうを向きました。サイモン&ガーファンクルのこのヒット曲、サウンド・オブ・サイレンスは、私たちふたりにとって少しばかり思い出のある曲でした。この曲が主題歌に使われている映画「卒業」は、私たちが夫妻で見た最初の映画(リバイバル上映でした)なのです。
「懐かしいですね・・・たった数年前のことですけど」
「うん・・・それはそうだね。ああでもやっぱり、あんまり懐かしいとか言うのはよくないな」
「どうしたんですか、急に」
「いや、俺も瑞希も若いんだしさ、まだまだ過去を懐かしんでいいような年齢じゃないよ。そんなことをしていたら、すぐに老けこんでお爺さんとお婆さんになってしまう」
「・・・やっぱり酔っていらっしゃるんですか?」
「そうかもしれない」
 私自身、自分が何を言おうとしてこんなことを口走っているのか分からないまま、私はふらふらと戻って、今度は妻の隣のソファに腰掛けました。「お酒くさいですよ」と困ったように微笑んで、妻は私の肩にそっと頭を傾けました。

 気がつくとサウンド・オブ・サイレンスは終わっていて、ミセス・ロビンソンの陽気なメロディーが流れています。

「今年の夏はどこに行こうか?」
 そう口に出してから、私はそっと隣の妻の顔を見ました。妻はいつの間に瞳を閉じていて、私の言葉も聞こえなかったように、静かに音楽に耳を傾けているようでした。
 しかし、しばらくして、「どこでも結構ですよ。どこにも行かずに家で静かに過ごしたってかまわないし」―――ぽつりと呟くように、妻は言いました。
「・・・いや、瑞希はいつも家にこもりがちだし、休みくらいは外へ出たほうがいいよ」
 私は懐に丸めこんだ紙を取り出しました。
「ここへ―――行かないか」
 それは赤嶺から紹介された旅館―――黎明荘のパンフレットでした。
  1. 2014/10/12(日) 08:09:19|
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卒業 第5回

 古都京都の日本海側に面する宮津市天橋立は、古来より日本有数の景勝地として有名ですが、私も妻もこれまで訪れたことがありませんでした。
 夏の休暇が始まってすぐ次の日、私たちは大阪梅田の駅から福知山線に乗り換えて、目指す天橋立駅へ辿りつきました。
 青空の美しい、よく晴れた日のことでした。


「お前、天橋立には行ったことあるか?」

 唐突に赤嶺にそう聞かれたのは、この前の一年ぶりの再会のときでした。
「いや、ないけど」
「ふうん。じゃあ、行ってみる気はないか? 実は今年の夏休暇に行こうと思って宿を予約していたんだが、どうも仕事で身体が空きそうになくてな」
 そう言って、赤嶺は背広の内ポケットから旅館のパンフレットを差し出しました。
「黎明荘ね。良さそうだけど、高そうな旅館だな」
「ああ、高い。だけど知り合いから特別に優待券を貰ってな。これを使えば格安で泊まれる。もしお前が奥さんと行くってんなら、その券をやるよ」
「いいのか?」
「かまわんよ。どうせその優待券の有効期限も来月までだし、俺が利用する機会はなさそうだ。ちなみに俺もツインの部屋で予約していたから、予約者の名前を変更するだけで部屋の心配をする必要はない。日数は三泊になってる」
「ツインね。明子さんとでも行く気だったのか?」
「さあな」
 赤嶺はふっと笑いながら、宙空へ煙を吐き出しました。


 駅から歩いて15分ほどの距離にある黎明荘は、パンフレットに載っていたとおり、由緒ありげな木造二階建ての瀟洒な建物でした。
 チェックインを済ませた私たちは、綺麗に整えられた和室の部屋で寛いだ後、外へ散歩に出かけました。時刻はまだ昼過ぎで夏の日差しは暑く、妻は宿で日傘を借りました。
「まるでどこぞのお嬢さんみたいだな」
 袖の短い水色のワンピースという妻にしては珍しい服装で、日傘を差して歩く彼女をからかうと、
「そんなことより、早く行きましょう」
 ちょっと怒ったように言って、妻は横を向いてしまいました。

 宿を出た私たちは智恩寺の境内を通り抜け、回旋橋を渡って宮津湾に浮かぶM字型の砂浜に足を踏み入れました。
 豊かな植生、草いきれのつよい匂いの中を、かの有名な松並木の道に沿って私たちは歩きました。
「あら」
 突然、妻が声をあげました。その視線の先の砂浜には、たくさんの水着姿の人たちが海水浴を楽しんでいるのが見えました。
「ここでは海水浴も出来るんですね。私、知りませんでした」
「俺も知らなかった。せっかくだから、明日にでも泳ぎにいこうか」
「でも、水着を持ってきていませんし・・・」
「買えばいいよ」
「でも・・・」
 言葉を濁すところを見ると、妻は泳ぎが出来ないのか、それとも水着になることが厭なのか。彼女の性格を考えると、どうも後者のような気がしました。
「せっかく遊びに来たんだし、瑞希も少しは解放的な気分になって楽しんだほうがいいよ。明日はぜひ海へ行こう」
 決めつけるように言って私はさっさと歩き出します。妻は黙ってついてきましたが、当惑したように握った日傘の柄をくるくると回していました。

 砂浜を通り抜け、喫茶店で少し休憩した後、私たちは府中側から観光船に乗って戻ることにしました。
 船が動き出すとすぐ、混雑した船内に録音された声のアナウンスが響き渡り、天橋立の歴史について解説を始めます。私と妻は穏やかに揺れる阿蘇海を見つめ、また先ほど歩いたばかりの砂の架け橋を今度は海上から眺めました。
 夏の日はゆっくりと暮れかかり、海面をそよ吹く風もすでにしっとりとした夕刻の気配を含んでいるようでした。
 
 わずか10分程度の船旅を終えて観光船は桟橋に着き、私と妻は船を降りて黎明荘への道を歩きました。
「やっぱり綺麗なところでしたね」
 呟くように妻は言いました。
「来てよかった?」
 私が聞くと、妻は真顔でうなずきました。その手にはすでに閉じられた日傘が、しっかり握られています。
 そうこうしているうちに、数時間前に出たばかりの黎明荘の門が見えました。粋な造りのその門を、私たちがくぐり抜けようとした―――
 まさにそのときでした。
 玄関の戸が開き、見覚えのある男が姿を現したのです。
 私たちの姿を見つけ、何気ない様子で軽く手を上げ、ふっと笑みを浮かべて見せたその男は―――赤嶺でした。
  1. 2014/10/12(日) 08:10:10|
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卒業 第6回

 まったく予想外な赤嶺の登場に私は驚き、次の瞬間、思わず妻に目をやっていました。
 妻が赤嶺と再会するのは、一年前のあの日以来初めてのはずです。
 二度とはない―――と妻が思っていたのかどうかは分かりませんが―――はずの再会を、今こんな場所で突然迎えた妻。その顔からさっと血の気が引く様が、私の目にはっきりと見えました。
 ひやり、と冷たいものが私の胸に生まれました。
「どうしたんだよ、鳩が豆鉄砲をくらったみたいな顔をして」
 赤嶺は唇の端で笑みながら、ためらいのない足取りで近づいてきました。私たち夫婦それぞれの動揺を知ってか知らずか―――いや、他人の感情の機微に鋭いこの男は、たぶんすべてを承知の上で、何もないような顔をしているに違いありません。

「奥さん、久しぶりですね」ゆっくりと近づいてきた赤嶺は、笑みを崩さないまま妻のほうを向いて言いました。「―――ちょうど一年ぶり、ですか」
 妻は黙ったままでした。放心したように広げられた細い手指が、わずかに震えているのが視界の隅に入りました。
「・・・お前、なんでここに」
 ようやく絞り出した私の声は、まるで別人のもののように感じられました。
「いや、予定していた仕事が相手先の都合で延期されて、身体が空いたんでな。お前に渡した優待券もまだ余っていたし―――駄目もとで連絡してみたら、シングルの部屋ならキャンセルが出たばかりで泊まれるということだったから、俺一人でも来ることにしたんだよ。ついさっき着いたばかりだ」
 あっさりと語られるその言葉は、真実なのか偽りなのか―――ともかくも、赤嶺に動じる気配はまったくありませんでした。

「さて、と・・・俺もかの有名な天橋立を拝んでくるかな」赤嶺は大きく伸びをした後、私と妻を順に見つめました。「それじゃあ、また後で」
 そう言い残して、赤嶺はさっさと立ち去っていきました。その背中を阿呆のように見送っていた私でしたが、ふと気づくと、妻は一人で玄関のほうへ歩みを進めていました。
「瑞希」
 小さく声をかけましたが、妻はその言葉が聞こえなかったように玄関の戸を開き、すっと中へ入ってしまいました。
 私は大きくため息をつきました。

 部屋へ戻る途中、洗面用具を抱えた妻とすれ違いました。
「お風呂へ行ってきます」
 私の目を避けるように妻は言い、私が何か言うより早く、さっさと廊下を歩み去ってしまいました。
 仕方なく、私も一度部屋に戻り、それから宿の大浴場へ向かいました。


 妻はショックを受けているのだろうか。
 それとも怒っているのだろうか。
 たぶんその両方だろう、と私は思いました。
 天橋立への旅とこの宿への宿泊が、そもそも赤嶺の発案であることは妻には伏せていました。この一年の間、赤嶺の名前それ自体が、私たちの間では禁句のようなものになっていたからです。
 何も問題はなかった―――はずでした。
 けれども、先ほど赤嶺の出現を目の当たりにした妻は、一瞬にして事情を解した―――ように、誤解したに違いありません。
 それはつまり、去年の夏の再現です。
 妻を騙し、赤嶺にその身体を預けさせようと謀った、あの目眩めく時間。
 今回もあのときの状況によく似ています。妻が誤解するのも無理はありません。
 しかし、それはあくまでも誤解に過ぎず、今日ここに赤嶺が現れるなどということは私は想像もしていませんでした。
 いったい、あの男は何を考えているのでしょうか。

 熱い湯に浸かりながら、私はそんなことをつらつらと考えました。
 温まってゆく身体と呼応するように、私の心の中もじわじわと熱っぽくなっていくようでした。


 風呂から出て部屋へ戻ると、浴衣に着がえた妻が、窓際の椅子に腰掛けていました。
 すでに日はほとんど落ちかけ、窓越しに見える静かな海は鮮やかな夕陽に染まっています。この部屋にもその光は差し込んでいて、妻の横顔を朱く染めていました。
 私は黙って窓際に近づき、妻の背後に立ちます。妻は相変わらずその顔を窓の外へ向けたきりで、振り向こうとしません。浴衣の襟元からのぞく細いうなじが不思議なほどに艶めいて見え―――
 私は息を呑みました。

「瑞希・・・さっきのことだけど」
「聞きたくありません」妻はにべもなく言いました。
「説明しないと分からないだろう」
 静かな口調に強いものを滲ませた妻の声にやや気圧されながら、私は言葉を重ねました。
 ようやく妻は振り返り、私を見つめました。夕焼けの海を背後に置き、すっと顔をもたげて私を正面にとらえた妻の貌は冷たく冴えていて、瞳だけがきらきらと輝いていました。
「どんな説明をされるおつもりなんですか?」
 普段とは雰囲気の違う妻の様子にはっとしながら、私は今までの経緯を簡単に話し、赤嶺がこの宿に来たことに、自分の意志が働いていないことを説明しました。
 妻は黙って話を聞いていました。私の話が終わると、妻は視線を下げて何か考え込んでいましたが、やがてぽつりと「それなら赤嶺さんはなぜ、ここに・・・?」と言いました。
「私たちがいると分かっていて、なぜ、わざわざ・・・」
「俺たちがいると分かっているから来たのかもしれない」
 私の言葉に、妻は顔を上げました。
「それはどういうことですか?」
 先ほどとはうってかわって、弱々しい光を湛えた瞳が私を見つめました。
 私は少しの間黙り込んで、そんな妻の表情を見返しました。
「・・・瑞希はどう思っているのかな?」
 しばらくして、私は口を開きました。
「何のことですか?」
「赤嶺のことを。―――ひいては一年前のことを」
 妻ははっと息を呑んだようでした。
「分かってる。今まではそれについて触れないことが、俺たちの間の約束だった。だけど」
 だけど―――
 今日ここで赤嶺と会って、私たちの過去が亡霊のように蘇ってくるのを感じて、そこから目を逸らすのは、もはや出来ない相談でした。
 いや―――本当の真実はそうではありません。
 なぜなら、私も、おそらくは妻も、あの記憶を忘れたことはないから。私と妻の静かな生活にあのときの出来事は常に沈殿していました。
 そして―――今も。
 今も―――

 言葉にはしなかった私の気持ちを読み取ったのか、妻はうつむき、重ねた両手を不安げに擦り合わせていました。


 熱いな―――


 エアコンのよく効いた部屋にいながら、ふと私はそんなふうに感じます。
 頭の芯はぼんやりと霞むようで、窓の外の海を染める朱色が私の内側にまでも滲み、浸透していくようでした。

 うっとりするような―――その朱。
 その朱を背に妻は座っていて―――


 熱い―――


 そんな、眼前の妻の、優美な線を描く肩の細さが。

 浴衣の裾から伸びた二本の白い脛が。

 襟から覗く胸元の仄暗い翳が。


 そのときの私の目には、何故かぞっとするほど妖しいものに映ったのです。
 

 そして―――

 気がつくと私は妻に近づき、その身体を抱き寄せていました。

 不意のことに驚く妻。その唇を吸いながら、私は力づくで彼女の身体を畳の上へ押し倒しました。
「いや・・・・・」
 抗う妻の声も聞かず、私の手は妻の浴衣の裾を割っていきました。
 すぐに雪白のふくらはぎが露わになり、その眩しさに私はいっそう駆り立てられます。
 畳の上に仰向けにされた妻は、言葉もない様子で私を見ました。その潤んだような瞳が、私の胸をざわざわとかき乱しました。

「赤嶺に触れられたときのことを覚えているか?」

 右腕で妻を押さえつけ、左手でその柔らかな肢体を愛撫しながら、私はいつしかそう囁いていました。
 妻の表情が凍りつくのがはっきりと見えました。
「あのとき、瑞希は凄く感じていた」
「やめて」
 か細い声が妻の口から洩れます。
「あんな瑞希は見たことがなかった」
 囁きながら、私は左手を妻のブラジャーの下に差し入れて張りのある胸乳を握りしめ、親指と人差し指の腹で乳首をきゅっと摘まみました。
「あう」
 切なげに眉をたわめ、私を掴む妻の手から力が抜けました。
「あのときは明るくて、瑞希の表情の変化がよく見えた」
 無意識に、妻の乳首を掴む指に力が加わっていきました。
「痛い・・・・」
「最初は後ろからだった。瑞希はうつぶせになって、後ろから赤嶺にされていた」
 私は左手を妻の胸から離すと、今度は下半身を小さく覆う布に手を伸ばし、薄い生地のそれを引き下ろしました。滑らかな下腹のさらにその下、股間の艶やかな繊毛が露わになります。妻はもう、ろくな抵抗をしていませんでした。ただ、その太腿から真っ白な脛にかけてだけが、時折引き攣れるようにがくがくと震えていました。
「瑞希は感じていた。本当に気持ちよさそうだったな。赤嶺のあれはそんなに良かったのか?見たことのないような動きで腰を振っていたじゃないか。そうしていないと耐えられないみたいに、いい声をあげながら」
「もう許して」
 ようやく絞り出したような妻の声はすでに嗚咽まじりでした。
 私はそんなふうに泣いている妻の訴えを無視して、露わになった翳りのその奥に秘匿された恥部に指を差し込みます。

 その、よく馴染んだ肉の感触。
 思わず息を呑むほどに、そこは溢れていました。

「―――濡れている」

 短く告げた私の言葉。
 まるで断罪されたかのように、妻の泣き声がいっそう高くなりました。

 その声が―――合図となりました。
 私の意識はその瞬間を境に、完全に飛んでしまったのです。


 それは何かに憑かれたような、物狂おしい時間でした。


 気がつくと、私は妻の中に果てていました。
 その手には先ほど剥ぎ取った妻の下着が握られています。
 髪も浴衣も乱れた格好で、私に組み敷かれている妻。その呆然としたような表情を見つめる私の顔も、さぞ呆然としていたことでしょう。
 日は完全に暮れ落ち、彼方に見える微弱な残光だけが、私と妻の身体をわずかに染めていました。
  1. 2014/10/12(日) 08:13:19|
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卒業 第7回

「あなた・・・重い」

 妻にのしかかったまま呆然となっていた私は、身体の下から聞こえてきた細い声でようやく理性を取り戻しました。
 慌てて妻から離れ、畳の上にぺたりと腰を下ろしました。
 妻はまだ身体が動かないのか、仰向けに横たわったまま手だけを動かして浴衣の裾を直しましたが、それだけの動きをするのも辛そうでした。
 ほとんど暴力まがいの交わりをしてしまったことに、私は自分自身でショックを受けていました。妻に何か言わなければいけない、と思いましたが、言うべき言葉を見つけられないでいるうちに、さらに数刻が過ぎました。

 窓の外はすでに暗闇が支配する夜の世界になっています。

 不意に、妻がゆっくりと身を起こしました。気まずそうに目を逸らしたまま起き上がった彼女の乱れ髪を見て、私もまた思わず目を逸らしてしまいました。
「瑞希・・・わるかった」
「いえ・・・・」
 ようやく言った私の声に、妻は浴衣の前を押さえながら短く答えました。そして立ち上がり、「ちょっとシャワーを浴びてきますね」と小さく告げて、そろそろとした足取りで備え付けのバスルームに消えていきました。
 私は深く息を吐き、窓の外に広がる闇をぼんやりと眺めました。
 しばらくして、妻が戻ってきました。シャワーを浴びたその顔色は、先ほどまでの蒼褪めたものに比べ、ずいぶんと血色が戻っています。
「もうお食事の時間になりますけど・・・あなたもシャワーを使いますか?」
「うん・・そうだね」
 緊張しているような声色の妻に答え、のっそりと私は立ち上がりました。

 宿の食事処で夕食を取る間もずっと、私と妻の間にはぎこちない空気が流れていました。
 本来なら楽しいはずの旅行を台無しにしてしまったこともそうですが、無理をして何もなかったように取り繕っている妻の姿が、私の胸を痛ませずにおきませんでした。

 食事を終え、席を立って部屋へ戻る途中、玄関に赤嶺が戻ってきたのが見えました。
「ちょっと用事を思い出した。瑞希は先に行っててくれ」
 妻にそう言うと、彼女は何か言いたげにちらりと私を見ましたが、結局「分かりました」とだけ答えて立ち去りました。
 私はため息をついて、赤嶺のもとへ歩み寄りました。

 夕食は外でとってきたという赤嶺に誘われ、私は彼の部屋へと足を運びました。
「まったく、どうしたんだ。そんなしみったれた顔をして」
 部屋に入るなりそう言って、赤嶺は窓際の椅子にどっかりと腰を下ろし、行儀悪く足を組みました。
「お前のせいだよ、全部」
 貰った煙草に火を点けながら、私は子供のように悪態をつきました。
「意味が分からんね。奥さんと喧嘩でもしたのか」
 単なる喧嘩なら、もっとずっとよかっただろうに―――私は心中でそんなふうに思います。
「お前はどうしてここに来たんだよ?」
 赤嶺の問いには答えず、私は若干の怒りをこめて先ほど抱いた疑問を彼にぶつけました。
「何言ってやがる。もとは俺の紹介した宿じゃねえか。―――それはともかく、理由はさっき説明しただろ。予定していた仕事が相手先の都合で延期されたからってやつ」
「とても信じられんね」
 私の感想を赤嶺はふんと鼻で哂い、それ以上否定も肯定もしませんでした。
「それはそれとしてお前こそ、俺に何の用なんだ? 何か話したいことがあって来たんじゃないのか?」
 私は先ほどあったことを赤嶺に語るべきか一瞬迷いましたが、決心がつかないまま、無言で煙草を吹かしました。語るも何も、自分自身ですら、わずか数刻前の出来事をまだ整理できずにいたのです。
 あの嵐のような昂りを―――
 赤嶺もまた何も語らず、手元のジッポをかちゃかちゃと弄びながら、悄然とした私の様子を観察するような目で見つめていました。
「なぁ」しばらくして、私はそんな赤嶺に言葉を投げました。「お前に聞きたいことがある」
 赤嶺はケースから取り出したピースを咥えつつ、続けろと言うように顎をしゃくりました。
「お前は―――瑞希のことをどう思っているんだ」
「前と変わってないよ。はっきり言って好みのタイプだね。さっき久々に見て、改めてそう思ったな」
 紫煙を吐きながら、赤嶺は目を細め、私を正面に見据えました。
 その唇が、歪んだ笑みを刻みました。

「それに―――抱き心地も良かったしな。あのときに出す声も良かった」

 あからさまに私をからかい、挑発する口ぶりで。

「奥さん、今でもあんなふうに啼くのか? ―――よぉ、どうなんだ。お前とするときにも、奥さんはあんなに乱れるのか? 聞きたいね」

 赤嶺はそんなことを言い、冷ややかな目で私を見つめました。

「もしそうだとしたら、お前も大変だね。普段はつんと澄ましていても身体の反応は娼婦顔負け、って女は実際いるもんだけど、奥さんもその類じゃないのか。よく言えば感受性豊か、わるく言えば淫乱ってとこだな」

