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闇文庫

主に寝取られ物を集めた、個人文庫です。

花 濫 第3章女の業火2

 伊香保温泉に向かう日は、寒くはあったが、東京は快晴だった。       
「お前がこんないい車に乗っていようとは思いもしなかったよ」      
 昼過ぎに迎えに来た田宮の車を見た夫が驚きの声を上げた。大学の講師あたりは大抵車を持っていても、国産の大衆車が多かったが、
田宮の車は大型の外車だった。しかも買ったばかりの新車で普通ならその車は黒く塗られて貴賓の送迎か大会社の重役の自家用に使わ
われるようなものだった。
 「なにしろ独り身ですし、背が高いでしょう、国産車だといつも頭をぶつけてばかりいるので、少しきざな感じはしますが、思い切
って買い替えました」  
 ぶっきらぼうに言ってハンドルを握った。車に弱い冴子は助手席に乗り、夫は後部座席だった。

 調布から所沢の関越自動車道のあがるまでが大変な渋滞で、予定より一時間以上かかった。空いた高速道路にやっと入り、伊香保温泉
のある榛名山が見えた頃には、夫は後部座席で穏やかな寝息を立てていた。       
 どういう理由で東京と新潟を結ぶ高速道路を造ったのか知らないが、前に走ったことのある東名高速とは比較にならないほどすいてい
る。いまもこの車の前には一台の車も見えない。
 茜色に染まった空がしだいに力を失って褪せ、濃い紫の靄がたなびきはじめた空 に、くっきりと巨大な奇岩のような凹凸の榛名山が
前方に墨絵のように見えはじめていた。
 昼が死に夜はまだ生れてない。その一瞬の静けさが周りを包んで、冴子は田宮と二人きりで、見知らぬ世界の夕暮れを、その夕日を求
めて無限に伸びる道を走っているような錯覚に陥っていた。
 この道は地上でもなく宙でもない不思議な次元を孤独に伸びていた。渋川伊香保のインターチェンジに近付き、速度を落しながら煙草
に火をつけている田宮の横顔を眺めた。
 精悍な彫りの深い横顔を煙草の煙が目にしみたのか少ししかめている。人一倍広い額に残照があたって赤く艶やかに輝いているのが、
まるで何かに興奮している男の毅然とした表情のように見えて頼もしい気がする。         
 高速道路から渋川の街に入ると、古い軒を寄せあったような民家が並んだん細い道に入る。
 東京では最近では見られなくなった柱時計をいくつも掛けた時計屋や、軒崎にビニールに包まれて埃にまみれたままの衣類を売ってい
るような店が目に付く。                               
 「こんなことで商売になるのかしら」                  
 冴子が指差した店に、ちらりと視線を動かせて、             
 「僕もいつも不思議に思っているのです。僕の想像ですが、多分、田舎は今でも家系というか、親類一族の結束が強いから、何とかや
っていけるのじゃないかな。義理ででも買う人がいなければ、とうに潰れている筈だもの」       
 「そうよね。この細い道に入り込む前にも、大きなスーパーがあったわよね」
 「あっ!……」                           
 田宮が小さく声を上げて、車のハンドルをにわかに左に大きく切った。冴子の躯がその弾みで浮あり、思わず田宮の膝に手を突いた。 
 細いがあまりに硬い膝に冴子は驚いた。夫のはこんな硬さはない。浩二の膝の感触を思い返そうとしたが、どうしたことかはっきりと
は思い出せない。               
 すみません。うっかり曲がるのを忘れていました。昏い中で伊香保方向という標識がちらと見えたので、慌てました。………先生大丈
夫でしたか」    
 冴子が振り返って後部座席の夫を見ると、急回転も気が付かなかったように、今眠りから醒めたような細い目をしばだたせながら、狭
い車内で窮屈そうに腕を伸ばして伸びをしれいた。                        
 「もう伊香保かい。昔にはこのあたりはちんちん電車が走っていたな。もう三十年くらい前のことだが、父親に連れられて来たことが
あるよ」       
 のんびりとしたあくびを含んだ口調で答えた。              