 淫乱―――

「まぁ、俺はそういう女のほうが好きだけどな。人間、口では何とでも言えるけど、身体のほうは正直なものだからな。あの奥さんみたいに最初は抗えるだけ抗うけど、最後は結局、快楽に負けてぐずぐずに乱れてしまうってのも風情があっていいもんだ」

 まったく羨ましいよ、お前が―――

 最後に一言そう結んで、赤嶺は再び煙草を咥えました。その視線は逸らされることなく私をとらえ、きらきらとよく光る目は私を嘲弄しています。
 その目を、私はしばらく無言で睨み返しました。
 やがて、言いました。
「その手は―――食わない」
 赤嶺は煙草を吸いながら、眉だけ動かして私の言葉に反応しました。
「お前は昔から傍若無人に振る舞ってみせては、その裏で冷静に目の前の人間の反応を見ているタイプだった。そんなときこそ、ひとの本音ってやつが出るからな。その本音を聞きだして、お前は利用するんだ」
 赤嶺はふっと笑いました。
「昔からの友達に対して、ずいぶんとひどいことを言うんだな」
「お前が言うな」
「ふん。だいたい、これだけ付き合いが長いんだ。お前の本音なんて聞きだすまでもない」
 煙草を揉み消した赤嶺は、まるで舞台役者のように両手を広げて見せながら、ゆっくりと立ち上がりました。
「今さらどう取り繕っても無駄なことさ。一度起きたことは変えられないし、最初に望んだのは、そして誰よりも望んでいるのはお前なんだ」
「だから―――何が言いたいんだ」
 苛苛した口調で叫んだ私を、赤嶺は立ったまま壁に寄りかかり、冷ややかな目で見つめました。
「お前自身が一番よく分かっていることを俺に言わせるなよ」
「じゃあ、質問を変える。お前は何がしたいんだ? 本音で答えろ」
「―――俺がしたいこと、か。そりゃ決まってるだろ」
 赤嶺はあっさりと言いました。
「奥さんを抱きたい。もう一度」
  1. 2014/10/12(日) 08:14:34|
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卒業 第8回

「――――――」

 あまりにもあっさりと告げられた赤嶺の言葉に、私は一瞬絶句しました。
 幾ばくかの時間を置いて、ようやく私は気を取り直します。
「・・・お前、誰に向かってそんなことを言ってると思ってるんだ」
「お前だよ。お前しかこの場にいねえじゃねえか」
 平然と言って、赤嶺はまた煙草に火を点けました。
「言っておくけど、俺が話してるのはただの男としてのお前だ。一家の亭主としてのお前に対してじゃない」
 ふうっと紫煙を吐きながら、赤嶺は底の見えない瞳で私を見つめました。
 その唇が、動きました。

「お前は心の底では、奥さんが俺に抱かれるのをもう一度見たいと思っている」

 断定的に語る赤嶺の口調には、一切迷いというものがありませんでした。

「そして、俺は奥さんを抱きたい。お互いの利害は一致してるんだ。他に何の問題がある?」
「・・・瑞希本人の意思はどこへ行った? あいつはモノじゃないんだ。むしろ人一倍傷つきやすいし、今だって―――きっとひどく哀しんでる」
 言いながら、私の胸はずきりと痛みました。
「そして―――俺は瑞希の夫なんだ」
「偉そうに。そもそも最初に、奥さんをモノみたいに俺に抱かせようとしたのはお前だろうが」
「だからそれも・・・後悔してる」
「半分だけの後悔だろ。もう半分は獣みたいに欲情してるんだ。まあ、俺にはそっちのほうがよほど人間的に見えるがね」
 赤嶺の言葉のナイフは今度こそ私の真実を鋭く切り裂いて、私の言葉を奪いました。


「それに奥さんが哀しんでいようが、なんだろうが、そんなことは結局関係がないのさ」


 ―――独り言のような、その口調。


「そんなつまらないことは、すぐに忘れさせてやるよ」


 悪魔じみた色気を感じさせる目が、私を見下ろしていました。


「死ぬほど悦ばせてやる。変えてやるよ。奥さんをもっともっと別の、新しい女に」
「――――――」
「それはお前にとっても、奥さんにとってもいいことのはずさ」そう言って、最後に赤嶺は悪戯な笑みを浮かべました。「―――きっとね」


 赤嶺の部屋を出て、自室へ戻ったのは何時ごろのことだったでしょうか。
「―――瑞希?」
 姿の見えない妻に呼びかけると、隣の襖が開き、妻が姿を現しました。
「もう、寝ていたのか?」
「ごめんなさい。ちょっと気分がすぐれなくて」
「そうか・・・それなら、横になっていたほうがいい」
 私が言うと、妻は「いえ、もう大丈夫です」と言って、卓の傍に正座しました。
「お茶をいれましょうか? それともお酒・・・?」
「お茶でいいよ」答えて、私も妻の正面に腰掛けました。
 こぽこぽ、と急須に湯の注がれる音が、静かな部屋に響き渡ります。
 袖から伸びた妻の細い腕が湯飲みを手に取るのを見つめながら、私は何とはなしに息苦しい想いでいました。
「煙草を吸ってもいいかな?」
「ご自由に・・・」
 弱気な声で伺いを立てる私、妻はいつぞやのように咎めるでもなく、静かな声で答えて、茶の入った湯飲みを差し出しました。
 煙草と茶で私が一服している間、妻は無言で正座したまま、じっとしていました。細面の顔は、彼女が先ほど言ったとおりに気分がすぐれない様子で、鬢の毛がわずかにほつれて頬にかかっていました。
 そんな妻の様子を窺っているうちに、ふと妻は口が開くのが見えました。
「赤嶺さんと・・・お話されていたんですか?」
 努めて穏やかにしようとしている声の調子が、かえって妻の抱える不安の強さを感じさせました。
「―――うん」
 私は答えて、短くなった煙草を揉み消しました。
「それで・・・赤嶺さんはどうしてこちらへ・・・?」
「いや―――それはさっき赤嶺が自分で言ってた通り、仕事先の都合でたまたま休みが取れたから、というのが本当らしいけど」


 ―――奥さんを抱きたい。
 ―――もう一度。


「そうですか・・・」
 呟くように言い、妻は膝の上にそっと両手を重ねました。
 鶴のようにうなだれた様子で、じっと何かを考え込んでいるふうの妻。
 そんな悄然とした妻の姿を、見つめながら、私は。


 ―――抱き心地も良かったしな。
 ―――あのときに出す声もよかった。


 私の内側には。


 ―――奥さん、今でもあんなふうに啼くのか?
 ―――まったく羨ましいよ、お前が。


 あの―――声が、言葉が。


 ―――誰よりも望んでいるのはお前なんだ。


 耳鳴りのようにずっと響いていて。


 ―――死ぬほど悦ばせてやる。
 ―――変えてやるよ。


 変わる―――


「もう、私を偽ることだけはやめてくださいね」


 不意の妻の言葉に、私の意識は現実に引き戻されました。
「え? 何だって」
 妻はすっと背筋を伸ばし、私のほうを向いていました。
「去年のような想いは、繰り返したくないんです」
 私を見つめる、澄みきった瞳。
「二度とあんな隠し事はしないで」
 その瞳がゆっくりと潤んでいくのが、私の目に映りました。
「私はこのままでいい。このままがいいんです」
 私は無意識に妻の名前を呼んでいましたが、その声は小さすぎて彼女には届かなかったようです。
「どうして・・・駄目なんですか。このまま二人で静かに暮らしていけたら、それだけで十分なのに」
 妻の声の調子は変わらず穏やかなままなのに、この目に映る妻の身体は次第に小さく、かすかになっていくようでした。私は咄嗟に卓を脇にどけ、膝で這って妻のもとへ行きました。

「すまない、瑞希。本当に」

 妻の肩を抱き、無意識に口に出した私の謝罪―――
 あの瞬間に告げたその言葉がなぜ、すまなかった、ではなく、すまない、だったのか、後々になっても、私は考えずにいられませんでした。

 この時点でその意味を正確に感じ取っていたのは、おそらく妻一人だったのでしょう。
 だからあのとき、肩を抱く私を振り返って、彼女は言ったのです。


「やっぱり―――私だけでは駄目なんですね」


 囁くようにそう言って―――妻は泣きながら微笑みました。
 消え入りそうな囁きの、その意味が分からないままに、しかし私は言葉を失いました。

 月の綺麗な、静かすぎる夜のことでした。
  1. 2014/10/12(日) 08:15:41|
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卒業 第9回

 翌朝―――
 目覚めると、隣の布団に妻の姿はなく、私はのっそりと起き上がって時計を見ました。時刻はまだ八時、よしまだ寝れるなと思い、再び布団に入ろうとしたところ、がらっと襖が開いて、妻が顔を出しました。
「駄目ですよ。お食事の時間は9時までと決まってるんですから」
 そう釘を刺す妻の表情は普段と変わらず、私はほっとする想いでした。
「分かった、起きる起きる」
 あくびをしながら立ち上がり、乱れた浴衣をいい加減に直して、私は布団の敷かれた座敷を出ました。

「今日もよく晴れているな」
 妻が腰掛けている窓際の、その向こうに見える海と空は、昨日と変わらず晴れ晴れとしていました。何だか、皮肉に感じるほどに。
「これなら海で泳げますね」
 そう言った妻の声に、私は驚いて振り返りました。
「あれ、泳ぐつもりなの」
「あなたが言い出したことじゃありませんか」
「でも、昨日は厭そうに見えた」
「・・・そんなことありませんよ」
 妻は淡々と言って、立ち上がりました。
「せっかく旅行に来ているんだし・・・・せっかくの夏なんですから」

 宿から一歩外へ出ると、そこは真夏そのもので、暑い日差しが肌に突き刺さってくるようでした。妻は昨日と同じように、宿で日傘を借りました。
 天橋立の海水浴場へ向かう道の途中にある小さな店で、私たちは水着とパラソル、ビニールシートなどを買いました。
「おとなしい水着だな。ビキニにすればいいのに」
 妻が選んだ薄青のワンピースの水着を見てそんな感想を述べた私をかるく睨んで、「あれは若い子が着るものです」と妻は言いました。

 店を出て、私たちは昨日歩いた道をもう一度辿りました。
 なんだか夢の中にいるような、妙な心持ちでした。
 日常から離れたこの場所で、昨日から立て続けに起こった非日常的な出来事。そのすべてが、次第にぼんやりと霞んでいくようでした。
 一番妙なのが、私の傍らに今も歩いている妻でした。いつもは引っ込み思案の妻が、今日は自分から私を誘い、海で泳ごうと言い出したのです。その落ち着いた表情に昨夜の涙の名残はなく、あれは本当にあったことなのだろうか、と私を疑わせずにおかないのでした。
「泳ぐのなんて何年ぶりかしら」
 日傘を手に歩く妻が言いました。
「瑞希は泳ぎが得意なのか?」
「どう見えます?」
 珍しく悪戯っぽい表情で、妻は聞き返しました。
「正直言って、得意そうには見えない」
「あら、ひどい。こう見えて、運動神経はいいほうなんですよ」
「そうか。知らなかったな。夫婦でも、まだまだお互いに知らないことってあるんだな」
「これまで、あまり二人で遠くへ出歩いたりする機会、ありませんでしたから」
「そうだね。これからはどんどん行こう。色んなところに遊びに行こう」
 何気なく言った私の言葉でしたが、なぜかそのとき妻は一瞬真顔になり、そしてすぐに微笑を浮かべました。
「そう・・・ですね」

 天橋立の海は、日本海にしては珍しく青く澄んでいました。
 昨日もたいそう混んでいましたが、今日も白い砂浜の上には若い人たちや家族連れの姿で溢れています。
 水着に着替えた私たちは、胸いっぱいに潮の香りを吸い込みつつ、灼けつくような砂浜を踏みしめて、久しぶりの海へ入りました。
 妻は先ほど自分で言ったとおりなかなか水泳が上手く、すいすいと泳ぎ進んでは、しばらく行くと、立ち止まって私を振り返ります。それに笑顔で応えて、私は平泳ぎでゆっくり彼女を追いかけました。
 ばしゃばしゃと不器用に水をかく度に、波の飛沫が跳ね、日差しに透けてきらきらと光ります。
 それは夢のように美しい夏の光景でした。周囲の人々の明るい表情には不安の翳もなく、一時の解放に跳ね回る子馬のように、波と戯れたり、恋人とじゃれあっては、各々の時間を過ごしていました。
 楽しい夏。人が変わったようにはしゃいで見せる妻。水に濡れた肢体は、太陽の日差しを受けて眩しいほどに輝いていました。
 けれども―――

『又じき冬になるよ』

 私の脳裏に浮かぶ、あの台詞。
 あれはそう、たしか『門』の最後で宗助が呟いた―――

「おーい、あんまり沖のほうへ行くと危ない。もう戻ろう」
 ひとしきり泳いだ後、私は妻に声をかけて、先に立てておいたパラソルの場所に戻りました。
  1. 2014/10/12(日) 08:16:30|
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卒業 第10回

「久しぶりに泳ぐと、やっぱり相当疲れるね」 
 パラソルの影のもと、シートの上に座った私は、濡れた脛に付着した砂粒をざらざらと手で払い落としながら、ため息まじりにぼやきました。
「もう年だな」
「普段、あんまり運動なさらないから」
「そう。たしかにしない。駅への行き帰りの道を歩くくらい。でも日本のサラリーマンの電車通勤というのは、あれはあれで相当しんどいものだよ」
 わけの分からない言い訳をする私に、「そんなものですか」と相槌を返しながら、妻は両腕を前に伸ばして表に裏に眺めています。
「どうした?」
「いえ、これは日焼けしてしまいそうだと思って」
「当然だよ。夏に海で泳いだら焼ける。瑞希も少しくらいは日に焼けたほうがいい。健康的になる」
「まるで、普段の私が病人みたいな仰りようですね」
「そんなことは言っていない」
 そこで妻は唐突に黙りました。
「何? どうかした?」
「いえ・・・実は私、病気、というわけではないんですけど・・・」
「どこか身体の具合でも悪いのか?」
「そうじゃなくて・・・・」
 奥歯にものの挟まった言い方をする妻に、私はいっそう心配になりました。
「焦らせないでくれよ。何なんだい」
「実は・・・・先月から、月のものが・・・」
 晴天の霹靂、とはこのことであり、呆気に取られた、とはまさに今の私の表情そのものであったことでしょう。
「―――ちょっと待ってくれ。それは本当なのか」
「嘘です」
 がっくりと力が抜けました。妻は申し訳なさそうな表情で、「ごめんなさい」と言いました。
「ちょっと冗談を言ってみたくなって」
「瑞希が冗談を言うのを初めて聞いた。いやいや、そうじゃなくて、何も最初のジョークをそんなたちの悪いものにすることはないだろう。それにしても、どうしたんだ? 今日の瑞希はどこかおかしいぜ」
 私の台詞に、妻は一瞬不思議な表情で私を見た後、にこっと笑いました。
「そう、おかしいんです。今日の私は」
「・・・どうして?」
 私の質問には答えず、妻は吹きつける潮風に向かって瞳を閉じました。
「―――でも」やがてぽつりと妻は言いました。「さっきの冗談が本当だったら良かったのに」
「子供が・・・欲しいの? でも、今まで一度もそんなこと」
「そうじゃないんです」妻は笑って首を振りました。「そうじゃないの」
 何が「そうじゃない」のか私には分かりませんでしたが、妻の様子が明らかに普段と違うことだけは分かりました。
 そして、彼女が普段と違っているその原因なら、分かりきっています。
 だから―――私は何かを言わなければならないはずでした。

 けれども、そのとき―――

「相変わらず仲が良いことで、羨ましいね」
 背後から聞きなれた声がして、振り返ると水着姿の赤嶺が立っていました。
「独り者の俺には目の毒だな」
「お前、いつから、そこに」
「ここには朝から来ていた。お前と奥さんの姿を見つけたのはついさっきだけどね」
 体格の良い赤嶺の浅黒い身体は、夏の陽を受けてつやつやと光っています。
 赤嶺は「奥さん」のほうに向き直りました。
「よくお似合いですよ、その水着」
 日に焼けた顔がふっと笑み、そこだけ白い歯が見えました。
 赤嶺の登場した瞬間から、妻は浮かべていた微笑を消し、きゅっと唇を閉じ合わせていましたが、昨日のように黙りこんだりはしないで、「ありがとうございます」と小さく言葉を返しました。
 赤嶺は苦笑するような表情を見せつつ、ずかずかと私たちのパラソルに入ってきて、シートに腰を下ろしました。
「お前、一人で海に来て淋しくないか?」
 図々しい男に復讐する気持ちで悪態をつくと、赤嶺は涼しい顔で「せっかくたまの休日にゆっくりしに来てるんだぜ。そんなことかまってられるかよ」と言い、私を見つめました。
 微笑んだままの、その唇が動きました。
「―――なんたって俺は、楽しむためにここに来ているんだからな」
 私は赤嶺から視線を外しました。
 ひどく、喉の渇く心地がしていました。
  1. 2014/10/12(日) 08:17:21|
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卒業 第11回

 それっきり赤嶺は黙り込み、私も妻も言葉を発しなかったので、三人は海に向かって並んで座したまま、しばし不思議な時間を過ごしました。

 私の左には妻が。
 そして私の右には、妻を抱きたいと言う男、かつて妻を抱いた男が座っていました。

 それはシュールで、滑稽で、不自然極まりない光景でした。ただこうしてじっとしているだけで、私の肌は汗ばみ、心臓の鼓動はじわじわと早まっていくようでした。
 目の前に広がる砂浜と海は相変わらず平和そのもので、人々の笑いさざめく声がそこかしこに響いています。
 夏、でした。
 そして私にとっての、夏の記憶は―――
 
 ふと、赤嶺が立ち上がりました。
「お前、もう泳がないの?」
 海パンの尻を手で払いながら赤嶺の言う声に、「俺はもういい。さっき十分泳いだ」と答えると、
「ちっ。やだねえ、これだからロートルは」
 同い年のはずの赤嶺は言い、次に妻を見ました。
「奥さんはまだ若いから大丈夫でしょ。泳ぎにいきましょう」
「私は―――」
 妻は私を見ました。先ほどまで奇妙にはしゃいで見えた妻も、赤嶺が現れてからは、普段の気弱な調子に戻ってしまったようでした。
「いちいち旦那の許可を取る必要はありません。江戸時代じゃないんだから」
 そう言って、赤嶺は不意に妻の腕を取りました。妻は驚き、腕を引こうとしましたが、赤嶺の手がそれを許しませんでした。
「さ、行きましょ」
 妻はもう一度私を振り返りました。
 その顔を見つめるうちに―――
 何かが、私の中で、ゆっくりと動きました。

 私は―――妻にうなずいて見せました。

 その瞬間、妻の唇から吐息が洩れたのが聞こえました。赤嶺に引っ張られるようにして、妻は立ち上がりました。彼女の全身から力が抜けてしまったようでした。
 赤嶺に手を引かれながら、渚へと歩んでいく妻の背中。その真っ白な背肌と肩幅の広い赤嶺の朝黒い背中が、不思議なほど好一対に見えました。

 白と黒。
 柔と剛。
 軟と硬。

 その二つの身体が絡み合い、一つに繋がったあの夜が。
 決して忘れることの出来なかったあの記憶が。

 私の脳裏で、ふたたび、黒い炎のように揺らめいていました。

 その熱はちりちりと臓腑を焦がし、心を灰片に変えていくというのに―――
 危うい炎からどうしても逃れられない私は、夏の夜に舞う蛾のようなものです。

 火の中へ、火の中へ。
 その誘惑が―――


 ―――変えてやるよ。


 誘惑―――

 そして今―――渚に立つ妻と赤嶺の後ろ姿。
 あの夜、白い肢体を抱き締め、思うままにしならせた赤嶺の太い腕が伸びて、妻の撫で肩に触れるのが見えました。

 私は息を吐きました。長く、長く。妻は顔をうつむけ、赤嶺にやんわりと肩を抱かれたまま、ゆっくりと海に入っていきます。
 太陽は中天からわずかに傾き、二人の影は私のいる砂浜へ向かって伸びていました。


「もう、戻るのか?」
 夕刻の気配が漂う前にパラソルを畳み出した私に、赤嶺が声をかけました。妻はビニールシートにぺたりと腰を下ろし、ぼんやりと海を眺めていました。
「ああ。お前は?」
「俺はもう少し泳いでいく」
「元気だね、お前も」
「まあな。どっかの年寄りとは違うさ」赤嶺はそんなふうに憎まれ口を叩き、また海に向かって歩きかけ、数歩も行かないうちに振り返りました。
「お前と奥さんが泊まってるのって萩の間だよな?」
「・・・そうだけど」
「今夜、遊びに行くわ」
 いつものようにあっさりと告げ―――
 返事も待たずに赤嶺はさっさと歩き去っていきました。
 私はしばしの間、その小さくなっていく背中を眺めました。
 振り返ると、妻は立ち上がって私を見ていました。私はその視線から目を逸らし、何事もなかったように無言でパラソルを畳み終え、立ち尽くしている妻の裸の肩をぽんと叩いて、「行こう」と言いました。
 かすかな潮風が、妻の濡れた黒髪を静かになびかせていました。
  1. 2014/10/12(日) 08:18:20|
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卒業 第12回