 すっかり日が暮れてさだかではないが、道は登りになり、杉林や際立った崖を削った 白っぽい法面が視界を過ぎて行き、やがて道の
上から温泉街の建物やネオンが見えて来た。
 店先に据えた蒸籠から温泉万頭屋をふかす湯気がもうもうとあがっていたり、旅館やホテルの並んだ細い道の街灯の陰に、芸者らしい
二人連れの女が、着物姿なのに脚には長靴を履いているのが見えたりしだすと、温泉は久し振りの冴子は、妙に心の高ぶるような色っぽ
さと暖かさの入り交じった、人肌の温かさに触れるような度興奮を感じてくる。             
 車はその温泉街を通り過ぎるように一向にスピードを緩めない。       
 「あたし達の泊まる所はまだですか?」                  
 「今夜の宿は伊香保の温泉街の一番高い所なんです。ここらのような近代的なビルではなくって、古い旅館らしいですよ。でもいいこ
とにこの伊香保も温泉を汲み上げ過ぎて、殆どの新しいホテルは地下水を汲み上げたのを沸かしているらしいですが、そこは源泉があっ
て、お湯は豊富と聞いています」       
 田宮の案内を聞いているうちに、車は明るい街をぬけて、山道のような暗い急な登り坂を登って行く。                         
 「あら! これ雪じゃない? 」                    
 ヘッドライトの照明に映し出された道路が白く輝いている。硝子のようにきらきらと硬質に輝いているのは、だいぶ前に降った雪が凍
結しているのだろう。田宮がスリップを警戒してスピードを極端に押えた。暖房で暖められた車内の窓硝子を通して、冷気が忍込んで来
るような気がするほど外は冷えているらしい。 

 暗闇の中から突然、山荘のような建物が見えて来た。            
 「ああ、これです……」                        
 相当緊張して運転していたらしい田宮の安堵の声が大きく車内に響いた。  
 昭和の初めに伊香保温泉で洋風建築としてはじめて建てられたという木造の古い旅館だが、中は最近改造したらしく、しっとりとした
落ち着きのある旅館だった。冴子と惣太郎が大きな暖炉で薪が燃えるのを眺めながら、アールヌボー調の椅子に腰を下ろして、田宮がチ
ェックインの手続きをしながら、番頭らしい太った中年の男と、やや興奮した口調で長々と話しているのを不安な気持で待っていたら、
やがて番頭が頭を掻きながら、田宮の後からやって来た。        
 「実はお部屋が一つしかお取り出来ていないんです。主人から大事なお客様だからと、一番いいお部屋をご用意させていただいたんで
すが、ご夫婦さまがご一緒とは聞いていませんでしたので……。生憎本日は予約がいっぱいでして、ほかにお取り出来ないのです。お取
りしましたお部屋は、十二畳の和室とツインベットの洋室がありますので、それでなんとかご容赦いただけませんでしょうか」 
 「ああ、いいとも。ともかく寝られればいいんだ」            
 惣太郎が人のいい性格を顔面で証明しながらおおらかに言った。      
 案内された部屋は、天井に経木細工を張った古風な部屋で、襖の向こうに、元は和室の続きの間だったのを、最近の客筋を考えて急造
したらしい洋室があった。
 この部屋はこの旅館の最上階の筈だったが、窓からは小さな谷の向こうに迫った山の斜面が見える。きっと山の斜面に建ててあるのだろ
うと惣太郎が言った。 
 早速男達が温泉場に行ったすきに冴子は手早く旅館の着物に着替えて、自分も風呂に行った。温泉は地下だったが、実際には谷川に面し
ていた。男湯と女湯が並んでいて、男湯からは大勢の男達の声が聞こえたが、女湯には先客はなかった。石を並べた浴槽に、鉄分を含んだ
泥水のような赤茶色の湯が溢れていた。
 入るとややぬるめの湯だが、しっとりと身体に馴染む肌触りの湯だった。    
 硝子張りの大きな窓から、急峻な斜面にはえた杉木立が黒々とみえ、林床が残雪に白く浮き出ている。林の奥の暗がりには、なにか恐ろ
しい魔物でもこちらを窺っているような気分になって、冴子は怖いもの見たさの子供のように浴槽の中を湯を掻き分けるようにして窓際ま
で行って外を見た。           
 窓際まで行くとかすかに流れの音が聞こえてきた。暗闇に反射して明るい浴室にいる自分の顔しか映していない窓に、顔を擦り付けるよ
うにして覗き込むんで、 
 「あらっ!」                             
 冴子は思わず一人で声を出した。                    
 視界は全部山の斜面だと思っていたのに、向かいの山の暗がりの上には丸い小さな峰が暗黒の山肌と濃紺空を分けて影絵のように見えて
いる。杉の尖った樹陰の見える峰の上の宙空には半月が冴えわたっていた。凍り付いたように硬くしまった感じのする空気を切るような鋭
さで差し込んでくる月光は、まるで洞穴の底から天空を見るようなに清々しさだった。浴槽から立ち上がって谷底を見下ろすと、小さく細
いが急な落差を勢いよく流れる谷水が、白銀に輝く大蛇の長い尾のように見えた。                               
 天井から落ちる水滴さえ、はっとする大きさに聞こえる静寂の中なかで、冴子はなぜか妙に心の落ち着きを失っている自分を見詰めてい
た。
 この胸の中でむずかるような昂ぶりは一体何だろう。そう考えながら湯の中に持ち込んだタオルを胸に当てた時、ちくっと乳首に響いた
感触で、冴子は急に肩を押されたような衝撃でその原因に思い当たった。それは今夜田宮と同じ部屋で寝ることだった。たしか二度目の治
療は、今度温泉にでも行ってすればよく利きますよ、と言った田宮の言葉を躯が覚えていたのだろうかと、冴子は少なからず動揺していた。  
 ただマサージを治療をしてもらうだけだし、夫と一緒だからまさかのことはないし、何も自分は田宮に好意や情感を持っているわけでも
ない。自分の主人の部下というただそれだけの存在でしかない。この自分の落ち着きのなさというのは、ただ他人の男と同じ部屋で雑魚寝
しなければならないという、迷惑さだけの筈だ。そうだとうなずくには生憎に、田宮の掌で触れられた肉感の疼きが今も冴子の中で妖しく
蠢いている。それはあれから燃焼しきれないまま、生木が燻るような白い乾いた煙ばかりを上げている冴子の身もだえがひとりでに肯定し
ている。
 自分の乾いたふすぶりは、田宮から治療を受けてからだけではない。