 窓際に立って、私は外を眺めました。
 夕刻から振り出した雨は、夜になった今もいっこうにその勢いを弱めず、窓の向こうに見える暗い海に、斜めに降りそそいでいました。いつの間にか風も出てきたようで、朝、眺めたときと比べて波も高くなっています。
「さっきまであんなに綺麗だったのにな」
 無意識に呟いた私の声に、背後の妻が振り返ったのが分かりました。
「何でもない。外の話だよ」
 言いながら私は動いて、妻の横の畳に座りました。妻はリモコンを取り上げ、テレビを切りました。
「切らなくてもいいのに」
 黙ったまま、妻は首を振りました。その視線は私ではなく、卓の上を向いたままです。
 ぴっと伸ばしたままの妻の小さな背が、そのときの私の目には張りつめた弓のように見えました。
 私は腕を伸ばして、妻の肩を抱き寄せました。肩に手が触れた瞬間、妻がほうっとため息をついたのが聞こえました。

 互いの鼓動が聞こえる距離で、しばし私たちは無言で触れ合いました。

「何だか怖いみたい」
 ぽつり、と妻が言いました。
「何のこと?」
「・・・外の話」
 妻は言い、私の浴衣の襟をぎゅっと掴みました。
 その掌が震えていました。
「今日の瑞希はやっぱり変だ」
 囁きながら、私はその妻の手に自分の手を重ねました。
「妙にはしゃいだり、怖がったり、大忙しじゃないか」
 妻はじっとしたまま私の手の愛撫を受け、私の言葉には答えませんでした。

 本当はもう、分かっていたのです。
 昼間、妻がはしゃいでみせたのも、今こうして震えているのも、すべて同じ感情の動きから来ているのだということに。
 それを分かりながら、分からないふりをして、表面上だけ優しい言葉を吐いてみせる自らの心の残酷さに慄然としながら、私は妻の小さな身体の温かみを胸に感じていました。

 胸に感じる温かさと胸の奥の冷えきったものが、そのときの私の世界のすべてでした。

 永遠に混じりあうことのない、その二つのものが―――
 
「もしも―――」
 不意に、妻が口を開きました。
「もしも・・・?」
 鸚鵡返しで聞き返しましたが、妻はそれきり黙ってしまいました。
 もう一度、何を言おうとしたのか妻に聞こうとして、私が口を開きかけたとき―――

 こん、こん、と。
 ノックの音がしました。
  1. 2014/10/12(日) 08:19:20|
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卒業 第13回

「いや、参った参った。あの後、海でもうひと泳ぎしてから、松並木の道を府中側まで歩いてみたのさ。昨日は途中で引き返したからな。でも向こうに着いたところで雨が降ってきて、こっち側に戻ってくる船も出なくなるし、散々だった」
 赤嶺は言いながら私たちの部屋に入ってきて、手に提げていたスーパーの袋をどさっと卓の上に置きました。
「今晩は、奥さん」
「今晩は」
 赤嶺が入ってきた瞬間から、妻は先ほどまでの何かに怯えた表情を消していました。いつものように落ち着いた物腰で、赤嶺に会釈しました。
 私は胸の動悸を感じながら、そんな二人を見ていました。

「しかし、あの天橋立ってのは、本当に不思議な地形だよな。自分の目で見て改めて思ったけどね」
 何本目かの缶ビールをぷしゅっと音を立てて開けながら、赤嶺は言いました。
「津波なんか来たら一発で押し流されてしまいそうに思えるけど、もう何千年もあの海に浮かんでるんだとさ。さっき雨宿りしてたとき、気まぐれに読んだパンフレットに書いてあった」
「そんなに前からあるのか」
 赤嶺の持ってきた小型の蟹を揚げたものをつまみながら、私はいいかげんな相槌を打ちました。妻はといえば、私たちに付き合って最初少し酒を口にした後は、静かに座ったまま、私と赤嶺の益体もない話に耳を傾けていました。
「なんせ、古事記にも出てるらしいからな。あのイザナギ・イザナミが出てくる国つくりの最初のくだりで、二人が立っているのが天の浮橋、つまり現在の天橋立という説があるそうだ」
「後付けくさいな。まあ、あの砂洲が何千年も前からあったのなら、古事記に出てきても不思議じゃないんだろうけど。ところで、イザナギ・イザナミって何だっけ?」
「聞いたことはあるだろ。日本神話で最初の神様のカップルだよ。その二人の神様が交わって、日本の国を文字通り生み出していくのさ」
「ああ、あの、柱の周囲を回って声を掛け合うやつか」
「そう。最初は女神のイザナミが、次に男神のイザナギが誘って、二人は結ばれる。そもそもイザナギ・イザナミのイザナは『誘う』という意味の『いざなう』が語源らしいね」
「子供の頃にセックスのくだりだけをぼかした絵本かなんかでその場面を見たよ」
「ぼかす必要もないくらい、おおらかな神話だけどな。日本はもともと農耕民族の国だから、セックスに対する忌避感が低かったんだ。つまらない倫理観にとらわれてないだけ、今の人間よりずっと伸び伸びしたセックスをしてたんじゃないか」
 私は傍らで聞いている妻の耳が気になりました。
「伸び伸びしたセックスってなんだよ。もういい、話を変えようぜ。お前と話しているとすぐにそっちの方向に話が流れていく」
「俺ばっかりのせいにするな。お前だって学生時代はこの手の話ばっかりしてたじゃないか。第一、奥さんだって子供じゃないんだ。気にしないさ。それに―――」
 赤嶺は微笑しました。

「ここにいる三人は、もうそんな間柄じゃないだろ」

 その言葉に、視界の隅で妻の身体がわずかに揺れたのが見えました。私は私で言葉に詰まり、気の利いたことを何も口に出来ないまま、気まずい沈黙がうまれました。赤嶺一人が平気な顔で酒盃を啜り、煙草を吹かしていました。

 その後一時間ほど、さらに数本のビールを空にした後で、赤嶺は立ち上がり、「そろそろ自室に戻る」と言いました。
「どうもお邪魔してすみませんでした、奥さん」
「いえ、そんな・・・・」
 珍しく殊勝にそんなことを言う赤嶺に、妻は小さく言葉を返して自分も立ち上がりました。私も立ち上がって戸口まで歩き、赤嶺を見送りました。
「じゃあな」
 戸を閉める瞬間に赤嶺は言い、私を見て、片目を瞑ってみせました。
「おやすみ」
 私は静かに言葉を返しました。


 窓の外に目をやると、いつの間に雨は勢いを弱め、夜の闇の中、粛々と海へ降りそそいでいました。

 なんだか―――妙な心地でした。

 私が、そしておそらくは妻も予感していたような事態にはならず、今こうして何事もなく赤嶺が去り―――
 妻はどことなくほっとした表情で後片付けを始め、それを眺める私の胸にも、確かに安堵の色があるのに―――

 それなのに―――

「あら」

 突然、妻が声をあげました。
「どうした?」
「これ、赤嶺さんのものですよね」
 そう言って妻が掲げて見せたのは、たしかに見覚えのある赤嶺の携帯でした。
「忘れていかれたのかしら」

 そのようだね、と答えようとして―――
 しかし、私の頭は別のことを考えていました。

「わざと・・・忘れていったんじゃないかな」

 呟いた声に、妻が振り返りました。
「どういう意味ですか・・・?」
 かすれた、その声。
「それは―――」

 それは、つまり―――

 赤嶺の―――いざない。
 
 男から女への。
 いや、この場合はおそらく、彼から私へ向けて放たれた―――

 誘う―――言葉。

「瑞希」

 砂のように渇いた声が。
 ひとりでに言葉を紡いでいました。
「はい」
「届けてやってくれないか、それ。赤嶺の部屋に」
  1. 2014/10/12(日) 08:20:34|
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卒業 第14回

 そのときの妻の表情を、私は一生忘れられないでしょう。

 妻は一瞬にして私の言葉の意味を悟ったようでした。
 見開かれた切れ長の目、その黒々とした瞳に薄い皮膜のような微光が揺らめき、ふっくらとした唇はかすかにわなないて、形の良い小ぶりの歯が覗きました。
 胸のつぶれるような想いで、私はそんな妻を見つめていました。目を逸らすことは出来そうにありませんでした。
 妻もまた視線を外すことなく私を見つめていました。
 そのまま、時間は静かに過ぎ去りました。やがて、蒼く透けるようだった頬に少しづつ生気が戻り、ぼやけた瞳の輪郭がくっきりとしてきた頃、妻は口を開きました。
「ずっと、考えていたんです―――」
 妻の声のトーンはいつもと同じようにしっとりと落ち着いていましたが、あらゆる感情が麻痺してしまったような無色透明の響きでした。
 不意に吹きつけたらしい風に、窓が鳴りました。
「去年の夏に・・・あのときに、もしも私が選ばなかったら―――赤嶺さんに抱かれることを私が選ばなかったなら、結果は違っていたんでしょうか」
 その言葉はたしかに私に向けられているはずなのに、独り言のように私の耳には聞こえました。
「違う。そうじゃない・・・そうじゃないんだ」
 答える私の言葉も、まるで独り言のようでした。
 妻は立ち上がりました。
 私は視線を上げられずに、妻の浴衣の裾が揺れる様を見ていました。

 妻はそれきり言葉を発しないまま、音を立てずに部屋を出て行きました。

 しばらくの後―――
 止まっていた呼吸をゆっくり取り戻して、私はがくりと襖に背を預けました。
 頭の芯が痺れてしまったようで、手指の一本すらも満足に曲げられないほどの消耗が私の身体の隅々まで行き渡っていました。
 照明の光で満たされた部屋にいながら、窓の外に広がる暗い闇のほうがずっと深く感じ取れるようで、降り続く雨までもこの部屋に入り込み、ぼやぼやと私の輪郭を滲ませていくようでした。
 私は手元の鞄から煙草を取り出しました。火を点ける途中に、そうか、今は禁煙中だったな、とぼんやり思いました。痺れた脳に怒る妻の顔が浮かび、そのことが妻の不在を感じさせ、最後に私の脳は赤嶺とともにいる妻の姿を思い描きました。

 横たわっている、妻の白くなめらかな裸身。
 その身体に覆いかぶさっていく、赤嶺の身体―――

 私は立ち上がらなければならなかった。立ち上がって、歩いて、赤嶺の部屋まで行かなければ、妻にあんな想いをさせたその犠牲のすべてを無駄にすることになります。
 しかし現実の私は、こうして煙草に火を点けるだけで精一杯でした。
 やがて、その煙草も灰になりました。
 私は襖に背を預けたまま、明るくて暗いこのがらんとした部屋の一部になりました。
 瞼の裏に、様々な表情の妻の幻影が揺らめいていました。

 どれだけの時間、そうして過ごしていたのでしょうか。

 不意に、物音がしてそのほうを向くと、妻が戸を開いて部屋に入ってくるところでした。

 妻の姿を目にしてもなお、私はまだ幻影の続きを見ているような気持ちでした。


 ―――それくらい、妻の姿はいつもと違っていたのです。


 しなやかに着こなした浴衣に乱れはなく、緩い曲線を描く髪も出て行ったときと同じように後ろで一本にくくられているのに。
 先ほどまで蒼褪めていた妻の顔は朱に染まり、瞳は潤沢にうるんでいて、足取りは酔ったようにふらついていました。
 気がつかないうちに、私は立ち上がっていました。
 定まらない足取りのまま、妻はまっすぐ私のほうに向かってきましたが、その視界は私の存在を捉えていませんでした。私は怯えに似たものすら感じながら、妻に近寄り、その肢体を抱きしめました。妻は一瞬小さく声を上げ、探るような手つきで私の背を触った後で、今度は力いっぱい私にすがりついてきました。
 息を呑む想いで私はその火照った肌に触れ、いつもより豊かに張っている肉の感触に妻でありながら妻でないものを抱いているような心地を感じながら、そのまま引きずられるようにして彼方へ飛び去っていきました。
  1. 2014/10/12(日) 08:21:38|
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卒業 第15回

 窓から差し込む陽光で、私は目覚めました。

 傍らに目をやると、妻の姿はありません。布団に手をあててみても、そこに感じられるはずの人肌の温もりはすでに絶えていました。
 私は起き上がりました。
 身体の節々が、痛んでいました。
 昨夜の自分。そして昨夜の妻。そのすべての記憶が蘇り、私は無意識に胸の辺りを手で押さえました。
 眩しいほどの日の光が、昨夜ここで繰り返された私の罪を現実の絵に変えていました。

「瑞希?」
 名を呼びながら襖を開けましたが、そこに妻の姿はなく、私の呼びかけに答える声もありません。
 時計を眺めると、時刻はまだ早朝です。あれからまだ数時間しか経過していない、その事実に私は今さらながら慄然としました。
 そして、これから、私たち夫婦にのしかかってくるはずの時間の重さにも。
 私は窓際の椅子にどさっと身体を預けました。
 窓の外に広がる海は、昨日の夜とうってかわって晴れわたり、眩しく輝いています。
 澄みきった空には、雲のひとかけらもありませんでした。
 私はまたも煙草に手を伸ばし、火を点ける前に、いや、こんなことをしている場合ではない、と思いなおしました。
 妻を―――探しに行かなければ。
 それが今の私のしなければならない責務でした。
 そうしなければ、私は―――

 煙草の箱を投げ捨て、立ち上がったとき、ノックの音がしました。
 この部屋にノックをして入ってくる人物は妻ではありえません。
 妻でないとすれば、それは―――
「入れよ。鍵はかかってない」
 戸の向こうに声をかけました。
 すっと戸が開いて、浴衣姿の赤嶺が姿を現しました。
「よう。いい朝だな」
 眠そうに欠伸をしながら、赤嶺は咥え煙草のままで器用にそんなことを言いました。
 昨夜―――妻を抱いた男。
 その男を前にして、私はどんな感情をこめて彼の顔を見ればいいのか分かりませんでした。自然、私は伏目がちになりました。
「朝からなんて顔してんだよ。お日さんが驚いて空から落っこちるぜ」
 そんな私を見て赤嶺はけたけたと遠慮なく笑い、宙に向かって紫煙を吐きました。
「いつどんなときでも変わらないお前が羨ましいよ」
「変わってるさ。昨日はすんでのところでお預けをくらったんでな。がっかりして一晩眠れなかった。おかげで寝不足だぜ」
 何気ない口調で赤嶺が言うのに、私の耳が反応しました。
「―――お預け、って何のことだ?」
 ゆっくりした動作で煙草を灰皿に捨てて、それから赤嶺は興味深そうに私を見やりました。
「そっか。奥さん、言わなかったのか」
「・・・・・・・」
「昨日、たしかに奥さんは俺の部屋にやってきたよ」畳の上にどっかり腰を下ろしながら、赤嶺は言いました。「でも最後まではいかなかった。つまり寸止め。俺にとっては最悪」
「どうして・・・・?」
「どうしてって言うなら、お前こそなんで来なかったんだ? 奥さんが俺に抱かれるところをもう一度見たくて、奥さんを俺のところに寄越したんだろうに」
「・・・・そうだよ」どんなに認めたくなくても、認めざるをえない事実でした。「そのとおりだ」
「だったらなんで来なかった」
 私は一瞬言おうかどうか迷いましたが、もはや隠しごとをする相手でもないだろうと思いました。
「・・・ショックで腰が抜けたようになってた。動こうにも動けなかった」
「なんだよ、それ。お前が自分で奥さんを寄越したんだろ」
「それがショックだったんだよ。懲りないでお前の誘惑にのってしまった自分と、瑞希に対してああも残酷な態度をとれる自分がね」
「全然わけが分からん」
「お前には一生分からないだろうよ」
 そう言いながら私は考えていました。本当におかしいのは目の前にいるこの男なのか、それとも私のほうなのか―――
「どっちみち、お前がそんな踏ん切りのつかない態度だからこそ、奥さんも余計混乱したんだろうよ。せっかくいいところまでいってたのに、突然泣き出して、これ以上はどうしても駄目だ、駄目だと喚くのさ。そういう普通の女みたいな取り乱し方をしないのが、奥さんのいいところだと思ってたんだけどな」

 ―――どうしても駄目。

 ―――まだ、決心がつかないんです。

 ―――きちんと覚悟が出来るまで、許してください。

 昨晩、妻が赤嶺に告げたというその言葉。
 妻の意識の中では、おそらく、私に向かって告げられていたのであろうその言葉。

 私は―――深いため息をついて、右手で額を押さえました。

「またそんな死人みたいな顔しやがって。いいかげん辛気くさいぜ。それにどのみち賽は投げられたんだ。昨日の晩、お前が選択した時点で」
「今なら戻ることが出来るんじゃないのか? 何もかも元通りってわけにはいかなくても」
「お前が本当にそれを望むならな」
 赤嶺はきらりと光る目で、覗き込むように私を見つめました。
「どうだったんだ? 昨夜、お前は帰ってきた奥さんを見て、俺に抱かれてきたと思い込んでいたんだろう? そのときお前はどんな気持ちだったんだ? 普段じゃありえないくらいに昂ったんじゃないのか?」
「それは―――」

 それはそのとおりでした。しかし、昂っていたのは、私だけではなかったのです。
 妻は―――その数刻前まで赤嶺に肌身を嬲らせていた妻は、決心がつかないと泣いて戻ってきた妻は、あのときたしかに情を昂らせていたのです。
 その姿は見たこともないほど妖美で。
 ぞっとするほどに艶めいていて。
 狂おしいようなあの姿は、目の前にいるこの男の手になるものだったのか。
 それとも―――妻が身中深くに秘めているもうひとつの貌なのか。
 もしそうだとしても、私には彼女のそんな別の表情を引き出すことは出来ないでしょう。
 私の前では妻はあくまで妻であり続けるでしょう。
 彼女がそれを望むから。

 けれど―――
 けれども私は―――

「奥さんは素質があるよ」
 私の心中の動きを読み取ったように、赤嶺はぽんと言いました。
「女としての素質がね。その気になれば誰よりも歓びを得られるし、誰よりも美しく変わっていける。あれほどの素質は千人に一人さ。本人は気づいていないかもしれないけど、女の専門家が言うんだから間違いない」
 赤嶺はにっと笑って、頭の後ろで両手を組みました。
「あとは奥さんも言ってたように、覚悟次第だろ。でもそれは奥さんの問題というより、お前の問題だな」

 この男は―――
 いざなう者だ。
 今も昔も。
 適当な言葉を吐いているように振る舞いながら、その実、すべてをその手に握りしめて。
 掌の上でひとをよろこばせ―――
 苦しませ―――
 導いていく。

「お前がいなかったら、俺はもっとずっと静かに生きていけたのにな」
 ぽつりと呟くように、私は言いました。
「静かで平凡な暮らしなんて、何が面白いんだ」
 片方の眉を吊り上げながら、赤嶺は侮蔑するように私を見ました。
「瑞希はそれを望んでいたよ。守ろうとしていたよ。この一年ずっと、そんな静かな暮らしを」

 ―――私はこのままでいい。このままがいいんです。
 ―――どうして・・・駄目なんですか。

「でも、お前はそんな暮らしで満足できる奴じゃない。それだけのことだ。お前と俺は昔から同じ側の人間なんだ」
 赤嶺はそこで言葉を切り、改めて私を見ました。
「決心はついたんだな?」
 私は―――
 うなずきました。
「それなら結構」
 冗談めかしたように言って、赤嶺はひょいっと立ち上がりました。
「どこへ行く?」
「奥さんを探してくる。朝、俺の部屋から宿を出て行く奥さんの姿が見えた。浴衣のままだったから、そう遠くへは行っていないはずだ」
 赤嶺は歩き、戸口の前で振り返らずに言いました。

「大丈夫、奥さんもすぐに覚えるさ」

 何を―――と聞く前に、扉は閉じられていました。


  1. 2014/10/12(日) 08:25:41|
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卒業 第16回

 赤嶺に連れられて妻が戻ってきたのは、それから一時間も経った頃でした。

 昨夜見た浴衣姿のままの妻は、赤嶺の後ろから伏目がちに、けれどもしっかりした足取りで部屋に入ってきました。すでに外の気温は相当高かっただろうに、妻はその首筋に汗ひとつかいていませんでした。
「どこに・・・行ってたんだ?」
 なんと言葉をかけていいものか迷った私は、そんなどうでもいいことをまず口にしました。
「近くの公園だよ。ここらで早朝に時間をつぶせる場所なんて、あそこくらいしかないからな。すぐに見つけられたよ」
 妻ではなく赤嶺が答えました。そして赤嶺は私を見、それから、ちらりと妻を見ました。
「お前の気持ちは奥さんに伝えておいた」
「――――――」
「奥さんも納得してくれたよ」

 赤嶺がそう告げた瞬間―――
 折れてしまいそうなほど細い頸がかすかに揺れ、うつむいた妻の額に髪が一筋はらりと落ちるのが見えました。
 握りしめた私の掌に、じっとりと汗が滲みました。

「そういうことだから―――また今夜」
 私たちの間に漂う危うい緊張感をものともせず、赤嶺は平然と言葉を続け―――

 ―――不意に。

 左手を伸ばして、赤嶺は妻の顎をつかまえました。

 驚いた妻は身を離そうとしましたが、そんな抵抗などないもののように赤嶺は動き、妻の唇に唇を重ねました。

 刹那の仕業。

 口づけされている間も、妻はしばらく赤嶺から逃れようと細腕で厚い胸板を押していましたが、やがてその腕は力を失い、だらりと垂れ下がりました。
 たおやかな腰を赤嶺の太い腕ががっしりと抱え、ずり上がった浴衣の裾から白い脛が覗きました。

 瞳に焼き付くような、その脛の生々しい白さ―――
 まるで見てはいけないようなものを見てしまったような、そんな気分を起こさせるほどに。
 それは強烈な―――
 酩酊感。
 
 赤嶺に口づけされている間ずっと、地面から離れた妻の踵は引き攣れるような動きを繰り返していました。
 哀しげにさえ見える、その動きの儚さ。
 呆然と立ち尽くしたまま、私はすべてを見つめていました。

 しばらくして、ようやく赤嶺は妻の顔から顔を離しました。

 一瞬、眉間に皺を寄せて苦しそうな表情になった後―――
 ふらり、と崩折れるように、妻はその場にしゃがみこみました。

「赤嶺・・・・」
「契約の手付けのようなものだよ」
 むしろ冷静な口調で言って、赤嶺は身を翻しました。
「じゃあまた、今夜。部屋に鍵はかけないでおく」
 異形の男はそれだけ告げて、私たちの部屋を去りました。

 そして、私たちは取り残されました。
  1. 2014/10/12(日) 08:26:38|
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卒業 第17回

 赤嶺が出て行った後―――
 しばし私はその場に立ち尽くして、畳の上にしゃがみこんで動かない妻を見つめていました。
 目の前のうなだれた妻の姿が、私の選択したことの結果でした。
 先ほどの赤嶺の行為は、一足先にそれを私に思い知らせるためのものだったのではないか。あの男が真実何を考えているかなんてまるで分からないものの、私は頭の片隅でふとそう感じていました。
 無言のまま、私は畳に膝をつき、妻のもとに這い寄りました。
 妻の前髪は乱れて目元にかかっていましたが、それを払いのけることもせず、妻はぼんやりと座っていました。横向きに倒した膝の浴衣の裾が割れて、真白なふくらはぎが露わになっていました。
 まるで犯された後のような妻の様子があまりにも痛々しくてたまらなくなった私は、正面から妻の肩を引き寄せ、その身体を抱きしめました。
「ごめん・・・瑞希」
 妻の身体の小鳥のような軽さに今さら驚きながら、私は必死の想いで囁きました。
「本当にごめん・・・・」
 文字にすればわずか三文字のその言葉のあまりのかるさ。それに少しでも重みを加えるためにも、私は何度も繰り返しその謝罪の言葉を口にし続けることしか出来ませんでした。
 こうして胸に抱きしめている温かいものの存在は、こんなにも私の心を切なく締めつけずにおかないのに。
 どうして私は彼女を傷つけずにいられないのか。
 なぜこうも罪深い妄執から逃れられないのか。
 赤嶺ならきっと簡単に理屈づけるであろうその答えは、今もって私の中にありませんでした。
 ふと、胸に抱きしめた温かいものが動くのを感じました。
「瑞希―――」
 言いかけた私の唇は、妻の唇で塞がれました。
 驚いたはずみに身を離そうとした私の頸を、妻の腕が抱きしめていました。
 その力は普段の彼女にはありえないほど強く。
 本当に、強く。
 なぜかそのことが私の胸を激しく揺さぶって、気がつくと、私は涙を流していました。
 すっと妻の唇が離れ―――
 曇った私の目に、同じように目尻を涙で濡らしている妻が映りました。
 私は彼女に向かって何かを言いました。おそらくはもう一度、謝罪の言葉を。しかしそれはまともな言葉にならず、私は重くてたまらない頭をがっくりと妻の胸に預けました。

「いいんです。赤嶺さんも仰っていたとおり・・・もう決心はついているんです」
 頭上で妻の声がしました。それはたしかに母親が子供に言い聞かすような、すべてを許そうとする言葉でした。
 私は―――妻の胸から身を起こし、首を振りました。
「駄目だ。瑞希は、俺のことを、決して許さないでくれ」
「・・・許すも許さないもありませんよ」
 妻の涙はすでに乾いていましたが、黒曜石のような瞳の光沢がその名残を伝えていました。
「夫婦・・・なんですから」
 幼いうちに父母と死に別れ、引き取られた叔父夫妻ともあまり折り合いが良くなかったらしい妻が、「夫婦」という言葉にどんな気持ちをこめているのか―――、私にはよく分かりません。けれども、彼女にとって、私が夫らしい夫にはなりきれなかったということだけはたしかでした。
 そればかりか―――
「―――昼御飯まだでしょう? 外へ食べに行きませんか」
 さりげない口調で言って、妻はじっと私を見つめました。
 その唇が動きました。
「あなたが泣くところを初めて見ました」
「・・・・・・・」
「いつも、私ばっかり泣いているのに」
 そう言って―――
 なぜかそのとき、妻はかすかに口元をほころばせ、そして、私の胸はずきりと痛みました。

 ようやく普段着に着替え、宿を出た私たちは天橋立駅へ向かう道を並んで歩きました。
 昨日までの日傘の代わりに、妻の左手は私の右手を握り締めていました。
 駅の前まで来たとき、私たちは笛の音を聞きました。どこかで聞いたことのあるようなメロディーに誘われるように少しだけ出来た人だかりの向こうに目をやると、そこには南米風の民族衣装を着た演奏家らしい男がいて、笛を吹いていました。
 私はそのメロディーをやっと思い出しました。その曲は“コンドルは飛んでいく”でした。
 立ち止まった私に合わせて妻も足を停め、男が流暢に演奏する笛の音色に耳を澄ませていました。
 やがて“コンドルは飛んでいく”は終わり、男は新たな曲に取り掛かります。
 今度の曲もまた耳馴染みの、というより、私と妻にとっては生涯でもっとも思い出深い曲、“サウンド・オブ・サイレンス”でした。
「卒業・・・・・」
 妻の呟く声が聞こえました。


 『卒業』という映画があります。
 1967年に公開されたこの映画は、主演ダスティン・ホフマンの名を一躍有名にした青春映画の古典で、劇中で流れるサイモン&ガーファンクルの主題歌“サウンド・オブ・サイレンス”とともに、日本でも広く親しまれています。
 この『卒業』は私と妻が初めて一緒に観た映画でした。
 私たちは見合い結婚でした。恋人期間を経ずに結婚したこともあって、新婚当初からずいぶん長いこと、私たちはぎこちない関係を続けていました。これではいけない、と気持ちは焦っていたのですが、時間が経っても打ち解ける気配を見せない妻に、私は戸惑っていたのです。
 『卒業』を見たのは、ちょうどその頃、結婚して約半年経過したある休日のこと。私から、妻に「映画でも観に行かないか?」と誘ったのでした。
「どんな映画が観たい?」
 私が聞くと、妻は静かに情報雑誌を眺めていましたが、やがてその視線はあるページで留まりました。そのページに載っていたのが『卒業』で、公開何十周年記念とかいう名目のリバイバル上映でした。
 古い映画を観る趣味はなかったのですが、『卒業』の名前は知っていて、青春恋愛映画のクラシックだということも知識にはありました。
 少しだけ意外でした。その頃の妻は表情も身のこなしも物堅い一方で、青春にも恋愛にもまったく興味がなさそうな女性に見えていたからです。そんな私の気持ちが伝わったのか、妻はちょっと羞ずかしそうな顔になって、「やっぱり、別のもっと新しい映画でいいです。私はもう何回も観ていますから」と言い訳するように言いました。
「いや、これでいいよ。俺はこの映画を観たことがないし、君がそんなに好き映画なら興味あるから」
 私が言うと、妻は、
「別に、そんなに好きな映画というわけでもないんですけど・・・」
 と、よく分からないことをまた言いましたが、結局、外着に着替えるために立ち上がったのでした。

 『卒業』の主人公はダスティン・ホフマン演じる大学生ベンジャミンです。映画の冒頭で、彼は両親の友人であるロビンソン夫妻の妻、ミセス・ロビンソンと不倫関係に陥るのですが、その後、夫妻の娘エレーンと恋に落ちます。しかし、上述の不倫関係がやがてエレーンの知るところとなり、二人の関係は一度破綻を迎えます。
 けれど、ベンジャミンはエレーンのことを諦めきれず、今の感覚で言えばストーカーのようにも感じられるしつこさで、エレーンに追いすがります。そしてやってくる有名なクライマックス、ベンジャミンはエレーンが別の男と結婚式を挙げている教会に駆けつけ、彼女を奪って逃げるのです。
 映画の内容で一番私の記憶に残ったのは、エレーンとの関係が破綻を迎えて以後、数々の惨めな想いを味わってなお、ベンジャミンが彼女のことを追いかけていく場面でした。男の哀れさ、ここに極まれりといった表情で、私だったらあんなふうにプライドも何もかも投げ捨てて、一途になれるだろうか、と、意味もなく我が身を振り返ったりしました。

 その日、梅田の小劇場で『卒業』を観て後、私と妻は近くの喫茶店に入りました。
 相変わらず口の重い妻に、私は今見た映画の感想、つまり上記の内容ですが、そのことを一方的に喋りました。
「君はあの映画のどこが好きなの? もう何回も観ているんだろ?」
 語り終わって妻に訊ねると、彼女は首を振って、
「そんなに好きな映画というわけではないんです。でも、忘れられなくて」
「忘れられない、というのは?」
「私がたぶん生まれて初めてちゃんと観た映画だということもあるんですけど・・・昔から、あのラストシーンが凄く印象に残っているんです」
「ラストシーンっていうと、主人公とヒロインが一緒にバスに乗って駆け落ちするところ?」
「そうです。あのバスの中のシーンで二人は最初笑顔なんですけど、すぐに不安そうな表情になるんですよね。お互い視線もろくに合わせないし、なんだか心配そうな顔をして、二人とも別々のことを考えながら、これから先の未来を憂えているような雰囲気で・・・」
「そうだったかな」
 私は記憶を探りました。言われてみると、妻の語るとおりだった気がしました。それまで、私には単純なハッピーエンドのように思えていたのですが―――
「その場面がずっと忘れられなくて・・・哀しくなるから、もう観たくないと思うんですけど、また観てしまうんです」
 呟くように言った妻の声には、たしかに哀切な感情が滲んでいました。
 そのとき、私は結婚して初めて、妻という女性の内面に少しだけ触れた気がしました。それと同時に感じたのは、同じ人間で同じように暮らしていても、その目に映って見える世界はまったく違うものなんだ、という今さらながらの実感でした。

 
 ―――あのとき、自分が感じた漠然とした感傷を、今こうして笛の音で奏でられる“サウンド・オブ・サイレンス”を聴きながら、私は思いだしていました。
 傍らに立つ妻は、瞳を閉じて笛の音色に耳を傾けています。
 先ほど「卒業・・・・・」と呟いたとき、妻が何を想っていたのか。
 何を想いながら、今もあの哀しげなメロディーに耳を澄ましているのか。
 旅立った先でベンジャミンとエレーンの二人がどんな未来を迎えたのか分からないのと同じように、私には今の妻の気持ちが分かりません。
 分かっているのはただひとつ、私たちもまた旅立ちの時期を迎えようとしているということだけです。
 そして私たちがこれから卒業しようとしているのは、妻がこれまで必死に守ろうとしてきた平穏な日常そのものでした。
 すぐに時間は過ぎ去り、日は暮れ落ち、夜がやってきます。
 あの男の待つ夜に。
 私と妻は今、バスに揺られているのです。
 そして、静かな教会から妻を連れ出し、その手を引いて、彼女をバスに乗せたのは私でした。
 “サウンド・オブ・サイレンス”―――沈黙の音が、終わりを告げました。私は妻の手を握りしめた右手に少しだけ力をこめました。妻がうっすらと瞳を開けて、私を見ました。
「・・・行こうよ」
 小さく告げて、私は歩き出しました。
  1. 2014/10/12(日) 08:27:41|
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卒業 第18回

 ゆっくりと雫が垂れ落ちるような時間が過ぎて、また、夜がやってきました。

 天橋立で迎える三度目の夜は、昨晩のように悪天候に見舞われることもなく、私の外側の世界は穏やかそのものでした。
 やがて朝が来て、この暗闇の結界が力を失う頃に、私はどんな顔を新しい日の光に晒しているのか。
 そして、妻は―――

 妻は夕方に一度駅前の温泉に行ったというのに、夕食後にもう一度、宿の湯へ浸かりにいきました。
 今宵、赤嶺の目に晒す己が身を浄めるために。
 その事実を噛み締めるだけで胸の内にぐずぐずと生じる、この不安と嫉妬の入り混じった気分の高まりはいったい何なのか。
 今まで幾度となく雪崩のように押し寄せてきたこの感情は、ついに私と妻の立っていた場所もろとも突き崩し、押し流してしまいました。
 その先に待つのは―――いったい何なのか。
 私は立ち上がって、窓を開けました。静謐な夜。暑かった昼間の残滓を含んだ空気に、蝉の鳴き声がかすかに響いています。
 そして結局禁煙に失敗した私の吐く紫煙は、吸い込まれるように、べっとりと暗い闇の中へ消えてゆきます。
 その煙を捕まえようとする行為くらい意味もなく、私は窓の外の虚空に手を伸ばしました。
 空には鋭い三日月がかかり、その蒼褪めた光は暗闇に伸びた私の腕を照らしていました。

 戸の開く音がして振り返ると、妻が戻ってきたところでした。
 普段と比べて少し面やつれしたように見えるその顔。装った表情の平静さと裏腹に、その顔は今にも崩れてしまいそうな危ういものを孕んでいるようでした。浄められたばかりの細身は、息苦しいまでにきっちりと着つけられた白の浴衣でよろわれています。
 そんな妻の姿に、私は今しがた見つめたばかりの三日月の幻影を重ねました。
 細く、鋭く、凛として、けれど今にも闇に呑まれてしまいそうな儚い美―――
 彼女の姿を見慣れた目にもそんな感慨を起こさせるほど、今宵の妻は綺麗に見えました。
 しかし、それを口に出すのは、私には出来ないことでした。
 
 しばしの間、私は無言のまま、静かな刻を過ごしました。
 それは私が今の私のままで、妻が今の妻のままでいられる最後の時間―――なのかもしれないのでした。
 けれど―――この瞬間に至っても、私の中にふつふつとわきおこる様々な想いの形は、妻の内面のそれと完全に一致してはいないのでしょう。
 私はそれを思ってひどく悲しい気持ちになりました。けれども、そのことで本当に悲しむべきなのは、悲しんでいるのは、やはり無言のまま座している妻のほうに違いありませんでした。

 言葉のない時間。しかし、私の耳にはあの沈黙の音がずっと流れ続けていました。
 妻の耳にもきっと、その音色は響いていたことでしょう。
 それだけは―――たしかなことでした。


 そして時は―――満ちました。

 私は目で、そのことを、妻に告げました。
 妻は、静かに立ち上がりました。
 私も立ち上がり、妻の前に立って戸を開きます。
 さすが格式の高い宿と言うべきなのか、黎明荘の客で夜中に騒ぐ者はいないようでした。
 だから、磨かれた木の廊下はとても静かでした。
 私はそのことを、ほんの少し、うとましく思いました。

 今度は妻が先に立って、廊下の道を歩み始めました。
 沈黙の音はとうに鳴りやんでいます。
 妻はそれこそ音もなく、ゆっくり歩を進めていきました。
 その粛々とした足取り。
 モノクロームのような光景の中で、薄い照明に照らされた妻のうなじだけが蒼みがかって見えます。
 途中で一度だけ、りん、と廊下が鳴いて、はっと現実に呼び戻されたような心地がしました。

 永遠のように思える一瞬が過ぎて、かすかに翻る妻の浴衣の裾がその動きを止めました。
 妻の前には、扉がありました。
 道行きの途中、妻は一度も私を振り返りませんでした。そのときもそうでした。しかし、私は妻がその瞬間、振り返らずに私を見たのを感じました。
 私はその視線を避けるようにすっと動いて、妻の前に立ちました。
 戸に手をかけるとき、その手が震えるのを私は抑えることが出来ませんでした。


 なぜなら、あの男は言っていたから。
 今夜は鍵をかけないでおく、と―――


 震える私の手で―――
 扉はゆっくりと開かれました。

 部屋の中に目をやったとき、異様な感覚がありました。すぐにそれは照明のせいだと分かります。この部屋の主である私の古い友人は、昔から宿に泊まると、その部屋の照明にスカーフなどをかぶせて自分好みに光を変える癖があるのです。
 そして今夜、彼の部屋の照明には茶褐色の薄布が巻きつけられていました。
 ただそれだけで、純和風のこの部屋はつくり変えられ、妖しい趣に満ちた異空間へと変貌を遂げていました。


 ―――変えてやるよ。


 それがこの男の生まれ持った性なのだ。

 私はぼんやりとそう感じました。


 男―――部屋の主は、部屋の奥に座っていました。

「―――遅かったじゃないか」

 錆のある低音でそう告げて―――
 男は立ち上がり、まっすぐに近づいてきます。
 深い海のようなその瞳は、まったく私のほうを向いていませんでした。

 この部屋に私たちが足を踏み入れた瞬間から―――
 男の目が見つめているのは―――

「さっきからずっと、待ちかねていたよ」

 すっ、と薄闇の中から太い腕が伸びて―――
 傍らの妻の手を掴み、自らの空間に引き入れました。
  1. 2014/10/12(日) 08:28:40|
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卒業 第19回

 茶褐色の薄布をかけられ、変色した照明の下に赤嶺は妻を引き入れ、立たせました。
 大柄な赤嶺と妻とでは、頭一つ分くらい身長の差があります。
 私の立つ場所から見える妻の後ろ姿は、赤嶺を前にしていつも以上に小さく、頼りないものに見えました。
「戸を閉めろよ」
 それまで私を無視していた赤嶺が、ようやく私に声をかけました。けれども、その視線は相変わらず妻を捉えたままでした。
 妻がどんな表情で立っているのか、私の位置からは見えません。
 私は振り返り、こわばった腕で戸を閉めました。
 戸の閉まった瞬間、異空間は完結しました。私と妻は蜘蛛の巣に絡めとられたのです。

 蜘蛛―――赤嶺はしばらくの間、じっと押し黙ったまま妻を見下ろしていました。
 うつむいた妻の顔はその間にもじりじりと伏せられていき、まるくやさしい線を描く肩も次第に下がっていきます。
 その肩に、赤嶺の両手が置かれました。
「―――綺麗だ」
 誉め言葉というよりも事実をそのまま告げただけのように、短くあっさりした言葉で告げて―――
 赤嶺は顔を寄せて、妻に口づけました。

 私の瞼はその瞬間に白く霞みました。

 私の立つ場所からは、二人の唇が触れ合っているその様は見えません。
 見えたのは―――赤嶺の両手に押さえられた妻の肩が、ひくり、と動いたその動作だけでした。
 今朝のようには、妻はもはや抗いませんでした。思わず動いてしまったような肩の動きの後には、彫像のように身動きもせず、従容と赤嶺の唇を受け入れていました。

 自分を愛していると言う夫。その夫によって他の男に抱かれてくれと望まれる矛盾。当の夫の胸の内ですら未だ乗り越えられないその矛盾を、今の妻が心中でどう処理しているのかは分かりません。けれども静かに赤嶺の唇を受け入れる妻の様子からは、己が身が今夜、眼前の男への供物になるという現実をしっかりと認識しているようでした。
 切り捨てようと決意してした鈍い痛みが、私の中で蘇りました。けれどもその痛みが私の意識の刃を尖らせ、身中にやるせない疼きをもたらすこともまた事実なのです。
 それは私にとって、そして妻にとって、何より残酷な事実、でした。

 しかし、今この瞬間も妻に口づけている男には、妻の痛みも私の痛みも徹底的に無価値なのです。

 ゆらり、と―――
 妻の唇を奪い、離さないままの赤嶺の瞳が動いて、その夜初めて私を見つめました。
 薄暗いこの部屋の中で、そこだけ本当に漆黒のその瞳に貫かれた瞬間、私の身体にぞわりと痺れが走りました。
 そんな私の反応を愉しむように、赤嶺の目元がわずかに光り―――
 同時に、妻の両肩に置かれたままだった赤嶺の手が動いて、妻の浴衣の帯に伸びました。
 手品のようにあっさりと、堅く巻き締められた帯紐は解かれ、するりと床に落ちます。
 赤嶺はそこでようやく妻から顔を離しました。瞬間、妻の後ろ姿がくらりと揺れた気がしました。

 赤嶺は私から視線を離し、妻を見つめてふっと笑いました。
 この男は昔からよく笑う男でした。
 皮肉に、不敵に、或いは底抜けに笑う男。
 彼の眼前に立つ女は、あまり笑わない、物静かな女でした。
 そして時折見せる彼女の笑顔は、いつもどこか淋しげな気配を含んでいました。