 二年前、浩二を知ったことによって、冴子は今浴槽で身を動かせて暗黒だとばかり思っていた視界に偶然冴え渡った夜空を発見したよう
に、人生の新しい眺望を見出していた。それは一瞬垣間みいた世界であったが、冴子の心と躯の奥深くに烙印のように灼き付けられてしま
った。                          
 男と女の関係が、心と肉の両方で成立するように創られていることを知ってしまってからも、平和で静謐な今の生活は自分にとってかけ
がえのないものだと言い聞かせ、浩二への痛みに似た烈しい愛慕に狂いかける自分に制動を与え続けて来たのに、田宮の掌が触れただけで
自分の中に湧きたつこの肉の炎の狂おしさは、なんというはしたなさなのだろ う。冴子はふと、実家の藁屋根の下で今夜も独り炬燵のな
かで古い書物を紐といている父の厳しい生き方を想い出して、涙ぐむような気持で自分を諌めていた。                      
 「群馬の山の中だから、猪の肉に河魚、山菜にこんにゃくとばかり思っていたのに、こんな新鮮な日本海の魚や蟹や海老が出るとは以外
だったねえ」    
 「関越高速道路の開通のおかげですよ。この伊香保も東京から一時間圏になって、熱海より近くなり、すっかり東京の奥座敷になりまし
たし、新潟からも近くなりましたので、こうして日本海の珍味が食べられるようになったのですねえ」
 男達は並べられた松葉蟹や甘海老の魚に大喜びで箸をつけていたが、谷の澄んだ流れと先程見た冴えた奥山の月光の中では、やはり近く
なったとはいえ、遠い日本海の料理はそぐわないと冴子は思っていた。              
 「このお酒をぜひ飲んで下さいと、主人から仰せつかっております。利根川を挟んだ向こうの赤城山麓の地酒で、小さな酒屋が造ってお
ります。赤城山はこの榛名山が大昔噴火した火山灰を大量にかぶり、その後今度は赤城山が爆発してとても深い火山灰に覆われていまして
、降った雨が百メートルも二百メートルも地下に潜って麓へ出て参ります。地元では湧玉と申しておりますが、その水を使って醸造したお
酒です」                          
 中年の女中頭らしい、落ち着いた小肥の仲居の置いていったその酒をひとくち飲んで田宮が先ず声を上げた。                      
 「これは旨い。先生飲んで見て下さい」                 
 「まるほど。とても芳醇な酒だね、東京で呑み屋が出し惜しみする例の銘酒とかいう梅の月や竹菱より、よっぽど旨いにねえ。冴子も
飲んでみろよ」    
 「さあ、どうぞどうぞ」                        
 田宮が机の向かいから手を伸ばして酌をする。大きなぐい呑にまんまんと注がれた酒をこぼさないようにしよと、つい酒の呑みの男たち
のよくする手付きで、口を近付けて呑んでみると、酒の匂がしない。まるで清烈な谷川の水のように透明な澄んだ味で、たしかに夫が言う
ように寒梅のほのかな匂のような芳醇な香りが漂う。あまり呑めない冴子でも、思わず含んだまま口の中でころがしてみたくなるような馥
郁としたうまさである。                    
 「これはたまらまいですね」                      
 田宮は顔をほころばせて、杯を重ねる。惣太郎も黙々と満足気に呑んでいる。田宮と夫に交互に勧められて杯を重ねた冴子が、ふと谷川
のせせらぎが遠くなったと気が付いた時には、顔が火のように火照り目の男達の動作が急に高速映画の画面のように気だるいほどゆるゆる
動いているのを見
るように思った。自分が酔ったためだと気が付くにはしばらく時間がかかった。             
 冴子が背にしている襖を開けて、先ほどの女中頭に案内されて、この旅館の主人が入って来たのにも、男達が急に態度を改めるまで冴子
は気が付かなかった  
 よく太って恵比寿様のような福相で頭の剥げあがった六十近いこの旅館の主人は、濃紺で旅館の名前を染め抜いた法被のしたに、きちん
とした背広を着ていた。男の生徒である甥の礼から、今夜自分が町会議員の寄り合いで今まで抜けられなかったことなどを、丁重に謝して
から、               
 「昔は湯治温泉ですから、これという伝統も残っておりませんが、私の趣味でまるで深山の中にいるような雰囲気で楽しめるバーを一部
屋造ってあります。今夜は団体客が多いのですが、その部屋だけは空けてありますから………」    
「 いや有難いですが、この通りこの旨い酒を頂きまして、すっかり酩酊いたしておりますから、またの機会にでも……」                 
 熟した柿のように紅潮したるんだ顔で惣太郎が慇懃に断わると、      
 「それは残念です。しかし………どうでしょうか、この伊香保で娘二人と、母親の三人で出ております面白い芸者がおりまして、それを
今夜は揃えましてご夫婦円満の踊りをお見せしようと待たせてありまあすので、こちらの若いご夫婦様だけでも、ご鑑賞して頂くわけには
いかないものでしょうか。大学の先生のような高尚なお仕事をなさっているお方様では滅多にこんな踊りを御覧になる機会もありませんで 
しょうと思い、ご用意させていただきました」         
 田宮が慌てて自分は一人だと弁明しようとするのを押えるように惣太郎が、 
 「そうしなさい。折角のご好意だから」                 
 きめつけるように言った。