 まったく別種の性質を持つ二人の男女。けれど―――


 ―――そんなことは結局関係がないのさ。


 再び赤嶺の手が動き、妻の両肩から浴衣を剥ぎ落としました。
 果実の皮を剥くような簡単さで、下着のみを残した白い裸身が露わになりました。

「貴女の身体を拝見するのは一年ぶりだ」
 低く囁くような声で、赤嶺が言うのが聞こえます。
 妻は答えません。また、うつむこうとするその顎を赤嶺の右の手指がつかまえ、上向かせました。
「けれども、少しも変わっていない。いや、むしろ魅力的になったように感じる。肉付きがよくなったせいかな。昔の貴女も美しかったが、少し痩せすぎだった」
 上向かせた妻の顔を見下ろしながら、赤嶺は淡々と言いました。
 妻の肩がまた、ひくり、と動いたのが見えました。
 今この瞬間に妻がどんな表情をしているのか―――
 狂おしいほどにそれを知りたいと思いながら、私の足は床にべっとりと張り付いたまま微動だにしないのです。
 すっと赤嶺の身体が動き、妻の背後に回りました。
 動けない私と同様に、妻も呪縛されたように顔を上向けたまま、同じ姿勢で立ち尽くしています。
 妻の背後に回った赤嶺は私などには目もくれず、すべやかな背肌を舐めるような視線で眺めやりました。
 やがて、赤嶺の手がすっと妻の背に伸びて―――
 はらり、と妻の胸を覆っていた下着が落ちました。
 私の唇から音のない声が洩れます。同時に、ようやく呪縛が解け、妻はしゃがみこんで両腕で胸を隠そうとしました。
 ―――その腕を、赤嶺の太い手が捕らえました。
 妻の腕を掴んだのとは別の赤嶺の手には、いつの間にか、先ほど解かれた浴衣の帯紐が握られていました。

「さしあたりこれは必要がないから、しばらく封じさせてもらうよ」

 判じ物めいた言葉を吐いた後―――
 赤嶺は素早く動いて、妻の両手首を背中に回し、紺の帯紐を巻きつけました。

 あっという間に、妻は後ろ手に鎖縛られ、自由を失いました。
 縛られた後もなお、妻はさかんに固定された両手を動かして、逃れようとする動きを見せました。今夜、彼女が見せる初めての本格的な動揺。けれども、それは見ていて痛々しくなるような果敢ないあらがいでした。赤嶺はそんな彼女のむなしい動作を目を細めて見やった後、ゆったりとした動作で彼女を背後から抱きしめました。
 赤嶺の厚い胸板に覆われて、妻の身体の動きが鎮まりました。
 私の目には二人の後ろ姿しか見えません。けれど、赤嶺の両手は剥き出しになった妻のまろやかな乳房をすっぽりと握り締めている―――はずでした。
 胃の腑の底が、じわりと熱くなりました。
 妻は一瞬、またあらがう動きを見せました。しかし赤嶺の腕がもぞりと動くと、
「あ・・・・・」
 どこをどうされたのか、か細い声を上げて妻の動きが止まりました。


「この胸に触れるのも一年ぶりだね」


 慣れ親しんだ情人のように囁く声。


「やはり前よりも少し大きくなったかな。綺麗な胸だ。やわらかくて、揉み心地もいい」


 赤嶺の腕がまた動き、妻の背中がかすかに揺れ、私の舌は乾いていました。

  1. 2014/10/12(日) 08:30:21|
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卒業 第20回

 私の心臓はすでに破裂しそうなほど脈動を早めていました。
 死の予感すら感じるほどに。
 いや、それは予感などではなく―――
 今宵、本当に、私の心は死ぬのでしょう。
 それは確信に限りない感覚でした。

「何にそんなに怯えているの?」

 赤嶺の声がして、私ははっと顔を上向けました。
 その言葉は無論のこと私に向けられたものではなく、妻の耳元に囁かれたものでした。

「さっきから、ひどく震えている」

 赤嶺の声は普段の彼からは信じられないほど優しい口調でしたが、私にはそれは悪魔の優しさに思えました。
 そして、今ここでこうして震えている私は、悪魔メフィストフェレスに自身の一番大切なものを差し出したファウストなのです。

 赤嶺の身が妻からわずかに離れ、浅黒い手が妻のなめらかな二の腕を優しくさするのが見えました。

「何も心配することはない。貴女は今夜、愉しむためにここへ来たのだ」

 愉しむ―――

 妻の両手を拘束して自由を奪った人間とも思えぬ言葉を吐いて、赤嶺はくるりと振り返り、私を見つめました。


「―――お前は壁だ」


 出し抜けに、赤嶺はそんなことを言いました。

「だから、動けないし、喋れない。ただそこに在るだけのモノだ」

 まるで事実そのままを告げるように、艶のある低音が響き渡ります。
 炯炯たる眼光が催眠術師のそれのように、異様な力で私を見据えていました。
 催眠―――。実際、この部屋の妖しく変えられた照明の光や、赤嶺の態度はまるで暗示をかける術師のもののようでした。
 頭の片隅でそんなことを考えながら、私はどうしても赤嶺の―――メフィストの視線から逃れられずにいました。

 赤嶺はそんな私をしばし見据えた後で踵を返し、部屋の隅に片付けられていた卓の上から薄い布切れを摘まみ上げ、もう一度妻の背後に戻りました。
「これから貴女の視界を奪う。貴女がより気兼ねなく、この夜を愉しめるようにね」
 赤嶺が囁きかけると、妻は一瞬その意味を考えたようでしたが、すぐにいやいやとかぶりを振りました。
「大丈夫。不安に思うことは何もないとさっき言っただろう。貴女はもう何も考える必要はないし、胸を痛める必要もない」
 言いながら赤嶺は妻の肩を抱き、ゆっくりと降り向かせようとしました。
「いや・・・・」
 そのことで、妻は先ほどよりも強いあらがいを示しました。
「いや? 振り返るのが? どうしてかな。後ろに彼がいるからなのかい」
 芝居がかった口調で言って、赤嶺は酷薄な微笑を浮かべました。


「心配しなくてもいいよ。後ろにいるのは貴女の主人などではない。―――ただの壁だ」


 そう告げられた瞬間―――
 自らの表情がぐにゃりと歪むのを私は感じました。
 なぜなら赤嶺の言葉はただの戯言ではなく、私という人間のすべてを否定し、粉々に打ち砕く言葉だったから―――

 赤嶺の言葉に、いっそう妻は抵抗を激しくしました。けれども、男の腕力は、強引に妻を振り向かせました。

 恐怖―――
 それがその瞬間に私の感じていたすべてでした。今の私という人間を、妻に見られることに対する恐怖、でした。


 怯えた妻の瞳が、私を捉えました。


 私の背筋に震えが走ります。


 妻の瞳が見開かれました。


「ごらん、あそこには何もない。ただの壁があるだけだろう」

 赤嶺の囁き声が、どこかで聞こえました。
  1. 2014/10/12(日) 08:31:28|
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卒業 第21回

「もう―――やめて」

 細く高い声で、私の意識の空白は破られました。

 濁っていた私の視界に、再び妻が映ります。
 後ろ手に縛られた裸身を震わせるようにして、彼女は赤嶺の胸に顔を埋めていました。
 その肩は、しゃくりあげるように動いていました。
 赤嶺はそんな妻をしばし見つめていましたが、ふっと彼女の背後に回り、縛り合わされた両腕をぐいっと掴み下げました。
「あ・・・・・・」
 白い乳房がかすかに揺れ―――
 小さく声をあげた妻の上半身が上向いて、私の顔を正面に捉えます。
 

 私と妻の視線が―――絡みました。
 先程まで怯え、竦んでいた瞳が、今は放心したように揺れ動きながら、私を見つめています。
 その瞳を、後ろから赤嶺の巻きつけた薄布が隠しました。
 視界を奪われる瞬間、色を失った妻の唇がひくっと震え、白い歯がこぼれました。


 私は無意識に妻の名前を叫んでいました。
 けれども、それは声にならなかったのか、妻も赤嶺も反応を示しませんでした。
 ああ、聞こえないのか―――
 無理もない、と私は思います。
 あの男の言うとおり、私はただの―――


 手の自由も、視界までも奪われた妻は足元をふらつかせました。変色した光が妖しく照らすその下で、白くすべやかな裸身がくらくらと舞い動き、床に倒れる寸前で、赤嶺に背中を受け止められました。
「落ち着いて。心配ない。さっきも言ったように、瑞希はもうわずらわしいことからすべて解放されているのさ」
 瑞希。
 赤嶺は初めて妻の名を呼び捨てにしました。
 いえ、初めてではありません。
 一年前のあのときも、この男は妻のことをそう呼んでいました。
「何も考えてはいけない。悩むこともない。ただ歓びを感じればそれだけでいい」
 赤嶺は執拗に「考えるな」と繰り返し、妻に囁きます。
 何もかも忘れて、歓びだけを感じろ、と。
 それは妻に動物になれ、と言っているのと同じです。
 動物の―――牝に。

 赤嶺は妻を抱きかかえたまま、卓の上に腰掛けました。
 浴衣姿の赤嶺、彼の膝上には半裸の妻、その2メートルばかり離れた場所に壁と化した私が立っています。
 そろり、と赤嶺の手が最後に残された妻の下着に忍び入りました。
 くっ、と呻いて妻はあらがおうとしますが、その両手はすでに封じられてるのです。
 笑みながら赤嶺はそんな妻の細い頸に唇を這わせました。
「う・・・・・」
 かすかな声が洩れ聞こえました。
「敏感だな」
 赤嶺はくすりとまた笑うと、妻の眉間に深い縦皺が寄るのが見えました。
「取り繕うのはよしたほうがいい。ここには―――二人しかいないんだ」
 そう囁く赤嶺の目は、今度はしっかりと私を捉えていました。

 息を―――呑みました。

「今夜はすべてを見せてもらうよ」
 言いながら、赤嶺の手が動き、妻の最後の下着を取り去ろうとします。もじもじと脚を動かして、妻は必死に抵抗しますが、無駄なことでした。
 するすると、ささやかな繊毛の叢が露わになり―――

 妻は、生まれたままの素裸になりました。

 裸に剥かれた瞬間、妻はくうっと啼いて目隠しされた頭をむやみに振りました。
 頬が羞恥の色に染まっているのが、遠目からでもはっきりと見えます。
 薄明かりの部屋の中心。妻の雪白の裸身は暗い背景に映えています。
 闇に咲いた白い百合のように。
 その花に、闇そのもののような男が囁きかけます。
「やっと瑞希の身体で一番見たかった部分を見ることが出来た。身体つきは少し変わったが、ここの毛の生えぶりは少しも変わっていないな」
 からかうように言って、赤嶺の手指が艶のある妻の繊毛を梳きました。
 妻がもう一度、くうっと啼きました。
「いい毛触りだ」
 赤嶺は言い、妻のその部分を指でとんとんと軽くたたきました。
「ん・・・・っ」
 妻の朱唇から声があふれます。
「ふふ、柔らかい。ぞくぞくするね。早くこの中に入りたいと、俺の息子がわめいているのが感じられるだろう?」
 赤嶺の股間に乗せ上げられた妻の臀部がもぞりと動くのが見えました。
 私の腋下に、汗が、つっと伝います。
「でも焦るのはよくないな。極上のワインが手に入ったら、まず目で楽しみ、香りを楽しみ、その後でやっと味を愉しむ―――らしいから」
 自分の言葉を自ら茶化して、赤嶺は両手を妻の膝の下に差し入れました。真白なふくらはぎから太腿にかけての肉をニ、三度淫猥な手つきで撫で回した後、不意に赤嶺はその膝を両手で掴んでぐいっと押し広げました。
「ああ――――!」
 思わず弾き出たような妻の悲鳴、不自由な身での抵抗を、むしろ楽しむようにしながら、赤嶺は無情な手を進めていきました。

 私の真正面、卓の上に腰掛けた赤嶺。
 その男の上で、妻の身体の花芯にあたる部分が露わにされました。
 広げられた内股の眩しさと裏腹な、漆黒の繊毛。
 その繊毛の奥の、鮮やかな紅の裂け目。
 均整のとれた妻の肢体の中心に、そこだけ違和感のある生々しい女の器官。
 性器―――


 非現実的な光景でした。
 自分の目の前で妻が他の男に脚を開かされ、女性器を露出させている、その光景。
 それは幻怪で、狂的で―――
 眼球が割れそうに思えるくらい、
 卑猥、でした。


 妻はもがいていました。網の中に捕らえられた蝶が羽をばたつかせるように、哀れに身をよじって。
 けれども、両手を後ろに縛られた身ではその抵抗は、なめらかな腹から股間にかけてを波立たせるような、むしろより扇情的にさえ見える動作にしかならないのです。
 そして、実際に赤嶺は妻のそんな恥じらいの極みといった動きを、本当に楽しそうな目で見つめていました。
 ゆっくりと、赤嶺は妻の耳元に口を近づけ、その耳たぶを唇でやさしく噛みました。
 妻の総身が硬直します。
 耳たぶを噛んだ赤嶺の唇が、離れました。
「何をそんなに慌てているんだい。さっき予告しておいただろう。今夜はすべてを見せてもらう、とね」
 言い終わると同時に、ねっとりと赤い舌が妻の耳を這い―――
 広げられた太腿の中心に、節くれ立った男の指が伸びました。

「やめ――――」

 その叫びが終わるよりも早く、花弁は摘まみとられ、そして妻の秘部は光の下でくつろげられていました。
  1. 2014/10/12(日) 08:32:52|
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卒業 第22回

 艶々とピンク色に光る妻の身体の中心に押し込まれた赤嶺の左右の人差し指は、これ以上ないほど肉の輪をくつろげ、その微細な中の構造まで剥き出しにさせています。
 幻燈に照らされて濃密に息づいたその紅い花が、瞳に灼きつくようで―――

 くらくらと私は眩暈を感じました。

「あう・・・・うっ・・・・」
 妻はしばらくの間、顔を左右に振りたくって羞恥刑から逃れようとしていましたが、そのうち、がっくりと頸を折って、赤嶺の肩に頭を預けました。
 花弁の奥まで剥き出しにされた花の紅さが広がっていくように、妻の色白の総身は仄かに色づき、特に隠された目元から頬にかけて、きわどく紅潮していました。
「瑞希のここは綺麗な色をしている。形も崩れていない。いいオ**コだよ」
 差し込んだ指でその部分をぴんぴんと広げながら、赤嶺は妻に卑語を囁きかけます。
「言わないで・・・・」
 消え入りそうな声で妻は言い、朱に染まった顔を赤嶺の肩にぐいぐいと押し付けて、隠そうとしました。捻じ曲がった頸や横顔に、乱れた黒髪が幾筋も落ちていました。
「あいにく美しいと思ったものには賞賛を惜しまないたちでね。それにしても瑞希のここは熱いな。指が火傷しそうだ」
 赤嶺のからかいに、妻の喉から短い悲鳴に似た声がしました。もう一度、じたばたとあらがおうとした妻の脚を自らの脚と腕でがっちり押さえつつ、赤嶺は柔肉に差し込んだ指の一方を外して秘口の縁取りをつっとなぞります。妻の太腿が攣ったようにぴくっとふるえました。敏感な反応に、赤嶺はくっと笑いながら、肉の閉じ目の上部に位置する薄桃の突起に指を這わせ、かるく摘み上げました。
「あうっ」
 美しくくびれた細腰から体格のわりに豊かな臀にかけて、妻の肢体に痺れが走ったのが見えました。
「いい反応だ」
 低いのによく響く声で赤嶺は言い、摘まんだ肉芽を抓るように今度はきつく指に力をこめました。
「んんんっ!」
 先程よりも強く妻の総身に雷撃が走り、耐え切れずに大きな声があふれ出ました。
「痛いのか? それとも気持ちがいいのかな? 瑞希の反応を見ていると、どちらにも取れるね」
「・・・・痛い・・・・」
 妻の息はすでに荒く、ようやく絞り出したような声は切れ切れでした。かすかに汗ばんだ胸元が大きく隆起しているのが見えます。
「それは悪いことをした」
 冗談めかして赤嶺は言い、緋色に染まった突起を親指と人差し指の腹で優しくさすりだしました。同時に柔肉に押し込んだ指を微妙に動かします。
「くう・・・・・っ」
 妻の鼻腔から息が吹き零れました。
 女性の快楽の壷を知り尽くした赤嶺の手先―――
 一定のリズムを保って馬を御していくような、憎らしいほど悠然としたその手指の動きに、妻の顔は先程までとは違う苦悶に顰められていきます。寄せられた眉根のあわいが時折、ひくひくと切なげに動きます。
 肉芽をやわやわと揉みあげながら、ぱっくりと開いた性器の外周と花びらの間の溝に、赤嶺は執拗に指を這わせ、撫で回します。同時に、ふるえを止められない妻の細い肩先から、微妙な陰影を刻む美しい鎖骨の線の辺りまで赤嶺の唇は這い寄り、妻の躯に秘められたいくつもの感応を呼び起こしていくのです。 
「ああ――――」
 思わず洩れた妻の吐息に、すすり泣くような響きが混じりました。
 その声はぞっとするほど哀切で、聞いている私までがおかしくなりそうで―――
 だというのに、私は異常に昂っていました。興奮と哀れみが混じりあい、狂おしいほど熱を持った目で、私は赤嶺に嬲られる妻を見つめていました。

 一年前、これとよく似た光景を、私はたしかに見たのです。
 脳髄に染みこむようなそのときの幻影は、あれからずっと私の脳裏に揺曳していました。
 ずっと、長い間―――
 そして、今まさにその光景は、現実に、再現されようとしていました。
 私の眼前で―――

「くっ・・・・・んん・・・・っ」

 赤嶺の指が蠢く度にめくり返される妻の汀。躯中の血が集まったようなその紅の濃淡が艶やかに光り、いつの間にあふれだした透明液が花びらにしたたって、妖しくきらめいていました。
  1. 2014/10/12(日) 08:34:01|
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卒業 第23回

 玩弄―――
 としかいいようのない動きで、赤嶺の手指は柔弱な妻のおんなを責めつづけます。
 その手指は妻の秘奥から溶け出した流露で、ぬれぬれと光っていました。
 鼻頭をうっすらと染めた顔を小刻みに振りながら、妻は身悶えを繰り返しています。
 薄布で隠された瞳は、今、その瞼に何を見ているのか。
 いつだって私の真実を揺さぶらずにおかなかったあの澄んだ瞳は―――

 赤嶺の膝に乗せ上げられた妻の裸身が、ひどく覚束ない動きでうわずり始めました。
「うっ、うっ・・・・・」
 断続的に洩れ聞こえる苦しげな微吟が、次第に大きく熱っぽくなっていくのが分かります。赤嶺の手指が蛇の舌のような陰湿さで妻の秘口を撫でまわす度に、細い腰がびくりと跳ね、形の良い椀型の乳房が重たげに揺れました。
 肉芽を弄んでいた赤嶺の掌がその乳房をわしづかみました。
「熱いな。乳房がかたく張っている。動悸もすごく早い」
 黒髪の流れ落ちた妻の耳朶に囁きかける赤嶺。その手に囚われた胸乳は、ぶあつい掌でつよく握られた白餅のように、歪み、たわめられていました。
 乳房を覆う手の人差し指が伸びて、もう一方の隆起の頂点に触れました。
「ん――――っ」
「乳首もこりこりの勃ちんぼ状態だ」
 赤嶺は唇の端を下品に歪めながら、世にも娯しそうな声で囁きました。
「いやらしい―――躯だ」
「ううっ」
 啜り上げるような短い泣き声をあげて、妻の顔が天井を向きました。露わになった白い喉首が、何かを飲み込んだときのようにくっと動くのが見えました。
「今さら羞ずかしがらなくても良い。瑞希の躯がそれだけ女として優秀だというだけだ」
 あからさまにからかう口調で言って、赤嶺は掴んだ乳房をゆるりと揉み上げました。
「感じやすい―――いい躯だ」
 今度は私の目を見ながら―――
 赤嶺は言いました。
 私に答える言葉などないと知りながら、この男は。
 この男は。

 赤嶺の太い腕に抱きしめられた妻の白裸は、薄闇に溶け出してしまいそうなほど、輪郭がぼんやりと霞んでいて―――
 ひどく、不安定で―――
 見ているこちらの心まで、頼りなく不安にさせるほどに。
 ―――いや、本当に私を不安にさせるのは、その白皙の裸身を我が物のように抱いている男の目です。
 不敵で、自信に満ちていて、それでいて底の見えない、
 闇のような目―――