 私も酔ってますから止めます、と言うつもりが、酔いのためか億劫になり冴子はだまてうつむいていたが、これで立てるのかしら、とい
う不安の方が先に頭を霞めた。                    
 女中頭に案内されて、エレベーターで地下まで降り、曲がりの多い昏い廊下を行くと、ドアが一つあって、それを開けると、急に辺りが
仄明るくなって冷気が頬を撫でる。そこは渡り廊下で、大きな日本庭園の池を渡るようになっており、いつのまに降り出したのか庭は一面
雪に覆われていた。
 いまも深い静寂の中で細かい雪がさみだれのような早さで降り急いでいる。薄い浴衣に丹前だけだが、今までのぬくもりでそれほど寒く
は感じない。                
 「いつの間に降り出したのかしら。さっきはお月様が出ていたのに……」                   
 立ち止まり廊下の欄干に身を寄せて庭を見ている冴子に田宮が寄り添った。背中に田宮の着衣の温かさが伝わり、冴子のうじなに男くさ
い息がかかった。冴子は冷気の中で、男の肌に包まれたような温かさと甘さを感じて、思いもなく田宮の身体に体重をかけて寄り添った。
 田宮の掌が後ろから冴子の肩に置かれた。  
 森閑とした白一色に覆われた庭を横切る流れは、温泉の湯が流れているのか、そこだけが生きているようにもうもうと湯気がわき上がっ
ている。白い簾のように降り続く雪の向こうに漆の闇が溶けていた。
 ふたりで東京から逃避でもして来たような孤独感に身を包まれて、冴子は後ろに寄り添っている田宮にすがりつきたいような親密感を感
じて、かすかに後ろにもたせかかっていた体重を、思い切って田宮の胸に包まれるほど入れ込んだ。
 冴子の後髪に田宮の顎が触れ、同じ情緒が通じ合っているという意志表示のように、田宮の身体が反応して、後ろから冴子の躯を抱え込
むようにぴったりと密着してきた。肩に置かれていた田宮の掌が前に回された。                              

 案内されたのはバーという感じではなく、大きな温室の中に庭と小さな東屋を建てたよな感じだった。入り口から小さな渡り廊下で東屋
に入れる。なかは主人が自慢するだけあって、一見能の舞台のように簡素な部屋だが、檜の巨木をふんだんに使った柱や、桜の皮を張りめ
ぐらした壁面、一枚板の濡縁の向こうには白砂を敷きつめた小さな庭があり、その向こうは高い硝子張りの天井に届くような杉の林が造っ
てある。杉林の奥は闇に消えて見えないので奥深い山の中に来たような錯覚に陥る。暖房で暖められた空気が澱んでいるところをみると、
その奥に外との仕切りがあるのだろう。
 スポーツ施設のように高い硝子の天井からは、いつの間にか雪は止み、先程風呂から冴子が眺めた時よりさらに冴えを増した月が雲間か
ら顔を出していた。昼間はどうか知らないが、この暗さでは酔っているせいばかりではなく、本当に夜の林に紛れ込んだような恐怖に襲わ
れて、冴子は田宮の腕にすがりついて寄り添った。                       
 板張りの部屋の中央に赤土を練って造った囲炉裏がしつらえられ赤々と炭火がおこり、それを囲むように厚い板だけの椅子が作られてい
る。昏い照明が杉の樹に向けられてい て、杉の葉の緑が浮き出ており、その間接の明りでしか手元を見ることが出来ない。囲炉裏の枠と
一緒に作られたテーブルには、酒や肴が置かれているのが、目をすかせて見るとわかる。
 いつの間にか主人も女中も居なかった。昏く深い森の中に田宮とふたり投げ出されたような不安が冴子を襲ってくる。辺りはしんと静ま
りかえって物音一つしない。                
 「怖いわ」                     
 思わず冴子は隣に座っている田宮にしがみ付いた腕に力を入れた。車の中で触れた膝と同じ硬さの腕が、ゆっくりと冴子の背中に回され
た。        
 「どういうことかな。まあ、酒でも呑みましょう」           
 組んだ脚を解きながら田宮は銚子をとって冴子の前の杯を充たした。    
 「あたしもう頂けないわ。今でも目の前が回っているみたいよ」      
 冴子は自分に注いでくれた杯を田宮の口許へ近づけた。田宮は冴子の背に回した掌も、銚子を持ったもう一方の掌もそのままにして、冴子
の掌で支えられた杯に口を寄せた。
 冴子は驚いて右掌の杯に慌てて左掌を添えた。こぼすまいと注意深く腕に力を入れると、田宮の顎に掌の甲が触れて、ひりりと、濃い髭が
柔らかな冴子の掌の甲を刺した 。
 田宮の右掌が冴子の掌ごと杯を掴んで一気に呑み干すと、そのまま冴子の掌の甲に唇を当ててきた。田宮の暖かい唇の感触に、思わず掌を
引っ込めようとした時、突然、正面の杉林が昼間のように明るくなった。                        
 突然の強烈な照明の明るさに眩む目を見据えると、杉の木立の濃い緑の中に、燦々と降る春の陽光に照らし出されたような照明を浴びて、
あでやかな色彩の着物の裾を引いた芸者が三人、それぞれにしなをつくって日本人形のように立っている姿が浮き出ていた。左の端の女が一
番若いらしく緋色の地に金紗の模様の派手な着物に丸髷に刺した藤の簪は貝ででも出来ているのだろうか、わずかに体を揺らす度に紫のルビ
ーのように燦然と光っていた。
 真ん中の黒地に銀紗模様の芸者は相当な年増だったが、斜め下に半開きの朱色の番傘を両手で構えている立ち姿は、いかにも年期の入った
芸者の艶の濃さが匂い立っている。右の黄色地に朱の花模様の女は三十歳前後だろうか、しもぶくれの丸い顔があだっつぽく、成熟した女の
甘酸っぱい匂いが周囲に拡散しているように色っぽい。       
 歌舞伎や新劇の舞台と違って、杉林が本物だけに現実味があり、森の妖精が突然舞降りたような驚きがあった。目が慣れてくると、杉林の
右手に囃方の台が置かれ三味線の女が二人と、未だ少女のようにあどけない娘が緋色の着物の裾をからめて頭に八巻姿で大太鼓の前に立って
いた。
 大太鼓の少女の白くかぼそい腕が揃えて上がり、思い切り振り降ろされると、少女の腕の力とは信じられないような腹にずしんと応えるよ
うな太鼓の重量感のある響きが周りの澱んだ空気を津波のように震わせて轟いた。冴子はその響きに圧倒されて思わずにすがり付いた田宮の
腕に力を入れた。                          
 三人の芸者が、太鼓の音にスイッチを入れられたからくり人形のように、緩慢な動作で動き出し、やがて三味線が掻き鳴らされだすと、そ
のリズムに操られて、しだいに動きに緩急をそえながら踊り出す。                
 「これはまいったなあ。奥さんに見せていいのかな」           
 田宮がすがりついた冴子の腕をとらえて二の腕を強く掴んで興奮気味に言った。 
 「それどう言う意味?」                        
 「これは深い川浅い川という踊りなんだけど、普通の踊りじゃなくって、男が楽しむとても猥褻なものなんだ…………」                 
 田宮が説明するまでもなく、三味線の音がしだいに大きく強く早く鳴り出したのに連れて、若いふたりの女が裾をゆっくりと捲りはじめた。
あでやかな着物の裾が乱れ、目を射るような緋色の腰巻きに包まれた脚がしだいに露わになってくる。強い照明のためか、もともとそうなの
か分からないが、女たちの脚の白さが目に痛いほどの強烈さで飛び込んでくる。膝のあたりまで捲り下られ、しばらくそのままの状態で踊り
が続く。知らない冴子にも、川を渡る動作であることが理解出来た。
急流に向かって力を入れて歩き、川床の石にでも脚を滑らせたのか、よろめく動作も真実味がある。                      
 冴子の常識を打ち破る強烈な衝撃で、女達は膝からさらに着物の裾を捲り上げて、ふくよかな太腿を露出し、やがて黒々とした陰毛まで露
わにして、女の命を秘めたような円やかで軟らかそうな下腹部までが、強烈な照明に照らし出された。流れが強くなったらしくふたりの女が
互いに肩を抱
き合い、急流から身を支え合っているような格好で踊りは続 く。石につまづいて倒れそうになり、大きく片足を宙に挙げた一番若い女の脚
を、もう一人の女が掴み、さらに大きく開く。後ろへ倒れそうになる女の背後へ、籠担の雲助のような格好で踊り出た年増が、後ろから女の
上体を支える。
 そうしたまま三人の女は何度も同じ場所で回り始めた。田宮と冴子の方から見ると、大きく開かれた女の股間の翳りの中心に、メスで切り
開かれたような生々しい鮮やかな肉色の潤んだ花芯の奥の微細な襞までが鮮明に見える。                               
 もっと川が深くなった想定なのだろう、脚を広げられた女を他の二人の女達が抱え上げて川を渡る。略奪される花嫁のように、抱え上げら
れ運ばれる女の着物がしだいにはだけ、帯が解け着物がずり落ち、最後には全裸になってしまった。
 舞台の右端でやっと川を渡り切ったらしく、裸の女を叢の上に横たえ、残りの女達は去って行った。ひとり残った女は、渡川の衝撃が醒め
やらぬ様子で、大きく息をしながら身悶えている。