「もう―――許して」

 不意に空気を切り裂くような哀訴の声がしました。
「これ以上はもう―――もう」
 うわごとのように、悲鳴のように、妻は叫びながら、激しく頸を振りたくりました。ほつれた黒髪がばらばらと乱れ、なびく様が、凄艶な舞いのように見えました。
「お願いします―――お願いです」
 普段の落ち着いた口調からは想像もつかないような切迫した響きで、妻は、お願い、お願い、と繰り返します。その様はあまりにも哀婉で、悲痛で、見つめる私のほうも絶叫したくなるほどで―――
 けれども、私はかすれ声ひとつあげることが出来なくて。
「―――近いんだね?」
 代わりに妻の朱に染まった耳朶に囁いたのは、赤嶺でした。
 妻は答えませんでした。答える代わりに、哀訴の声を繰り返すだけでした。
「我慢しなくてもいい。思い切りいけばいい。思い切り声をあげて、悦びに身を委ねればいい。大丈夫、瑞希の羞ずかしい姿を見てを笑うものはいないよ。ここには二人だけだ」
 軽やかに歌うように言った後で、赤嶺はにやっと笑い、口に出したばかりの自らの言葉と矛盾するようなことを平然と続けました。
「そのほうが―――壁もよろこぶ」
 いましめられた両手を揺さぶって暴れていた妻の肢体の動きが、止まりました。
「瑞希はそのために来たのだろ?」
 先程まで徹底的に私を無視しながら、都合のいいときにだけ、私の存在を妻を縛るダシに使う赤嶺に、そのとき、私は燃えるような憎悪を感じました。
 赤嶺の言葉は、両手のいましめよりも、目隠しよりも、妻の力を削ぎ、殺してしまいました。放心したように妻の総身からがっくりと力が抜けるのを見て、私はやりきれなさでほとんど涙ぐみそうになりました。
 聞かなくていい。そんな男の言葉など。
 考えなくていい。私のことなど。
 痛切にそう思う気持ちは真実なのに、彼女を今の運命に追い落としたのは、他の誰でもなく、この私自身であるわけで―――

 何だかひどく悲しくなりました。

 言葉で妻にもう一重の呪縛をかける前も後も、赤嶺の手指だけは妻の縛られた裸身を弄るのをやめませんでした。秘園も、そこに咲く花びらも、白く盛り上がった乳房も、ぴんと張りつめた乳首も、敏感な腋下も、太腿の付け根のくすぐったい部分も―――赤嶺は妻の躯のすべてを知悉しているような迷いのない手つきで、妻の奥深くに秘められたものを煽りたて、炙り出していきます。
「あっ、あっ、あっ・・・・・」
 火を点けられた妻の口から洩れる声の調子が高くなりました。色づいた胸が波立ち、苦しげに喘いでいるのが見えます。
「我慢するな。そうすれば苦しいだけだ。抑えないで声をあげろ。壁を愉しませてやれ」
 冷酷な声で、赤嶺は命じます。

 妻の背筋が反りかえり、鼻腔から抜けるような吟声に啜り泣きの調子が混じりました。
 紅潮した頬、額には玉の汗が浮かんでいます。
 妻が身を震わせた瞬間に、その汗がぽつり、と落ちる様が、スローモーションのように私の目に映り―――


 ああ――――
 私は胸の内で、長く引きずるような叫びをあげました。


 ワルツを奏でるように赤嶺の手指が白と紅の鍵盤を弾きます。


 妻の背がぐっと伸び上がるのが見えます。


 その顔が哀しいほど、きつく歪みました。

 
「―――――――っ」


 妻の喉首が引き攣れるように動き、
 ぱあっ、とその肢体に微光がかがやきました。


 高みに達した妻の肢体が軟体動物のようにぐにゃりと折れ、崩れ落ちるように天上から地上へ―――赤嶺の身体の上へ墜落しました。
 ひゅう、ひゅう、と。
 妻の喉から、苦しそうな吐息が洩れています。
 そんな妻の様子を赤嶺は冷然と眺めていましたが、不意にその手が子供を撫でるように、もたれかかる妻の頭にそっと触れました。
「堪えたね。声を抑えるなと言ったのに。馬鹿だな」
 不思議なほど優しい口調で呟いた後、しかしその口調と相反するようなことを赤嶺は言いました。
「―――お仕置きが必要だな」
  1. 2014/10/13(月) 11:30:33|
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卒業 最終回

 夏目漱石に『門』という小説があります。
 重い過去に結び付けられ、閉じられた生活を送る夫婦を描いたあの作品を、私は共感と悲哀の念をこめて思い返します。
 閉じられた生活―――それはこの一年間の私たちの生活でもあったのです。
 そんな生活に粛々といそしんでいるような妻を、時にもどかしく思ったことも事実でした。
 もっと自由に、広い世界で生きてくれてもいいのに。
 そう思う私こそ、息苦しくなっていたのかもしれません。
 この世に二人きりのような、濃密な妻との暮らしに。
 そんな私たちの生活には、いつだって陰がありました。
 それは忍び、這いよってくるような一年前の記憶。
 妻はその記憶を恐れ、私も恐れ―――
 しかし、その一方で私は焦がれてもいたのでしょう。
 あの灼けつくような瞬間に。


「くぅ・・・・うぁ・・・っ」
 赤嶺の舌が秘口に入り込み、花びらの奥の膣襞までも舐めあげる度に、妻は身をよじり、熱い息を噴きこぼします。茹だったような火照りに汗ばんだ肌が光り、蹂躙の度に足指の先がくいくいと折り曲げられます。
 妻は長方形の卓の上に寝かされていました。両手両足をそれぞれ卓の手足に結わえ付けられ、身動きすることすら容易にならない格好で妻は固定され、赤嶺の舌の玩弄に晒されていました。

 赤嶺はそんなふうに妻を卓上に縛り付けた後で、まずは冷蔵庫から冷えた日本酒を取り出し、無残な妻の寝姿を眺めやりながら、一杯やりはじめたのです。
 その姿は征服した領土を宮城から見下ろす支配者の姿に似ていました。
 支配―――

「さっきから暴れどおしで瑞希も疲れただろう」
 ふんわりと笑いながら赤嶺は言って、指で妻の繊毛をかき分け、くつろげました。目隠しの上の眉間に皺が寄り、乳房が波立つのが見えました。
「これで舌を潤すといい」
 そう言って―――
 赤嶺は妻の下の口につっと冷酒を注ぎました。
「ひっ!」と悲鳴を上げて、妻は腰を引こうとしました。もちろんその動きは成功しませんでした。
 杯にされた妻の女園を、透明な酒が満たしてゆきました。
 かつて織田信長が、討ち取った敵将の頭蓋を杯にしたというその行為よりも、妻にとって、そして私にとって、赤嶺の行為は蹂躙と呼ぶにふさわしいものでした。
 そして今、赤嶺の赤黒い舌は酒盃を綺麗に舐めとっています。美麗な縁取りも、なめらかな杯の底も、何もかもを。
 しかし、赤嶺はいつまでも酒盃を干すことは出来ません。杯の底には新たな潤いが後から後から生まれ、赤嶺の舌を愉しませることをやめないのです。
 ぴちゃぴちゃ、と―――
 赤黒い舌が、そして妻の秘部が、卑猥な音を辺りに響かせていました。

 これが私の希んだことか。
 これが私の渇望した情景なのか。
 濁り、灼熱した頭蓋の奥で、ただひとつたしかな事実は、私が妻との静かな生活の中に、赤嶺という名の男を呼び込んでしまったことだけでした。
 自ら、門を開いて―――

 しかし、その赤嶺という男は、到底私の手の範疇に留まるような男ではありませんでした。
 この世が支配するものとされるもので分けられるとすれば、赤嶺は確実に前者なのです。 

 その支配者―――赤嶺がようやく妻の紐を解きました。
 先だってからの連続的な刺激と、膣の奥から吸収されたアルコールで妻の肌はいよいよ紅潮しています。
 危ういくらいに。
 紐を解かれた後も、妻は卓から身を起こすことも出来ないほどに消耗していました。ぐったりと横たわったまま、開かされた足も閉じることの出来ないほど。
 開いたままの妻の陰部から雫がねっとりと垂れ落ち、卓の上を濡らしていました。 
 先ほどまで紅い花のように思えたその部分は、拷問めいた長い愛撫に充血し、腫れぼったくなっています。
 散花―――
 そんな言葉を、私は思い出しました。
「仕置きは終わりだ。辛かっただろう。でも、もうこれで素直になれるんじゃないか」
 赤嶺は猫なで声で言いますが、妻は放心したように横たわったまま、ぴくりとも反応しませんでした。
「腰が抜けてしまったようだな」
 苦笑しながら赤嶺は言い、すっと妻の腕を掴んで、畳の上に引き下ろしました。
 ずるり、と音を立てるように、妻の肢体が畳の上に崩れ落ちました。
 赤嶺はそんな妻を四つん這いの格好に這わせました。
 目隠しされた妻の顔は、私の正面を向いています。
 一年前と同じように。
 もはや意識が曖昧模糊としている妻に、そのことを思い出す余裕はなかったに違いありません。しかし、私は赤嶺の意図を感じました。
 ぞわりとするような冷気が総身を走りぬけ、汗が滴りました。
「いい格好だ」
 妻ではなく、私を見ながら―――赤嶺は言い、妻の双臀のあわいから秘園をぽんと叩きました。
「あうっ!」
 限界に近づいて意識を喪失してしまったような妻が、高く悲鳴を上げて、色白の臀部を震わせました。その躯の反応は「仕置き」を受ける前よりもずっと鋭敏で、峻烈で・・・、意識を失ってゆくのとは逆に、躯のほうはいよいよ研ぎ澄まされ、牝に近づいていくようで―――

 ぞっ、としました。

 赤嶺は自身の浴衣の帯を解き始めました。
 ぱさり、と帯紐が、続いて浴衣が落ちて、頑強な赤嶺の裸体が現れます。
 赤嶺のものは天を突くがごとく、高くそびえたっていました。
 妻の躯に、
 私の心に、
 愉悦を、
 引導を、
 破壊を、
 混沌をもたらす肉の凶器。

 私の意識は混線したラジオのように乱れ、ざぁざぁと不穏な音を立てていました。
 過去が、未来が、幻影のように切れ切れに私の現在に入り込み、そのすべては赤嶺の切っ先の先端に集中していくようでした。
 どす黒いその部分に。  

「今度は抑えるなよ」

 赤嶺の囁きが聞こえます。

「思うがままに愉しめ」

 思うがままに―――
 それは―――お前の―――


 赤嶺が腰を落として、妻に近づきます。
 くぐもった声が、妻の喉から漏れました。
 おそらくは意味のない言葉、だったのでしょう。


 日常を守ろうとしたもの。
 日常を壊そうとするもの。
 私に関わる二つの存在が、今、眼前で、一つに繋がろうとしていました。


 ひゅう、ひゅう、と。
 私の喉から、先程の妻のような息がかすれ響いています。


 赤嶺の手が、妻の細腰に伸びました。
  1. 2014/10/13(月) 11:32:00|
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卒業後 第1回

 母の病室はクーラーが効いてよく冷えていた。
「お医者様の話によると、腫瘍もたいしたことはないらしいの。念のために手術をして、早めに取り除いておいたほうがいいというくらいで」
 母の京子が話しかけているのは、彼女の兄で、遼一にとっては伯父に当たる相手だった。
「それは大事でないにこしたことはないけど、軽くても手術は手術だ。退院までは身体のことだけを考えて、安静をこころがけたほうがいいよ」
 そう言って、伯父は遼一を見、にこっと笑った。
「遼一のことは、俺たちが責任持って預かるよ」
 遼一はなんとなく、こくりと頭を下げた。
 そんな遼一を見て、母は笑った。
「おかしな子ねえ」
「遼一は今いくつ?」
 伯父は遼一を見ながら聞いた。しかし、遼一が答えるよりも早く、京子が横から口を出して、「15歳よ。七月で」と言った。
「安静にしてろよな、母さん」
 わざとふくれ面をして言う遼一に、京子はまたころころと笑った。
「―――いい親子だな」
 伯父が目を細めていた。
「・・・義姉さんはおいくつでしたっけ?」
「京子と同じ年だよ」
「そう? でもそれなら、まだまだ」
「子供がつくれるだろうにって?」
 京子はちらりと遼一を見てから、申し訳なさそうに伯父に言った。
「余計なこと言ってごめんなさい」
「気にしてないよ」
 淡々と、伯父は言葉を返した。京子はそれでも気まずいのか、急に口をつぐんだ。もちろん、この場にいる遼一も気まずい。
「ああ、そう言えば、前にも話したけど、今度、転勤することになってね。と言っても、半年に満たない期間の話だけど」
 場の空気を変えようとしてか、伯父が新たな話題を出した。
「電話で仰ってたわね。東京でしょう。義姉さんはどうするの?」
「今のマンションに残るよ」
「そう。大変ねえ。そんな時期にこんなことを頼んでしまって申し訳ないわ。でも、うちのひとも単身赴任で仙台だし、母さんは入院中だし、ほかに頼める人が いなくて・・・・」
「かまわないさ。遼一は来年、N高校を受けるんだろ? 大事な夏休みに寝食を不自由させちゃいけない」
「そんなに深刻な話じゃないのに」
 遼一が口を挟むと、京子が目を光らせて「何言ってるの。深刻な話です」と怒った。
「母さん、あのさ」
「どうせ安静にしてろって言いたいんでしょ」
「よく分かるね」
 目を丸くして見せる遼一に、母も伯父も笑った。

 病院を出た頃には、昼も三時をまわっていて、夏の日差しが暑かった。
 伯父の運転する車の助手席に遼一は乗った。
「でも良かったな。お母さん、元気そうで」
 最初の信号で車を停めたとき、ぽつりと伯父が言った。
「あのひとはいつも元気だよ。―――うん、でも良かった。ホントに」
 憎まれ口を叩いた後で、遼一は素直な言葉を吐いた。
「いい子だな」
「子供扱いすんなよ」
 わざと不良ぶった口調で凄んでみせる遼一に、伯父はまた笑い声を立てた。
「本当に面白い奴だよ、お前は」
 遼一が何か言う前に、信号は青に変わった。
「さぁ、早いとこ帰ろう。伯母さんが首を長くして待っている」
 そうだった。これから久しぶりに伯母と会うのだった。
 柄にもなく、遼一の胸は躍った。もちろん素振りには出さなかったが。
 伯父がぐっとアクセルを踏み込んだ。

 マンションのドアを開けると、伯母が落ち着いた足取りで現れた。
 変わっていない。遼一は安心した。そりゃ一年くらいで変わるはずもないが、同い年だという母のようになっていたらどうしようかと思った。・・・これは冗 談でも母には言えない。
「お帰りなさい。―――お久しぶり、遼一君」
 伯母はまず伯父に言い、それから遼一を見て言った。
 相変わらずの細身に、涼しい目元。少し淋しげに見える雰囲気。
 伯母は相変わらず綺麗だった。
 遼一の胸はときめいた。
「お久しぶり、伯母さん」
 それから続けて気の利いたことを言おうと考えたが、何も出てこなかった。変な間が出来て、遼一は少し焦った。
「どうした、遼一?」
 面白そうな目で伯父は遼一を見た。
「いつものお前らしくないよ」
「あなた。遼一君はお母さんのことで大変なんですから・・・」
 伯母が庇ってくれたが、それが見当違いの意見だということは、遼一が誰よりもよく知っている。
 冷や汗が出た。
「まったく今日はひどい暑さだな。冷たいお茶をくれないか」
「すぐご用意します。とりあえず早く居間に入って、涼んでください。遼一君にはジュースのほうがいいかしら?」
「ジュースがいいです」うつむきながら答えて、遼一は靴を脱ぎだした。  

 居間はよく冷えていて、涼しかった。車から降りてマンションのこの部屋に入るまでに噴き出た汗が、あっさりと引っ込むくらいに。
 この部屋に入るのも久しぶりだな―――
 遼一は思いながら、部屋を見渡した。伯父が結婚したのは今から5年ほど前で、そのときにこのマンションに移り住んだ。前の住居ほどここは遼一の家と離れ ていないので、時折、母に連れられて遊びに来た。
 けれど最近は遼一も大きくなり、母もちょこちょことパートの仕事をするようになったので、訪れる機会はあまりなかった。
 久々に見るこの部屋はあまり物も増えていないが、埃ひとつないほど整然と片付いているのは昔のままである。
 ひとつ、見慣れないものがあった。海の上に浮かぶ、M字型の島?の模型だ。
「これ、何ですか?」
 遼一はその模型を指して、伯父に聞いた。
「ん・・・・ああ、それは天橋立の模型だよ。天橋立は聞いたことあるかい?」
「京都の名所でしょ」
「そう、去年の夏に旅行へ行ったんだ」
「伯母さんとふたりで?」
「そう・・・だよ」
 そのとき、伯母がお茶とジュースの入ったグラスを盆に載せて、静々と歩いてきた。
「どうしたの? 変な顔をなさって」
 伯母は不思議なものを見るように、伯父の顔を見た。
  1. 2014/10/13(月) 11:39:00|
  2. 卒業後・BJ(よき妻 第三部)
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卒業後 第2回

 伯父夫妻宅での暮らしは最初のうち、静穏そのものだった。

 もちろん、平日の昼間は伯父は会社に出かけていて留守にしているから、遼一が主に顔を合わせるのは伯母のみである。
  N高校への受験を控えた大事な夏休み、と伯父も母も言っていたが、遼一自身は格別N高へ行きたいと情熱を燃やしているわけでもなかった。何かにつけ器用 で、根本では生真面目な性格が勉強の場でも生かされて、学年でもトップの成績を堅持しているうちに、担任と母の間でN高受験の話が盛り上がってしまっただ けである。
 やれやれ、というところだったが、期待をかけられているならそれに応えようと努力しないではいられないのが、遼一の性格であった。
 それに、不測の事態で暮らすことになったこの伯父夫妻宅は、テレビすらろくろくつけないような家らしく、TVゲームなどあるはずもない。周囲には友達の一人も住んでいない。となると、残りは本を読むか、勉強でもするかぐらいにしか、暇つぶしの選択肢がないのだ。
 その日の午前中も、遼一は間借りしている伯父の書斎でずっと机に向かっていた。昼になってようやく机から離れ、居間へ足を運んだ。
  伯母はくるくると忙しそうに台所を掃除していた。この家に来て分かったことだが、伯母は滅多に腰を落ち着けて休んだりしない。いつもあれこれ仕事を見つけ て、その仕事に打ち込んでいる。一日の半分はテレビに向かってごろごろしている母に見せてやりたいが、一方でそんなに毎日毎日、部屋の隅々まで掃除する必 要もあるまいにとも思った。
「あ、ごめんなさい。昼御飯、今から用意するところなの」
「ううん、かまわないよ。そんなに腹減ってないし」
 何しろ、朝から机の前に座っているだけなのだ。
「それにしても、本当に感心するわ。凄い集中力。京子さんも立派な息子さんを持って幸せね」
「別に―――他にすることもないから、やってるだけだし」
 伯母に誉められたのが嬉しくて照れくさかった遼一は、わざと素っ気無い口調で言葉を返した。
 伯母は申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさいね。遊ぶものも、遊び相手もなくて、退屈してるでしょう」
「でも、仕方ないから」
「私が何か面白い話でもしてあげられたらいいんだけど」
 ・・・いったい伯母は自分のことをいくつだと思っているのだろう。遼一はちらりと不満に思ったが、伯母の困ったような顔を見ると何も言えなかった。
「あ、この近くにさ、図書館ないかな? ちょっと気分転換に外で勉強したいし、本も読みたいから」
「あるわ。―――そうね、私も本を返さなくてはならないし、一緒に行ってもいいかしら」
「もちろん」

 と、いうわけで、昼食後、伯母と並んで近所の図書館へ向かった。
 伯母は半袖の白いブラウスに濃紺のロングスカートという、いたってシンプルな装いだ。
 遼一の年頃にもなると、たとえば母と連れ立って道を歩くことも羞ずかしい。知り合いに見られたらと思うと、ドキドキする。この街には知り合いもなく、横にいるのは母親でもないのだが、遼一の胸はなぜか息苦しいほど高鳴っていた。
 遼一は家族友人の間ではひょうきん者でとおっているが、本来はとても大人びた思考をする少年である。だからこそ、同年代の女の子よりも、年上の落ち着いた女性に惹かれるのだが、伯母に対する気持ちはそれとも違っているように感じる。
  母の京子などが言うように、伯母はたしかに落ち着いていて、しっかり者でもあるのだが、それとは裏腹に、時折、ふと頼りない、というか、不安げな少女のよ うな表情を見せる。普段の佇まいに似合わない、一瞬の不安定さのようなものを垣間見るとき、遼一の胸は騒ぐ。・・・やっぱり言葉ではうまく説明できない が。

 街路樹の蝉がうるさいくらい、元気よく大合唱している。

 図書館はマンションの立ち並ぶ坂の上にあるのだ、と伯母は歩きながら説明した。
「それにしても遼一君は凄いね。N高校って難しい学校なんでしょう? 私は大学も出ていないからよく分からないのだけど」
 少し意外に思った。遼一の感覚では、大学には皆が皆、当然のように行くものと思っていた。父も母も伯父も大学は卒業しているはずだ。
「受かるかどうか、分からないよ」
「きっと大丈夫だと思うけど、受かるといいね」
「・・・・うん」
 答えながら、遼一は、斜め前の道を日傘を差して歩く伯母の眩しいうなじから、目を逸らした。

 坂上の城跡に造られた公園の隣に、図書館はあった。
 入り口の前で伯母と別れ、遼一は二階の勉強室へ向かう。
 さっそく参考書を開いたが、妙に胸がざわめいていて、本の中の文字や記号に集中することが出来なかった。
 しばしの後、遼一は諦めて席を立ち、勉強室を出た。
 階段の傍の廊下の窓から、中庭を見下ろすと、伯母が木陰のベンチに座っていた。本を読むでもなく、ただそこに座って正面を向いているのだが、その顔に漂う奇妙な静けさと、まなざしの形容しがたい複雑な色が遠目からでも窺えて―――