 冴子ほどではないが、それでも人並みより豊かな乳房が悶えのたびに大きく揺れ、鮮やかな薄桃色の小さな乳首が痛々しいほどに震えてい
る。 幼さを残したような薄い肩と締まっ胴の割に、意外と発達した腰と太腿の豊かな肉付きが淫蕩な感じをあたえるその女は、やがて股間
に掌を差し込み自慰をはじめた。豊かな腿を閉じたり広げたりしながら、憑かれたようにせわしなく自慰行為に耽る女の掌の動きによってし
だいに昂められていく様子は、女の冴子には、まるで自分が田宮の目の前で淫らな行為を強いられているような自虐めいた興奮を感じる。           

              
 田宮の掌がいつのまにか冴子の膝に置かれて、ふと気が付いた時その掌は膝のあたりから腿の付け根にかけて、ゆっくりと羽で刷くような
愛撫が繰り返されていた。ふたりが居る炉の辺りの照明は今は消されて、舞台の反射光が弱く届いているだけだから、舞台の女からも、どこ
からか見ているであろう照明係の裏方からも気付かれる心配はない。                       
 舞台では白い豊満な肢体をくねらせながら女がしだいに昇り詰めている。滑らかな肌が艶やかに輝きはじめたのは、汗のせいらしい。苦痛
のように眉根に皺を寄せ、小さい奇麗に並んだ皓歯の奥から、蛇のようにちらちらと血色のいい舌を出して喘ぎ始めている女 は、やがて切
なさそうに声をあげはじめた。女の太腿の筋肉が細かく痙攣し、脚の指が反り返っている。大きく広げられた股
間にあてられて激しく動く女の細い指先が体液で濡れて光り、陰部からは乳色の粘液が臀に向かって一筋流れているのが見える。              

    

 冴子は自分の躯の奥からも、あの女がいま感じている官能の疼きと同じ衝撃が奔るのを感じて我に返ってみると、いつの間にか田宮の掌が
丹前と浴衣の合せ目から侵入しじかに冴子の脚を愛撫しているではないか。それも既に男の掌は、冴子の太腿の奥深くにあって叢を、感知出
来るか出来ない程の微妙な撫で方で愛撫していた。                                
「 いや! 止めて………」                       
 思わずあげそうになった声を殺して、冴子は男の掌をきつく押えた。冴子の手が男の手を抜き出そうとすると、鋼のような男の手にもう一
本鋼線が差し込まれたように、男の手の硬さが一層強まり、そこに固定されたような力が加わって、冴子の力ではびくとも動かない。椅子に
座ったままの腰を引いて男の手を避けようと身を引きかけて、冴子は思わず息を呑んだ。自分の花芯からは、とろけるような暖かさで、いつ
のまにかじっとりとあふれ出したものが、下穿を濡らしており、男の手が、大分以前からそれに気付いて、もう合意を得たような気安さで愛
撫していたからである。                 
 うつむいて見ると、冴子があがいたせいで、丹前や浴衣の前が開き、昏い中に仄明るさを滲ませて、強く合せた二つの太腿が露わになって
おり、田宮の浅黒い腕が、丁度冴子が無理に挟んで締め付けてでもいるように、冴子の太腿の付け根のあたりに埋没している。
 薄いナイロンの下穿は濡れたために一層存在感を失って、田宮の指の微妙な触覚をじかに触れられているように伝える。男の指先が冴子の敏感な部分に触れる

度に、電流でも通されたように冴子の躯が緊張した。 
 舞台の女が最後の絶叫を残して達した時に、照明が一斉に消され、あたりは一瞬暗黒に閉ざされた。田宮の息が冴子の頬にかかったかと思
った瞬間、唇に煙草の匂の唇が重ねられた。顔を振って逃げる間もなくその唇は去っていった。それを待っていたように、杉林の間に点々と
提燈のような昏い灯がともされ、女中が二人酒や肴を持って入って来た。二人とも年老いた女中だった。        
 「どうぞごゆっくりして下さいとの主人の伝言で御座居ます。もしよろしければ、ここにお泊りになってもかまいません。ここの設備をご
案内させていただきます。どうぞこちらへ…………」                     
 田宮だけが立って付いていった。この部屋に来てどのくらい時間が経過したのだろうかと、冴子は目をこらして左腕をたくしあげてから
、腕時計は風呂に入った時に部屋の鏡台に置いてきたことに気が付いた。夫は今あの部屋でどうしているのだろう。冴子の感では間違いなく
寝込んでいるにはずだ。夫の酒に酔ったしゃべり方や顔の赤さ潤んだ目の様子から判断出来る。万一起きていたとしても、夫がここへ田宮と
来ることを勧めたのだからどうということはない。冴子はそう思うとにわかに華やいだ気分になった。新しく来た銚子を取り上げて、独り杯
に酒を満たしてあけた。

 咽喉から食道を過ぎる酒の刺激に、いい知れぬ退廃と甘さを感じた。                               
 それにしても間違いなくこの宿の人達は自分と田宮を夫婦と信じ込んでいる。十八歳も違う夫と自分の年令差を見れば、常識的には田宮と
自分の夫と判断されてもしかたのないことだが、ここへ案内された時、夫も田宮も間違いをたださなかったのはなぜだろう。夫は、自分とい
う妻を絶対的に信じているのだろうか。それとも田宮にそれほどの信頼があるのだろうか。それにしてはいままでの田宮の冴子への態度は夫
への背信そのものと言わざるをえない。こんな刺激的で猥褻なショーと二人だけの密室のような場所へ行くとは知らなくて、そこらにある旅
館のバーだと思っている夫としては、別にそれほどの配慮をする必要を感じなかったのかも知れない。
 先程女中が、今夜ここへ泊まってもいいと言っていたが、どこにそんな施設があるのだろう。そんなことが出来る訳はないが、もし面白く
快適な施設があるのなら、夫を起こしてつれて来てもいい。一般的なあの旅館らしい部屋よりいいかも知れない。そんなまとまりもないこと
を冴子が考えていた時、目の前の杉林の中から突然田宮の丹前姿が現われた。            
 「奥さん、これは面白い所ですよ。来て見ませんか」           
 白砂の庭に照明を浴びて広い額に垂れた長い髪を振り上げ白い額の艶やかな肌を輝かせながら、濡縁に立つ冴子を見上げてにこやかに言う
田宮の全身から、若い男の精悍な息吹が匂い立っていた。 
  1. 2014/12/02(火) 15:17:32|
  2. 花濫・夢想原人
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