 どきり、とした。

 いつものしっとりと落ち着いた表情でも、時折覗かせる少女の顔でもない、遼一の知らない伯母のもうひとつの貌―――
 その頃の遼一の辞書には知識としての言葉しかなかったが、何年後かにこの瞬間のことを思い出したとき、遼一はようやく、そのとき伯母を見て自分が感じた感情を形容する言葉を探り当てることが出来た。
『艶めかしい』
 遼一はあのとき、たしかにそう感じていたのだ。
  1. 2014/10/13(月) 11:41:02|
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卒業後 第3回

 伯父一家はあまり人付き合いのない家らしいというのは、母の普段の話でも時々出てきたが、実際、一緒に暮らすようになって、遼一はそのことを実感した。
 遼一から見れば、伯父も伯母も穏やかで優しい人たちだ。他人に嫌われて孤立するようなタイプではない。けれど、夫妻があまり人付き合いをしないことに対 しても、遼一はなんとなく納得するところがある。
 二人はともに他人に対して心から胸襟を開くことの出来る人間ではないのだ。誰に対しても、ある程度距離をとって接しないでいられない人たち―――のよう に見える。
 見えると言うのは、あくまでも遼一が普段の二人を見ていて感じたことに過ぎないからだ。伯父が、或いは伯母が他人と話しているのを、遼一はほとんど見た ことがない。だから、二人が対外的にどういう人間なのか、それは分からない。
 ともに暮らすようになった遼一に対しても、先に書いたように優しく接触してくれるのだが、やはり薄膜一枚隔てたような感じはある。母の京子も自分たち一 家に対する二人の態度にずっと歯痒いものを感じているようで、「せっかく近くに住んでいる唯一の親戚なのだから、もう少し親しく接してくれたら良いのに」 と、いつかぼやいていた。
 はっきりとは言わなかったが、母はその原因を伯母のほうに見ていたように思う。「昔の兄さんはそういうタイプではなかった」と、母は言っていた。
 ならば結婚して、伯父は変わったということになる。少なくとも、母はそう見ていた。結婚して、伯母に夢中になって、夫妻だけの生活に閉じこもるように なった、と。
 けれど―――
 伯父の伯母に対する態度、或いはその逆を見ても、そこに相手に溺れきったものはない。むしろ、遠慮がある。気遣いがある。距離が―――ある。
 それが何故なのかは分からない。単に遼一の見ている前だからかもしれない。遼一の見ていない場所での二人は、もっと違う感じなのかもしれない。
 親しい友人も―――いるのかもしれない。

「これは何の印?」
 ある日の夕方、早くも行きつけになった図書館から帰り、リビングでくつろいでいた遼一は、扉の横にかけられたカレンダーを見て伯母に尋ねた。
「八月のお盆の時期に赤ペンでいくつか書かれているけど」
 遼一の問いに伯母は振り返った。一瞬、その表情にうっすらと動揺が現れた気がしたが、すぐに消えた。
「―――ああ。それはね、伯父さんの休みの時期に合わせて、ちょっと旅行に出掛けるお話があって、それで印をうってあったの。でも、今年はたぶん行かない わ」
「僕が来たから? そんなのわるいよ。行っておいでよ。子供じゃないんだし、留守番くらいするよ。家に戻ってもいいし。せっかく伯父さんと水入らずの旅行 なんでしょ?」
 言いつのる遼一の声を、伯母はじっと黙って聞いていた。
 この部屋は西向きで、夕日がまっすぐに差し込んでくる。そのときも、窓際に立っている伯母の背中を、オレンジの光が染めていた。遼一の位置からは、伯母 の姿は逆光でよく見えなかった。
 しかし、そのとき、伯母の口元がかすかに動いて、「ごめんなさいね」という無音の言葉を刻んだように、遼一には見えた。
 それは気のせいだったのかもしれない。なぜなら伯母はすぐに棚の布巾かけを再開し、手を動かしながら、
「遼一君は気にしなくていいのよ。今年は伯父さんも休みが少なくて忙しいし、せっかくの休日を混雑の中で過ごすよりは、家でゆっくりしたほうがいいと仰っ ていたわ」
 と、言ったから。
「でも・・・・やっぱりわるいよ。せっかくの休日に、こんなお邪魔虫がくっついていたら、二人でいちゃいちゃも出来ないじゃん」
 だから遼一も、普段の道化の役割に戻って、冗談めかした口調で言った。
「まあ」と伯母は笑い、遼一も笑った。

 けれど―――やはり伯母は八月の旅行に行き、伯父は遼一とともにこのマンションに残ることになるのである。
  1. 2014/10/13(月) 11:42:06|
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卒業後 第4回

「今度、伯母さんは昔からのお友達と旅行へ行くことになってね。しばらく家を空けることになった。でも、その期間は私もお盆休みの時期だから、食事なんか は心配ない」

 そんなふうに伯父から話を切り出されたのは、八月に入ったばかりの頃だった。
「あれ、それって伯父さんと二人で行く旅行じゃなかったの?」
 驚いて聞き返すと、伯父は微妙な表情をした。遼一は居間のカレンダーを指差した。
「あれの何日かに印がうってあるじゃない。あの印は何?って伯母さんに聞いたら、八月の旅行計画だけど、行かないことにしたって言うから・・・・わるい な、と思ってたんだ。だって、僕が来たから、二人で旅行へ行けなくなったんだろうって思ったから」
 伯父は静かに遼一の話を聞いていた。やがて、その手が動き、くしゃくしゃと遼一の髪を乱した。
「・・・心配しなくてもいいよ。最初から、その友達の方と私たちの三人で旅行に行く予定だったんだが、今年は休みも少ないし、遼一もいるし、どうするか 迷っていたんだ。けれど、せっかくたまの旅行の機会だしね。伯母さんはいつも家にいて退屈だろうから・・・たまには家から離れて、羽をのばしてくるのもわ るくないだろうと思ってね」
 最後のほうの伯父の言葉は、やけに苦しげに聞こえた。
「だから、旅行には伯母さんひとりで行く。伯父さんはここで遼一と留守番だ。こっちはこっちで男同士、のんびりと過ごそうじゃないか」
 黙りこんだ遼一の気分を引き立てようとしてか、伯父は表情を明るいものに切り替えて、そう言葉を続けた。
「ちょっとむさ苦しいけどね」
 遼一も伯父に調子を合わせてひやかしの言葉を吐いたが、胸中にはなんとなく釈然としないものが残っていた。
 昔からの友達。
 そんな存在がいたのだ。この夫妻に。
 いや、別にいてもおかしくないというか、自然なことなのだが、一緒に旅行へ行くほど親密な人間関係を夫妻が持っていたことに、遼一は驚いていた。
 
「こんな大変な時期に家を空けることになってしまって、ごめんなさいね」
 出発の日まで、伯母はしきりと申し訳ながった。
「大丈夫だよ。僕のことなんか気にしないで。それより伯母さんも旅行を楽しんで、ゆっくり生命の洗濯をしてきたほうがいいよ」
 わざと年寄りくさい言葉を使って言う遼一に、伯母もやっと仄かな笑みを見せた。
「遼一君は本当に優しい、いい子ね」
「いい子って歳でもないよ」
 ぶっきらぼうな口調になるとき、遼一は決まって照れている。
「そんなことより、楽しい旅行になるといいね」
 そう言った瞬間、伯母の笑みが消え、瞳の色が曇ったように見えた。しかし、すぐにまたもとの笑顔になって伯母は「ありがとう」と言い、そしてもう一度 「遼一君はいい子ね」と続けた。


 そして―――伯母の出発の日がやってきた。
 ちょうどその日から休暇になっていた伯父だったが、その日は朝から会社に用事が残っていると言って、家を出て行った。
「もうすぐ転勤もあるからね、色々と忙しいんだよ」
 言い訳するように、伯父は遼一に言った。いや、伯母に言ったのかもしれない。
「気をつけて―――行っておいで」
 最後に伯母に向かって言い、伯父は家を出た。玄関まで見送った伯母は、扉が閉まってもなおその場にしばし佇んでいた。
 居間からその背中を眺めながら、遼一はなんだか落ち着かない気分でいた。

 その日は伯母を見送ってから図書館へ行くつもりだったので、遼一は朝から書斎の机に向かった。
『N高校の受験まで半年。今年の夏休みが勝負だ。集中して勉強せいよ』
 担任からはいつもそう言われていた。しかし、この家に来てから、遼一は少し落ち着かない。親戚といっても他人の家だから、というのはもちろんあるが、そ れ以上にこの静謐な家の底流でざわめく何かに、遼一が敏感に反応していたからかもしれない。
 いや、それはすべて言い訳にすぎなくて―――
 遼一は椅子から立ち上がって、腰骨をぽきぽきと鳴らした。
 伯父は煙草吸いなので、この書斎にもほんの少しだけ煙草の匂いが染み付いている。
 その匂いを意識しながら、遼一は部屋を出た。居間に行く途中の部屋の扉が開け放しになっていて、伯母の姿が見えた。

 伯母は鏡台に向かって化粧をしていた。

 普段、ほとんど化粧気のないひとだけに、こんなときの姿を見るのは初めてだった。遼一はふと足を停めた。
 鏡の中の自分を見つめながら、唇に紅を引く伯母。
 その瞳はまっすぐ前を向いていて、遼一の存在に気づいてはいない。
 つっと上向いた顎から、危ういほど細い喉首にかけての線が、見蕩れるほど綺麗だった。

 女性は化粧をするとき、鏡に映る自分の顔に何を見ているのだろう。彩られ、変わっていく自分の姿か。それとも、その姿を目にすることになる相手のこと か。
 伯母の冴えた横顔を見つめる遼一の胸に、ぼんやりと疑問がきざした。

 そんな物思いを起こさせるほど、化粧に専心している伯母の姿は、普段とは別人のようで。

 ぞっとするほど―――美しくて。

 妖しかった。


「あら」

 口紅を鏡台に置いた伯母が、ぼうと突っ立っている遼一の存在にようやく気づいた。
「・・・・ずっと見てたの?」
 夢から覚めたような心地で、遼一は仕方なしにうなずいた。
「羞ずかしいわ」
 両頬を繊手で押さえ、伯母は恥じらった。大人の女性からいきなり少女に戻ったようなその仕草が、無意識の媚態のように見えて、遼一の背骨は震えた。
「もうこんな時間。急いで昼食を用意するから」
 言って、伯母はすっと立ち上がり、遼一の横を抜けて行った。
 伯母の姿が消えて、ようやく遼一はほっと息をついた。痺れたような身体をぐったり壁にもたれさせた。

 伯母は―――遼一を落ち着かない気持ちにさせずにおかないその女性は、正午少し過ぎに家を出て行った。
 玄関まで見送った遼一は、先程の伯母のように佇んで、彼女の消えた扉をしばらく見つめていた。
  1. 2014/10/13(月) 11:43:22|
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卒業後 第5回

 遼一と伯父、二人きりの生活が始まった。

 三人でいたときも伯母は寡黙だったが、彼女はそこにいるだけで独特の雰囲気をつくる人であった。伯母がいなくなったこの部屋は妙にがらんとして、広く見 えた。
「伯父さん、淋しい?」
 新聞を読んでいる伯父に聞いてみた。伯父は新聞を置き、遼一に笑顔を見せて言った。
「たかが三日間の留守で淋しくなるほど短い結婚生活じゃないよ」
 だが、その笑顔はどこか弱々しいものに遼一の目には映った。そして、遼一は淋しかった。

 伯父は三日の間に遼一を色々な場所へ連れ出した。一日目は母の入院している病院に見舞いに行った。
「入院している間、ちっとも動かないから太ってしまいそう」
 母はそう言って、陽気に笑った。相変わらずとても病人には見えず、元気そうだった。遼一の父は寡黙な男で、我が家の朗らかな空気はもっぱら母がつくって いる。どこの家でもそういうものなのかもしれないと思った。
 二日目は映画を見た。ハリウッド製のいかにもな大作映画だった。
「伯母さんとも映画に行ったりするの?」
 見終わってカフェでコーヒーを飲みながら伯父に聞いてみると、伯父はしばし考えた後で、
「いや・・・・行っていないな。たぶん、一回ぐらいしか行ってない」
「そのときは何を見たの?」
「・・・・何だったかな、忘れてしまったよ」
 伯父は答えて、煙草に火を点けた。伯母がいるときは、中学生の前で煙草を吸うな、とでもうるさく言われているのか、伯父は煙草をふかしていなかった。そ の分を取り戻すように、伯父は落ち着きなく、すぱすぱと煙草を吸っていた。
 落ち着きなく―――本当にそうだ。伯母のいない三日間、伯父はどこか様子がおかしかった。妙に陽気に振る舞ったかと思うと、ふと物思いに沈み込んだりす る。
 一番変だったのは、三日目の夜だった。

 伯母のいない間の食事はほとんど外食だったが、最後の夜も伯父は「せっかくだから旨いものを食べに行こうよ」と言って、遼一を梅田の高級レストランへ連 れて行った。
「こんな店、入ったこともないよ」
 おっかなびっくり注文をすまして、遼一が言うと、伯父は「だから連れてきたんだ」とすました顔で答えた。
「伯父さんだって、こんな店いつもは来ないよ。怖くて来れない」
「でも、悪いな」頭上にきらめくシャンデリアを見ながら、遼一は呟いた。
「子供がお金の心配するものじゃないよ」
「それももちろんあるけど、伯母さんがいないときにこんな贅沢をするのが・・・悪いよ」
 遼一の言葉に、伯父は一瞬、何だかひどく悲しそうな顔をした。
 しかし、その顔はすぐ平静に戻り、伯父は言った。
「伯母さんは気にしないよ」
「そうかもしれないけど」
 しばし二人のテーブルに沈黙がおちた。その間を見計らったように、ウエイターがやってきて料理の皿を並べていった。

「伯母さんはあれでわりと人見知りでね。あまりひとと喋るのが得意じゃないほうなんだが、遼一には心を開いているようだ」
 食事しながら、伯父はぽつりと言った。
「いいことだよ。だから、遼一には感謝してる。うちにいる期間が過ぎても、時々マンションに来て、瑞希の話し相手になってやってほしい」
「それは・・・もちろんいいけど」
 あらたまった口調に面食らいながら、遼一は答えた。
 伯父はさらに何か言葉を続けようとした。だが、その瞬間に携帯が鳴った。
「失礼」短く言って、伯父はポケットから携帯を取り出した。
 瞬間、伯父の顔色が変わった。
「誰からなの?」
 思わず遼一は聞いてしまった。
「いや、仕事相手だよ」伯父は笑みをつくって答えたが、その笑みにはいかにも無理して張り付けたようなものだった。「ちょっと席を立つ。食事を続けていて くれ」
 早口で告げて返事も待たず、伯父は去っていた。その背中をしばし呆然と、遼一は見送った。

 やがて、伯父は戻ってきた。
 顔色が悪い。血の気がひいている。何か悪い知らせでもあったのだろうか。気になったが、直接聞くことは遼一にははばかられた。
「さっきは悪かったね。ちょっと仕事で急な連絡があって。何、そんなにたいしたことじゃなかったんだが」
 遼一の顔色を読んだのか、言い訳するように伯父は言った。
 嘘に、決まっていた。


 翌日の昼に、伯母は帰ってきた。
「お帰りなさい」
 遼一が出迎えると、伯母は笑顔で「ただいま」と言った。その笑顔には張りがなかった。というよりも、全体的にそのときの伯母には普段の凛とした気配が欠 けていた。精根尽き果てたように、ゆるく弛緩していた。
 たまの旅行で疲れたのだろう。遼一は思った。
 いつもより疲れた風情の伯母の顔。けれど、そのやつれた頬と縁取りの濃くなった目元が、なぜか凄いほど艶めいて見える。遼一はまともに伯母の顔を見るこ とが出来なかった。
「あのひとは?」
「伯父さんはさっきどこかに出掛けた。何か用事があるんだって」
 思えば伯母の出発のときも、伯父はいなかった。そして今もいない。なんだか、意識して避けているみたいだ、と遼一はかすかに思った。
「そう」
 そのことが分かっていたように、あっさりうなずいて、伯母はハイヒールを脱ぎかけた。その足元がぐらついて、遼一のほうに傾く。遼一は反射的にその身体 を受け止めた。

 抱きとめた伯母の身体は、ひどく柔らかだった。

 服の襟元から、白い胸元が目に入る。
 乳房のふくらみが瞳に灼きつく。

 そのふくらみの上部に、赤い痣が見えた。

「ごめんなさい」

 伯母は謝って、すぐに身体を離した。遼一は何も言えないまま、ただ首を横に振った。
「なんだか疲れているみたい。寝室で少し休むわ」
 あ、その前にシャワーを浴びなくちゃ。ぼんやりとした口調で言いながら、伯母はゆっくりと部屋の奥へ消えていく。
 遼一は金縛りにあったように、その場から動けずにいた。


 伯母が戻り、この家に日常が戻ってきた。
 しかし、その日常は以前のものと少し違う。何がどう、とは言えない。しいて言えば、日常の中に住む人間が違う。伯父が違う。伯母も違う。
 そして、遼一も少し変わった。
 あのときに見た伯母の白い胸元が、遼一の脳裏に焼きついて離れない。
 そして、あの赤い痣―――

 伯母は戻ってきてから数日間、ずっと長袖の服を着ていた。
 そのわけを遼一は知らない。
 知らないが、あの白い胸と赤い痣のイメージを思い出すとき、遼一は後ろめたさと、疼くような身体のざわめきを一緒に感じ、ひどくやるせない気持ちになっ た。
  1. 2014/10/13(月) 11:44:41|
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卒業後 第6回

 それからしばらくして、母の手術の日となった。さすがにその前日は心配で夜もろくに寝られなかったが、幸いに手術はうまくいき、術後の経過も良好で、も うすぐ退院出来るとのことだった。
「そう・・・本当によかった」
 母からかかってきた電話の内容を伝えると、伯母は安心したように両手で胸を押さえた。
 その伯母を見つめながら、遼一は先程までの嬉しい気持ちに、急に物悲しさが入り混じってくるのを感じた。
 母の退院の日は、遼一がこの家から出て行く日のことでもある。
 もうすぐ―――このひととの暮らしも終わるのだ。

 遼一にとって、今や伯母の存在はなかなか複雑なものだった。
 かつては純粋に憧れの対象だった。けれど、この家に来て生活をともにするようになってから、伯母への思慕は純粋なものとばかりはいかなくなった。認めた くなくても認めずにはいられない。理性がいくら否定しようが、目覚め始めた遼一の男性は、伯母を欲望の対象として疼かずにはいられなくなっていた。
 少年らしい潔癖さで、そのことは遼一にしばしば罪悪感を起こさせた。
 こんな気持ちを経験するのは、初めてだった。そして当然のことだが、この狂おしい気持ちへの対処法は、どんな教科書にも参考書にも書かれていなかった。

「どうしたの?」
 不意の声にはっとした。視線を上げると、伯母が覗き込むようにこちらを見つめていた。
 遼一は動揺した。
「別に・・・・何でもないよ」
 わざわざ手を顔の前で振りながら否定して見せるのは、焦っている証拠だ。
「それよりせっかくのいい天気だし、たまには外に遊びに行かない? 今日は僕、勉強やめとくから」
 考えなしに口に出した言葉だったが、伯母はちょっと考えた後で、「そうね」と言った。
「京子さんの回復をふたりでお祝いしましょうか。それとも、京子さんの病院までお見舞いに行く?」
「・・・そうだね。それもいいかも」
「ちょっと待ってて。外着に着替えてくるから」

 というわけで、予定になかったが伯母と二人で電車に乗って、母親の入院している病院へ行った。
 伯母は用事以外ではほとんどマンションの部屋から出ることのないひとなので、こうして一緒に電車に乗るのも不思議な感じがするくらいである。
 だから、この前の旅行、あれはよほど特別なことだったのだ。
 吊り革に掴まって外を眺めている伯母の横顔を見ながら、遼一はふとあの日目にした白い胸元を思い出し、慌てて伯母から視線を逸らした。
 まったく、この頃の自分はどうかしている。
 本当にそう思う。だけど、どうしようもなかった。

 ついこの間、伯父とともに病院を訪れた際に会ったばかりだったが、手術を終えた母は普段と同じように色艶の良い顔をしていた。しかし、遼一の背後に伯母 の姿を発見して、意外そうな表情をした。
「お久しぶりです、京子さん。ずいぶんご無沙汰してしまって・・・本当に申し訳ありません」
 どっちが義姉だか分からないふうに頭を下げながら、伯母は言った。母も慌てたように「わざわざお見舞いに来てくださって、ありがとうございます」と頭を 下げた。
 思えばこの二人が親しく話をしているところを、遼一は今まで見たことがない。近所の主婦連の間に広大なネットワークを持っているような母も、この伯母と は普段からあまり交流がなかった。
「この度のこと本当に大変だったでしょうけど、手術のほうがうまくいって良かったですね。私も一安心しました」
 伯母がゆったりした口調で話を切り出した。
「おかげさまで・・・まあ、私は元気だけが取り得のような女ですから。瑞希さんは相変わらずお綺麗で、羨ましいわ」
「そんなこと・・・・」
「遼一がご迷惑をかけていません?」
「いえ、遼一君は本当にいい子で、私こそ京子さんが羨ましくなりました」伯母は言いながら、遼一を見て微笑んだ。「きっと京子さんたちのご教育が良かった のでしょうね」
「瑞希さんだってお若いんだから、まだまだこれからだわ」普段あまり話さない伯母と言葉を交わして徐々に興奮してきたのか、母はこの前伯父に言ったのと同 じことを言う。
「そう、ですね・・・・」
「そんなにお綺麗なんだもの、今でもずいぶん兄さんに可愛がられているんでしょう?」
 調子にのった母の口調が、近所の主婦連と話すときのものになる。我が母ながら、遼一は赤面した。
 伯母も赤面して、口ごもった。見るに見かねて、遼一が「母さん!」と怒ったように叫ぶと、母はバツの悪そうな顔をした。
「ごめんなさいね、品のないことを言って。今まで瑞希さんと二人でお話する機会がなかったから、つい嬉しくなってしまったの」
 伯母は「いえ」と首を振りながら、母に微笑みかけた。その耳朶はまだほんのり赤い。
 呟くように、伯母は言った。
「やっぱり・・・・私は、京子さんが羨ましいわ」
 その理由は、言わなかった。

 病院を出たのは夕暮れ時だった。夏も終わりに近づいたのか、以前よりも日が暮れるのが早くなった気がする。
「京子さん、お元気そうでほっとしたわ」
 軽やかな足取りで歩く伯母の髪が、風に揺れている。
「いつも元気だけど、今日は特別。伯母さんと話せて嬉しかったんじゃない?」
 知らず知らずスカートの裾から伸びる脚に目をやりながら、遼一は答えた。
「私も嬉しかったわ。でも」
 伯母の足取りが遅くなったので、遼一はその傍らに並んだ。
「でも、何?」
「ううん・・・京子さんと話していると、何だか自分が羞ずかしくなってしまうの。素敵なひとだから。私とは全然違うから。だから、私からちょっと避けるみ たいな感じになってしまって、そのせいで京子さんにはいつも気を遣わせてしまっていると思うの」
 言いにくそうな口調で、伯母は言葉を紡いだ。
 伯母はそのとき、夕陽のためでなく本当に赤くなっていて、だからこそ遼一はなんと答えるべきなのか迷ってしまった。
「よく分からないけど・・・・これからたくさん話して、仲良くなっていけばいいんじゃない? 母さん、よく言ってたよ。伯父さん伯母さんの家と僕たちの家 がもっともっと親しくなれればいいのに、って」
 そうなったら僕も嬉しいよ―――遼一は言葉を続け、そっと伯母を見た。
「うん・・・・」力なくうなずいた後、伯母は遼一を見て微笑った。少し無理したような顔で。
 そして、言った。
「―――ありがとう」

 家に帰り着いたのは19時になる手前くらいだったが、その時刻には珍しく、伯父は帰宅していた。
 玄関の戸が開く音を聞いて、慌てたように伯父はやってきた。
「どこへ行ってたんだい? 心配するじゃないか」
 まっすぐ伯母の顔を見つめながら、伯父は妙に切迫した声で言った。
 はっとしたように、伯母が息を呑んだのが分かった。
「すみません。京子さんの手術がうまくいったというお電話があったので、遼一君とお見舞いに行ってたんです」
「それは・・・・良かったね」初めて遼一の存在を思い出したように、ぎこちなく遼一のほうを向いて、伯父は言った。
 遼一は声もなくうなずいた。
「遅くなってすみませんでした」
 伯母はもう一度謝り、伯父は「もういい、もういい」と手を振った。
「すぐに夕食をご用意します」
 うつむきながら短く言い、伯母はとんとんと足音を立てて台所へ消えていった。伯父もその後に続く。
 遼一は思い出していた。あの夜の伯父の言葉を。

 ―――伯母さんはあれでわりと人見知りでね。あまりひとと喋るのが得意じゃないほうなんだが、遼一には心を開いているようだ。
 ―――話し相手になってやってほしい。

 たしかにあれは、伯父の本心からの言葉であろう。けれど、その言葉と矛盾するように、伯父の存在そのものが伯母の自由を奪っている一面もありはしない か。
 いや、これはそういう類の問題ではないのかもしれない。
 たった今見たばかりの伯父の目。あれは何かに怯えている人間の目だった。

 伯父は―――何を恐れているのだろうか。
  1. 2014/10/13(月) 11:45:47|
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卒業後 第7回

 一ヶ月の入院生活を終えて、母が今日、退院した。父も休みを取って、単身赴任中の仙台から取って返し、病院まで母を迎えに行って一緒に自宅へ戻ったとい う。
 そして明日、遼一は伯父夫妻宅に別れを告げるのだ。

 その晩は母の快気祝いと、遼一のお別れ会を兼ねたパーティーが伯父の発案で行われた。といっても、マンションの部屋でのこじんまりとしたパーティーだ が、その気持ちだけでも遼一には嬉しかった。
 テーブルには様々な料理が並んだ。冷やした鶏肉に柚子の香のするソースをかけたものや、たれのかかった鮪の薄い切り身を盛り付けたサラダなど、比較的淡 白なこの家の食卓ではあまりお目にかからない料理。そのいずれも、やはり伯母の手製である。
「これは豪勢だね。酒がすすみそうだ。遼一も今夜は少し飲むか」
 卓上の料理を見て歓声をあげながら、伯父はどかりとテーブルの椅子に腰を下ろした。
「遼一は酒はいけるほうか?」
「ほんの少しなら」
「駄目ですよ。明日ご両親と会うのに、お酒臭い息なんかしていたら、私が京子さんたちに叱られてしまうわ」
 伯母が早々と釘を刺し、「分かってるよ。言ってみただけだ」と伯父はバツの悪い顔をして答えた。
「この一ヶ月、本当にお世話になりました」
 タイミングを見て、遼一は二人に深々と頭を下げ、礼を言った。
「なんだい、あらたまって。いつもの遼一らしくないじゃないか」
「あなた。あなたはそんなふうに仰るけど、遼一君は今どき珍しいくらい、しっかりした、礼儀正しい子ですよ」
 伯母は言って、遼一を見つめた。
「こちらこそ、一ヶ月の間、遼一君と一緒に暮らせて本当に楽しかったわ。ありがとう」
「これからも、ちょくちょく遊びに来るといい。どうせ家も近いんだ」
 伯父もくっと杯を干しながら、言った。
「うん。ありがとう。伯父さんも伯母さんもまた今度、僕の家に遊びに来てよ。母さんも僕もいつでも歓迎するよ」
 言いながら遼一は、そんな機会はこれからも滅多にないだろうな、と思った。

 ささやかな別れの会が終わって、伯父はそれほど飲んでもいないのに早々と寝室に行ってしまった。名残惜しい気がしたが、遼一も今夜はもう寝ようと、洗面 所へ行った。
 歯を磨いている途中、戸が開いて、伯母が姿を現した。
「ごめんなさい。タオルだけ新しいのと変えさせてね」
 伯父に勧められるままに少しだけ酒を口にした伯母の目元は仄赤く、瞳の色も潤んだようで、そこはかとなく色っぽい雰囲気がした。
 遼一は目を逸らし、歯ブラシを咥えたまま「どうぞ」と言って、身体をずらした。
「明日から遼一君がいないと思うと、この家も淋しくなるわ」
 ゆっくりとタオルを変えながら、伯母は言う。
「いいじゃない。ようやくお邪魔虫がいなくなって、伯父さんと二人きりで楽しく過ごせるよ」
 わざと明るい口調で、遼一は言った。言いながら、胸がしめつけられるように痛むのを感じた。
「もう・・・・」
 朱に染まった目元をきゅっと引き絞って、伯母は冗談ぽく遼一を睨んだ。こんな何気ない仕草のひとつひとつが悩ましく見えてしょうがない。
 伯母が出て行った後、遼一はしばし放心したように洗面台に手をついて、鏡の中の自分自身を見つめていた。
 旅先から戻ってきたあの日、ふとぐらついた伯母の身体を抱きとめた。この腕はまだその感触を覚えている。骨がないかのように柔らかだった、薄布越しの肌 の感触を覚えている。とても、忘れられそうにない。明日、この家を出て行った後も、ずっとずっと。
 まだ女性を知らない遼一だった。あの日抱きとめた伯母の身体は、異性を意識して触れた初めての女性の身体だった。
 服の襟から覗いた、眩しいほど白い胸。優美なまるみを帯びた、滑らかな乳房の張り。白い丘に染みのように残っていた赤い痣の形まで、はっきりと瞳に灼き ついている。
 あの瞬間、遼一は狂おしいほど昂っていた。手を伸ばして、すぐそこにある禁断の果実を掴み取りたい、薄皮で隠された果実の中身までもすべて見てみたいと いう衝動を抑えるので精一杯だった。
 伯母は自分のこんな気持ちを知らない。そして、ずっと知らないままでいるのだろう。それでいいのだ、と遼一は思う。なぜなら、伯母は伯父のものなのだか ら。これまでも、これからも。
 遼一はため息をついた。最後の晩だというのにこんなことばかり考えている自分が、どうしようもなく卑猥に思えて、自己嫌悪がした。
 蛇口をひねって水を出し、顔を洗う。それでも気持ちまではさっぱりしない。もう一度ため息をついて、遼一は洗面所を出た。

 あっさりと次の日はやってきて、遼一は伯父の車に送られて自宅へ戻った。父に挨拶をした後で、伯父は遼一に「またね」と軽く手を振って、車で去っていっ た。
 この家に家族三人が揃うのも本当に久しぶりのことだったのだが、その日の遼一にはあまり意味のないことだった。会話を早々に切り上げて、遼一は自室にひ きこもった。
 懐かしい自分の部屋、懐かしい匂いのするベッドに寝転がった。
 伯父夫妻宅での約一ヶ月の生活が、今終わった。
 もうすぐ夏休みも終わる。

 結局、勉強はあまりはかどらなかったな―――

 他人事のように考えながら、遼一は日差しの差し込む窓の外を見た。
 夏の終わり―――それは遼一にとって、少年期の終わりを意味していたのかもしれない。

 その夏、遼一は初めて恋をした。同時に、恋をした女性に対する焼けつくような欲望を覚えたのだ。

 けれど、遼一は知らなかった。少年期を卒業し、青年への戸口にたったばかりの自分が、あの日骨の溶けるような想いで目にした禁断の果実に、思いもよらな い形で再び触れてしまうことになるのを。
 遼一は、知らなかった。
  1. 2014/10/13(月) 11:47:08|
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卒業後 第8回

 中学最後の夏休みが終わり、新学期が始まった。

 有名高校に進学を希望する受験生は、目の色を変えて自分を追い込んでいかなければならない時期だ。
 学校の生徒にはまめにこつこつ勉強する遼一のようなタイプ、気は焦ってもどこから手をつけていいか分からず不安そうにしているタイプ、はなから俺には無 理だと諦めているタイプと、多種多様なのが揃っているが、やはり教室全体の空気はいつもと違った緊張感に包まれている。
 そんな教室の中で毎日を受験のために過ごしながら、この雰囲気はあの家に似ているなと遼一は思った。
 あの家―――伯父伯母の暮らす家だ。
 家庭にも二種類あって、ある程度の年数が経つとすっかり落ち着いて、ちょっとやそっとじゃ変わらない空気が漂う家と、どれだけ年月が過ぎても絶えず何か が蠢いているような・・・・そう、言うなれば現在進行形の家があるようだ。
 あの家は―――後者だった。
 表面は静謐で、穏やかに見えても、底のほうでは常にざわざわと波立つ何かがあった。少なくとも遼一はそう感じていた。

 自分が今、やがて来る受験の日を不安の中で待っているように、伯父も伯母も何かを待っているのかもしれない。

 なんとなく、そう思った。


 9月に入ってしばらくした頃、伯父から電話がかかってきた。
 伯父は次の週にも東京へ発ち、4ヶ月間の単身赴任生活に入るのだという。
「伯母さんはこっちに残るんだよね?」
「まあ・・・短い期間のことだしね。仕方ないよ。伯母さんも一人じゃ淋しいだろうから、時々遊びに来てやってくれないか」
「うん・・・・」
 電話越しにうなずいたが、伯父が発ってから三ヶ月経っても、遼一が彼の家を訪ねることはなかった。伯父が不在の家に伯母を訪ねに行くことが、そのときの 遼一には、とても不謹慎な行為に感じられたのだ。
 理由は分かっている。
 受験勉強で忙しかったから、というのはもちろん言い訳に過ぎない。
 夏の一ヶ月の同居生活で自分が感じたあの女性への想いが、生々しい欲望が、遼一の中で未だ薄れていなかったから―――
 そのことにずっと後ろめたさを感じているから―――
 遼一は伯母のひとり暮らすマンションを訊ねることが出来なかったのだ。


 いつの間にか、吹きぬける風がめっきり肌寒くなった。
 木々の葉も衣替えの時期を迎えている。
 マフラーに口元を埋めるようにして、その日、遼一は自転車を飛ばして家へ戻った。
 居間へ入ると、母がちょうど受話器を置いたところだった。
「お帰り。今日は早いのね」
「図書館に寄らなかったからね。電話、誰と?」
 何の気なしに聞いたのだが、母が「瑞希さんよ」と答えたときには、少し胸がざわついた。
「―――へえ、珍しいじゃない」
「瑞希さんも兄さんがいなくて淋しいだろうから、たまには話し相手になってあげなきゃと思ったんだけど、どうも最近あまり体調がよくないらしいわ。季節の 変わり目だからかねえ。あんたも気をつけなきゃ駄目よ。今が一番大事な身体なんだから」
「分かってるよ」
 投げやりに返事しながら、遼一は具合のよくないという伯母のことを想った。
 そのとき、心配する気持ちばかりでなく、遼一の胸にわずかに弾むものがあったのは、その時点ですでに、ずっと探していた口実を見つけたと感じていたから かもしれない。
 誰よりも、自分を騙すための口実を。


 遼一はその週末、久々に伯母のマンションを訪れた。
 前に訪ねたときから、すでに三ヶ月の月日が経っている。
 あらかじめ、伯母に電話をいれることはしなかった。母には叔母の家に行くことを内緒にしていたから、家の電話を使いたくはなかった。今どきの子供にして は珍しく、遼一は携帯電話を持っていない。
 どっちみち、あのひとはいつも家にいるのだから―――
 そう決め込んでいた遼一の期待は、外れた。
 数回チャイムを鳴らしても、伯母は姿を現さなかった。

 しばし部屋のドアの前で佇んだ遼一の胸に、次第に不安な気持ちが育ってきた。
 この家には伯母しかいない。彼女が急病で倒れても、助けを呼ぶ者はいないのだ。
 一度そのイメージを頭に浮かべてしまうと、いてもたってもいられなくなった。幸い―――決して幸いなことでなかったのを遼一は後に思い知るのだが――― 合鍵の在りかは分かっていた。
 一階の郵便受けの天井にテープで貼り付けてあるその合鍵を取りに、遼一は10分前にのぼった階段を大急ぎで駆け下りた。
  1. 2014/10/13(月) 11:48:37|
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卒業後 第9回

 ―――――――――――***――――――――――


 あなたが憎い―――と女は云った。


 女がこの部屋に足を踏み入れたのは初めてだった。部屋の主は色彩の統一にこだわる男らしく、家具は黒塗りのものがほとんどで、女が座っているソファーも 黒革だ。
 ぴかぴかとひかるそのなめし革に腰掛けた女は、しかし上下の服を白で揃えている。その服を着た女の肌も蒼みがかって見えるほど白い。
 だが、女は部屋の雰囲気に溶け込んでいる。
 星一つない闇夜、激しい雨風が窓を鳴らしている。
 その音にかき消されそうなほど、女の声は細かった。


 あんなに非道いことをするなんて―――


 女は上目遣いで男を睨み、恨み言を続ける。黒々とした瞳は濡れたようだ。部屋の照明が長い睫毛に翳をつけている。あまり寝ていないのか女の目元には隈が 出来ているが、その下瞼のふくらみは妖艶だった。
 男はそんな女の顔を眺めながら、無言で煙草をくゆらしている。その顔にはわずかの動揺も窺えない。
 やがて、男は煙草を揉み消し、女の隣に腰掛けた。横抱きに肩を抱えようとする腕をすり抜けようと女は躯をくねらせたが、無駄なことだった。
 細い躯が男のもとに引き寄せられる。
 女は抗うことを諦め、喋ることもやめて男と沈黙に自らを委ねた。
 男の手が襟元から入り込み色白の胸元に伸びる。乳房を掴まれた瞬間、女の唇から吐息が零れた。
 掴み出した乳房を掬うように男の手が持ち上げ、照明の下に晒した。細身の肢体にしては、女の乳房は豊かな肉が充ちていた。肌理の細かい肌の表面に、蒼い 血管が透けている。男はしばしその様を眺めた後、引き伸ばした白餅のようなそれの頂きに口をつけた。
 女は呻いた。
 男がくぐもった笑い声を立てる。感度の良い自分の身体を羞じたのか、女は小さく啼いて男の肩に顔を埋めた。その顎を男の手が捉え、無理やりに上向かせ た。
 濡れたような女の黒い瞳と、闇のような男の瞳が向かい合う。
 女の唇が動いた。


 でも―――
 今の私にはあなたしか頼る人がいない―――


 切れ切れした口調で、女はそれだけ告げる。男は何も答えない。ただ、女の顎をつかんだ指に力をこめる。
 瞳をとじた女の朱い唇に、男の厚い唇が合わさった。


 何もかも忘れさせて―――


 瞳をとじたまま最後に云って、それきり女は、男の導く没我の底へ自ら沈んでいった。


 ―――――――――――***――――――――――


 最近、息子の遼一の様子がおかしい、と京子はずっと思っている。

 いつもは落ち込んでいるときにも、母親である京子にはそんな顔を見せようとはしない大人びた息子だったが、近頃は口をきくことも少なく、さっさと自室に こもってしまう。表情も常に暗い。
 「どうしたの、何かあったの」と聞いても、遼一は「何もないよ」とうるさそうにするばかりだ。そんな返事で納得する親がどこにいるだろうか。今まで心配 一つかけたことのない息子なだけに、余計に京子は戸惑っていた。
 もうすぐN高の受験だというのに―――
 京子がため息をついた瞬間、その日、居間の電話が初めて鳴った。
「もしもし」
「・・・京子か?」

 兄からであった。兄は今、東京で一人、単身赴任生活を送っている。

「ああ、兄さん。どうしたの?」
「―――頼みがあるんだ」
 兄の声は奇妙なほどに切迫していた。

 急いで家事を終わらせ、午後から京子は電車に乗って兄のマンションに向かった。先述のとおり兄は東京に出ているから、今は兄嫁一人がそのマンションに 残っている。
 おかしな―――依頼だった。
「瑞希と連絡がつかないんだ。悪いけど、行って様子を見てきてくれないか?」
 先刻の電話で、兄は言った。瑞希とは、兄嫁の名だ。
「電話は?」
「ずっとつながらないんだ」
 兄との会話が終わった後、京子も試しにかけてみたが、兄嫁は出なかった。
 だから京子は言われたとおり、兄のマンションまで足を運ぶことにした。
 兄嫁とはそれほど親しく付き合ったことがない。兄と結婚する前に初めて兄嫁を紹介されたとき、美人ではあるが、とっつきにくいタイプだと感じた。きびき びと隙のない身のこなし、堅い物言いは武家の妻を思わせた。とても自分と同じ歳だとは思えなかった。
 けれど、この前京子が入院し、見舞いにきた兄嫁と久々に会ったとき、その印象が少し変わった。どこがどうとは言えない。ただ全体的に雰囲気が変わって ―――どこか、艶めかしくなっていた。
 男まさりなところのある京子と比べて、たしかに兄嫁は以前からずっと女らしかったが、そういうのともまた違う。硬い革がくたくたになるまでなめされて艶 光りし始めたような、そんな不可思議な色気が感じられた。
 これは兄が夢中になるのも無理はない―――内心の驚きを隠しながら、京子は密かに思っていた。
 そう思っていたところに、今日の兄からの電話だ。
 京子は早足で兄のマンションに急いだ。先週末、同じマンションを遼一が訪れていたことは知らないまま。

 電話で教えられた合鍵の在り処から鍵を取り出し、エレベーターで兄夫婦の住む階へ上がった。
 ドアの前に立ち、数回チャイムを鳴らしたが、誰も出てこない。諦めて、鍵をまわす。
 あっさりとドアは開いた。
「―――瑞希さん?」
 薄暗い部屋の奥へ声をかけるが、返事はない。靴を脱いで、部屋へ上がった。
 相変わらずどこもかしこも整然と片付けられている。兄嫁は潔癖症なのか、毎日毎日飽きもせず掃除ばかりしているとは、兄からも、少し前にここに居候して いた遼一からも聞かされている。ルーズなところのある京子には、ちょっと理解できない。
「瑞希さん」
 居間に入ってもう一度、声をかける。返事が返ってこないことは、もう分かりきっていた。兄嫁はこの家にはいない。
 兄宛ての書置きやメモも探したが、どこにも見当たらなかった。

 その日、京子は念のため、夕方の6時までその部屋に残って兄嫁を待ったが、兄嫁は帰ってこなかった。
 仕方なく京子は、「戻ったら連絡をください」と紙に書いて、テーブルの上に置いて自宅へ戻った。

 しかし―――
 結局、数日経っても、兄嫁からの連絡はなかった。
  1. 2014/10/13(月) 11:50:36|
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